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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年10月24日
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カテゴリ:旅日記(中国)
さて、愚中周及が佛通寺を創建するまでの事柄については
「三原編(49)」にかいつまんで書きましたが、
今回はその後についてご紹介しましょう。


めでたく周及のスカウトに成功した沼田(ぬた)小早川当主・春平は、
周及の気に入った場所に佛通寺を建立し、
自ら周及の肖像画まで描いちゃった。
周及が賛を加えたこの「絹本著色大通禅師像」は、国の重文に指定されている。

高名な周及が、なんで安芸のイチ国人領主にすぎない
春平の誘いを受けたのか・・・

師・即休(しつきゅう)の教えを胸に刻んでいた周及は、

「小早川レベルならいっか~」

と思ったのか(笑)、あるいは春平は大変禅に理解が深かったというから、
ウマがあったのか・・・


天龍寺を離れて以後、佛通寺が出来るまでの間の周及のお気に入りは
丹波・天寧寺と紀伊・禅頭寺だったそうで、佛通寺を開いてからも
この2つの寺に行ったりすることもあったらしいけど、
基本は佛通寺を本拠としていた。


新しい自分のお寺ができたからといって、

「え~、らっしゃい、らっしゃい!!」

と大勢の人を呼び込むような事はせず、
あくまで即休の金山経営方針にならい、わずか10人程度の弟子を採って
身近に教えるというスタイルを貫いた。

お経の読み方も、金山の楊岐(ようぎ)派のまま。
これはずっと後まで引き継がれ、その点も佛通寺が天龍寺から
独立を果たした大きなポイントだったという。

ちなみに即休のいた金山、実は現代に生きる私達にも馴染みがあります。
「金山寺味噌」、あれの由来も色んな説があるらしいけど、
一説に弘法大師が金山寺から持ち帰ったものだとか。



しかし、人の口に戸は立てられぬもの。

「周及、来たる!!」

とのウワサは瞬く間に広がり、創建の翌年には
各地から周及を慕う雲水たちがわらわらと集まり、入門を乞うようになった。

が、少数経営のポリシーを持つ周及は受け入れない。
断られても、雲水たちも引き下がらない。

んでどうしたかっていうと、堂には入れてもらえないので、
周辺の野山に陣取って、野宿して粘ったそうな。

雲水達も頑張り屋さんが多かったらしく、
青空座禅の衆は増える一方。

「このまんま放置してたら、社会問題になる・・・」

とまでは言ってないと思うけど(笑)、ともかくこれ以上
放ってもおけない状況になり、別に向上庵(現在の瀬戸田町・向上寺)を設け、
そこの道場で修行に専念させたという。



応永14年(1407)になると、
将軍・足利義持が小早川則平(春平の子)に対し、

「周及師の法語が欲しいの・・・」

と言ってきたので、周及は「勧発之文」というのを送ってやったそうな。

これが義持のハートをわしづかみにしたようで、
翌年には周及を京に迎えて自分の師にしたいと通達を出してきた。

小早川家では、この申出に騒然となった。

「師は、ワシらのもんじゃー!!」

「状況を分かっとるんかね?
師はもう、は、86歳じゃー!!」



・・・結局、小早川家では丁重にお断りすることになった。
が、義持に一度点いた火はもう消せない。火事は初期消火が大事なのだ。

「んじゃあ~、領地を取り上げられてもいいんだね?
お前んとこの命の保障もしないけど?」


と脅しに出たので、周及はやむなく老体にムチ打って京へ向かった。
向かったけど、権勢には近づかないとの師の教えがよぎったのか、
素直には京へ入らない。

そこで、義持は畠山・細川の重臣を伏見へやり、
丁重にもてなさせた。

「佛通寺物語」では、周及を誘ったのは義持ではなく義満となっており、
伏見まで義満が出向いて数度周及の教えを聞いたとしている。
すでにこの時、義満は将軍位を譲ってはいたけど
実権は握ってたから、義満の方だったのかもしれないな。


ともかく、これで満足した将軍家では、小早川家に対し領地を与え
褒章したという。

が、備後の田舎と違って人の多い都では、噂が広がるのも早い。
高名な周及に一目なりとも会いたいと、伏見の宿坊に多くの人が
押しかけるようになった。

これに閉口した周及は、夜逃げ・・・いえ、夜中にこっそりと
伏見を離れた。



離京したものの、真っ直ぐUターンしては
小早川家に迷惑がかかると思ったのか、佛通寺には帰らず、
紀伊の禅頭寺へ入った。

応永16年(1409)春、将軍家から紫の方袍を賜る。
その後、丹波・紫金山天寧寺へ。


8月15日、寺のイベントのために紫金山の東北にある山へと登る。
その夜、一人の禅僧が夢を見た。

「昨日さあ~、大きな殿堂の梁がくだけて、
どお~ん!!て落ちる夢を見ちゃったんだけど。
どう思う?」


「それって、ヤバくない・・・!?」


8月17日、はたして周及の体調が怪しくなってきた。
24日には将軍が紫金山で佛事を行うスケジュールだったが、
皆は心配して延期してはどうかと勧めてみた。が、当の本人が

「いや、構わないよ。全然オッケー音符

というので、予定通り摂り行った。
佛事を終えた周及は、自分の棺を用意させて銘を刻んだ。


8月25日、一人の信者の差し入れを食したあと、
棺を病床のすぐ下に置かせ、遺偈(ゆいげ)を残して座禅を組み、
そのまま遷化した。

死後も手足はゆったりとして自由に動かせたし、
微笑したまま、普段と変わるところがなかったという。


9月13日、後小松天皇より「佛徳大通禅師」の諡号が贈られる。



嘉吉元年(1441)、佛通寺が足利家の祈願護国禅寺となる。
この年は周及の33回忌にあたり、周及没後も則平が力を入れて
こつこつと佛通寺を整備した結果、約50あまりの堂宇が立ち並び、
ほぼ諸堂宇の完成をみた年でもある。



周及の存命中は、小早川春平・則平親子はもちろん、
大内盛見をはじめとする地方武士の崇敬を集めた・・・

「出たな、大内盛見!!」

とピンときたアナタは、私の良き理解者です犬

そう、そもそも私が最初に佛通寺を今回の旅に組み込んだのは、
盛見が周及を慕ったという、ただその1点にかかっていたのです。
盛見の名前を聞いて、来ない訳にはいかなかったんだよ~(笑)。
ファンって、そういうもんでしょ?

ま、どこでどういう接点があったのかまでの詳しい事は、
手持ちの資料ではわからなかったんだけどね。




小早川春平が佛通寺を開いたのには、純粋な信仰心の他に、
春平のジイちゃんあたりの代から増えだした庶家の結束を強めるためだった
との見方もある。

誰々が何々を造ったというような公の記録には、当然一門を代表する
当主の名前しか出てこないけど、実際は庶家のほとんどが
工事に参加していたという。


周及の死後も、佛通寺を造った小早川家では堂宇の修繕・整備に努め、
ある時は多額の寄進をし、またある時は一門から住持を出すなど、
佛通寺と密接に関わってきた。

歴代当主(佛通寺初期を除く)の中でも、
とりわけ佛通寺の保護に熱心だったのが、隆景。

隆景は堂宇の再建・修繕だけでなく、法華経の版木の寄進などもした。
この版木は、現在でも一部現存している。

それだけでなく、自ら佛通寺へと足を運んでもいる。

例えば、父・元就が亡くなった翌月の元亀2年7月28日、
「僧衆三百人之志隆景公御弔在之、頓寫拈香」と住持記にあるそうな。

また、天正14年には、兄・元春と戦死者の追善供養を兼ねて
佛通寺で施餓鬼を営んだとある。

その他にも隆景の参詣の記録は数多く、
住持記には「無数」とまで書かれていると「大本山佛通寺誌」にある。

無数はさすがにオーバーな表現だとしても、後代の沼田小早川当主の中で、
じかに関わった頻度が多かったのは疑いのないところだろう。

まあ、隆景よりちょっと前までの情勢は、大国(←大内家)や幕府などの間で
色々気苦労も多かったし、3代続けて当主が若死にするなど、
参詣どころじゃなかったとは思うけどね。

でも、忙しさで言えば隆景ちゃんだっておんなじ。

エネルギッシュなパパに付き添って戦・戦・戦の連続だったし、
毛利家が秀吉に臣従してからは五大老の一人として単身赴任してたし、
ついには海外にまで行っちゃってたんだからね。

なのに、マメな隆景ちゃんは佛通寺の整備について、

「お寺サイドたぁ色々相談しての~」とか、

「時々、3~5人のヤングが見回りした方がええよ~」とか、

「ちぃと面倒じゃが、あとあとまで残るもんじゃけぇ、
含暉院は地形をよう選んでちゃんと造っての~」


とかって手紙を家臣に出してる。
ま~細かい細かい。

「やっぱ、あの父の息子・・・泣き笑い

と思うのは私だけだろうか。

口だけじゃなく、時には現場監督まで務めたらしい。


隆景が佛通寺に殊の外心を砕いていたのは確かだけど、
こちらも春平と同様、信仰心や寺社の保護という目的だけじゃなく、
現実的な側面をあわせ持っていた。

それは、生活のために雑兵となっていた庶民への新しい職場の提供。
つまりは、公共事業でもあった訳だね。
お殿様ってのも、あれこれと実に大変じゃの~。


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最終更新日  2016年08月31日 23時08分50秒
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