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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年10月09日
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カテゴリ:旅日記(中国)
お隣のお寺へ行く道にも、石垣はずっと続く。


      三原・極楽寺35



まあま、新しく積んだ箇所なんかもあるみたいだけど、
それは仕方ないわね。
それより、道が細いから石垣ばっかり見てて
道の下の民家に落下しないようにしないと・・・(笑)。

この先にあるのが、松寿寺(場所はこちら)。


      三原・松寿寺



この山門の軒丸瓦は・・・


      三原・松寿寺2



松寿の「寿」だな。
これくらいなら、私にだって読めるぞダッシュ

この山門、見たとこだいぶ新しい感じだけど、
三原城主の寄進によるものだという。
蟇股はこんなのだった。


      三原・松寿寺8



おお、蝶だあ~!!

蝶紋もディテールの差で色々呼び名があるみたいだけど、
どうもぴったりしたのが見つからないなあ・・・
まあ、揚羽蝶の一種かな。

蝶は板蟇股の内側だったんだけど、外側はこんなだった。


      三原・松寿寺9



ワ~イ、うさぴょんだ~上向き矢印
波に遊んでる感じかな。

兎紋はあまりないから、たまに見かけると嬉しくなる。
カワイイ紋だけど、

 【兎紋は、「白兎は月の精で、その寿(じゅ)は千歳」という祥瑞から
  めでたい動物として紋章に用いられたのであろう。】
  (「家紋大全」/梧桐書院より)

なんだってさ。
「松寿寺」という寺名との関連から、ここの「はらわた」にしたのかな?


もう一方の蟇股の外側は、


      三原・松寿寺10



うさぴょんの後で見ると、どうも地味に見える・・・(笑)。
いえ、単に好みの問題ですが。



この門は、仁王門。
通常よりだいぶミニマムな仁王様がいた。


      三原・松寿寺6



      三原・松寿寺7



こんな小さい仁王様は逆に珍しいんじゃないか? 

門をくぐると、建物側の屋根にはアレがいた。


      三原・松寿寺35


・・・あい、おはよ~。
今日は君たちに一体何羽会うんだろうか・・・

こちら↓が内側から見た山門。
軒丸瓦以外にも、「寿」の瓦があふれてた。


      三原・松寿寺19



中に入ると、左前に庫裏。


      三原・松寿寺11


立派な建物だし、庭木も綺麗に手入れされてるんだけど、
建物を撮りたい私としては、ちょっと泣きたくなるような構図・・・
2日目の旅日記でも書いたけど、結構三原にはこういう所が多くてね涙ぽろり

しかしこの建物、1階の屋根の左側がなんかヘン。
右側の屋根を見ないで、左半分だけ見たとしたら
なんか望楼型みたいに見える。

望楼型庫裏・・・アハハ、そんなバナナ泣き笑い


ここも色々見どころがあるんだけど、まず庭園は雪舟の作との
言い伝えがあるものらしい。

庫裏の前のこれは違うよな・・・
庫裏の向かって左側にも建物があって、そちらの方にもお庭はありそうだけど、
明らかに住居だしな。

画聖・雪舟さんの作と伝えられる庭園だとかは
それこそあちこちにありますが、この辺りは確かに雪舟さんは
通っているようですよ。

まあ、山口への行き帰りの途中だと思うけどね。
(雪舟さんと山口の関係については「山口編(11)」あたりを
ご覧ください)

ここからもう少し西に行った地点にも、
雪舟さんの足跡が残されてるし。



お庭はちょっとわからないので、ひとまず境内を回ろう。
こちら↓が庫裏に続く玄関。


      三原・松寿寺13



何か、気になるものが色々あるぅ~。

まず、下にはこんなのが置いてあった。


      三原・松寿寺16


      三原・松寿寺18


鬼瓦、だよな。
黒いんだけど。昔は黒い瓦を使ってたのかな?

上を見上げると、扁額はこんなのだった。


      三原・松寿寺17


これ、石造りだ・・・
珍しくない?石の扁額なんて。
落ちたらパリーンと割れそうでちょっと恐いけど雫

この玄関には、なにやら板書がある。

 【松壽寺史略

  當寺は貞治4年(1365)室町時代、足利義満代備後守護職、細川頼有が
  京都建仁寺住職大方普光惟忠禅師を開山として三原西河原谷川に創建された。
  臨済宗昌寿寺といった。

  永正8年(1512)6世全隣智光和尚の時、現在地来迎寺跡に移す。
  寛文9年(1669)時の住僧10世喜山和尚が三原宗光寺6世一雲椿道和尚に
  帰依し、曹洞宗に転宗し今日に至る。

  山号は往古珍藏山「昌寿寺」開山惟忠禅師が細川頼有公の延命昌運を祈って
  つけられたとか、延享2年(1745)8世元(?)州補道和尚の時、
  曹洞宗中興の祖といわれた白卍山和尚の末錫するに及んで、境内の松の
  見事さによって松寿寺と改めたという。

  延宝元年(1674)三原城主3代浅野忠真候が末寺無量山福寿院を廃して
  妙正寺を創建した時、禅堂(座禅堂)・山門・石垣改修寄進(現存)されたとある。
  元文3年(1738)7世方山和尚代に本堂が建立される。】
  (漢数字は戦国ジジイが変換。(?)は字が怪しいところ)


おっと~、何気に大事な事が色々書いてあるぞ。
こーゆー風に、お寺に伝わる歴史を公開してくれるのは、
すごくありがたいよな。

まず、宗光寺は1669年時点ですでに寺名と宗派は
変わってたって事だね。

それから、色男の忠真さんがまた出てきたぞ。
ここの山門を寄進した「三原城主」ってのは、忠真さんの事だったのか~!

「寄進」てあるから、福寿院の建物を移築したんじゃなくて、
あらたに寄贈したって意味だよね?

自分ちの菩提寺(妙正寺)だって新設するんだから、
随分物入りだったなあ。

忠真さんはそんなにおサイフに余裕が・・・あるか。
月姫様の経済効果だ。
そうに違いない~!!泣き笑い

それに、『末寺無量山福寿院を廃して』って、松寿寺の末寺をつぶして
妙正寺を創ったってこと~?
んじゃ、そのお詫びの印に寄進したとか。

うふふ、あれこれ想像すると、何か面白い・・・


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最終更新日  2012年10月09日 21時23分59秒
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