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戦国ジジイ・りりのブログ

2013年11月29日
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カテゴリ:上野と寛永寺
寒松院のすぐお隣がこちら、林光院↓。


      上野・林光院2



入口は純和風だけど、なんか右側の近代的な建物がすごいな・・・
ここ、寺でいいんだよな雫

これも寛永寺の子院。
門前には古くて立派な灯籠もある。
まず、向かって左↓。


      上野・林光院3



 【奉献 石燈籠両基
  武州 東叡山
  大猷院殿 尊前
  慶安五年壬辰年 四月二十日
  従五位下中●●膳正源朝臣久●】


う~ん、一部磨耗しててかなりキビシイ。
お隣と対の灯籠だったら、そちらから読み取ろうかとも思ったけど、
明らかに別モノだったので、解読は自力で頑張るしかない。

だいたい、一番最後の行はもちょっと上から彫り出せばよかったのに、
計算が狂ったのか(笑)最後の名前にあたる2文字が「臣」の両脇に来ている。
どうも、「久盛」のようにも読めるんだけど・・・

灯籠ってちょいと地味なせいか、あんまり注目する人はいない。
見てる人はかなり細かく紹介してるんだけどね。
てことで、林光院の灯籠を紹介してる人はいなさそうだったので、
読める文字からいくつか検索してみたところ、
これはおそらく中川久盛のではないかという結論に至った。

ウィキペディアを基に上の銘を復元すると、
「従五位下中川内膳正源朝臣久盛」になるんだと思う。

へえ、戦国ファンなら名字で想像つくでしょうけど、
中川清秀のお孫さんらしいです(次男の子)。
母が佐久間盛政の娘なので、盛政には外孫にあたるようですね。

ただ、これ、慶安5年(1652)の日付だなあ・・・
南部重直の灯籠より、1年遅い。
でも、5年にしか見えないんだよなあ・・・
干支もどう見ても慶安4年の「辛卯」には見えないし。

「大猷院殿」が徳川家光なのは、もういい加減覚えていただけましたわよね犬


んでは、向かって右の灯籠↓。


      上野・林光院4



 【奉献 石燈籠両基
  東叡山
  大猷院殿 尊前
  慶安四年辛卯十二月二十日
  従五位下大江朝臣毛利日向守就隆】


おっと、毛利!?
予想外の名前にびっくり・・・

ただ、毛利家が面白いのはやっぱり元就さんが生きてる頃で、
毛利家本体に限って言えば、私の興味は元就の代までに限られる。
いや、ホントはちょいとした個人的怨恨があるので(笑)、
厳島の合戦前までなんだけど。

だから、江戸期の沢山ある毛利の分家の詳細についてはほとんど知らない。
日向守なら本家じゃないことだけはわかるけど。

てな訳で、就隆(なりたか)さんについていつものウィキペディアで調べたところ、
毛利輝元の次男。
兄・秀就と祖父・隆元からそれぞれ一字ずつもらった名前だそうな。
現在の山口県、下松・徳山初代藩主。


ウィキペディアには

 【輝元の実子でかつ末子のために甘やかされて育ち、自由奔放で贅沢好きな
  人物であった。】  

とある。

ハハハ・・・
何となく、想像つく泣き笑い

そして、就隆のページの最後には

 【上野寛永寺には、毛利就隆が寄進した燈篭が現存している。】

とある。

これだよ~、これ!
一口に寛永寺っつっても、子院まで含めると現在でも広いので
これだけじゃわからないけど、林光院の門前にあるのがそうで~す!!


で、灯籠の日付ですが、毛利就隆のは南部重直のと同じ日付。
こーゆー灯籠って、みんな日付を同じくして
奉納されてるんじゃないかと思うんだけどね。

だから、就隆の方はいいんだけど、わからないのは中川久盛の方。
なんで1年出遅れてるんだ?

ただ、ウィキペディアによると中川久盛は慶安4年に家督を譲ったとある。
通常、こういうものは当主の名前で出すものだと思うんだよね。
新当主・久清は30過ぎの立派なオッサンなんだし。

だから、慶安5年の奉納なら久盛じゃなく、
その子・久清の名で出すべきじゃないかと思うんだけど・・・
あるいは、久盛の在職中の慶安4年に発注したけど、
納期が遅れたとか?
アハハハ、んなことある訳ねえ泣き笑い

その辺の事情はわからないけど、発注した時点では
まだ久盛は家督を譲る気はなかったのかもしれないな。



ここまでの上野編で、「大猷院殿」に奉献された灯籠の日付は2種類。
どちらにも共通しているのは、20日という日付。
これね、家光の月命日(つきめいにち)なんだよね。
(家光の命日は4月20日)

慶安4年12月20日に奉納された灯籠があるってことは、
おそらく家光の上野霊廟はその頃にはあらかた完成していたと見ていいと思う。

それで、1年遅れの慶安5年12月20日にも灯籠が奉納されてるなら、
この日に大きな法要でもあってそれにあわせてのご進物だったのかな、とも思った。
ただ、大きな法要なら祥月命日にやるんじゃないかとも思うんだけど。
それとも、霊廟完成1周年を祝って法要でも行われたかな?

にしても、中川久盛は慶安4年の(推定)霊廟完成時には
灯籠を贈らなかったのだろうか?
ちょっとそれも考えにくいんだけど・・・

まさかと思うけど、諸大名は慶安4年の(推定)完成時と
1年後の法要などのイベントに、それぞれ灯籠を奉納してるってことはないよな。

みんなが「両基」を2回も同じ場所に奉納したら大変な数になるし、
そんなに置き場ないだろ~・・・
それに、日光の大猷院にはまず全員が灯籠を寄進してるだろうから、
「両基」を3回も奉納したら、大名のお財布たいへ~ん雫

仏事の出費続きで、大名にしたらいい迷惑だよな泣き笑い




さて、こちらの林光院ですが、「天台宗東京教区」の公式サイトを読むと、
ちょっとびっくりな寺の名前が出てきた。

 【開基の宣雄大僧都は備前の国、岡山の人で光珍寺の澄宣大和尚の下で修行に
  励んでいましたが、当時、江戸で評判の高い寛永寺を開かれた天海僧正の高徳を
  慕って江戸へ出て僧正のもとで修行する事が許されました。】
  (「天台宗東京教区」ホームページより)


お・お・おきゃやまの光珍寺って、あの光珍寺だよな!!

え~、光珍寺は、昔なつかしの「吉備路編(8)」をご覧ください。
そんなにごろごろしてる寺名だとも思えないし、備前限定だから、
ここでいう光珍寺は宇喜多家の菩提寺の光珍寺だろうと思います。
もうひとつの寺名・岡山寺の名前を出されたら
ちょっと思い出さなかったかもしれないな。

宇喜多のなおくん(直家)のお位牌を拝んでたかもしれない人が
江戸でお寺を開いたなんて、なんかオドロキ~。
・・・て、解説の最初からヘンなとこに食いつくワタシ(笑)。

え~と、それで寛永の初期に鶯谷駅の上に林広院という草庵を開いたとあるから、
私が鶯谷から坂を上がってきた辺りになるのかな。


寛永寺の諸堂や子院を諸大名が寄進したことは「上野第一編」で
書きましたが、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると、
新規に子院を建立したほか、既存の子院の外護者になった大名もいるらしい。

子院の外護者は「宿坊檀家」(しゅくぼうだんか)、略して「宿檀」と呼ばれ、
将軍の上野参詣の際に警護を命じられた大名家が
自分の宿坊を警護時の山内の拠点として使用した記録もあり、
おそらく多くの大名が寛永寺に宿坊を持っていたのだろう。

増上寺の詳しいことはまだ勉強してないけど、
こちらも将軍の霊廟参拝があったはずで、条件は寛永寺と同じだから、
増上寺にも各大名は宿坊を持っていたのかもしれない。


それで、当初の林広院の場所に家光の上野霊廟が建てられることになったので、
林広院は立ちのくハメになったが、次に移転したのが西北だとあるので、
現在の寛永寺霊園の一角あたりになるんだろうか。

当時の林広院の宿檀が、忍(おし)藩主・松平忠弘。
忍で松平ならきっとアレだよな・・・
と思って検索したら、やっぱり奥平松平氏だった。
奥平信昌様のお孫さんです。

松平忠弘さんは林広院の保護に尽くしたそうで、
徳川家の外戚にあたる奥平松平氏の縁もあったのか、
宝永2年(1705)輪王寺宮の推薦を受けて6代・家宣の生母の霊廟の
別当寺となり、寺領450石を賜り、寺名を「林広院」から「林光院」へ改めた。

つまりは「お腹様別当」だった訳だけど、
家宣って増上寺に葬られてるんだけど雫
なんで母は寛永寺?

で、家宣生母の長昌院について検索してみたところ、
長昌院・・・生前の名は「保良」さんは家康の孫・千姫の女中の
そのまた女中であったという。
ちょっと身分の低い人だったんだね。

それが甲府藩主・徳川綱重(家光の3男)に目を付けられ子を生んだが、
綱重の縁談などもあり、2人の男子はそれぞれ家臣に育てられ、
保良もまた次男とともに家臣の元に身を寄せた。
そして、寛文4年(1664)27歳の若さで亡くなり、日暮里の善性寺へ葬られた。
子は根津(上野のすぐ西)の藩邸で生まれたらしいから、
近くの日暮里に埋葬されたのかな?

綱重にはその後男子が生まれず、家老に育てられていた長男が
後継ぎとして実家に呼び戻され、元服して綱豊と名乗った。
延宝6年(1678)綱重が死去し、綱豊が16歳で家督を継ぐ。


4代将軍・家綱には男子がおらず、後継者をめぐって色々議論になり
綱豊も将軍候補にノミネートされたが敗れ、館林藩主・綱吉が5代将軍となる。

綱吉にもまた世嗣がいなかったため、再び後継者問題が持ち上がる。
ここでも綱豊がノミネートされるが、今度も紀州藩主・徳川綱教(吉宗の兄)という
ライバルが登場し、すぐには後継ぎが決まらず、宝永元年(1704)
綱豊が42歳の時にようやく次期将軍に決定し、家宣と改名した・・・

て事で、保良さんが亡くなった時は、自分の子は
将軍はおろか甲府の家でさえ継げない可能性が高かった時期なようです。

それが、思いもかけず将軍世嗣にまでなったものだから、
宝永2年(1705)に保良も故人でありながらにわかに光が当てられ、
次期将軍生母にふさわしい祀り方をしようってことで
寛永寺に改葬されたってことなのかな。

まだこの時、家宣はピンピンしてるし将軍にもなってないから、
寛永寺と増上寺のどちらに家宣を葬るかは決まってなかったのかもしれない。

ただ、ウィキペディアによると保良の墓碑は谷中の徳川家墓地にあるそうで、
寛永寺へは改葬されず霊廟だけ建てられたのか、
あるいは徳川幕府崩壊&寛永寺ほぼ廃絶という状況を迎え、
寛永寺から谷中へ移されたのか、そこまではちょっとわかりませなんだ。


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最終更新日  2014年08月02日 22時59分04秒
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