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カテゴリ:国家と文明(市場原理主義と社会主義)
前記事で私は、旧マルクス主義の中にある一種の科学信仰(理論信仰)に対して「始祖のマルクスは一切責任なし」と考えているわけでもありません、と述べました。このことに関連しますが、まず、旧ソ連・旧東欧圏の崩壊は「マルクス主義の歴史的敗北を意味する」という厳然たる事実は必ずおさえておく必要があるでしょう。 なぜなら「空想から科学へ」を標榜したマルクス主義は、まさに「歴史の科学的法則」をとらえたと自認する思想であり、「資本主義社会が崩壊し社会主義社会が到来すること」によってはじめて「その正しさ」が立証される思想・理論だったからです。旧ソ連・東欧圏の崩壊についてはすでに拙ブログ記事(『国家と文明』 内容2)で触れました。 しかし、それ以外の中国、ベトナム、カンボジアや「自主管理社会主義」を目指すとしていた旧ユーゴスラヴィアなども含めて、マルクス主義を標榜する国家がほとんどことごとく「解放された社会」の建設に失敗している事実は限りなく重い、と言わなければなりません。 (ただし「キューバ」については別の評価もあるようです。) 近年、「資本論ブーム」復活か、と思えるほど『資本論』に関連した書籍が次々に発刊されていますが、上記の「厳然たる事実(=マルクス主義の歴史的敗北)」に真っ向から向き合わないままで展開される「学者や党理論家の解説」が果たして説得力を持つのか、ということが問われなければならないでしょう。 そして、私が竹内芳郎を評価しているのは、自己批判的にこの事実に正面から向き合おうとしているからです。この姿勢は初期から一貫していますが、1982年(旧ソ連崩壊の約10年前)執筆の「唯物史観の運命」(『具体的経験の哲学』第二論文)では、無政府主義者バクーニンのことばを引きながら次のように述べています。 「科学の名において生活の掟を発布することをおのれの使命と感じているこの科学の騎士たち〔マルクス派〕は、すべて反動的である・・・・・科学が人々を統治せねばならぬというところから出発するならば、幾百万の人々が百または二百人ほどの科学者たちに統治されることになってしまうだろう・・・・ 彼らに歯止めをかけなければ、彼らはまさに科学の名のもとに、今日ネコやイヌに対しておこなっているのと同じことを、こんどは全人類に対して実験するようになるだろう!」 「〈科学的社会主義〉とは・・・・本物または贋物の科学者たちのごく少数の貴族階級による、プロレタリア大衆への専制的支配以外の何ものでもない」、と。 バクーニンのこの予言は、不幸にして、歴史の中で見事に的中してしまった。 〔竹内芳郎 『具体的経験の哲学』123頁 「唯物史観の運命」〕 確かに「マルクス主義を生み出した状況はまだ乗り越えられていない」(サルトル)としても、現実の歴史を踏まえつつ「マルクス主義は必ず乗りこえられなければならない」という竹内芳郎の主張を私は支持しています。 そして、そのために彼が取り組んだのが「史的唯物論の再構成」であり、「国家論の見直し(分業国家論の重要性の強調)」であり、「科学のあり方の再検討」でした。マルクス・エンゲルスの思想自体に伏在していた貴重なものはどんどん掘り起こしつつ、マルクス主義理論そのものを再構成する仕事、それが『国家と文明』における理論的営みだったのです。 以上、『国家と文明』を中心に「竹内芳郎理論の歴史的な意義」、「私自身が評価する点」について述べました。 しかし、この理論はその目的からいって「現実を解明すると同時に変革の方向性や客観的可能性を明らかにするもの」、「社会を変革する(よりよい社会を創っていく)ための実践的な示唆を与えるもの」でなければならないでしょう。 確かに、これまで述べたことの中にも、そのことに関連する内容はできるだけ盛り込んでいくようにしてきたつもりです。ただ、もう少し補足が必要でしょう。 最後に、そのような意味における「竹内芳郎理論」の実践的な意義についてもう少し述べてみたいと思います。 『国家と文明』の復刊要請はこちら ですので、よろしくお願いいたします。 また、現在、著者の竹内芳郎が主宰して始めた「討論塾」の概略はこちらです。 可能な方は、ぜひご参加ください。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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