けぬのお大師ハシゴ編(13) 寺岡山元三大師4/本堂裏手エリア
ウシの危険地帯を過ぎるとそこは小高い場所で、たぶんここは例幣使街道から見ていた古墳の上にあたるんじゃないかと思う。 ここはかなり広いんだけど、案内に従って道を進んでいく といくつかのお堂がある場所に出る。まずはこちらが「いじめ除観音」↓。 こちらでは祈願も受け付けているそうで、千円の祈願料を納めると毎月3日に本堂で祈願してくださると書いてある。3日なら良源さんの命日で縁日にあたるから、ピンポイントで良源さんの御加護を祈願するってことだな。「時代は変わったもんじゃ」と良源さんは嘆くかもしれないけど、本人にとっては切実な問題だからね。解説板によると、関東で初めてのいじめ専門の観音様だそうな。このお堂は今は本堂の裏手にひっそりと建っているけど、薬師寺では立派な八角堂にリニューアルオープンさせようと目下鋭意募金中でございます。 いちまんえんからじゃちょっと高いな・・・もう少しハードルを下げてもらえると募金もしやすいのにと個人的には思っちゃうんだけど。それは別に薬師寺に限った話じゃありませんが。その隣がこちら↓。 【三面出世大黒天由来 當山御安置の三面大黒天は比叡山より請来したものである。 大黒・毘沙門・辯財の三大合形なる霊像にて帰依する時は、轉禍為福(てんかいふく)・ 商売繁盛に霊験あらたかであり、亦た、秀吉公も三面大黒さまに誓って出世の人と 為られたり。】 (現地解説板より)中を覗いた気はするんだけど、大黒様がおわしたかは記憶にないなあ・・・ただ、本堂にも厨子入りの三面大黒天の像があったけど、やっぱり叡山からの勧請なんだな。ちと余談ですが、わたくしの金光明最勝王経の暗記は残り17ページを数えるところまで来てあとひとふんばり寒くなってくるとわたくしの活動シーズンなので、色々予定を考えているのですが、弁才天女が身近になったので天女を祀るとある神社へ行ってみようかと考えて調べているうち、ふと表記が気になりました。そこでは「弁財天」としていて、薬師寺の解説にも「辯財」とある。でも、本来的には「弁才天」が正しいと思うんだよね。手持ちの金光明最勝王経の経本でも「弁才天」になってるし。この経本はリバーシブルの両面使いで、金光明最勝王経の裏表紙は「仏説辨財天経」となってるので、お経の中でも「弁財」と「弁才」が混同して使われてるのかと思って本文を見てみると、別に「仏説辨財天経」というお経が載っている訳ではなく、弁才天女がらみの短いお経などがいくつも載っていて、本文ではどれも「弁才天」と表記されている。これには「弘法大師作」とある「祭文」も載っているんだけど、その中では空海たんも「大辨才天」としている。金光明最勝王経に書かれる天女の功徳は、智恵だとかの方面に関してが主で特に弁舌の才に関する箇所がいくつかある。弁舌の才だから「弁才」なんじゃないかと思うけど、ウィキペディアによると日本では神仏習合などもあって独自に進化したようで、のちに財宝神という性格も加えられたため「弁財天」と表記が変化したような解説になっている。まあね、財産への願望は時代を越えるものだから「弁財天」とした方が庶民ウケが良かったのかもしれないけど、もともとは「弁才天」だってことだけ紹介しておきます。あと、いじめ観音の反対側の隣には水子地蔵尊があったんだけど、水子関係のものは撮る気にはなれませんので写真はありません。ただ、付近にあった看板によるとここははやり岡崎山古墳で、水子地蔵尊はその第2号石室内に安置されていると書かれている。三面出世大黒天の先にはどなたかいらっしゃる↓。 装束からして、奈良の古い時代の方のようだな・・・一体どなたなのかと台座を見てみると、「聖徳太子尊像」とある。太子の隣には大きな石碑↓。 「寺岡山薬師寺元三大師」のタイトルで始まるこの碑は、薬師寺の由緒を語るもの。ま、多少読みにくい箇所もあるし内容としてはここまでに書いた歴史と同じなので碑文については割愛します。ただ、もとは聖徳太子の命によって創建されたとの寺伝なので、ここに聖徳太子の尊像を安置したってことだろうな。よし、これで境内一周したかな。ここは本堂などの裏手で少し小高くなっており、山門が見下ろせる↓。 そのままメインエリアへ戻って山門を出たあたりだったかな、一部古そうな灯篭があった↓。 色が違ってるから火袋より下は後補だろうと思うけど、いつの奉納だろうと銘を見てみると天保7年(1836)8月とあった。境内を出て、来た道を例幣使街道まで戻る。途中から見た岡崎山古墳↓。 10分ほど西に歩くと、両毛線の富田駅に出る。登山をやっていた頃からイナカの怖さ(電車やバスの本数が異様に少ない)は身にしみていたけど、ここはいちおう関東だからまあ1時間に2本ぐらいはあるだろうと電車の時間を調べもせずにのんびり富田駅までの道を歩いていった。しかし、駅に着いて時刻表を見ると、電車は出たばっかりで次の電車まで50分ぐらい待たねばならないことが判明した。ウゾ・・・・・・・・両毛線てもしかしたら乗ったことがなかったかもしれないけど、時間帯によっては1時間に2本というのもあるけど、休日の真っ昼間だと1時間に1本というチョ~不便な路線だった。うっそ~、疲れて寒いし、早く帰りたいのに~!!ここからタクシーで佐野駅まで戻ることも考えたけど、駅前にタクシーもいないので、呼んだところでどのくらい時間がかかるのかもわからない。イライラしながらもとりあえず待つことに決めて、駅からの風景なぞ撮ってみた。 これはどっち方面だったっけ・・・北西の方角かな?上の写真だとかすんで全然わかりませんが、正面あたりの山をズームしてみると なんだ、あれ?大文字焼きみたいなことするのかな?あと、ホームからはこんなのも見えた↓。 ずいぶんレトロな建物だな・・・後から調べると、駅付近には造り酒屋さんがあるらしく、その建物なのかもしれない。今から考えると、待つ間にちょいと駅付近でも見て回ればよかったけど、この時はそんな気力も体力もなく・・・これも酒屋さんの建物なのかな↓。 立派な煙突が2本立ってますが、それよりもわたくしの眼は屋根に注がれる。あれも錣葺きみたいだよな・・・薬師寺へ入る手前にもあんな屋根の建物があったし、錣葺きといえば西国!みたいなイメージがあったけど、この辺てあのテの屋根が多いのだろうか。以上で今回の旅は終了。両毛線のひと駅分歩いたことになるので、行動時間は短いながらも結構歩いたんじゃないかと思うけど、あいにく歩数の記録が行方不明でただ、肌寒い中富田駅でじっと電車が来るのを待っていたので、カゼ気味になりました今後、両毛線を使う時は気をつけよう・・・さて、ちと余談ですが本日10月21日は本ブログの開設日であります。つまりは本日から5年目に突入する訳ですが、悠長に4年を振り返るだけの文字数は残ってないので一言だけ感想を述べると、人間は変わるものなんだな~ということ(笑)。このところずっと「戦国ジジイ」らしからぬシリーズが続いておりますが、巡り合わせというのは縁でもあるので、興味を持った時がチャンスを与えられた時だと思って勉強していれば、意外なところで意外な知識が役に立ったりするものなので、5年目もチャンスを無駄にせず、貪欲に自分の興味を掘り下げていきたいと思っています。5年目もどうぞ戦国ジジイをごひいきににほんブログ村