八坂大神4(柏市酒井根)
あわしまさんの隣がこちら↓。 側面の銘は【明和四丁亥十月吉日】(1767年)。正面の真ん中には字のようなものがあるけど、最後の「神」しか読めない。肝心の正面はご覧の通りぽっかりと空いてるんだけど、下には 「ほぞ」を受ける「ほぞ穴」のようなものがある。ああ、たぶんここには石像が収まってたんだな。このほぞ穴に差し込んで像を立ててたんだろう。 なぜこんなことになってるのかは現地では考えもしなかったけど、あわしまさんのことを考えればここにもおそらく仏教系の神の像があって、それで撤去されたと考える方が自然な気がする。 屋根は結構しっかり造られている。大棟も付いてるし、破風の部分は模様のような感じに彫られてるぞ。小さいとはいえなかなか立派なもんだから、往時は村人の信仰を集めただろうに・・・いや、外枠が比較的綺麗に残ってるだけまだいいか。 その隣↓。 ここも床部分にほぞ穴のようなものがあり、ぽっかり空いた壁面には【神明宮】と薄く刻まれている。側面の銘は上の摂社と同じ【明和四丁亥十月吉日】で、こちらも明治維新をくぐりぬけている。 神明神社って伊勢神宮関係なんだってね。よそ様のサイトを見ると神明宮の神紋は三つ巴らしいから矛盾はないんだけど、初めから神明宮だったのなら中にあった「何か」を外すこともなかろうに・・・こちらの屋根も立派↓。 その隣↓。 これはかなりひどい。ここまでの石祠は向かって右側面に日付が彫られてたんだけど、ご覧の通り右が大きく欠損しているので完全にアウトです。左側面にはかろうじて【二捨】【世話人】【四郎】の文字が読めるぐらい。懸魚までちゃんと造られているのに↓、傷ましいことです。 その隣↓。 人形(ひとがた)のような跡が残っている・・・上部にはかすかに「菅」の字が見える。側面には【明治四十一年七月廿日】とあり、『柏市史』にはあわしまさんを合祀したのと同じ明治41年7月に菅原神社を合祀したとあるので、菅原道真公を祀る菅原神社だと思われる。でもこれね、たかだか100年ぐらいで自然に剥落するハズもなく、よしんば自然な劣化だったとしてもこんな風に人形の跡は残らないだろうと思うんだよね。これは無理な力が加わったからこういう風になってるんじゃないかって気がするよな。あわしまさんと違って、この祠の日付は『柏市史』の記述と一致してる。が、あわしまさんと同時に合祀したという点が気になる。明治以前に八坂神社内に菅原神社があったのなら、これは排斥の対象になってもおかしくない。石祠の日付は後付けのもので、あわしまさんと同じ運命をたどって明治41年に再び祀り直されたんじゃないかと個人的には思いますね。次がこれ↓。 向かって右の小さな碑は文字がほとんど読めず、最後に「神」とあるのだけ読める。文字が削られたのかまではわかりませんが、しっかり刻まれた文字がこんな風に摩耗するまでにはかなりの時間がかかるはず。大きな方の石祠には、【稲荷大明神】とある。これには壁面を削って新たに刻み直したなどの不自然な点は見受けられない。ただ、文字の彫りが浅いのがちょっと気になるけど。 お隣さんがもたれているので、向かって右側面の文字は読めない。が、この角度から見ると屋根と下の部分で色が違ってるな。状態も屋根と下とではだいぶ違うので、後から下を補ったのかもしれない。であれば、元からお稲荷様だったのかもアヤシイ。というのも、このお隣には お稲荷様があるんです。こちらが元々八坂神社にあったお稲荷様じゃないのかな。この大きく破損した稲荷碑の側面には【酒井根村 願主清左エ門】と奉納した村人の名が刻まれている。さらに奥↓。 【大杉大明神】とある。実際には「杉」の字は木へんに「久」の字だけど、楽天ブログでは使えず。「あんば様」か。向かって右側面の日付は【文化四年二月吉日】。1807年の建立にしては破損が著しい。江戸ではこの前年の享和3年(1803)に麻疹が流行ったらしい。それとの関連かはわからないけど、あんば様をわざわざお招きするだけの理由があったのだろう。ちなみにあんば様ってどんな神様?と大杉神社のホームページを見たところ、ぬわんと勝道さんが大和から日光へ向かう途中に江戸崎の地に寄って、疫病に悩まされていた民衆のためにデカい杉に祈ったところ、三輪の神様がやってきて病魔を追い払ったというじゃあ~りませんか~!江戸崎といえば~、蘆名義広とともに常陸に流れてきた天海が一時住んだというところ。その関係で、江戸期の大杉神社は輪王寺宮が兼帯していたという・・・ヨシ、今度ここ行こう そのお隣↓。 【山神宮】とある。「山神宮」で検索すると、Weblio辞書で「さんじんぐう」(山梨県)と「やまじんぐう」(島根県)がヒットした。距離から考えて、山梨の方だろうな。こちらの日付はあんば様と同じ【文化四年二月吉日】。正面から見ると状態はいいようだけど、側面から見ると 結構おいたわしいここも屋根と下で色が違うな。山神宮は修験とも関係がありそうだから、これは摂社じゃなかったかもしれない。講で建てた碑に壊された石祠の屋根をぽこんと載せただけのような気もする・・・というのもこのお隣は 台座に「講中」とあるから、講によって建てられた雷電神社の石祠のようです。雷電神社の総本宮は栃木らしいけど、わざわざ【雷電大神】の隣に【金村之冩】とあるから、ここのは栃木じゃなく茨城県つくば市の雷電神社の講だとわかる。雷電神社って知らなかったけど、ウィキペディアによると【「雷」の付く神社の鎮座地は、いずれも落雷多発地域】だそうで、栃木は山が多いから総本宮が栃木にあるのはしごく納得がいく。けど、柏はだだっ広い関東平野のど真ん中で、フツーに雷もあるけど特に多いというほどではない(と思う)。たまたま雷で付近に大きく罹災した場所でもあったかな、とも思ったけど、ウィキの金村別雷神社のページには 【荒魂としては、雷の威力によって降水をもたらすと同時に病害虫を駆除する農業神として 崇められた。和魂としては恵みの雨をもたらし、万物に生気を与える神である。 特に関東では雨乞いの神として崇敬者を集め、家内安全・無病息災が祈願された。 雷除けや疱瘡(ほうそう、天然痘のこと)治癒の神としても信仰されている。】という様々な霊験をお持ちの神様のようです。こちらの日付は【明治廿七甲午年七月四日】とある。 石祠は以上。今回参考にした『柏市史』は近代以降の分は借りてこなかったので柏でどういう廃仏毀釈の動きがあったのかはわかりませんが、千葉県全体ではそうひどい運動はなかったともいう。ネットで検索したところ、芝浦工大柏高校の先生が「首なし地蔵」についての考察をしておられる論文を見つけた。内容は首のない、あるいは首を修復された五百羅漢についての考察が多く、歴史ファンのブログなどでは首に損傷のある羅漢像は廃仏毀釈の影響としているものが多いらしく、本当にそうなのかという考察をしておられる。で、廃仏毀釈よりは関東大震災で倒れて首がもげたのもあるだろうということだった。なるほど、地震の影響ね。関東大震災だけじゃなく、東日本大震災もあったしな。先の震災では公式発表による柏の震度は5弱。5弱でも、先の震災では近所でブロック塀が崩れた家なんかもあった。関東大震災でも恐らく同じくらいの揺れがあったものと思われる。・・・中には地震で倒れて運悪く破損した石祠もあったかもしれないけどね。でも土の上に倒れたぐらいでそうそう割れるもんでもないと思うんだよね。それよりは、八坂神社にある石祠の多くは人為的なもののような気がした。そうでなければいいと願いながらも、疑いは残る。まあ、何であれこんな身近に江戸期の遺物があるのを知ったのは収穫でした。<撮影日:2013年11月3日>にほんブログ村