『国家と文明』 内容11 の引用部分に関してコメント欄で質問がありました。
マルクス、エンゲルス思想のなかにも新科学のありようを示唆する貴重な萌芽があることは、私もいままでしばしば指摘してきたところで、大体、既成社会主義諸国または諸政党に見られる〈科学による独裁〉ぐらい、あれほど「精神労働と肉体労働の分業」の揚棄(弁証法的な乗りこえ)を力説していたマルクス、エンゲルスの初心を横暴に裏切る行為はないとも言えるのである。
〔竹内芳郎著『具体的経験の哲学』P.119〕
>ここを、具体的に説明していただけませんか。
>分かったような分からないような感じなのです。
上記の今日さんの質問に可能な限り回答したいと思います。
「精神労働と肉体労働の分業」を克服することは「国家権力による民衆の支配」を乗り越えるための必要条件であるとマルクス・エンゲルスは考えていたのです。したがって、上記引用部分が意味するところは、概略次のようなことです。
「科学的社会主義者」を自称する「旧ソ連など社会主義国家の指導者」が科学の名のもとに多くの国民(肉体労働者)を支配し、ノルマ達成のために駆り立てていた実態は、まさに「精神労働と肉体労働の分業による民衆支配」を極端化したものである。
「(彼らの言う)科学としての史的唯物論」によれば、生産力を増大させ「有り余るほどの豊かさ」を実現することが人間解放の絶対条件である⇒それを達成するためには、計画経済のもとでノルマを定めて労働者を生産拡大に駆り立てなければならない⇒そのような「指導者の〈科学的な判断〉」にそむき抵抗するようなものは容赦なく弾圧してさしつかえない!といったことが旧ソ連の実態だったわけです。
「科学」を自称しつつ「公的な判断、決定、執行などの精神労働」を指導者が独占したことによって、既成社会主義国家の民衆支配が極端に強化されていったことは明らかだと思われます。
さてここで、国家と文明 内容10 で入り口に立った「国家論」(10行目まで)との関連も概観しておきましょう。
そもそもマルクス・エンゲルスが目指したものは何だったのでしょうか? それは「人間の全面的な解放」、つまり「人間が人間に支配される状態から脱し、互いに対等平等で自由な存在になること」です。
それでは、本来対等平等である人間同士の関係がなぜ「支配被支配」の関係になってしまうのでしょうか。マルクス、エンゲルスは「国家成立」と「支配」とが不可分であることに注目し、「なぜ国家が成立するのか」ということを探求した結果「階級国家論」と「分業国家論」にいき着きます。
Q 階級国家論とは?
A 生産手段の所有者(支配階級)が国家を形成し、被支配階級を抑圧・支配するという国家論
Q 分業国家論とは?
A 精神労働と肉体労働の分業によって「公的な判断、決定、執行」(精神労働)を特定人物(少数者)が独占することによって国家権力と支配が成立するという国家論。
このような「分業」によって成立した最初の国家が「古代専制国家」だったわけですが、『国家と文明』 内容9 の古代専制国家に関する記述は こちらでご確認ください。
既成の社会主義国家はマルクス・エンゲルスの主張していた「精神労働と肉体労働の分業の克服」を実現するどころかむしろこの“分業”を極端化してしまった結果、到来した社会は「平等で自由な社会」ではなく「古代専制国家にも似た膨大な支配を貫徹させた社会」になってしまったわけです。
『国家と文明』 内容13に続く
なお、『国家と文明』の復刊要請はこちら ですので、よろしくお願いいたします。
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