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戦国ジジイ・りりのブログ

2013年04月17日
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カテゴリ:城(中国)
こちらが頭崎城の最高点、甲の丸(本丸)です↓。


      東西条・頭崎城164・詰の丸



      東西条・頭崎城165・詰の丸


いやあ、荒れてるなあ~(笑)。
暖かい時期に行って、もっと草ボーボーの写真を載せてる人もいたし。

郭の周りは木と矢竹がびっしりで、周りがどうなってるのかなどは
全く確認できない↓。


      東西条・頭崎城166・詰の丸



郭内部を歩いてみる。
見た目だけじゃなく地面も荒れてて、かなり歩きにくかった。
が、草と落ち葉に隠れて礎石らしいものも見える↓。


      東西条・頭崎城168・詰の丸



      東西条・頭崎城170・詰の丸


一旦下りて、西側にある道を奥まで行ってみる。
途中、かろうじて甲の丸の石垣の名残も見えた↓。


      東西条・頭崎城169・詰の丸-2



脇を矢竹に覆われた道を奥まで行くと、どんづまり。
この北側には、西の丸がある。
甲の丸と西の丸の間は深い堀切で断ち切られてるのは知ってたけど、
何とかここから行かれる道があるのかと単純に考えていた。

が、道はないし、北側の斜面も矢竹がびっしりだから、
下がどうなってるのかすら見られない。
後で考えたら、駐車場の先のあたりから上がれたかもしれないんだけどね。


行かれないものは仕方がない。
どんづまりの場所には甲の丸に上がる道が付けられていたので、
再び甲の丸へ上がる。

甲の丸の最北部から二の丸方面を見たところ↓。


      東西条・頭崎城174・詰の丸最奥部



ざくざくと、土に足を取られながら南の木段へ向かう。
木段の上部から、下段を見下ろしたところ↓。


      東西条・頭崎城175・詰の丸最奥部


なるほど、ここが大手なんだな。

それにしても、郭そのものには手が入れられてたけど、
周りが木と矢竹ばっかりで全然周囲の状況がわからないのが痛い。
さすがにここじゃ、あんまりまったりはできないな~。

斜面の木が切られてたら、下方にある竪堀群なんかも見えたかもしれないけど。
ただ、城跡の整備なんて一口に言っても、実際やるとなったら
相当な時間と労力がかかるだろうからな~。

けど、もう少し遺構が確認しやすいように手を入れられれば、
頭崎城の集客数も上がるんじゃないかと思うけどな。



二の丸を抜ける途中にも、礎石っぽいものを見つけた↓。


      東西条・頭崎城177・二の丸あたり



二の丸入口から下の広場を見下ろしたところ↓。
上から見ると、結構な高さがある。
それに、下の道の斜面は相当急に削られてるのがかろうじてわかる。


      東西条・頭崎城178・二の丸から三の丸


木段を下りて、煙硝の段へ向かう道と二の丸の切岸を見たところ↓。


      東西条・頭崎城180・二の丸と煙硝の段への分岐



よくこんなもん、人力だけで作ったよな~。

これが、頭崎神社と接する二の丸東側の切岸↓。


      東西条・頭崎城181・二の丸切岸

 
ふう、大体こんなとこかな・・・
時計を見ると、10:30。
小腹もすいてきたし、ここで食べておくと後が楽だな。

とは言っても、ベンチのある場所は風が強かったし、
二の丸とかは周りに木が多くて薄暗いからイヤだし、どうしよう・・・

幸い、頭崎神社は奥まったところにあって風が来なかったので、
神社の拝殿(神楽殿?)に腰かけさせてもらった。

古戦場だけど、真ん前には本殿があって神様と差し向かいで
食べてるようなもんだし、きっとここなら神様が守って下さるだろうダッシュ(←まだ恐い)

で、ここからランチタイムに入る訳ですが・・・
この後はもう主郭部を降りてしまうので、その前に歴史の話の続きをしましょうか。
どうにも理解しにくい部分もあるので、あんまり書きたくないんだけど(笑)。




天文10年に頭崎城が落城した後は、平賀興貞の嫡男・隆宗が家督を継いだ。
(平賀氏の系図は、「頭崎城(5)」をご覧ください)

隆宗もなかなかカッコイイんだけど、この人については
別のところで書こうと思います。
が、隆宗は天文18年(1549年)に亡くなっちゃいます。

隆宗の生年は不明で、祖父・弘保、父・興貞もこれまた生まれ年がわからないので、
得意の計算もできませんが(笑)、隆宗の弟の広相が大永8年(1528年)生まれなので、
少なくとも享年は22歳以上といえるでしょう。

20代なかば位がいいとこじゃないかと思うけどね~。
計算上、30歳くらいまでの想定は可能かとも思えるけど、
あんまり隆宗の享年を上げすぎると、その分弘保もヨボヨボになっていくからな泣き笑い

そしてこの隆宗の死が、平賀家に新たなトラブルを呼び込むのです。



弘保としては、隆宗の跡はその弟の新九郎(後の広相)に継がせたかった。
が、主君である大内義隆はそれを認めず、隆保という子を養子にさせて、
平賀家を継がせた。


この隆保・・・
出自は、小早川氏の庶家・船木(舟木)氏。
新高山城の主郭部で、「船木への道」という標識が2本出てましたが、
あの船木です。
ので、新高山城の北側に領地を構える一族だったと思われます。

ここで頭崎城の戦いの話に戻りますが、天文9年4月に
沼田小早川氏が尼子方から大内方へ陣替えした際、
隆保の実父である船木常平はそのまま尼子方へ残ったんだそうな。

そのため、大内方へ転じた惣領家は船木常平の三石城を攻めた。
常平は天文10年(1541)正月晦日に自刃したと「大内義隆記」は伝える。
・・・て事は、頭崎城の落城と同時期ってことか。

常平は滅ぼされたが、常平の3人の子は山口の義隆の下で育てられた。
まあ、人質としての扱いだとは思うけど、3人もお持ち帰りしなくったって・・・泣き笑い

この時、隆保10歳。数えだろうから、実年齢は9歳ぐらいかな?
器用な子だったらしく、和歌や蹴鞠に秀でていたという。
義隆はこの子に、平賀氏の家督を継がせることを決定した。



隆宗には弟もいるのに、なんでわざわざ反逆した小早川の、
しかも庶家の子なんかを持ってきたのか?
この理由については、色々と言われている。


まあ、一番多いのが、義隆の寵童だったからというもの。
あと、「平賀つぶし」。

寵童については置いといて、平賀つぶしはどうだろうね~。
確かに、頭崎城攻めには時間がかかって、ついには義隆みずから
出陣するにまで至った。

が、平賀氏はもともと大内家との縁が深く、鏡山城の戦いあたりで
一旦は尼子方になったものの、たぶんそれから何年も経たないうちに
弘保は大内方に帰順しているものと思われる。

それに、隆宗の生年を考えた時に、恐らく頭崎城の戦いの最中に
元服したんじゃないかと思うんだよね。
義隆から「隆」の一字をもらってね。



「隆」の偏諱は沼田小早川氏なんかが結構いい比較例になるんじゃないかと
思いますが(笑)、隆宗と数年違いの生まれだと推定される小早川正平は、
はじめ「詮平」(あきひら)と名乗った。

頭崎城の戦いの記事で本文を引用させていただいた吉野健志氏は、
その論文『いわゆる安芸郡山城合戦の再評価』の中で、
尼子詮久からの偏諱の可能性が高いとしている。

偏諱の原則からはちょっと外れるけど、沼田小早川氏が尼子方だった時期は
ちょうど正平の元服適齢期にも当たるので、確かにその可能性はある。
そして天文12年に討死した際には、「小早川正平」と名乗っている。

尼子詮久からの偏諱を受けたんだったら、きっと大内方に転じた後
すぐにでも改名しただろう。
改名の時に「隆」の字をもらえないのは、当然だよね。
もともと沼田家は大内さんちとは仲良くなかったし。

が、大内方として討死して、その後も(大々的には)尼子方へ転身することもなかったのに、
正平の子供(繁平)も「隆」の字はもらえなかった。
まあ、繁平さんについては新高山城の相続イベントであれこれ書いたように、
かなり複雑な上に解ってないことも多いので、比較の対象には向かないかもしれませんが。



ところが、交戦相手(興貞)の子(隆宗)には、
「隆」の字を与えている。

弘保をつなぎとめる狙いもあったかもしれないけど、
やっぱり平賀さんちへの信頼というか愛情泣き笑いみたいなものは
義隆の中にも受け継がれてたんじゃないかな~って、名前を見てると思うのだ。


なら何で、隆保に継がせたのか?

わっかんないんですよ~!
わかったら苦労しないですよ~!!
 (←ヤケ)


平賀領は東西条に隣接するから、「つぶし」じゃなくて重要な地を
信頼できる家臣に任せたかったって可能性もあるけど、
たいがいこーゆー時って後継者が幼いのを幸いに、って感じなのが、新九郎はもう21歳。
弘保もいるし、立派にやっていける。

しかも、その後の新九郎の人生を見ると将来が危ぶまれるほどに
愚鈍な子だったという訳でもない。

だから、わざわざ反逆した国人の、しかも庶家の次男坊を、
古くから信任が厚く、また重要な地にある家の当主に据えなければならないほどの
理由が見つからないのだわからん


こうなってくると、もう「寵童だから」の一言で片付けたくなってくるダッシュ
まあ、この記事を書いた後でもしばらくぼんやりと考えるとは思いますが、

「寵童だから」ってみんなに言われるのも仕方ないべ~、
義隆!!


ってちょっと文句を言いたい。


ちなみに、「大内義隆記」では隆保の相続は隆宗の遺言によるものだったとしている。
・・・が、それはちょっと厳しくないか?


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最終更新日  2013年04月17日 21時56分23秒
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