前回記事で述べましたが、「子どもたちが疎外され踏みつけにされている現実は学校の中だけに目を向けていても見えてこない」と思います。
直接に見たり聞いたりできる範囲は限られていますが、それでも教職員をしていると、通常よりも多くの子どもたちと出会うことになります。そして、 「対話」や「指導」に教職員が大きな困難(あくまでも指導の不適切さが主因でない場合ですが・・・)を感じる生徒の多くが「何らかの背景」を持っていることを経験させられることになります。
例えば、次のような子どもたちとの出会い。
こちらがあいさつをしたり声をかけても「無表情のまま教員からの呼びかけをはねかえすような態度」を示していたA子。実は「幼児虐待を受けていた」ということがあとでわかった。
学校で「暴力事件」を起こしたB夫。幼いころから父親の暴力を受けてきた子どもだった。
(家庭の細かな状況はなかなかわからないものですが)上記のような「出会い」を、長い教職員生活の中でしばしば体験します。さらに保護者による暴力の背景を見ていくと「とんでもない親がいたものだ」という見方では解決しない場合(極度の貧困や生活苦を背景にしている場合)が圧倒的に多いのです。
比較的最近、特別支援学校(養護学校)の職員に聞いた話ですが、学校に通ってくる生徒は従来のような「障がい」を持った子ども以上に「被虐待の子ども」が多い、ということでした。しかし、「虐待を受けた結果、緊急避難的に引き離され、親元から離れて学校に通ってくる子どもたちのほとんどが“その親を慕い求める”」と言うのです。
「親のところに戻っても同じことになるよ」、という話をすると「あまりにも生活や仕事が苦しくて親はイライラしているんだから仕方がない」、と言うのだそうです。水谷修氏が一人の母親からのメールで気づいたことを、子どもたちの多くは気づいているのです。
『反貧困』(岩波新書)の中で湯浅誠氏は「児童虐待を本気でなくそうとするならば、まっすぐ原因に向かわなければならない」(51頁)と述べ「貧困社会」を変えていくこと、そのためには「自己責任論」にはまることなく貧困を「社会の構造の問題」(=社会の“溜め”のなさ)としてとらえ、克服していくことを訴えています。
去る8月3日、「高生研全国大会」の最終日に行われた分科会(「反貧困」の高校教育)で問題提起者となった湯浅誠氏は、自らの具体的実践や構想を述べましたが、大変示唆に富んだ話でした。
それをどのようにして実践的に受け止めていくか、ということが参加者の課題であったわけですが、話の内容については次回の記事で紹介します。
日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています
↑ ↑
よろしければクリックして投票・応援いただけますか
教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに
(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)