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戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年06月20日
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カテゴリ:上野と寛永寺
清水観音堂にあるおみくじはこれだった↓。


      上野3・清水観音堂17



おお、こんなとこにこのタイプがあったのか~。
やってみたいのはヤマヤマだけど、小雨が降ってるし、
獅子がくわえて「ぺっ!」て吐き出してくれるまで結構時間かかるんだよね~。
それに、200えん・・・
とりあえず、この時は指をくわえて見てるだけで終わりました。

「春の寛永寺」でここに寄った時はお堂の中に
木の棒をひくタイプの100円のおみくじがあるのを見つけて
もちろんひきました。
その結果は「春の寛永寺(1)」の通り・・・

良源さんのシビアなアドバイスはかなりこたえましたが、
その頃の私ってば精神的に相当すさんでたので、
あのまま過ごしてたら本当にヤバイことになっていたかもしれません。

たまたまその少し前から般若心経の暗唱にチャレンジしてたので、
ヒマさえあれば般若心経を唱え返して暗記に努め、
今では意識がフェードアウトしてもお経は最後まで唱えられるようになりました。

途中までは覚えるのも大変だったけど、完全にモノにしてしまうと
般若心経だけじゃ物足りない・・・
そこで、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」という少し長いお経の暗唱に
挑み始めました。

そちらの方も、毎日少しずつ覚えた甲斐あって
これを書いてる数日前にひとまず仕上がったところですが、
意識が飛んでもお経が続けられるぐらいモノにできたら、
また次のお経の暗記を始めるんじゃないかと思います。

般若心経を覚えようと思ったのは特に意図があった訳じゃないですが、
良源さんのアドバイスのおかげで少し生活態度を改める気になったので、
お経は大変役に立ちました。
内容がどうのって言うより、ぶつぶつ唱えてることで
余計な感情がわいてくるスキがあまりなかったんだよね。

で、大殺界も残り1ヵ月を切ったところで松葉杖生活の始まり・・・
日本人なもので因果応報的に「精進が足りなかったからケガしたか」と
考えることもできますが、実際の松葉杖生活というのは実に不便なことが多く、
いつも以上に自分のことだけで手いっぱいな状態なので、
これまた余計なことを考える余裕もなく、大殺界も残り半月を切りました。

一時的にはヤバい心持ちの時もありましたが、
ここまで生きて過ごせたのはひとえに慈恵大師・良源さんのおかげだと
思っております。

あちこちで買い集めた良源さんグッズのうち2人の良源さんは職場に置いてあるし、
良源さんのお札も机の中に入ってます。

良源さんのことをまともに知ったのは両大師の記事を書いた時ですが、
わずか半年ほどの間に良源らぶ度は急上昇しました。
それは同時に、良源さんが現代でもなお特殊な信仰を集めている理由が
感覚的にわかった期間でもありました。

だから、大殺界が明けて7月に入ったらすぐに
清水観音堂にお礼参りに行こうと思ってたんだけどな。

本来であれば、良源さんを祀る両大師にお礼参りするのがスジかもしれませんが、
おみくじをひいたのは観音堂だし、良源さんは観音様の化身とも言われているので
ここは観音堂へ行くのが正しいかな、と思ってます。

ただし、ギプスが外れて自分の足である程度歩けるようになるまで、
お礼参りはお預けですが涙ぽろり




本堂の向かって左側には、渡り廊下でつながれた建物がある↓。
あちらに書院があったのかもな。


      上野3・清水観音堂15



同じ場所から下を見ると、ここにも古そうな灯篭がある↓。


      上野3・清水観音堂14



こちら側からは銘は見えない。
脇にある階段の方からは見えるかもしれないので、
今度行ったら忘れずにチェックしてきます。


さて、今度は「春の寛永寺」で補足に撮った写真から。
こちらが舞台の反対側、本堂の東面↓。


      春の寛永寺・清水観音堂



前を歩くおじさんの向かう先が、渡り廊下をくぐっていく道。
再訪の時はこちら側から進んでみました。
そしたら、渡り廊下の手前にも古い灯篭があった↓。


      春の寛永寺・清水観音堂2



笠や火袋には葵の紋が↓。


      春の寛永寺・清水観音堂3



おっと、これも霊廟への奉納品かな。 

 【奉献 石燈籠両基
  東叡山 
  浚明院殿 尊前
  天明六年丙午九月八日
  松平恒吉源真周】


「松平恒吉」で検索してもわずかな記事しかヒットしないんだけど、
甲府徳川綱重の二男・松平清武を祖とする越智松平家の方じゃないかと思われます。
一番最後の文字がイマイチはっきりしないけど、
もしかしたら「真周」じゃないかもしれない。

甲府綱重の子・綱豊は家宣と改名して6代将軍になったので、
6代家宣の弟の家系ってことになるのかな。

林光院の記事で家宣の出生から将軍になるまでの経緯を簡単に書きましたが、
ウィキペディアによると、綱重の母が綱重を身ごもった時、
製造主の家光が厄年だったため、家光は姉の千姫を綱重の養母としたんだそうな。

なるへそ~、だから成長した綱重が養母の女中のそのまた女中・保良に
手を付けたって流れになるのかもな。

綱重は正室を京の公家から迎えた。
正室は後水尾天皇の甥の娘にあたる方らしいが、
その方から綱重の跡を継ぐ男子は生まれなかった。

一方、保良が生んだ2人の男子はそれぞれ家臣に預けられた。
家宣は新見正信に、清武は保良とともに越智清重に。

清武は越智家の家督を継いだが、兄が6代将軍となったのち、
44歳の時に館林藩主として大名となり、あわせて松平姓を許された。
ゆえに「越智松平」なんだそうな。

林光院の記事を書いた時は保良と綱重・家宣親子の事しか調べなかった。
が、あらためて清武のページを見てみると、
家宣の子で7代将軍となった家継が幼くして危篤に陥ると、
家宣正室・天英院ははじめ清武を8代将軍として推したという。

が、清武が越智の家督を継いで大名となったのが44歳と遅かったこと、
次期将軍レースにノミネートされた時はすでに53歳であったこと、
さらに清武自身にその気がなかったことなどもあり、
天英院は紀州藩主・吉宗をバックアップすることにしたとある。

へ~、じゃあ、もしかしたら灯篭奉納者の恒吉さんも
あるいは将軍になっていたかもしれないのか・・・と思ったら、
清武の嫡男は早世したため、尾張家の系統の松平氏から養子を迎えて
その子が越智松平を継いだらしい。

さらにその越智松平の2代目も子がなかったためよそから養子を迎えており、
恒吉さんは清武の血をひいている訳ではないみたい。

その上、ウィキペディアの越智松平の系図を見ると、
恒吉さんは越智松平当主ではないようなんだな・・・
なんでその恒吉さんが家治の霊廟へ灯篭を寄進したのかはナゾですが、
あるいはその当時は当主代行のような立場ででもあったのかもしれないな。

これまで見てきた灯篭は、徳川一門でも外様でも必ずと言っていいほど
官位とかも併記されていたのに、そういうのが一切ないもんね。
ちょっとレアなケースと言えるんじゃないかな。


それから、灯篭の日付ね。
前々回の島津忠持奉納の灯篭と同じ日付になっている。

前々回の記事では、なんでこんな中途半端な日付なんだろうと思ったけど、
どうも9月8日というのは「発喪」・・・
つまり、公式な死亡発表の日らしい。

浦井正明氏は、後代の将軍は原則的に実際の死亡日からほぼ1ヶ月後に
死亡が発表されているとしておられる。

前々回の記事の中では綱吉への奉納の灯篭の日付、1月10日は命日じゃん!
と書きましたが、これもどうやら「発喪」の日付らしく、
浦井氏はその1ヶ月前の12月10日が本当の命日だろうと推測しておられる。

家治(浚明院)の場合はウィキペディアに死亡日8月25日とあるので、
灯篭の日付の9月8日との関連がわからなかった。
サイドの略歴の欄しか見てなかったからそういう事になったんだけど、
本文の方にははっきり「8月25日に死亡」とした上で

 【高貴な人の死は1ヶ月ほど秘されるのが通例(発葬されたのは9月8日・
  新暦9月29日)だが、その間に反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。
  また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が
  危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。】

とあるものの、8月25日から9月8日の間は明らかに1ヶ月ないという
矛盾には触れていない。

なんかもう、何が正しいのかわからなくなりそうだけど、
ともかく天明6年9月8日が家治の発喪の日であるなら、
綱吉あたりの代からは公式発表の死亡日を灯篭の日付とする
ルールが出来上がっていった可能性がある、とは言えるだろう。


ところで、家治の命日などで検索をしているうち、偶然、
御殿場にある「遊季庭 かわ嶋」様のホームページに行きあたった。

「かわ嶋」さんは約3,000坪という広大な庭園をお持ちのお蕎麦やさん
らしいんだけど、庭園には50基もの石燈籠があるらしい。そして、

 【その中でも上野寛永寺より最後に放出された寛永寺灯籠が2基ございます。】

というオドロキの文章がある。

寛永寺から、最後に放出!?
一体いつの話かはわからないけど、つまりはドナドナか・・・

音符かわ~いそう~な灯篭~
売られてゆ~く~よ~
かな~しそうなひ~と~み~で見~てい~る~よ~音符音符


ドナドナド~ナ~、どおなあ~~~・・・

そうか、売られたのか・・・
確かに、寺域が大幅に縮小された寛永寺では置き場にも困るぐらいの数の
灯篭があったでしょうけどね。

一体どれくらいが放出されて、各地に分散してしまったんだろうか。
織部さんちの近くにあるという常憲院(綱吉)の灯篭も、
その一環で日立へ運ばれていったのかもしれないな。

寛永寺では、散逸状況を把握しているんだろうか。
してないだろうな、きっと・・・
売られていった子牛は、肉の塊となって食べられてしまうのだ。
放出された後で転売されたり譲渡されたケースもあるかもしれない。
そのうちのいくつかは、あるいはすでに現存してないかもしれないよな。

思いがけず知った灯篭哀話に、かなりテンション下がりました。


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最終更新日  2014年06月20日 23時30分17秒


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