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遥かなる丘へ

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2007 胆管癌 医療補助食品検索結果

《プロポリス》

《AHCC》                   
1月上旬に父自ら注文。その後抗がん治療開始時に担当医師に相談したところ、『抗がん剤の効果が損なわれるかもしれないので、聞かなかったことにしますが、私は責任持ちませんよ』と言われ、服用をやめてしまったが、少しずつ自主的に服用し始めている。飲んだ期間は2ヶ月くらいか。本人も半信半疑だった。医者の言うとおりにする年代なので影響を受け、その効果はわからず。

《D12》
AHCCと併用することで、AHCCの効果を最大限引き出せると言われた。AHCC同様、1月上旬に父自ら注文。一旦服用をやめていたが、少しずつ服用。今では箱にまだ沢山残っていて、母や兄嫁が時々飲んで『結構いい調子』と言っている。


     
<医療補助食品>

《アラビノキシラン》
米ぬか由来のと、トウモロコシ由来など種類あり。
ホルモン系・肝臓がんに効果が期待されると書いてありました。
現在、サンプルのみ取り寄せ、父親本人は手を伸ばそうとしなかった。効果わからず。 


《フコイダン》
試さない。

《ラックル・・・機能活性乳酸》
保険外交員の女性の親族がすい臓がんを患っており相当痛いそうですが、此れを勧められ飲んで、まだ1週間ですが痛みがなくなってきたそう。

《びわの葉》
末期近くになって(末期とは思っていませんでしたが)この葉を額に張って頑張っているがん患者を父に持つ方を知り、
体にはる用の葉と煎じる葉を取り寄せ、母が作ったが、既に水さえ喉を通りにくくなっていて効果わからず。


=父親の経過とその他=
肝臓に影があるとわかったのが2006年11月上旬。
ピンシャンしていて家族は心配していなかった。
大学病院のベッドが空いてやっと検査入院できたのが12月1日。
検査結果、肝臓以外は綺麗・・・しかし最終日12月18日の肺検査で小さな転移が見つかった。
転移を見つけてくれた若い医師は、廊下だったが誠実で優しい表情で話してくれた。
「肺転移すると手術してもしなくても寿命はあまり変わらない。
お父様の場合、手術しないで残りの日々を出来るだけ健やかに過ごすことをお勧めします。」「組織検査は、すると血管に乗って全身に散らばるので手術が決まったらしますが今はしない。」という様なことを話された。

遠隔転移があれば手術は出来ないということだが、それでもチーム半分の医者が手術を勧めた。


病気発覚から急に張り付いてきた親戚夫婦がいた。若い頃父は結構彼らの面倒をみたので「おじちゃんおじちゃん」と慕っていたことは事実。が、かなりの遠慮のない厚かましさがあった。
結局父は勢いのある親戚連中の強い勧めもあってガン専門病院に転院した。
私はセカンドオピニオンで違う治療方針を期待していたが、転院には反対だった。


転院先でやはり肺転移が確定し抗がん治療か緩和医療の選択肢で抗がん治療を選択した。その治療開始前の1月中旬に組織検査。抗がん剤は1月末から。
担当医を見た時嫌いなタイプだった。

2月の検査の日、先生に
「父が自分はあと1・2ヶ月だと言ってますが・・・」と聞いたら
「ボクは1年以上を視野に入れてます」
と答えていた先生。

しかし3月上旬のCTで全身転移。骨盤・脊髄・リンパ・肺はうっすら白い。
次の抗がん剤を選択。

休み休みの父に、先生ははっぱをかける。
「●●さんの血液検査のデータや体力ではまだ充分耐えられるから頑張ってみましょう!」

3月19日検査日にそのまま入院。数日後死去。



途中で思ったことは、こういう進行がん(胆管癌)で効く抗がん剤はないと専門医自身わかってるんじゃないか?なぜ効果が期待できない化学療法を進めたのか?
2006/2007年に検索すると、胆管癌の1年生存率はほぼ0%だった。


思えば結局がん細胞の種類の特定が出来なかった1月中旬の組織検査は、腫瘍組織にメスを入れることにより、より多くのガン細胞が血液に乗って全身に散らばって、全身転移が早まっただけではなかったか。


転院先の30代後半と思われる担当医はセオリーとはいえそれを行い、効かないであろう薬を「効果の期待できる副作用の少ない抗がん剤」として勧めた。勿論全く効かなかった。
TS1も効かない。他の癌の薬だもの。進行性の胆管がんには効かないのだ。


亡くなってから遺族として思うのは、薬がほぼ胆管癌には効かないと思われるならそう伝えて欲しかった。
可能性は0ではないが、進行を止められず命が尽きるとして、出来るだけサポートする助言が頂けたら嬉しかった。
調子良い言葉だけの対応は要らない。誠意はあまり感じられない。誠意と共感性のある人は対応や言葉でわかる。
自分が患者になったら、思いやりのある方に担当になってもらいたい。

都度検査結果を見ているはずの医者に
「予想以上に進んでいて私も予測できませんでした」と説明されたら、嘘だろうと思う。

高齢者の悪性の進行がんが肺転移の場合
足掻いて抗がん剤で余計な体力や免疫を消耗するよりは、
自分の病を知り、命の期限が迫っていることを知り、
その時までにやることをして後悔ないように過ごせるよう
アドバイスと緩和医療以外、なにがでるだろうか。


父の場合は進行の速度を、
毎月検診を受けていた健康フリークだったからこそ
影が見つかった時期、肺転移までの期間から
およそ推測可能だったのではないか。

あの親戚夫婦がまくし立てた素晴らしい「病院」でのあの主治医のさじ加減は
宜しくなかった、と思う。
素晴らしかったのは、お見舞いに来る人や看病する人にとってだ。
美味しいレストランやお店、美容院、眺めの良い庭、吹き抜けのピアノ演奏。


病気がわかってからバタバタして聞けなかった、父親が生きた75年間の経験。
小さい頃から食卓で細切れに話してくれたが、もう一度ちゃんと聞きたかった。
笑い話も、苦しいことから得た経験も。

それを、あの親戚夫婦がひっついて、私がやり繰りしてお見舞いに行くといつもいて、
家族だけで話すことが殆ど出来なかった。


やる気になれば出来るなんだって出来る!って心意気をみせてくれていた父親。
出来ないことはあるけど、そう思わない人こそ突き抜けていけるんだろうな。


胆管癌の早期発見出来なかったことが、
影が出た段階で急いで他の検査できる病院を探さなかったことが、
まさか最悪な癌じゃないだろうとタカを括って真剣に心配しなかったことが
自分の後悔と反省。
悠長にベッドが空くのを待っていた時間を後悔する。


12月下旬に二人で車に乗っている時父はこう言っていた。
『昨日夢で亡くなったおふくろが出てきた。
あと若い時お世話になったKさんとその奥さんも、云々…。』

Kさんもその奥さんも皆既に逝ってる。
まさに "お迎え" じゃないかと思った。
「それお迎えじゃない?』なんて本人に言えないけれど。
そして『お父さんはね、あと3か月だと思う。』とも言った。
いくらなんでもそれはないでしょう、と本気で思って口にも出したが、
本当にそれからほぼ3か月で逝ってしまった。

父の無念は、母と自分の姉を最後まで見守れなかったこと。
2人を看取る覚悟で体に気を付けていたし、ウォーキングを欠かさなかった。
やりすぎて免疫下がったかもしれない。
病気発症する直前は『20歳の頃の体重に近いし、走れる』と得意げに笑っていた。
父親は大昔1万メートルの選手として県体で3位、全国を逃した。
1週間前に40度の熱を出し、走ってる途中で痰がでて苦しくなってしまったらしい。

また死を目の前にすると、家も土地もどうでもよくなるそうだ。
手入れした庭とか、何の執着もなくなるもんだよ、と話していた。

父親の先祖は有名な武将に追われて逃げた地方の有名な武将の家来だったようで
お墓が山の高いところにあり、登る途中で朽ち果てかかったいくつかの古いお墓を通過した。
ここなら爆弾は落ちてこないだろう、と都内の企業家と政治家が疎開してきた場所。
夢に出てきたのはその方たち家族。若い時随分お世話になったらしい。
耳をすませば、風や虫や鳥など自然の音しかしない世界で過ごしたせいか、
父親は絶対音感があった。
ぶっとい指で鍵盤を押さえメロティーを間違えなく捉えた。声は高く歌は上手かった。
車に極めてローカルな民謡のカセットテープがあり、
死後発見したのだけどそれがとても優しくて驚いた。
素朴で優しい民謡だった。


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