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カテゴリ:国家と文明(市場原理主義と社会主義)
前記事で私は「主体=個々人の具体的経験」を大切にし、絶えずそこへ立ち戻っていく姿勢につながっていくこと、これも竹内芳郎の提唱する〈世界-内-認識〉、〈世界-内-科学〉の大きな意義だと述べ、以下のような引用をしました。 あらゆる科学は具体的経験の抽象化であり、その抽象化の仕方に応じて個別諸科学が成立する。しかし、その抽象化の母体である具体的経験を忘却した時、科学は深刻な人間疎外をもたらす。 「現実のマルクス主義」、「ソ連・東欧などの旧社会主義国」がこのような「深刻な人間疎外」を拡大再生産していたことは明らかだと思われます。そして私は、そのこと(例えば旧マルクス主義の中にある一種の科学信仰)に対して「始祖のマルクスは一切責任なし」と考えているわけでもありません。 しかし、彼が「科学的抽象化」の母体である具体的経験を忘れていたのかというと、「決してそうではない」と考えます。例えば、 『資本論』第13章の「機械と大工業」の後半をみてもマルクスが「資本主義経済の総体」を冷静に(客観的に)描きながら、決して個々人(労働者)の具体的経験から目を離していないことがわかるでしょう。 (『国家と文明』終章 「文明転換と支配の廃絶」より) さて、誰もがその主たる生活の場(あるいは実践や運動の場)で科学者たりうる具体例として私自身の頭に浮かぶのは、次のような実践です。 農林業や炭の生産などに取り組む人たちが、作物や土や樹木や生態系に関する「学習・研究」を行いつつ、(作られたものの質だけでなく環境全体への影響も含めて)よりよい生産を目指していく。 〔このような取り組みが広がりつつあることは、さまざまな個人がブログで発信している「情報」からもうかがえます。たとえば「すみや4134さんのブログ」などはいかがでしょうか?〕 今よりも安心して生活できる世界を目指して活動する環境NPOや反貧困ネットワーク等の人たちが、「現状に関する自然科学的あるいは社会科学的な研究」を行い、具体的な実践・運動に活かしていく。(活動の必要性や有効性について検証しつつ合意を広げていく。) 本来は、マルクスの「仕事」もこのような実践の延長上にあると考えるのですが・・・。 『国家と文明』 内容18へ また、現在、著者の竹内芳郎が主宰して立ち上げた「討論塾」の概略はこちらです。 可能な方は、ぜひご参加ください。
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Last updated
2022.09.17 19:45:12
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