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戦国ジジイ・りりのブログ

2013年12月01日
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カテゴリ:上野と寛永寺
いやあ、場所柄当然の流れとはいえ、
今回やけに霊廟に食いつくな~と思っていたら、
そういえば私の肩書、「墓マイラー」だったわ(肩書か?)くま

最近、あんまり墓へ行ってないから忘れてたわ~。
アハハハ・・・・・


っと、それで前回の林光院の歴史の続きです。

良い檀那を得て「お腹様別当」にも昇格し、
宝永6年(1709)には輪王寺宮のお口添えもあって、
6年ぶりの大改修が行われる。
これも、別当になったからこそじゃないかと思うけどね。

正徳2年(1712)には幕府から100石が加増され、
収入は550石にまでアップした。

江戸期にはこうして順調に栄えていった林光院だったが、
慶応4年(1868)の上野戦争で寛永寺の堂宇の多くが焼失、
さらに上野から追い出されて子院を含む寛永寺は困難の時代を迎える。

本体は比較的早い時期に上野の山に復活を遂げたけど、
「天台宗東京教区」様のサイトの説明で次に林光院が顔を出すのが
明治35年(1902)。
それまで、どこでどうしてたんだろう・・・

桜木町48番地から大正4年(1915)には町内の9番地へ移転。
東京大空襲(昭和20年)で建物が焼失した後は一時凌雲院へ身を寄せていたが、
昭和25年に現在地へ木造の院宇を再建。
平成元年、木造から現在のRC構造の近代的な建物へ生まれ変わった、とな。

大変だなあ~。
明治後の林光院の住職さんは、のちに日光輪王寺の門跡になられた方だそうですよ。



さて、それでは境内へと入りましょう。
まずは門から↓。


      上野・林光院14



      上野・林光院15



      上野・林光院16



こちら、徳島藩蜂須賀家(25万7千石)の江戸藩邸の中屋敷御庭仕切門で
昭和30年に移築されたものだそうな。

蜂須賀家の中屋敷は三田(港区)にあったらしいんだけど、
慶応のそばだっていうから、つまりは増上寺からも近いじゃん・・・
増上寺は東京大空襲でも被害を受けてるのに、
よくこの門が残ったよな~。

それとも、昭和20年の時にはすでにどこぞに転売されて、
幸いにも東京大空襲を逃れたかな?

巣鴨だって空襲を受けてるのに、藤堂家の門といわれるものが残ってるし、
江戸の大名屋敷の建築物って実際のところ、どれくらい残ってるんだろう?
そういえば、池袋の方にも何かあるって聞いたことがあったような・・・


門の中の意匠はなかなかダイナミック・・・
阿波だから、泡立つ鳴門でも表現してるのかと思ったけど、
なんかそれじゃ阿波って鳴門と阿波踊りしかないみたいで
阿波人に悪いかな・・・とちょっと反省した(笑)。



      上野・林光院26


正面から見てるとちょっとわかりにくいけど、
平入りの唐門。
兎毛通(うのけどおし)は牡丹。
飾り金具は、銅製かな?
金具の真ん中には「卍」・・・こちらは蜂須賀家の御紋↓。


      上野・林光院27


      上野・林光院28


      上野・林光院29



      上野・林光院30


それほどどっしりした重厚感はないけど、
なかなか華やかで格のある造りになっている。


門をくぐった近くには、こんなものがさりげなく置かれていた↓。


      上野・林光院17



ふむ・・・
これが蜂須賀家の門に付いてたハズもなし、
かつての林光院の建物に載っていた瓦なのかな。
ただ、そんなに古そうにも見えないし、上野を追い出された時に
こんな重いものかかえて退去するとも考えにくいし泣き笑い
明治の再興以後の建物の瓦なのかもしれないな。


えっとそれで、門を入るとすぐ建物↓。


     上野・林光院18


地図を見ると、お隣の寒松院と敷地の広さは同じくらいかもしれない。
でもちょっと広めの住宅地といったスペースにお堂を建てるとなると、
もうそれだけでパツパツ雫 

けど、この近代的な建物は檀信徒の尊い浄財が支えになったっていうんだからなあ・・・

ところで、昔は寛永寺本体も栄えてたからいいけど、
今みたいな環境の中では子院の収入源てなんだろ・・・
本体は霊園経営もしてるけど、子院の収入は・・・?
アラ、わたくしったらつい俗っぽい想像をうっしっし 
      

門の正面はご覧の通りパッツンパッツンだけど、
左手には少し空きスペースがあって古そうな灯籠もある↓。


      上野・林光院19


これが、木はあるし玉石が敷かれていてぐるりと回り込めなかったんだけど、
「台徳院殿 尊前」は読める・・・

はああ!?
台徳院!!??
びっくり


「台徳院殿」は、2代将軍・秀忠のことですよ・・・

ちょっと年号は磨耗してて、よく読めない。
名前の部分は木に隠れちゃってて、一部しか読めない。

その名前は、「源朝臣通●」なんだけどね、「通春」のようにも読めるんだよな~。
まさか、吉宗のライバル・尾張通春(のち宗春と改名)ってことないよな。
あ~、年が読めないのが痛い・・・

しかし、とりあえず秀忠に奉納された灯籠ってことは間違いないぞ。
秀忠が芝の増上寺へ葬られたことは、「上野第一編(4)」で書きましたね。


先の大戦で増上寺も寛永寺も被害を受けて、
場合によっては戦後の混乱の中でどこぞへ持ち去られたものなんかも
あるかもしれないけど、さすがに増上寺のものが寛永寺に運ばれたとは考えにくい・・・

てか、現代では寛永寺と増上寺の関係ってどうなんだろ?
もう昔の因縁には縛られてないのかな?
ああ、またまた俗っぽい想像が・・・(笑)。


ひとつ思い出したのが、紅葉山(江戸城西の丸東北)の霊廟のこと。
紅葉山には、歴代将軍の霊廟があったらしいんだよね。
それを家光が城内に移した後に、また紅葉山に戻したって話があるんだけど、
おそらく規模は本廟ほどではないにしても、
紅葉山霊廟にもいくつかの灯籠が置かれてた可能性はある。

明治期だか昭和だかの戦後のどさくさに紛れて元の場所から移動されたか、
あるいは明治維新で江戸城の主が変わった際に
お下げ渡しになったとか?


まあ、その経緯は林光院様に聞かないとわかりませぬが、
秀忠への灯籠が寛永寺にあるということが、
かなり相当非常にびっくりです。

都内の徳川家ゆかりの寺社などでは、
灯籠はものすごく面白いアイテムかもしれませんね。
現代では。



で、この灯籠の上の部分、ここもまた変わっている↓。


      上野・林光院20



笠の上に3段の「だるま落とし」が積まれたような格好になってますが、
一番下の部分、これ十字だよな~。
なんなんだ、これ・・・

奉納した大名の家紋かとも思ったけど、
クルスのように十字になってる紋を使うのは、島津しか私は知らない。
だいたい、島津なら外側にマルが付くし。

ただ、将軍霊廟への奉献の灯籠の上部に
自分とこの家紋なんか付けるハズないよな~とも思う。


・・・灯籠観察が楽しいといっても、結局ほとんどの疑問を解消できないので、
これは「想像すること自体が楽しい」と割り切るしかありませんね。
でなければ、疑問が溜まる一方で1人もんもんとストレスを抱えるか、
現地でよ~く現物を観察して、いさぎよくピンポンして直接関係者様に
突撃インタビューするよりほかないでしょう。




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最終更新日  2014年08月02日 22時58分46秒
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