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カテゴリ:絵画・拓本・収集
晴れているので拓本を干している。 臧懐亮(ぞう かいりょう?)という人物の墓誌銘の拓本で、蓋、墓誌銘ともに2枚ずつ、計4枚の拓本がある。1985年に陝西省で出土した。 開元16年(728年)76歳で長安の自宅で亡くなっている。 上柱国、というのは唐代では正従二品に相当する散官である。 そういう高位な人物は、亡くなるとまず墓誌銘が彫られて埋葬され、奥様が亡くなってから夫婦でセットで埋葬し直される事があり、その時に、奥様と合わせた2個目の墓誌銘が作られることがあった。写真上から1.2が最初に埋葬された時の墓誌銘、3.4が妻と合祀された時の墓誌銘。(と、思われるが。。) この人物は、727年から現在の北朝鮮の平壌にあった安東都護府(北朝鮮・韓国・満州などを収めた長官)を務めたというから、都護府になってすぐに没した。それまでは辺境の防衛に軍功のあった軍人であり、節度使も務めている。 1枚目の拓本は行書で書丹されており、李よう の撰文だという。書丹者は書いていないが、李よう だと勝手に信じている。 そして再度埋葬された楷書の拓本には、顔真卿選(選文した)と書かれている。 この拓本には天宝10年に墓誌の主が埋葬し直されたようなことが記述されている。天宝10年と言えば751年にあたるので、妻は22年間存命してから亡くなり、遺族は、亡くなっていた夫の墓誌銘を作り直す際に、顔真卿に撰文を依頼した(という事になるだろう)。顔真卿は42歳だった年である。 顔真卿はこのほかにも臧家の墓誌を書丹しているので、両家はつながりが深かったと思われる。 顔真卿が作り直しの2回目の拓本の選文をしても全く不思議ではない。 顔真卿の散官は朝議郎となっているが、正六位の位だったと思われる。そして侍御史となっているが、これは弾劾、告発を担当する役所である。 顔真卿が郭虚巳墓誌銘を記したのは749年となっているが、この郭虚巳墓誌銘の顔真卿の散官も朝議郎行殿中侍御史となっている(→下の写真が郭虚巳墓誌銘、乞う参照! )から、その2年後の751年にまだ同じ役職に居たのだろう。 751年の、この墓誌の2枚目の楷書の拓本は、顔真卿選となっているが、顔真卿が書丹したとは書かれていない。しかし墓誌の文章だけを作文して書丹しないなんて事があるだろうか? 顔真卿の書なのではないかな?? 小さい楷書で、文字もどことなく覇気が無く普通に見える。しかし、中国ではこの拓本がお手本の「本として出版」されている。 751年といえば、唐とアッバース朝が中央アジアの覇権を争って戦い、高仙芝が率いる唐軍が大敗した、タラス河畔の戦い、が起きた年である。 この戦いで、製紙法が西洋に伝播したと言われる。 顔真卿はそんな激動の年に中央の御史台に居たという事だ。そしてタラス河畔の戦いが起きた年の、その年に顔真卿が選文した墓誌の主は戦に功績の大きい有名な軍人であった。その軍人の墓誌の拓本が我が家に有るっ!! これは凄いことなのではないか?! 歴史ロマンなのではないか?! アッパース朝に敗れた唐は次第に求心力を失って行く。それから間もなく節度使の安禄山が反乱を起こし、何とかこれを食い止めるものの、更に唐は弱体化して行くのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.03.14 19:25:35
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