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英知を磨くは何のため

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2005/06/10
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アメリカの広宣流布の尊き指導者の皆さま!遠いところ、本当に、ようこそ、お越しくださった。
第2東京の代表の皆さま、いつも、ご苦労さま!ありがとう!
きょう(6日)、私が、緑まばゆい村山総区、秋山総区、さらに新立川総区の天地を車で通り、妻とともに、すべての同志の皆さまの健康と幸福と勝利を祈って、題目を送らせていただいた。
 第2東京は、どの地域も大発展している。どの地域も大勝利である。特に、婦人部の皆さま方の力は大きい。心から讃歎申し上げたい(大拍手)。
一、きょう6月6日は、「創価教育の父」牧口常三郎先生の誕生日である。牧口先生は、1871年(明治4年)のお生まれ。今年で生誕134年となる。創価の原点の一日を、先生の魂をとどめる東京牧口記念会館で、晴れ晴れと迎えることができ、本当にうれしい。ここ八王子は、我が婦人部の祈りに答えて、諸天も寿ぐ清々しい快晴となった。

権力の魔性と真っ向から闘争
一、牧口先生の遺徳を偲びつつ、少々、お話ししたい。
牧口先生は、国家権力と戦い、獄死された。〈1943年(昭和18年)7月6日、伊豆・下田で逮捕され、44年(昭和19年)11月18日、73歳で獄死〉
 もちろん、先生には罪はなかった。「創価学会の思想は危ない」という、理不尽な弾圧であった。ご承知の通り、検挙の理由は「治安維持法違反」と「不敬罪」である。
 牧口先生は、軍部におもねった宗門とは対照的に、正法正義を貫き、戦争推進のイデオロギーである国家神道に断じて従わなかった。当時の悪法のもとでは、それだけで処罰の理由となったのである。
 老齢の大学者の先生を、一介の役人に過ぎない特高刑事や検事が、いじめにいじめた。権力を笠に着て、居丈高に振る舞い、怒鳴った。
 これが「権力の魔性」の恐ろしさである。狂った日本であった。愚かな日本であった。
 権力が、牧口先生を殺したのである。何の罪もない、それどころか、世界的大学者の先生に、日本は、「獄死」をもって報いたのである。
 永遠の平和を築く戦いは、所詮、「権力の魔性」との戦いであることを、絶対に忘れてはならない。それを忘れ、油断すれば、広宣流布の将来は危ないからだ。

獄中で”正法に反する国は滅ぶ”と
一、しかし牧口先生は、権力の横暴に、一歩も引かなかった。それを証明する「尋問調書」が残っている。〈旧内務省の史料『特高月報』の昭和18年8月分に記載、『牧口常三郎全種第10巻』第三文明社所収〉
 先生は刑事に堂々と答えられた。そして、当時の聖戦思想を真っ向から否定された。「(立正安国論には)この法(=法華経)が国内から滅亡するのを見捨て置いたならば、やがて国には内乱・革命・飢饉・疫病等の災禍が起きて滅亡するに至であろうと仰せられております」「現在の日支事変(=日中戦争)や大東亜戦争等にしても、その原因はやはり謗法国であるところから起きている」「この大法に悖ることは、、人類としても、はたまた国家としても許されないことで、反すればただちに仏罰を受ける」(現代表記に改め、句読点を適宜、補った。『牧口常三郎全集』からの引用は以下同じ)
 戦争で一番犠牲になり、苦しむのは、いつも民衆である。しかし、国は「新州不滅」などと煽って、国民を戦争に駆り立てた。それに、はっきりと異議を唱えたのである。正法を迫害する国は、滅亡するのが道理であると喝破されたのである。軍国主義の時代である。しかも獄中である。
 どれほどの信念であられたか。どれほどの壮絶な戦いであったか。
先生は、創価学会の永遠の誇りである。その直系が私あちなのである。

身は国法に従えども心は従わず
一、牧口先生のことを語られるとき、戸田先生は涙を流すのが常であった。「仇を必ず討ってみせる」という怒りと決意が、燃え盛っておられた。牧口先生と戸田先生は、警視庁の取調室で一緒になった。〈逮捕から2カ月後の昭和18年9月〉
 その時、牧口先生は、ご家族から差し入れられた愛用のカミソリを手にとり、懐かしそうに見つめておられたという。その時、刑事が大声で怒鳴った。「ここをどこだと思う、刃物をいじるとはなにごとだ」戸田先生は、のちにこう語っておられる。「先生は無念そうに、その刃物を置かれました。身は国法に従えども、心は国家に従わず。先生は創価学会の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ」
 そして、牧口先生が東京拘置所に映される時が、師弟の最後の別れとなった。「『先生、お丈夫で』と申し上げるのが、わたくしのせいいっぱいでございました。あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました」あまりにも崇高な師弟の歴史である。
一、信念に生きる立派な人間、偉大な思想を持った人間は、かえって弾圧され、牢に入れられる。なかでも当時、韓・朝鮮半島の人々の場合、その処遇は苛烈を極めた。戸田先生は、それを振り返り、「どうして日本は、こんなひどいのか!」と悔しがっておられた。その先生の血涙の叫びを、私は忘れることができない。

「先生の哲学を世界に認めさせる」
一、牧口先生は獄死され、戸田先生は生きて獄を出られた。戸田先生は厳然と語り残された。「私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる」「私の代にできなければ、きみらがやっていただきあい。たのみます」
 私は、この戸田先生の意志を受け継いで、牧口先生の哲学と人生を宣揚してきた。創価学園をつくり、日本にもアメリカにも創価大学をつくった。師の構想を実現するのが、弟子の道である。
 今、アメリカやブラジルをはじめ世界の各国で、牧口先生の教育哲学が注目され、実践される時代に入った。
 また世界のどこに行っても、創価教育から巣立った人材が活躍している。牧口先生は勝ったのである。創価の師弟は勝ったのである。私は本当にうれしい(大拍手)。
「悪と戦う強さが社会を明朗に」
一、牧口先生が常に拝された御聖訓に、「勧心本尊抄」の一節がある。
「天晴れぬれば地明かなり法華経を識る者は世法を得可きか」(御書254ページ)先生は、この御文を通して指導された。「太陽が昇った瞬間から、、大地はパット明るくなる。同じように、信心すれば、生活のすべてが改善できるのです。大事なことは『天を晴らすこと』です。そういう信仰をしなくてはいけません」(前掲『牧口常三郎全種第10巻』)
 広宣流布は、永遠に、仏と魔との闘争である。先生の言われたとおり、学会は、「勇気の言論」で勝ってきた。三障四魔との戦いをやめないから勝ってきた。牧口先生はこうも語られた。
「(嫉妬や迫害を受けても)今後とも、さらに『不自惜身命』の決心をもって、いよいよこれを力説するつもりである」「だれかが言わねば、社会は遂に改まるの期はないことを思うからである」(『同第6巻』)
 広布の指導者は、自らが勇敢に、言うべき事を言わねばならない。皆が言うべき事を言えるよう、励ましていかねばならない。また、自らが率先して行動しなければならない。そして、皆が行動できるように励ましていかねばならない。
 要するに、自らが断固として戦う。その必死の姿を通して、皆の「戦う心」に火をつけることである。牧口先生は教えられた。
「大善人になるには、強くならねばならぬ。決然と悪に対峙する山のごとき強さが、個人も社会も明朗にする」
強くなければ、本当の意味で、善人にはなれない。
学会は「正義の中の正義」である。ゆえに、強くなれねばならない。強くあってこそ、朗らかに前進することができる。「強さ」と「明朗さ」は一体なのである。

いかなる権力も仏には勝てない
一、思えば、宗祖・日蓮大聖人の御生涯は、権力による迫害との熾烈な闘争の連続であられた。すべては、末法の一切の衆生の幸福のためである。現在、鎌倉の「竜の口」には「SGI教学会館」がある。ご存じの通り、この地は、日蓮大聖人がなされた「竜の口の法難」ゆかりの地である。
 会館には、海外からも多くのSGIメンバーが訪れ、大聖人の御足跡を偲びつつ、広宣流布への決意を新たにしている、
 大聖人が法戦の本舞台とされた鎌倉は、当時の政治の中枢であった。いわば、権力の魔性がうごめく真っ只中で、敢然と破邪顕正の戦いを起こされたのである。傲慢な権力者にも、仮面の聖職者にも、大聖人は容赦なく、”正法を尊ばなければ国は滅びる”ことを主張し、正義を叫びに抜いていかれた。
 そして一方、女性の信徒や、若き青年門下には、限りない慈愛を注がれる大聖人であられた。正義の中の正義であられる大聖人に、権力は残酷に牙を剥いた。そのきっかけとなったのは、邪悪な聖職者らによる「讒言」・・・嘘で固めた、でっち上げであった。
 文永8年(1271年)9月12日。
大聖人のおられた松葉ケ谷の草庵に、幕府の実力者であった平左右衛門尉頼綱が、数百人の武装兵士を率いて押し寄せた。大聖人が竜の口に向かい、頸の座にのぞんだのは、「子丑の時」(御書223ページ)・・・すなわち真夜中だった。「三世の諸仏の成道はねうし(子丑)のをわり・とら(寅)のきざみ(刻)の成道なり」(同1558ページ)とある通り、「子丑の時」から「寅の刻」にかけては、不可思議な時間帯なのである。
 兵士が大聖人を取り囲んだ。刀を手にした武士が、身構えた。途中から裸足でついてきた四条金吾が、「只今なり」(同913ページ)と言って、泣いた。その金吾に大聖人は「これほどの悦びをば・わらへかし」(同914ページ)と、悠然とたしなめられた。
 そのときである。つきのごとく明るく輝く鞠のようなものが、南東から北西にかけて光わたった。刀をもった武士は倒れ伏し、恐怖に駆られた兵士は「一町計り」も走って逃げた。大聖人は「どうして遠のくのか。近く打ちよれや、打ちよれや」と叫ばれたが、近づくものはいなかった。
「頸を切るならば、夜が明ける前に、速く斬れ!」と促されたが、応える者はなかった。だれもが驚愕し、動揺し、おじけづいていた。その中にあって、大聖人ただ御一人が、不動の大境涯を示されていたのである。どれほど強大な権力も、どんなに’卑劣な策略も、仏の境涯を侵すことはできない。諸天善神の加護は絶対である。法華経の行者を不幸に陥れることは、誰にもできないのである。〈「光り物」の正体は、「おひつじ・おうし座」流星群ではないかという説もある。東京天文台長で、東大名誉教授であった故・広瀬秀雄博士の研究による〉
 西洋においては、キリスト教の祖であるイエスも権力の迫害と戦い、受難した。イエスもまた、人々の幸福を願い、平和を目指した人物であることは間違いないであろう。あくまで想像上の仮定の話であるが、もしも日蓮大聖人とイエスが話し合ったならば、決して口論などにはならず、民衆に尽くす生き方に対して、尊敬の念を抱いたのではないかと拝察する。
 偉大な人はすぐに、より偉大なものがわかるものである。
戸田先生はよく、”釈尊や、キリスト、マホメットなどの宗教の創始者が一堂に会して「会議」を開けば、話が早い”と言っておられた。
 創始者には、後世の宗派性はない。宗祖の原点の精神に帰ることで、宗教は、より普遍的で人間的な広がりを回復することができる。私どもが平和な世界の実現を願って、各国で推進している「宗教間の対話」「文明間の対話」のポイントも、ここにある。

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Last updated  2005/06/10 07:02:12 PM
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