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2008.01.02
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カテゴリ:哲学・思想
『高校生のための哲学入門』 長谷川宏著(ちくま新書)の紹介の続き。
 
 第2章「人と交わる」のなかで長谷川は「対等」と「平等」との違いについて以下のように述べる。

 万人が平等であると言うとき、言う人は高みに立って万人を上から見おろすようにして、みんな同じだ、と言っている。(・・・)〔竹内芳郎によれば普遍宗教(世界宗教とほぼ重なる)の登場とともに初発的な意味において「万人平等主義」が誕生したと言う・・・引用者 注〕
 図式的に言えば、各人のちがいがまったく見えなくなる無限遠点まで昇りつめて、ただの点であるような人間をつかまえて万人が平等だという。それが平等の原風景なのだ。平等がイメージされるには、そこまでの抽象力が働かねばならないのであって、法の下の平等が近代法の基本原則だとすれば、それは、近代精神がそれだけの抽象的思考に耐えられるようになった証しでもあるのだ。

 「対等」は、そういう抽象化の果てに立ちあらわれる観念ではない。人となり(人柄)に関心を持つ交わりの中で自分と相手が「対等」だと感じるとき、その「対等」は人種・信条・性別や、出身地・出身校・職業・家柄・容姿・趣味を剥ぎ取った、点としての人間同士の平等とはまるでちがう。(・・・)差別的な内容もそうでない内容もひっくるめて、自他の人となり(人柄)に関心を持ち、関心と理解を深めていくなかで、上下や優劣にこだわることが意味をなさなくなるような、そんな関係をさして「対等」な関係だというのだ。(・・・)
  
 高校生の私が西洋近代小説を夢中になって読んでいたとき、わたしはそういう対等な関係のなりたちをさまざまな場面で目撃していたのだった。(『赤と黒』の)ジュリアンとレナール夫人、ジュリアンとマチウドは、その出身からして平民と貴族という階級差別を背負っている。(・・・)が、男と女、人間と人間との関係が深まるにつれて、たがいが差別を踏みこえていこうとするようになる。二組の恋愛は、社会的身分差別に安住するのではなく、差別を超えていこうとするからこそ、人間性ゆたかな恋愛となりえているのだ

 長谷川は、このような「近代小説」だけでなく自らの体験にも触れながら「対等」な関係の輪郭をくっきりと明らかにしようとする。そこで感じられるのは、小説の登場人物や自らの具体的経験と行き交うような形で「人間関係の本質」を明らかにしていることだ。 ここで長谷川は、まさに「具体的経験の哲学」を展開しているように見える。

(私は、教育学部の出身なのですが、研究室は社会科の倫理社会(懐かしい呼称…)です。在学中から47歳の今にかけて、愛読した思想家はサルトル、マルクス、ヘーゲル、竹内芳郎、竹田青嗣、西研、長谷川宏などです。現実に向き合う思想についてHP“しょう”のページにまとめています。)
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Last updated  2019.03.30 00:39:38
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