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2013.02.25
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カテゴリ:哲学・思想

 ジャン=ポール・サルトルの思想と実践が多くの人々に対して生き方を左右するほどの影響を与えたことについて前記事で触れましたが、概略でもそれを紹介することはなかなか困難です。

 ここでは、学生時代に書いた文章(最後の部分)を以下に紹介・転載します。よろしければご一読ください。

 〔以下、転載〕

 サルトルはまず、想像意識の研究を通じて意識(人間)の自由について論じた。彼は、想像意識が目前の現実からはなれて非現実の世界(想像界)を志向するということに注目し、このような意識の「現実離脱のはたらき」を(現実に埋没している事物とは異なる)意識の自由としてとらえたのである。

 だが、想像意識が現実世界から離脱するといっても、現実とのかかわりを断ち切ってしまうわけでは決してない。現実世界は像(イマージュ)がその上に成立する土台として常に想像意識を背後から支えているのである。そしてサルトルは、意識によって生きられる現実世界を〈状況〉(シチュアシオン)と名づける

 このように、『想像力の問題』​においてすでに〈自由と状況〉ということが主題となっているのである。だが、想像(イマジナシオン)という特殊な意識を扱ったこの著作において、中心的な主題は「想像意識の現実からの離脱」といった抽象的な自由であって、意識(人間)によって生きられる現実世界(状況)の問題ではなかった

 自由な意識存在(人間)とそれをとりまく現実世界(状況)とのからみあいを正面から扱ったのが『存在と無』​である。意識は現実世界(及び自己自身)に対して距離をおくことによって、それぞれ固有の仕方で現実世界とのかかわりを形成していく自由な存在である。

 ところが、世界内存在である意識(人間)は、常に特定の場所に、特定の事物や他者に囲まれて存在するのであり、サルトルはこのことを「意識の事実性」としてとらえる。

 行動というのはまさに人間の自由の表現なのであるが、ここにおいて事実性というのは行動の状況として把握されるのである。サルトルによれば、「自由は状況のうちにしか存在しないし、状況は自由によってしか存在しない。(注1)」

 つまり、人間の自由な行動というのは何らかの状況でしか実現されず、常に現実世界によって規定され、拘束されているが、しかし、まさに人間はこの現実世界を土台として自らの行動を実現するのであり、そのことによって所与の現実世界を私の状況として意味づけるのである。

 このように、『存在と無』においては、自由と状況との絡み合いが正面から扱われている。しかしながら、『存在と無』における状況というのは、それ自体では意味・構造を持たない所与であり、私の自由な意識によって「私の状況」として意味づけられるものにすぎなかった。つまり、『存在と無』においては状況というものが抽象的にしか扱われておらず、「状況における自由」としての人間も、真に具体的レヴェルで解明されてはいないのである。

 具体的な状況というのは既に何らかの意味を持った社会的・歴史的状況なのであり、具体的な人間というのはこの状況によって深く規定された社会的・歴史的人間なのである。第2次世界大戦後サルトルは(状況への)アンガージュマンという思想と実践​によってさまざまな曲折を経ながらも、しだいに社会的・歴史的状況に対する認識を深化させていく。そして、そのことによってしだいにマルクス主義の真の意義を理解し、評価していくことになるのである。

 1960年の大著『弁証法的理性批判』​においてサルトルは、実存主義とマルクス主義を統合することによって構造的(社会学的)人間学を構築した。この仕事によって彼は、教条主義的マルクス主義を根底から克服していく道を開いたわけであるが、同時に旧著『存在と無』における自らの哲学をも乗りこえたのである。

 つまり、『存在と無』において、状況というのはそれ自体では無意味・無構造的な所与であったが『弁証法的理性批判』においては、それが客観的な意味・構造をそなえた社会的・歴史的状況としてとらえられている。

                                       後半に続く

(注)

1)『存在と無』 187頁

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