三角山城(2)
最初に迎えてくれたおじさんは、遠方からの来訪者が嬉しかったらしく、「どうぞ参拝してって下さい」と勧めてくれた。どこまでも善良そうなおじさんが案内してくれた、拝殿らしき建物の中には、イベント後の打ち上げで酒盛りしてハイになってる数人のおじさん達がいた。 うう、これじゃ酔っ払いに参拝することになってしまふ・・・と、さりげなくスルーして裏手の本殿へ回ってみる。 申し訳ないけど、ここから参拝させてもらおうかな~と思ってたら、本殿の脇の妙な物体に目が行った。 たしか、日露戦争の後に持って帰ってきたものだと説明してくれたような・・・詳しいことは氏子さん達も知らないらしく、この砲弾の台座の石には由来のようなものが刻まれてたので、後でじっくり読もうと思って写真だけ撮っておいた。けど、 【明治廿七八年戦役ニ於テ ○軍ノ為ニ破壊】この後は所々文字が磨耗して、もう読めない。ところが、これを全文読み下してる方がいるのを見つけた(笑)。マニア・・・いえ、ファンの方ってすごいわ。それによると、 【明治廿七八年戦役ニ於テ 我軍ノ為ニ破壊サレタル 威海衛砲塁団ニ設ケアリシ 廿四珊●米突海岸砲ニ使用セル砲弾ニシテ 紀念ノ為メ当地取寄セタルモノ也 門司町 清瀧中】って刻んであるらしい。で、砲弾に気を取られてる間に、拝殿からの参拝をまた勧められてしまった。あんなとこで参拝したくないんだけど、困ったな・・・しかし拝殿の戸をあけて、最初のおじさんが私を紹介してくれると、「おお、どーぞどーぞ!!」と言って酔っ払い・・・もとい、氏子さん達が心持ち場所を空けてくれたので、そこで参拝。境内の左側には、上に続く道があったのでのぞいてみたけど、最初のおじさんいわく、行き止まりとのこと。境内の手前の方には、礎石らしきものがあった。 なんでも昭和30何年だかに大雨による山崩れ(か、地滑り)があって、社殿も全部押し流されたとかって話で・・・アレ?確か30年代頃って言った気がするけど、もしかしたら知盛さんが筆立山を降りるきっかけになったのと同じ災害かな?なんてちょっと思った。だけど、大手と目される地形が残ってるって書いてあったけど、山崩れの後でも原型は留めてるのかな?私は気になったことは自分で試したりしないと気が済まないタチなので、境内付近の地形とかゆっくり見て回りたかった。けど、この日は色々見るにはちとタイミングが悪かった。たぶん、普段は誰もいない静かな神社なんでしょうけど・・・最初のおじさんは(あくまで善意から)私のことを放っておけないらしく、これ以上はもう見てられないな・・・と思ったので、そこで失礼させて頂くことにした。教えてもらった通り、清滝公園(場所はこちら)を目指す。疲れた体に急な登り道・・・きついけど、とにかく着ければ文句はない。清滝公園の先にある白龍大明神様にも、無事辿り着けますよーにと手をあわせて。 途中まで来て、どうも道に不安を覚えた。登山口には案内板はないらしいんだけど、そこの写真は持ってた。でも、歩けど歩けどその場所は出てこない。すでに16:30近いし、滅茶苦茶疲れたし、よくわかってないまま山道へ突入するのは危険だと判断し、三角山城も断念。まさか、2つ続けて失敗するなんて~!!帰る途中に撮った三角山はこんな↓。 眼の前に山があるのに登れないってのも、ツラいもんだ。宿に帰ってから、持ってくのを忘れた資料を確認したら、清滝公園よりさらに上にある「上清滝公園」から入るってちゃんと書いてあった!!資料さえちゃんと持ってっていたら、三角山城は行けたのだ・・・みなさん、お出かけの際は、くれぐれも忘れ物には注意しましょうね※「赤間ヶ関編(38)」の途中へと続きます。にほんブログ村