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カテゴリ:ヘーゲル思想と教育
「自分自身の中にある矛盾や他者との対立が成長(発展)につながらず、堂々巡りの悪循環を生み出すこと」は往々にしてありますが、そこから抜け出す道についてヘーゲルはどのように考えたのでしょうか。
『精神現象学』の末尾でヘーゲルは「行動する精神(個の精神)」と「評価する精神(共同体精神)」の対立と和解の「ドラマ」を描き出します。 「行動する精神」というのは「ただしく行動すること」を目指します。それは、そのつど具体的状況の中で「これをなすべきだ」と決断し行動できるのは「この私自身」だということを自覚している個人なのです。ただ、一つ間違えば独善や偽善に陥りかねない危うさを持っています。 他方、「評価する精神」というのは「行動する精神(個の精神)」に対していわば共同体の立場からその問題点を突いていくような精神です。しかし、自らは行動もせずに評価していることや、その評価に絶対的な根拠がないことを自覚していません。 この二つの精神は激しく対立しながら最終的には「相互に相手を承認する」ことになります。そこに至る過程でヘーゲルが描いていくのは、「相手の中にある問題点を自分の中にも見出す」という契機です。 行動する精神(個の精神)は最初「評価する精神(共同体精神)」の自分への「判断」(行動する精神の決断は勝手なものであり偽善である)に対して反発します。 しかし最終的に、行動する精神(個の精神)は「評価する精神の判断が(時には偽善もともなう)一つの判断でしかない」ことを認めると同時に、自分が行動に際して下した決断についても、絶対的根拠のない「自らが選んだ一つの判断」(独善や偽善とも無縁ではない)であることを認めるのです。 こうして「行動する精神」は「評価する精神」に対して「自分も相手と同類である」ことを告白し、互いに承認しあう関係になることを期待します。 この告白に対して「評価する精神」は最初「行動する精神」と同類であることを認めようとしないのですが、最終的には相手の中にある要素を自らの中にも見出して「相互に承認しあう」ことを選ぶのです。 このような「自由の相互承認」の段階をヘーゲルは「絶対精神」というのですが、これはいかにして成立したのでしょうか。 ポイントは二つあるように思われます。1、独善や弱さや矛盾は自分に対峙する相手の中にあるだけでなく自らの中にもあることに気づくこと、 2、自分の中に「相手と相互承認しあう関係」を求める意思(共同性への意思)があることに気づくこと、です。 確かに、深い部分で人間というのは、「他者と承認しあいたい」という願いを持っているように思います。 その願いを自ら感じ意識しながら、相手の中にあるのと同様の問題点を自覚し乗り越える方向へ一歩踏み出すとき「相互承認」や「相互の成長」が実現していくのではないでしょうか。 職場の同僚との関係にせよ、子どもたちとの関係にせよ、様々なトラブルを「相互の成長」や「相互承認」の機会にしていこうという意思、これこそが「教育」を成り立たせ「自他の成長」を促していく大切なポイントであるように考えます。 ![]() ![]() (教育問題の特集も含めてHP“しょう”のページにまとめていますのでよろしければ…) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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