真編柳多留を診る
仕事の内容も量も正念場ですが、気分転換に一日、国会図書館に行ってきました。 かつて、川柳総合辞典が編集されていた25年前には、毎日のように通ったところですが、私にとって、日ごろ手にできない史料を見ることによって、とてもしっとりと川柳と触れ合える時間が持てるのは、今も変らない心地でした。 初代川柳評の万句合を借り出し、しばらくその木版の濃淡を堪能し、読みにくい文字に心を寄せてみました。確かに、私たちの先人が、同じ十七音の中に、社会を見ていたことが感じられて、自分もその250年の流れの中に居ることを確認しました。 本当の目的は、昭和まで継続されてきた十三世川柳の「真編柳多留」を系統的に見ることでした。こちらには、初編から三十五編まで欠けずに残っています。 記録を見ると、十三世川柳自身が国会図書館へ寄贈していたことがわかります。 昭和2年に刊行されはじめた「真編柳多留」は、初代川柳時代の「誹風柳多留」を再現する和本形式で刊行がはじまっています。 刊行は、昭和15年まで続きますが、内容は月例会の句報ばかりで、毎年行われる1月の歳旦会(今日でいう新年句会)、10月の柳祖忌(または川柳忌)句会、年末の忘年句会というメリハリはありますが、これもいわゆる句会報です。 句の内容は、「時事」などよいう題も出されていますが、ほとんどが字結びの題詠で、一句一句みてみると、当時の新川柳の作品、特に伝統川柳派の作品とほとんど変りません。 興味深いのは、「○○居士追福狂句合」といった仲間の追悼会で、主幹クラスばかりでなく、少し古い仲間は、みなこの形で追悼しています。 昭和12年ごろから戦争が国家的目的となると、句の内容も線辞職になります。これも一般の川柳界と同じで、東京柳風会というグループは「狂句合」という名称ではありましたが、私たちの川柳と同じことをしていたことが良くわかります。 ただ、「宗家十三世有為堂川柳」などと大上段に構えた「立評」、その次の「副評」、さらに自ら商品を携えて選者として出る「志評」、「楽評」など選においてはピラミッド構造ができていたようです。 たしかに、宗家という格式、「誹風柳多留」を模した「真編柳多留」の形式などは面白いと思いますが、営々と句会だけを行い、楽屋落ちのピラミッド組織の中で遊んでいるだけでは、どうしても川柳の社会性は得られませんでした。 十世川柳以降、新川柳の台頭に際して、川柳の本流であった柳風会が、単なる一吟社になりさがり、ついには社会から忘れられて、形式だけ昭和15年まで保ったというのは、とても淋しいことです。 私たちの川柳も、社会の中で認知されなければ、単に句会遊びをしているに過ぎません。 「真編柳多留」を見て、つくづく社会とのつながりなくして、文芸は生かされないと思いました。 社会との繋がりって何だって? もちろん、読者を社会の中に得ることです。