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戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年04月18日
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カテゴリ:城(中国)
平賀隆保について、「新裁軍記」にはこんな記述がある。


 興貞は天文4~5年に父・弘保と袂を分かち尼子方についたが、内には父との確執、
 外には大内家の圧力があり進退に困った。やむなく大内の下知に従うも、ついには
 病と称して頭崎城に引きこもって軍事に関わらなくなった。

 興貞の子・隆宗は祖父とともに白山城にあって様々な軍役にあたっていたので、
 義隆はこのスキを狙って隆保を興貞の養子とし、頭崎城の守備にあたらせた。
 興貞は大内の威を恐れて、それに従った・・・



天文4年正月の親子ゲンカ以降、興貞は一貫して尼子方であって、
大内方になったという記述は見たことがない。
なので、これは天文5年8月以降に大内家による武力介入が本格化する前のことを
指していると思われる。

それに、一般的には隆保は隆宗の養子と言われてるけど、
隆宗が死んだ後に死者の養子になるっておかしいだろ~ってことを指摘して、
隆宗の養子じゃなく興貞の養子だろ!って文章の後に、上の文章が続いているので、
興貞の養子とするならこういう流れだったんじゃないのかって
推論をしたものらしい。

興貞の存命中に隆保がすでに頭崎城に入っていたという仮説は、
大変興味深いものではあるけどね。

けど、それだったら天文10年初めに頭崎城が落城するまでの間、
隆保はどうしてたんだ?って疑問が残る。

いや待てよ、隆保が山口に送られたのは頭崎城の落城以後の話なんだから、
やっぱこの推論は無理がないか?
隆保の父・船木常平が生きてる間に隆保が頭崎城に入るということは
ちょっと考えられないよな。



で、「新裁軍記」ではここまでは確証がないとした上で、
その後で毛利家臣・桂家の書状を持ち出して、

 隆保は天文18年8月の頃にはすでに頭崎城にあって、新九郎と領地の争いが
 あったようである。思うに、天文18年7月3日に隆宗が病死した後は
 隆保が平賀領すべてを治めようとしたが、新九郎がいたために弘保がそれを許さず、
 領地を2つに分けて頭崎城には隆保を置いたのでは(後略)。

と続けている。




ま、結局のところ、隆保が平賀家の当主におさまった理由はわからないものの、
平賀家ではこの決定にぶーたれた。
・・・が、義隆の決定には従わざるを得ない。


しかし、転機は意外に早く訪れた。

大内義隆に対する陶隆房のクーデター、「大寧寺の変」が起こったのが
天文20年(1551)。

「山口編」だとかあちこちで書いてますが、私はこの変には
最初から元就は積極的に加担していた説を支持してますのでご了承くださいね。


8月20日、隆房と元就が挙兵。
まず隆房は厳島と桜尾城を、元就は佐東銀山城を占拠した。

9月1日、義隆自刃。

9月4日、元就は東西条へ進軍。義隆方である平賀隆保の頭崎城を攻撃に入った。

弘保ら平賀家の者は、これ幸いとこれを放置した。
孤立した隆保は、頭崎城で自刃したとも槌山城へ逃れたともいう。


「大内義隆記」が伝える隆保の最期は、

 腹を十文字に切った後で、これまでの事などを静かに語り、歌を詠み、
 書き置くことがあるから硯と紙を持って来いと言っても、鬼のような心を持つ介錯人や
 家中の者は硯と紙を与えなかった。
 隆保は脇差を取り直して喉元から胸の下へと刀を下ろしそのまま伏せて果てた。
 8月26日からの籠城の中で柳原殿へあてた一首があったので、それを山口へ送った。

   吹風にたまらずとても今朝の露の必ずのちの世をや頼まん


という壮絶なもので、隆保が山口に送られたのが9歳の時だったとするなら、
享年はまだ19歳という計算になる。


平賀家で実際に喜んで隆保を放置したのかはわからない。
ものによっては、弘保と広相が挙兵して頭崎城を攻めたともいうけど、
なんにしても切ないのう・・・
ちなみに、平賀家の系図には隆保は載っていないそうな雫
なので、隆保が歓迎されていなかったことは確かと言ってもよさそうだな。

上は頭崎城での討死バージョンだけど、槌山城に逃れたとする説の方でも、
最後は元就に攻められて自刃したという話になっている。


「新裁軍記」では、槌山城で隆保が自刃したというのは「陰徳記」の記述によるもので、
これは誤りだとしている。

弘保が頭崎城攻めに兵を出したかまでははっきりとしないものの、
少なくとも弘保が隆保に助力したという話は私は読んだことがない。

とすると、どこからも救援がない中で、隆保が毛利軍の包囲を抜けて
弘保方の兵にも見つからず、槌山城まで逃げていくことが本当に可能なのだろうか・・・
私もやっぱり、隆保は頭崎城で亡くなったものと思う。




ところで、ちょっと関係ない話で恐縮ですが、「大内義隆記」の
隆保の記述の前には気になることが書かれている。

これは大寧寺の変を中心に書かれているものなんだけど、
豊前での犠牲者の後に安芸での犠牲者らしきものが書かれていて、

 【安芸ノ国ハ浅治。小早川。又鶴丸失ニケル。】

とあるのだ。
この書には誤謬も多いとされてるようで、
隆保の8月26日の籠城の記述も誤りとされている。

が・・・「又鶴丸」は沼田小早川当主の幼名に多い名だし、
この時点では小早川家には又鶴丸は1人しかいないはずなんだよね~。
結構しつこく書いたので、記憶力のいい方は覚えているかと思いますが、
ここで私が気にしてるのはもちろん、小早川繁平のことです。

でも、繁平は天正2年没とされてるしな~。
けど、何か気になるなあ~。

あ、ちなみに繁平の名が久々に出てきたのでついでに書きますと、
繁平の父・正平と隆保はいとこにあたります。
って、ここでこんなこと書くなって?(笑)





さて、隆保の死後、弘保は元就の助力を得て
隆宗の弟・広相(ひろすけ)に家督を継がせることに成功する。

家督を継いだ広相は、まず天文21年(1552)3月3日に
小早川隆景と兄弟契約を交わす。
また2月20日付、弘保あてで平賀・毛利・小早川の三家で盟約を結んでいる。
さらには吉川元春が盟約に加わり、四家の一揆契約が成立した。


平賀家では、広相の相続に協力してくれた元就に深く感謝し、
以後は毛利家とがっちりタッグを組んで様々な荒波へ対処する。

天文23年の防芸引分の前、陶隆房の出陣要請に対して
なかなか動こうとしない元就にイラつきと疑いの念を持った隆房は、
元就と他の国人衆との間を分断しようと画策。

弘保と広相は、平賀家にやって来た隆房の使者を拘束し、元就の郡山城へ護送。
あくまで平賀家は毛利方であるという自らの姿勢を示すとともに、
隆房が元就に疑念を抱いて行動を起こしているという事実を教えて
元就に覚悟を決めさせた。


その後は毛利家の傘下に入る形にはなったが、
新高山城の遠足イベント・・・もとい、『毛利元就父子雄高山行向滞留日記』で
女性陣と対面してたり、毛利一族とは引き続き良好な関係を築いていたことが
うかがわれる。
(遠足イベントについては、「新高山城(17)」以降をご覧ください)


それから、「頭崎城(5)」に載せた平賀家の系図を見て、アレ?って
思った方もおられるかもしれませんが、広相の兄弟が小早川一族へ
養子に入っている。

それが、景行。
養父となったのは、遠足イベントで顔を出した梨子羽(なしわ)宣平。

平賀家に限らず、元就と他の国人衆とは最初は(いちおう)対等な立場で
盟約を結んでいたのが、元就が得意の手品を使って
対等でない立場を作り上げていったので、景行が梨子羽に養子に行ったのが
いつかはわからないんだけど、その時点ではすでに
毛利家が上に立つ関係が出来上がってたのかもしれない。

隆景の養子じゃなく、庶家の梨子羽家に入ってるからね。
景行の「景」は、隆景からの偏諱でしょう。
そうして、毛利一族との絆を深めていったものと思われる。


そして、関ヶ原以降は毛利氏とともに萩に移り住んだ。




安芸国人・平賀氏の名前は一般的には相当知られてないと思う。
かくいう私も、安芸の勉強を始めるまでは全く知らなかった。

過去の様々なシリーズを書いてる間、当初は書く予定じゃなかったことについて
だらだら書き続けては、

「なんで私、こんなこと書いてんだろ~雫

ってコストパフォーマンスの悪さに半ベソかいてて、しまいには

「これは私が書いてるんじゃない。
あの世におわす関係者様たちに書かされてるんだ」

と諦めるようになったもんだけど、
色々書いてる中で自分の嗜好というのが段々わかってきた。

結局、一般的にはほとんど知られてないような国人とか、
「華やかな歴史の陰に埋もれた」どころじゃないくらい、
マジで埋もれちゃってる武将とか関係者様たちほど、
いとおしく感じる傾向があるらしい。

あと、大国が華やかに戦闘を繰り広げるのよりは、
田舎の土豪たちがちょろちょろと、でも元気にドンパチやってる方が好きみたい。

まあ、そういう人達については史料もかなり限られてくるし、
勉強するのもまた大変ではあるけどね。


そういう好みを持ってる私が最近書く記事は、なんだかだんだん
マニアックの領域に入りつつあるような気がしてきました(笑)。
もちろん、私の理解なんて浅いもんだし、上には上が山ほどいるけどね。

なので、安芸やマイナーな国人の話に興味のない方にはつまらない記事が
この先も続くかもしれません。

ただ、広く知られていなくても、それぞれの地域でみんなあれこれ
頑張ってたんだよってことを少しでも知ってもらえたら嬉しいと思います。




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最終更新日  2013年04月21日 00時01分27秒
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