戦国ジジイ・りりのブログ

2013/07/10(水)23:29

福山城(10) 鏡櫓・亭櫓

城(中国)(211)

月見櫓から北へ行ったすぐ先にあるのが、鏡櫓↓。 ここも入口は狭い。               石垣には、刻印ぽい石も↓。        この付近では親子連れが遊んでいてなかなかどいてくれなかったので、 先に櫓の北側へ回ってみた。 ら、ちゃんとした入口らしきものがある↓。        入口に「文書館」て札が付いてたので、ちっちゃな資料館みたいなもんかと思って 扉に手をかけてみたが、閉まってた。 あ、ちゃんとした文書を収めてる場所って意味なのね(笑)。 あれ~? でも、博物館でもらったリーフレットには「随時開館」て書いてあるけど。 申し込みとかが必要なのかな? 文書館入口は階段で少し高くなっているので、 そこから鏡櫓北側の下段を見下ろしたところ↓。 が、ここは近代に入って改変されている場所なので、 かつての土塀は白の点々のような感じで続いていたと思われます。        石垣には紅葉の鮮やかな赤が・・・↓。 て、紅葉モードで撮ったらこんなに鮮やかすぎる赤に写っちゃったよ        やっとお子ちゃま達が去ったので、西側から撮影↓。        この時ちょうど屋根にはハトが数羽とまっていて、ちょっとミワラふう(笑)。         【鏡櫓(文書館)   本丸の東側に位置し、東南隅の月見櫓から北へのびる塀でつながれ、6間と4間の   広さをもっていた。明治6年廃城の際とりこわされたが、昭和48年9月30日   外観復原がなされその姿をみることができるようになった。   この鏡櫓は福山城博物館の文書館として昭和49年4月2日開館し福山を中心に   文書、記録類を収集整理する場として活用されている。】   (福山城博物館リーフレットより) 下から見るとこんな感じ↓。        鏡櫓は古写真にもかろうじて写ってるんだけど、 ずんぐりってゆーか、なんかちょっとスッキリしない形をしている。 ここも説明は「外観復原がなされている」とあるものの、 往時の姿をそのまま再現したものではないらしい。 3枚上の写真を写した辺りの場所から振り返ったところ↓。        だいたいこの写真のど真ん中あたりに、かつて伏見御殿(奥向)があったと思われる。 本丸御殿の平面図を見ると、奥向から鏡櫓までは大して離れていない。 写真の左にある建物が御風呂屋で、その前が平面復元されている場所。 右に写ってる木のある場所へ近寄ってみましょう。        庭園風だけど、このセンスは私好みじゃない。 この辺りの場所は、本丸御殿全体のちょうど中央と思われる。 実は、御殿の平面復元がされているのは御風呂屋の前の表向付近に限られ、 中央部~北部にはその類のものは一切ない。 廃城後、公園化した後の明治初期頃に描かれたと思われる絵図には、 すでにこの場所は大きな池が描かれている。 デフォルメされてる可能性もあるから、その当時の池が 現在と同じ規模なのかはわからないけど、公園の経営を軌道に載せるために プチ動物園経営なんかして色々頑張ったみたいだし、 本丸御殿部分ではちょうどこの池のあたりが一番遺構が破壊されてるかもしれないね。 さて、鏡櫓については一旦ここで終わりにして、 さらにここから北へ進もうとするとこんな塀があって往時の通りには進めない↓。        この柵の先は               広い石段と冠木門があって、お城ふう(お城だけど)。 これは(たぶん)門の外から見たところ↓。        が、これはかつては存在しない門でした。 廃城から月見櫓跡地に葦陽館が建てられるまでの流れを前回書きましたが、 明治8年に大久保利通から公園化の許可が下りたあとに、 登城への利便を図るためにこの部分の石垣を一部ぶち抜いて 造った入口なんだそうな。 縄張図では、水色のポッチが新造の階段の場所。 わたくしはここを「ぶち抜き御門」と命名しました(笑)。        ちょっと今さらですが、この縄張図は幾つかの図面とわたくしの記憶を基に 大体の位置関係を説明するために描いたもので、 建物の大きさや郭の形・大きさなどは精度を追求してませんので ご了承くだされ。 この図にあるところはほとんど歩いたけど、 完全に歩ききった訳ではないし、写真がなくて記憶が辿れない場所もある。 記憶がないゆえに図面を見てるだけでは自分の頭の中で どうにもつながらない部分もあるので、そうした場所は描いてませんし(笑)。 で、かつては、鏡櫓の北へは多門櫓が続いており、 多門櫓の途中にはマル10の亭櫓と呼ばれる物見が載せられていた。 亭櫓は物見櫓とも、また化粧櫓という名称もあわせ持つ。 そして、亭櫓はすぐ西にある女の園の奥御殿と廊下でつながれていた。 「備後歴史探訪倶楽部」様のサイトで亭櫓のページでは、 化粧櫓という別名から女性陣の生活の場であったかもしれないと推測しておられるが、 その可能性は充分にあると私も思う。 城によっては、多門櫓の内部を細かく仕切って長局にあてたところもあるし。 とすると、鏡櫓もその名称から似たような使われ方をした 時期もあったかもしれない。 ただ、鏡櫓のすぐ近くにあるのは「伏見御殿」なので、 奥御殿の女性が使ったとはちょっと言い難いけど。 それから、「亭櫓」という名称ね。 物見が一番の目的ではあっても、平和な時代のことだし、 その名の通り「亭」として使われた時期もあったかもしれないな~と思った。 たぶん、眺望としては月見櫓の方がいいんじゃないかと思うけど、 鏡櫓からも下がよく見渡せたようだし、きっと亭櫓からも それなりの眺めが得られたんじゃなかろうか。 あるいは、カッチン(水野勝成)の正室である三村元親の妹や 側室(お登久)なんかが亭櫓で「女子会」を開いたかもしれない。 (↑そんな想像ばっか) ただ、後期に描かれた絵図では南はじの表向の部分しか 御殿が残っていないものもあるし、 譜代といえどやはり妻子は江戸住まいだったろうから、 化粧櫓が女性陣に使われたとしてもごく初期の時代に限られると思うけど。 本丸御殿の中央付近から北側を見たところ↓。        かつては手前の空間に女の園が広がってましたが、 今はご覧の通り見事に何もありません。 この辺て、発掘されてるのかな? 確か、御殿付近からは水野紋の瓦が見つかったなんて 何かで読んだ気もするけど。 仮に礎石類が残ってなかったとしても、どうせ今は何も使われてない空間なんだし、 ど真ん中にあるビミョ~な池も思いきって取っ払って 岡山城みたいに全面平面復元してみたらどうかな? 名古屋城みたいに、豪勢な御殿を再現してくれなんてゼイタク言わないからさ。 にほんブログ村

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る