戦国ジジイ・りりのブログ

2013/06/24(月)22:27

日光東照宮宝物館/石唐門・石鳥居。と地震。

日光写真館(54)

日光東照宮の宝物館の中には冷え冷えとしたトイレがありますが(笑)、 外にも綺麗なトイレがあります。 山内にはあちこちにトイレがあるので、私も安心して長居できます       日光は有名な寒冷地ですが、冬場は洋式便器はウォーム便座になるので、 これはホントにありがたいです。 日光の冬はマジで寒いからね~。 今回(2012年12月1日)は日光で初雪が降った日でもあり、 寒い中、特に御仮殿の透塀の撮影でかなり体力を消耗したので、 こんな中、冷え切った陶器の便座に腰を下ろした日にゃあ、 心臓止まっちゃうだよ~。 ・・・て、今回はトイレに苦労してないんだから、 トイレの話はそこそこに。 宝物館を出て右手に進むと、奥にはこんなのがあります↓。         【重要文化財 石唐門 石鳥居   これは寛永18年東照宮奥社に建てられたが、天和3年震災により破損したので   奥社裏山深く埋められて200数10年に及んだが、当宮350年祭記念として   ここに移建した。   幕府の作業方大棟梁平内氏の設計により巨石から切出されたもので、江戸初期に   於ける代表的石造美術である。】   (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) まず、鳥居ね↓。        鳥居のすぐ左脇にはこんなものもある↓。        なんだコレ・・・ これも灯籠っていうのかな? でも、下の部分には明りを入れそうな気もするしな・・・ 順序が逆転しますが、鳥居の手前には碑がある↓。         【松尾芭蕉句碑   あらたふと 青葉わか葉の 日の光         芭蕉翁おくの細みち日光山吟   松尾芭蕉は、江戸初期の俳人。伊賀上野の生まれ。名は、宗房。号は「はせを」と   自署するほか、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。   元禄2年(1689)4月、芭蕉が奥の細道行脚で、門人曽良を伴い、日光山に   参詣したと刻まれている。   小杉法菴の書で、昭和31年9月日光市・東照宮・輪王寺・二荒山神社が建立。】   (現地解説板より) ふ~む、芭蕉おじさんは日光にも来たのか・・・ けど、当時って民間人が拝観できたのか? 途中までは入れても、現在東照宮とよばれる場所の境内は 入れなかったんじゃないかって気がするんだけど・・・ で、鳥居の奥にあるのが、石唐門。                      名前の通り、全部石造り。 たったこれだけの門だけど、どっしりと風格があって 間近で見るとなかなかカッコいいです。 ま~はっきり言って、宝物館に寄る人自体が少ないので、 その奥まで来る人は(たぶん)少ないです。 が、唐門と鳥居はいずれも重文。 上の解説だけじゃなんだかよくわからないよね。 ので、今回も『謎と不思議 東照宮再発見』にお世話になります。 鳥居と唐門はもともと奥社にあったもの。 奥社は、東照宮の本社からさらに奥・・・というか上にある場所で、 そこに家康の墓所もある。 元和3年(1617)に家康が奥社に改葬されてから、 元和7年(1621)頃に奥社に木造の多宝塔・唐門・拝殿・鳥居などが 建てられた。 家光による「寛永の大造替」の際も奥社に手が入り、 寛永17年~18年(1640~1641)頃に建て替えられたが、 この時に宝塔・唐門・鳥居が石造りとなった。 東照宮の略年表によると、まず寛永18年(1641)に宝塔と唐門が石造りとなり、 その後慶安3年(1650)に唐門と鳥居が石造りとなったとある。 あら? 唐門がダブってるんだけど。 「御仮殿2」で山内の火災の記事を抜き書きしたけど、 火災以外にも背後にそびえる女峰山から流れ落ちる稲荷川の洪水もあるなど、 日光山内はたびたび自然災害にも見舞われた。 が、自然災害の最たるものが天和3年(1683)の地震。 これに奥社の建造物もやられた。 一体どの程度の地震だったのかと検索してみたら、 足利市のサイトに親切な一覧表が載ってた。 以下は足利市のホームページ「歴史と文化と花のまち 足利市」からの引用です。  ◆1633年(天和3年)6月17日 8時(M6.0~6.5)   被害は、日光周辺で東照宮・大猷廟・慈願堂等の宝塔の九輪転落、   石垣多く崩れ、天狗堂・仏岩・赤薙山及びその北方の山が崩れた。  ◆1633年(天和3年)6月18日 11時(M6.5~7.0)   被害は北関東地方で、日光では御宮・御堂・御殿・慈眼堂・本坊寺院の石垣が   全て崩れ、東照宮・大猷廟の宝塔の笠石その他が破損した。   余震は、689回を数えた。  ◆1633年(天和3年)10月20日 5時(M7.0)   被害は栃木・福島県で、栃木三依川五十里村で山崩れが発生し、   川を塞いで湖を作った。日光でも山崩れが起き鬼怒川・稲荷川の水をせき止め、   修復半ばの石垣が崩れ、堂塔にも被害が出た。余震は、2100回を越えた。 ぬわんと~、1回じゃなかったんですよ。 しかも、この3回の地震の震源はいずれも日光付近と見られている。 あくまでマグニチュードだから実際の震度がどの程度だったかはわからないけど、 揺れのあった地域の中でも恐らく最も日光付近が揺れたってことだよね。 規模だけ見てると、一体どれが本震なのかもはやわからない・・・ が、関東以北の方は東日本大震災の記憶も新しいので 感覚的にわかるんじゃないかと思いますが、最初の本震のちょっと後にも かなりデカい揺れが来たからね。 被害状況を見ても、まず最初の6月17日が本震で、 翌18日は余震の部類に入るでしょう。 これだけならまだしも、10月20日のデカいのは痛かったよな。 それまでの600回以上の余震などで地盤が弱くなっていたところに、 追い打ちをかけたカンジ? 2011年の震災でたわんだ石垣がまだそのままになってた写真を 「山内入口2」に載せましたが、あの震災での日光市の震度は5弱。 うちも発表では同じ5弱だけど、かなり揺れました。 が、あの石垣は崩れなかった。 東照宮での震災の瞬間の映像をYou Tubeで見ると、 東照宮の陽明門なんかはびくともしてない。 境内の石塔は幾つか倒れたりもしたそうだけど、 建物には幸い大きな被害は出なかった模様。 それと比較すると、一慨には言えない部分はあるけど 天和3年の地震はいずれも震度5弱以上だった可能性が高いと言えるんじゃないか? さぞ、恐かったでしょうね~。 それで、唐門と鳥居に戻りますが、天和の震災により被害を受けた宝塔は 造替されて、現在の青銅製になった。 『謎と不思議 東照宮再発見』によると、唐門と鳥居も宝塔と同時期に青銅製に 改められたと誤解されてたんだそうな。 そこで、略年表の慶安3年(1650)の唐門のダブリの記事が生きてくる。 どうやら、前年の慶安2年(1649)にも大きな地震があったらしくてね。 再び足利市のホームページ「歴史と文化と花のまち 足利市」から引用しますと、  ◆1649年(慶安2年)7月30日 2時(M7.0)   震源地域:下野・武蔵   被害は、栃木・埼玉・東京に及び、埼玉の川越では家屋700戸が、大破した。   日光東照宮では、石垣・石の井が破損した。余震は、日に40~50回を数えた。 と、ページのタイトルが『栃木県・足利市の地震履歴』であるにも関わらず 日光の被害状況まで記してくれて、大変ありがたいホームページですが これで被害を受けたために慶安3年に唐門などが造替されたんじゃないかと 『謎と不思議 東照宮再発見』では推測している。 青銅製にリニューアルしてお役御免となった石造りの唐門と鳥居は、 奥社のある山の中に埋められた。 それを昭和42年に発掘して、現在の位置で再び日の目を見ることとなった。 復元っていうから、「再現」の意味かと思ったら、 『謎と不思議 東照宮再発見』には【残念なことに、袖の部分のみ発見されず新造。】 とあるので、掘りだしたものをそのまま宝物館の脇っちょに据えたってことらしい。 上の文章は、  【そのため、葵紋が、扉にある様式と異なってしまった。昭和48年に重文指定を   受けたため、今となっては取り替えたくても簡単には行かない。】 と続く。 その違う紋がこちら~。 扉のほう↓。        袖のほう↓。        アハハッ!! まあ、こんなお茶目なエピソードがあってもいいよね~。 「100年経てばこれもヒストリー」ってTUBEの歌に名言もあるしさ この近くには、なかば埋没した灯籠もある↓。 あるいはこれも、一緒に埋められてたものかもしれないな。 下部が欠損してたから、残った部分だけこんな風に地面に植え付けたのかもしれない。        にほんブログ村

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