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戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年11月04日
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カテゴリ:城(中国)
今回は、本丸御殿について。
ますはこちら↓が御殿を上から見た図。
こちらの絵図も、前回同様、本丸中門跡にあった看板の図を
拡大して拝借しています。 


    三原・本丸西側石垣10-9(本丸御殿)
 


御本門、あるいは唐門(裏御門)から入って中御門を抜けると、
正面に玄関があります。
ピンクの矢印に沿って、御殿内へ入る訳です。
トイレに行きたい方は、先に中御門脇の雪隠で
用を済ませておいてくださいね(笑)。

図の紫で色づけした部分が、いわゆる表向(おもてむき)の区画。
「上段金ノ間」「金一ノ間」の部屋が奥にあり、さらに二ノ間~五ノ間が続く。



三原城本丸御殿の見取り図は2種類あって、いずれも複写されたもので、
製作年代などの詳しいことについてはわかっていない。
が、どちらも江戸後期の御殿を描いたものと推測されている。


本丸御殿の築造時期についてはまだ明らかになっていないが、
初代城主・隆景によるものだという説もある。

長い歴史の中では当然御殿の改修も行われたと思われるので、
この表向の大広間を当初の姿に復元することで築造時期に迫ろうとしたものが、
佐藤大規氏による「三原城本丸大広間についての考察」。

私も「三原城本丸建物図」の大きなものを持っているので、
見取り図と見比べながらこの考察を読んだけど、シロートにはなかなか難しい。
が、まとめると大体こんな感じになる。


 ・表向主座敷は後世の改造がある。

 ・主座敷にあるすべての座敷飾は、定型化された左勝手の配置だった。

 ・中奥にある主人の座所には、二畳敷の上々段が設けられていた。表向の主座敷
  以外に上々段を設ける例はない。

 ・中奥の主人の座所には帳台構があったと考えられる。表向の主座敷以外の部屋に
  帳台構を設ける例としては、聚楽第大広間がある。

などの特色を挙げた上で、

 【(前略)大広間の建築年代について述べておく。まず矩折の上段をもつことから、
  桃山時代の建築としてよいであろう。また、(中略)聚楽第大広間と共通点が
  少なくないことが注目され、無関係とは考えられない。したがって聚楽第大広間を
  参考にして建てられた可能性を否定できない。

  ところで、三原城本丸大広間の部材と伝えられる小組格天井の小組の組子とその
  裏板が残っている。(中略)小組格天井をもつ大広間は、格式が高く豪華な御殿で
  あったと言うことができる。

  福島・浅野統治時代の三原城は広島城の支城にすぎず、本城である広島城の御殿と
  同等もしくはそれを超えるような格式の高い御殿を造営する必要はない。
 
  小早川隆景は天正16年(1588)に聚楽第を訪れており、それを模倣して
  建てることが可能であり、御殿の格式からしても、(中略)大広間は小早川隆景が
  造営したとしてよいであろう。したがって天正16年から隆景が死去する慶長2年
  (1597)の間の建築とすることができる。】
  (「三原城本丸大広間についての考察」/佐藤大規氏より。
   漢数字は戦国ジジイが変換)

としている。

聚楽第ね・・・


広島城の築城については、一般的には
輝元が天正16年に隆景ちゃんと一緒に上洛して秀吉に初めて謁見。
きらびやかな聚楽第にモーレツに刺激を受けて、翌17年に築城を開始。
天正19年にはまだ未完だったが、とにかく入城、
てな風に言われている。

が、肥前名護屋から摂津までの道中を表した「秀吉上洛諸泊次第写」には、
「ひろしまとまり」との記載があり、広島城址から金箔瓦や
本丸下の古い石垣が検出されていること、また聚楽第との共通点などを理由に、
広島城が毛利家の居城となったのは慶長頃であり、それ以前は
大陸出兵する秀吉の宿所としての城だったのではないかとの説がある。


「秀吉上洛諸泊次第写」には、広島⇒西条と寄った後、
「ミ王(わ)らとまり」との記述があるので、
三原城本丸御殿がかなり格式の高い建物だったという事も考えあわせると、
隆景ちゃんの御殿は広島城の築城とも関連の深いものだと思われ、
大変興味深い。

だって、「金ノ間」だしね。
だよ、!!(笑)


現在では、表向のあった場所はこんな感じになってます。
妄想スイッチを最大限にして、下の写真をご覧くださいね音符


     三原・本丸御殿跡地2




桃山時代初期頃は建物様式も変化し始め、江戸期に書院造が確立するまでの
移行期間にあたると見られているそうだが、その時期の建物図などは
ほとんど残っておらず、そうした面からも三原城の絵図は
当時の書院造を知る上で貴重な史料なんだそうな。

書院造についての考察なんかは私にはできないけど、
前回も書いたように「三原城本丸建物図」は(私には)ホント面白いので、
前回に引き続き、ちょっとだけ間取りをご紹介しましょう。


三原城本丸御殿は書院造が確立する前の築造と思われるので、
後代のものほどはっきり区画は分かれていない。
が、金ノ間のあるのが表向、その北に左側に延びてるのが中奥、
一番北側のエリア(上の写真でグリーンで色づけした部分)が
奥向(おくむき)にあたると思われる。

奥向の中で最も北西に位置するあたりに、

「う~ん、これは城主のプライベートルームだよな」

ってのがありまして、こんな風に↓なってます。


     三原城奥向プライベートルーム


「奥御書院」と「縁側」は下の部分が切れちゃってます。
そしてこの下と右にもいくつも部屋が続いてますので、
奥向のほんの一角だとイメージして見てください。

それと、「御湯殿」の下の部屋はちょっと字がつぶれてるので、
「御揚場」じゃないかもしれません。
配置からして、脱衣所とかかなと思うんだけど。


「三原城本丸建物図」のすごいことは、建具まで描きこまれてること。
これのおかげで、古建築の基礎知識さえあれば大体どんな感じの建物だったのか、
頭の中で即座にCG化できる。
もちろん、細部の意匠までは正確には再現できないけどね。

御殿内全体で風呂場は幾つもあるものの、「御湯殿」と描かれてるのは
上の見取り図の風呂しかない。
城主はもちろん中奥にも御座所を持ってるけど、中奥には風呂場はない。

てことは、やっぱりここが城主および家族のプライベート空間だよな。
もしこの間取りが築造当時とほぼ変わっていないのなら、
隆景ちゃんもここのトイレと風呂場を使ったのかもしれない。

さらに、隆景の隠居頃には正室である問田の大方様も
三原城に移ってたでしょうから、この10畳の御書院はあるいは
問田の大方様が使ったのかもしれない(奥向だけで御書院は4部屋ある)。
隆景存命中は、妻子を大坂に置く決まりはありませんからね(笑)。



時代が下ると、三原城は広島城の支城となり、
浅野家とはいっても家老職が入っていた。

家老だから、きっと江戸時代も妻子を江戸に置く必要はなかったんだよねえ?
とすると、築造から廃城までを通じて、奥方様が奥向に住んだ数少ない城でも
あるかもしれないな。

おお、奥方様っていえば、正室じゃないけど、
月姫様も上のトイレを使ったかもしれないんだうっしっし

って、私ってホント生活臭い想像ばっかり(笑)。 



そしておそらく、御殿内で隆景は亡くなった。

慶長2年3月頃から体調を崩してはいたものの、
新しく造る橋の橋板には、瀬戸の音戸に係留してある安宅船を解体して
その木材をあてるよう、相変わらず細やかな指示を出したりしている。

秀吉からの上洛要請には、

「ちょっと具合が悪いんで・・・ゴホッ、ゴホッッ!!」

としているものの、まあそんなに深刻な状況ではなかった感がある。

が、6月12日、急逝。
直前まで手紙を祐筆に書かせていたというから、
中奥で倒れて、奥向へ運ばれたのかな。

死因は、卒中といわれる。
現在では、病名としては卒中って言い方はしないんだけどね。

伝えられる症状や、発症から息を引き取るまでの時間の短さなど、
確かに脳血管疾患の可能性を連想させる御最期であられた。
享年65歳。


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最終更新日  2012年11月13日 22時05分07秒
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