先月、城内先生(ウロコ先生)がお亡くなりになりました。〔ブログ:『学びの泉 ~五目スパゲティ定食~』〕
本当に残念です。とりわけ身近に接していらっしゃった方々の寂しさは想像に余りあります。
遠くからですが、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
私は、城内先生の実践しておられたことは、まさに未来を創っていく活動であり、「最後までご本人の意識は未来に向かっていたのではないか」、想像というよりほとんど確信しています。だからこそ、私自身、城内先生からの学びを整理しなおして受け継いでいきたい、と考えているのです。
さて、 「道草学習のすすめ」(2005年10月25日)でブログ主の信谷氏は、城内先生を中心とする「考える学習をすすめる会」の活動について次のように書いていらっしゃいます。
>なんといっても、一番の驚きは「勉強応援掲示板」です。
(・・・)
>だって、塾の先生にとって、各教科の教え方は公開するものではなく、ひっそりと磨くものなのです。それをネット上で公開すると言うことは、ライバル塾に自らの手の内を明かしていることにもなります。
(・・・)
>どうやら、商売というよりも、本当の学習のあり方の普及を目指しているのかもしれない。
>そう考えると、始めに抱いた疑問がすべて解消できます。
(・・・)
>あの場で答えるということは、観客がいる前で公開授業をしているのと同じ事なのです。
目的のすべてが「本当の学習のあり方の普及」だったわけではないようですが、ウロコ先生は、「勉強応援掲示板」だけでなく、ご自身のブログで(遊び心を入れつつ「手の内」をあかしながら)そのような実践を進められたのだ、とも言えるでしょう。
そのようなウロコ先生の問題意識について、信谷氏は2011年03月31日の記事でも紹介していらっしゃいます。
>やはり一番話題として多かったのは、
>本来は当たり前の「考える学習」がなされておらず、
>目の前の得点を上げるためだけの表層的な指導が
>学校や塾で蔓延していることに対して
>かなり強い危機感を感じておいででした。
だからこそ、「考える学習をすすめる」ために力を尽くされたのでしょう。(ただ、激務の中でも遊び心や周りへの配慮を忘れないご様子、お人柄はブログ記事からも伝わってきました。)
さらに、そのような実践の先には「誰もが生ききやすい社会」がしっかりと展望されていたのではないでしょうか。
僭越ながら、ウロコ先生のブログに書かせていただいた私のコメントに対する返信や、拙ブログにいただいたコメント(社会や政治にかかわる内容も多くありました)をご紹介しながら、ウロコ先生から学ばせていただいたことを整理しなおし、読者の皆さんとも一緒に考えていけたら、と考えるのです。
以下は2010年10月27日、ウロコ先生から拙ブログにいただいたコメントです。
昨日もウチの高3生(政経選択)と話したのですが、“全てが自己責任とするから頑張れるのか?”それとも“いざというときの外部的保障 (ため〔→注〕) があるから頑張れるのか?”の問題。
アメリカ型福祉と北欧型福祉の違いにとことん行き着きました。
前者は湯浅氏の言葉を借りれば「滑り台から落ちないために」、「いわゆる負け組にならないために」、常に悲壮感と向き合っていなければならず、生きることを楽しむ、皆が共存共栄するなんて言葉はいわば綺麗事ですね。
後者の立場からすれば、一人ひとりにあらゆる「ため」がない、つくれない社会は(・・・)「社会」としておかしい。そんな社会はけっして全体として強くはなれない。絆も生まれない。
「議論(お互いを認め合い、良い方向を探る)」と「討論(相手を打ち負かす)」の違いということも話題に出ました。日本人はインテリであるないにかかわらずすぐに「討論」の方向に向かってしまうか「引きっぱなし(傍観者)」に行くか二者択一傾向が強いように思います。
湯浅氏は大学時代からある意味大学での授業をそっちのけで「貧困者」支援活動に没頭してきたので、今回のしょう先生がまとめてくださったように切実に感じられたのでしょう。
市民社会のルール」という言葉、いつも忘れないようにしたいと思います。
貧困問題も、塾生という範囲に限られますが、昨日のように現社や政経の解説に絡め、理解を深める話し合いを高校生としていきたいと常々考えています。 続く


教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに
(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)