高橋さんからのメッセージ「戦争がおわっても(リベリア)」きょうは僕の写真展に足を運んでくださり、どうもありがとうございます。 僕がはじめてリベリアを訪れたのは2003年7月。それまで断続的に続いていた反政府軍と政府のあいだでの戦闘が一段と激しさを増していたときでした。その戦いの最中に出会ったのが、この写真展で取り上げた4人の子供たちです。 翌年、彼らの消息を求めて再びこの地を踏んだ僕は、なんとかこの子ども達との再会を果たすことができました。内戦が終わったとはいえ、生活自体が楽になったわけではありません。そんな苦境の中でも、彼らはしたたかに生延びてきました。 自身の身体の一部や家族を永久に失ってしまったムスやギフトのような難民たち。人を殺し、傷つけ、自らも心に深い傷を負ったモモやファヤのような少年兵たち。一見すると被害者と加害者という両極の立場にあるようなかれらですが、視野を広げて考えてみれば、みな戦争の被害者なのです。 僕は報道写真家という肩書をつけていますが、どちらかというとジャーナリストとしての使命感よりも、「撮りたい」という自分の好奇心のほうが強いのが正直なところです。しかし、リベリアに限らず、紛争の現場で苦しんでいる人間達に出会い、話をし、ともに時間を過ごすようになって、だんだんと写真に対する自分の姿勢も変わってきました。 撮る者には、「撮る」ことに対する責任がある。 そう思えるようになってきたのです。 その責任を果たすためには、撮ってきた写真を多くの人々にみてもらう必要があります。僕の写真を見てくれた人になにかを感じてもらい、その気持ちを結果として紛争地で苦しむ人々を助ける行動につなげていくこと。。。そういうことも撮る者の責任なのでは、と考えます。ですから、写真展というのは、僕のその責任を果たすためのひとつの過程でもあるわけです。 モモやムスたちがリベリアで生まれたのは、ただの運です。ひょっとしたら、彼らが日本人として生まれ、この写真展を訪れてくださったあなた自身がリベリアで生まれていたかもしれません。単なる偶然でリベリアのような紛争地で生まれた彼らのような子ども達が、今この時間もがんばって生活していることを知っておいてほしいと思います。そして、このような現実に対して、日本人として何ができるのかを考えてみてもらえたらと願っています。 展示写真の中には死体などの写った過激なものも含まれています。子どもに見せるには刺激が強すぎる、と思われる方もいらっしゃるでしょう。勿論、見せる見せないは保護者の方の裁量にお任せします。しかし紛争地では、そこに生きる子どもたちの眼の前で、実際にこのような残酷な出来事がひきおこされているのが現実なのです。ですから、そういうところまで考えを巡らせ、ただ写真から子どもの眼を覆うのではなく、話だけでもしてあげてもらえたら、と思います。 我々大人を含め、いま子どもたちに必要なのは、世界でおこっている現実を正しく知ること、そして他国に住む人々に気持ちを考え、自分自身の意見をもつこと、ではないでしょうか?それが、将来の紛争地をひとつでも減らすための第一歩になるのでは、と思います。 最後に 多くのボランティアの方々の力により、この写真展を開催することができました。時間や手間を惜しまず尽力されたみなさん、資金や物資面で援助をしてくださった方々、本当にどうもありがとうございました。 高橋邦典 |