“しょう”のブログ

2022/09/17(土)19:45

『国家と文明』 内容17 〔人民による科学〕

国家と文明(市場原理主義と社会主義)(26)

 前記事で私は「主体=個々人の具体的経験」を大切にし、絶えずそこへ立ち戻っていく姿勢につながっていくこと、これも竹内芳郎の提唱する〈世界-内-認識〉、〈世界-内-科学〉の大きな意義だと述べ、以下のような引用をしました。 あらゆる科学は具体的経験の抽象化であり、その抽象化の仕方に応じて個別諸科学が成立する。しかし、その抽象化の母体である具体的経験を忘却した時、科学は深刻な人間疎外をもたらす。                 (竹内芳郎 『国家と文明』、『マルクス主義の運命』など) 「現実のマルクス主義」、「ソ連・東欧などの旧社会主義国」がこのような「深刻な人間疎外」を拡大再生産していたことは明らかだと思われます。そして私は、そのこと(例えば旧マルクス主義の中にある一種の科学信仰)に対して「始祖のマルクスは一切責任なし」と考えているわけでもありません。 しかし、彼が「科学的抽象化」の母体である具体的経験を忘れていたのかというと、「決してそうではない」と考えます。例えば、 『資本論』第13章の「機械と大工業」の後半をみてもマルクスが「資本主義経済の総体」を冷静に(客観的に)描きながら、決して個々人(労働者)の具体的経験から目を離していないことがわかるでしょう。  さて、〈世界-内-認識〉〈世界-内-科学〉の第四の意義として「科学の地平における民主主義の強調」が挙げられます。  事実、『国家と文明』で竹内芳郎は「〈人民のための科学〉ではなく〈人民による科学〉」こそが必要だと主張し、次のように述べます。  「科学技術の地平においてさえ、私たちに要請されているところはまさに〈直接民主主義〉であって、したがって〈文明〉転換の課題そのものが、深く現代民主主義の課題と契合しているのである。」                   (『国家と文明』終章 「文明転換と支配の廃絶」より)  しかし、具体的に、そのような〈科学〉はどのようなあり方をとるでしょうか。  『国家と文明』319頁で、竹内芳郎は次のように述べています。  「科学の場でも専門家による素人の支配、精神労働による肉体労働の支配が廃絶され、誰もがその主たる生活の場で科学者たりうる道が拓かれ、かくして従来のようなビッグサイエンスではなく〈等身大の科学〉が樹立さるべきこと。」  さて、誰もがその主たる生活の場(あるいは実践や運動の場)で科学者たりうる具体例として私自身の頭に浮かぶのは、次のような実践です。 農林業や炭の生産などに取り組む人たちが、作物や土や樹木や生態系に関する「学習・研究」を行いつつ、(作られたものの質だけでなく環境全体への影響も含めて)よりよい生産を目指していく。〔このような取り組みが広がりつつあることは、さまざまな個人がブログで発信している「情報」からもうかがえます。たとえば「すみや4134さんのブログ」などはいかがでしょうか?〕 今よりも安心して生活できる世界を目指して活動する環境NPOや反貧困ネットワーク等の人たちが、「現状に関する自然科学的あるいは社会科学的な研究」を行い、具体的な実践・運動に活かしていく。(活動の必要性や有効性について検証しつつ合意を広げていく。)  このように運動・実践しながら(あるいは生活しながら)「科学」を行う人たちの営みを図式化すると「状況における実践的な課題の設定⇒具体的な現実の科学的認識(あるいは技術的な試行錯誤)⇒現実に働きかける実践的な見通しの獲得」、ということになるでしょう。  さらに具体的な例を挙げるとすれば、私は湯浅誠の『反貧困』などはそのような実践・探求のすぐれた取り組みだと考えています。この著書には鋭い「社会科学的な探究・考察」が随所に見られ、「研究者」には見えないような事実や観点が明確に提示されていると同時に、現代の社会の姿、進むべき道が示されていると判断するものです。 本来は、マルクスの「仕事」もこのような実践の延長上にあると考えるのですが・・・。   『国家と文明』 内容18へ 『国家と文明』の復刊要請はこちら ですので、よろしくお願いいたします。 また、現在、著者の竹内芳郎が主宰して立ち上げた「討論塾」の概略はこちらです。 可能な方は、ぜひご参加ください。   日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています     ↑      ↑ よろしければクリックして投票・応援いただけますか (一日でワンクリックが有効です) 教育問題に関する特集も含めて​HPしょうのページ​に (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る