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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

新地球日本史(1)

(2004/07/05)

【新地球日本史】(1)

日本人の自尊心の試練の物語(1)

歴史に学んで自己を改められるか

先の大戦で日本が中国大陸にさながら泥沼に入りこむように深入りして、抜け出そうにも出られなかった状況について、われわれはここ半世紀、「あれは失敗だった」「ああせずに、こうしておけば良かった」「日本人は道を誤った」と反省と悔悟の声を上げることしきりであった。

勿論、日本は近隣国とは干戈(かんか)を交えないほうが良かったに違いない。地球の裏側に回って戦争をしかけたり植民地を作ったりすることが日常茶飯事であったのが二十世紀の前半までの世界だった。日本はその仲間入りはしなかったし、できなかった。それならいっそのことどことも戦争をしなければ良かった。否、欧米とは戦っても、中国とだけは戦わなければ良かった。そう考える人が今の日本にはことのほか多い。

自分の過去の失敗や踏み外しを反省することはもとより悪いことではない。けれども反省したからといって現在の自分がほんの少しでも利口になったといえるのかどうかは、まったく次元を異にする別の問題である。歴史に学んで自己を改めるとか同じ歴史の過ちを二度と繰り返さないとか、よく人はそういう言葉を簡単に口にするが、人間は過去において失敗や過ちを犯すつもりで生きていたわけではない。成功と正しさを信じて生きていたのである。従ってそのときの心の真実をもう一度改めて蘇らせ、同じ正しさを再認識し生き直さない限り、それが失敗や過ちであったかどうかさえ分かるわけがない。

過去の行為の間違いを正すことにおいて、現在の人間は果てしなく自由であるが、現在の行為の間違いを正すことに、それがほんの少しでも役立つと考えるのは、ほろ苦い自己錯誤であろう。

例えば、いま日米韓の三国は金正日の国をソフトランディングさせたい、なるべく禍(わざわい)を自国に及ぼさないで解決したいと考え、この国の生き延びを許してしまっている。日米韓それぞれの事情があって自由に動けない。ことに日本は無力である。その結果、拉致された自国民を救出できないばかりか、北朝鮮の人民が日々飢餓にあえいで惨死しているのを黙視している外ない。日本人は自分の道徳感情に従って自由に行動できない現実を目の前に見ている。

われわれはいま本当は重大な過誤の入り口に立っているのかもしれない。できるだけ平和的に解決しようとする思いが大きい余り、朝鮮半島への今後一世紀の経略を間違え、とんでもない運命を選択しようとしているのかもしれない。それはずっと先になってみなければ分からない。しかし人間はつねにそのとき最善と思う道を選ぶ。今度の件もどうなるかは分からないが、それなりの成功と正しさを信じて、日本人は新しい政策を選ぶであろう。

かつて中国大陸に泥沼にはまるように行動した悪夢のような選択を今の日本人はしきりに「反省」するが、呼べども叫べどもどうにもならなかった、手に負えない厄介な世界があの当時の大陸だった。過去の日本の間違いを正すことにおいてすこぶる自由な今の日本人は、それなら目の前の政治の選択においても間違いがなく、自由で賢明であり得るのであろうか。

人はいつの時代にも不自由で、見えない未来を日々切り開いて生きているのではないのか。

朝鮮半島という、われわれがいくら声を張り上げて叫んでも言葉の届かない、手に負えない世界を前にしている今の日本人と、大陸政策で批判ばかりされてきた過去の日本人と、不自由という点で原理上どんな違いがあるというのだろう。

勿論、過去の日本は軍事進出していた。今の日本は資金投与の方法以外に他国を少しでも動かす方法を他に知らない。そのように行動の種類は異なっているが、力の行使という点では同じであり、しかもその力がもたらす結果の見通しの不透明という点では、きわめてよく似ているのである。このようにいくらこうしたいと自分で思ってもそうできない現実はいつの時代にも存在する。

(評論家 西尾幹二)





(2004/07/06)

【新地球日本史】(2)

日本人の自尊心の試練の物語(2)

100年経たなければわからない

ことに対中援助の実情を見る限り、戦後の日本は泥沼にはまりこんで身動きできない戦中の日本にある意味で似た状況に陥っているようにみえはしないだろうか。三兆円にも達するといわれる外務省管轄の対中ODA(政府開発援助)とは別枠で、大蔵省が管轄してきた旧日本輸出入銀行を通した中国向けのアンタイドローンというのが存在する。これらがどうやらODA総額を軽く上回るほどの不気味な巨額をなしているらしいことを最近われわれに教えてくれたのは、古森義久氏の『日中再考』であった。

知らぬ間にどんどん増えた援助の実体は中国国民に感謝されていないし、知らされてもいない。これで道路や空港を整備した北京がオリンピック主催地として大阪を破り、毎年の援助額程度で相手は有人宇宙衛星を飛ばして、日本を追い抜いたと自尊心を満たしている。それでも日本は援助を中止できないという。そのからくりがどうなっているのかは素人には分からないが、まさに泥沼に入り込むように簡単に足が抜けないのが、今も昔もいつの世にも変わらぬ、日本から関与する中国大陸である。いま競って企業進出している産業界も、付加価値の高い上位技術で利益をあげ、有卦(うけ)に入っているが、やがて戦中と同じ「手に負えない」局面にぶつかる日も近かろう。

朝鮮半島も中国大陸も、昔から日本人には理筋の通らない、面倒な世界でありつづけた。日本を「倭奴」とか「東夷」といって軽く見て、欧米人の力には卑屈に屈服しても日本人の力には反発し、恭順の意を表さない。

こうして今のわれわれが依然として半島にも大陸にも「手に負えない」ものを感じ苦しんでいるのだとしたら、先の大戦での日本の政策や行動をどうして簡単に「あれは失敗だった」「ああすりゃ良かった」「手出ししなければ良かったんだ」など小利口に批判することができるのだろうか。

窪地に水を流し込むように、日本を含むあの時代の国際社会は競って中国に兵力を投入した。日本を含む今の世界各国の企業が、窪地に水を流し込むように、競って資金を投入しているさまにも相似ている。今の産業界にも「手出ししなければ良いんだ」とうそぶいて、小利口ぶりを発揮する企業があれば見たいものだ。日本経済が今これで上向きになっているのだから、進出企業は聞く耳を持つまいが、だとしたら成功と正しさを信じた軍の華北進撃を批判しても、当時の軍に聞く耳がなかったことは、いかんせん止むを得ぬことではなかったのか。

今のわれわれに未来がはっきり見えないように、当時の日本人もまた見えない未来を必死に手探りしつつ生きていたのであって、愚かといえば確かにどちらも愚かであるが、健気(けなげ)で、無我夢中で、我武者羅(がむしやら)に前方ばかりを見て、哀れなほどに愚直に生きているのだといえば、戦中も今も、日本人の生き方はどちらも似たようなものではないだろうか。

われわれは過ぎ去った昔日の行為を、現在の感覚や判断であれこれ道義的にきめつけて、「反省」しても、さして意味のないことにもっと深く思いを致すべきだろう。過去に対する現在の人間の自由な批判は、むしろ横暴で、傲慢(ごうまん)で、浅はかであることを肝に銘じておくべきだろう。

「歴史に学ぶ」とは歴史の失敗に関する教訓を、現在のわれわれの生活に活用するというような簡単で分かりやすい話ではあるまい。失敗かどうかさえも本当のところはよく分からないのだ。そんなことをいえば現在のわれわれの生活だってすでに失敗を犯し、取り返しのつかない選択の道を潜り抜けているのかもしれない。

ある人は大東亜戦争は侵略であり、犯罪であるという。別のある人は愚行であり、過信の結果であったことだけは間違いないと反省する。負けた戦争は成功とはいえないから、後者に一応の理はあるが、どれが本当のところ正しかったかはあと百年経ってみなければ分からない。

(評論家 西尾幹二)




(2004/07/07)

【新地球日本史】(3)

日本人の自尊心の試練の物語(3)

不可解な19~20世紀前半の世界

大東亜戦争の開戦間もない昭和十七年(一九四二)二月十五日のシンガポール陥落の報は、日本だけでなく、世界中をあっと驚かせた。日本の同盟国ドイツ、イタリアは歓声をあげ、イギリスは狼狽(ろうばい)、アメリカは沈黙、他の国々で日本との国交断絶を計画していた国は次々と見合わせる方針を発表した。電光石火日本軍に席巻されたイギリスの不甲斐(ふがい)なさにアメリカは失望の意をあらわにした。イギリス海軍はその少し前、目の前のドーヴァー海峡をドイツ艦隊が通過するのを阻止できなかった。アメリカはこの件にも失望していた。

戦争の行方は分からなかった。アメリカにもイギリスにも恐怖があった。終わってしまった結果から戦争を判定するのは間違いである。未来が見えない、どうなるか分からない、その時代の空気に立ち還って考えなくてはいけない。

十九-二十世紀前半は今思うとまことに不可解な時代であった。世界政治の中でどの国が覇権を握るかをめぐるテーマが最大の関心事で、列強とよばれる国々では、世界に膨張しなくてはその地位を維持できず、小国に転落するという論調が堂々と罷り通っていた。

各国は簡単に銃をとり、一寸(ちょっと)したことで感情を高ぶらせて戦争に訴える計画に走った。故高坂正堯氏によると、十九世紀末にはイギリスとアメリカがすんでのところで戦争になるという局面さえあったそうだ。それはイギリスの植民地ガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こし、ベネズエラがアメリカに仲介を頼んだことによる。調停案を持ち出したアメリカを大国イギリスは相手にしなかった。アメリカはそんな役割を果たせるだけの大国になっていなかったからだ。イギリスはアメリカを生意気な子供扱いにしたために、アメリカの感情が激化し、英米戦争の可能性が取り沙汰(ざた)されたのだった。

十九世紀末にアメリカはまだ実力のない新興国だった。太平洋の緒戦でイギリスがシンガポールを落した一九四二年までに、イギリスからアメリカへの覇権の移動が徐々に進んでいた。イギリスの歴史教科書は、「第一次世界大戦で世界に二つの大国が出現した-アメリカと日本」と書いた。ガイアナとベネズエラの国境紛争があわや英米戦争になりかけたのは、アメリカの覇権獲得までの小さな途中劇であるが、イギリスに負けまいとする若いアメリカの意地のドラマでもあった。

二十世紀前半まで、このように列強は自尊心のためとあらばときとして自分を危険に陥れる冒険をいとわなかった。大東亜戦争もある程度までは、というよりかなりの程度まで、日本人の自尊心が絡んでいる。主たる交戦国アメリカを戦前において心底から憎んでいる日本人はほとんどいなかった。シンガポール陥落の日、朝日新聞ベルリン支局が各国の特派員に国際電話した「世界の感銘を聴く」(十七日付夕刊)の中に、ブルガリアの首都ソフィアの前田特派員からの次のような言葉が見出せる。

「最近こんな話があるよ。ブルガリアの兵隊二人が日本公使館を訪れて突然毛皮の外套二着を差出しこれをシンガポール一番乗りの兵隊と二番乗りの兵隊に送ってくれといふんだ。山路公使は面喰(めんくら)って御志だけは有難(ありがた)く受けるが、シンガポール戦場は暑くてとてもこの外套を着て戦争は出来ないからと鄭重に礼を述べて帰らせた」と、同盟国ブルガリアの歓喜の声を伝えている。まるでオリンピックのマラソンの一着、二着が報ぜられたかのごとくである。「一番乗り」「二番乗り」から私が思い浮かべるのは現代の戦争ではなく、むしろ、あえて言えば、『太平記』や『平家物語』に近いといってよいだろう。

自尊心、功名心、忠勇無双-世界中どこでも当時戦争に対する国民の意識は同じようなものだった。空中戦で敵機を百機撃ち落した「撃墜王」は日本にもアメリカにもいたはずだ。例の「百人斬り」も、勇者を讃(たた)える戦意高揚の武勲譚(たん)で、戦後になってこれをことごとしく問題にする方がおかしい。

(評論家 西尾幹二)




(2004/07/08)

【新地球日本史】(4)

日本人の自尊心の試練の物語(4)

米国は日本攻略を策定していた

ペリーが浦賀に来航した十九世紀中葉、アメリカはまだ当時の一等国ではなかった。アメリカが大国の仲間入りをしたのは一八九八年にハワイを植民地にし、フィリピンを領有して以来である。ほぼ同年にグアム、ウェーク、サモアを抑えた。アメリカが「モンロー宣言」を出したのは一八二三年だったが、南北戦争(一八六一-六五)が片ずくと、太平洋に対しては遠慮のない進出を開始し、この宣言をアメリカの孤立主義の声明と解釈することはできない。

南太平洋にじりじりとアメリカが北上し勢力を押し広げていくこの時期は、日本が日清・日露の戦いに向かい勝利を収め一等国に名乗りを上げる時代にほぼ相前後する。

アメリカは二十世紀初頭にハワイからグアム、フィリピンを結ぶ線を新国境と定めた。イギリスは西太平洋におけるアメリカの支配を認めて、その水域から英艦隊を撤収した。極東におけるイギリスの関心は日本ではなくロシアだった。イギリスは第一次大戦よりも前に世界に手を広げ過ぎたことを意識しだし、軍事力、財政力の限界に気がついた。中国における自国の権益を維持するのに、イギリスは日本の軍事力に依存する必要さえ感じていた。日英同盟(一九〇二)はイギリスの利に適(かな)っていたのである。

しかしアメリカはそうではなかった。アメリカはロシアを脅威とはみなさず、むしろ日露戦争後の日本の大国へのめざましい躍進ぶりに神経をとがらせていた。第一次大戦で日本が戦勝国として得た山東省の利権に反対してアメリカの上院はベルサイユ条約を批准しなかったし、ワシントン会議では日英同盟を破棄させその後日本を追い込む戦略に余念がなかった。

われわれ日本人は太平洋でのアメリカとの衝突を顧みるとき、先立つ世界史の大きなうねりを再考する必要がある。ヨーロッパとアジアで起こった覇権闘争はまったく性格を異とする。ドイツが引き起こした戦争は、欧米キリスト教文明の「内戦」にほかならない。ヒトラーは欧米文明の産み落とした鬼っ子である。宗教史的文脈で考えなければ、ユダヤ人の大量虐殺の説明はつかない。

それに対し太平洋の波浪を高くしたのは、一つには同時期に勃興(ぼっこう)した若き二つの太平洋国家・日米が直面した“両雄並び立たず”の物理的衝突である。二つには、白人覇権思想と黄色人種として近代文明を自力でかち得た日本民族の自尊心をかけた人種間闘争の色濃い戦争である(昭和天皇は戦争の遠因にカリフォルニアの移民排斥問題と、ベルサイユ会議における日本提出の人種差別撤廃法の米大統領による理不尽な廃案化をおあげになっている)。

歴史家はいったいなぜ自国史を説明するのにファシズムがどうの帝国主義概念がどうのと、黴(かび)の生えた「死語」をもち出したがるのか。歴史を見る目は正直で素直な目であることが大切である。

大東亜戦争は起源からいえば日英戦争であった。イギリスの権益は日本の攻撃でアジア全域にわたって危機に陥れられたからだ。しかるに実際に日本の正面に立ちはだかったのはアメリカだった。そこに鍵がある。ヨーロッパ戦線ではアメリカはどこまでも“助っ人”だった。しかし太平洋では“主役”だった。なぜか。

当時日本軍がアメリカ本土の安全保障を脅かす可能性がないことは、情報宣伝局は別として、アメリカ政府はよく分かっていた。ハワイは当時アメリカの州ではない。日本軍が米大陸に最も接近したのはアリューシャンの二、三の島を占領したときだが、それとて約四千キロ離れていた。アメリカはイギリスの“助っ人”という程度をはるかに超え出て、全面関与してきた。明らかに過剰反応である。

日露戦争の日本の勝利以来、アメリカは日本を標的とし始めた。日本がちょっとでも動き出せば叩(たた)き潰(つぶ)そうと待ち構えていた「戦意」の長い歴史が存在した。

アメリカの目的は最初から明白に日本の攻略であり、太平洋の覇権であった。

 (評論家 西尾幹二)




(2004/07/09)

【新地球日本史】(5)

日本人の自尊心の試練の物語(5)

一度指した駒は元に戻らない

昭和十六年十二月八日、あの開戦の日、高村光太郎や佐藤春夫の国民を鼓舞する高調した詩が新聞を飾ったことはよく知られているが、そういう感情とは何の関係もないように生きていた二人の作家の、次のことばを、われわれはどう考えたらよいだろう。

「十二月八日はたいした日だつた。僕の家は郊外にあつたので十一時ごろまで何も知らなかつた。東京から客がみえて初めて知つた。『たうたうやつたのか。』僕は思はずさう云つた。それからラジオを聞くことにした。すると、あの宣戦の大詔がラジオを通して聞こへてきた。僕は決心がきまつた。内から力が満ちあふれて来た。『いまなら喜んで死ねる』と、ふと思つた。それ程僕の内に意力が強く生まれて来た」(武者小路実篤)。

もうひとり、開戦のラジオ報道を耳にして、「しめきつた雨戸のすきまからまつくらな私の部屋に光のさし込むやうに、強くあざやかに聞こへた。二度朗々と繰り返した。それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変はつてしまつた。強い光線を受けて、体が透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹を受けて、冷たい花びらをいちまい、胸の中に宿したやうな気持ち。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ」(太宰治)。

二人とも戦争協力などとは何の関係もない、きわめて非政治的な文学者である。二人の反応は国民の普通の受け止め方であったと考えてよい。国民は開戦を容易ならざることと感じたが、これをマイナスの記号で受け止めた者はほとんどいなかった。そう言い出す人が出てくるのは戦後になってからである。

当時一高教授であった竹山道雄が、「われわれがもっともはげしい不安を感じたのは戦争前でした。戦争になって、これできまった、とほっとした気持ちになった人もすくなくありませんでした」と書いているのは、武者小路、太宰のことばに照応する。

開戦の日、私は満六歳五カ月。あの日のことは記憶にはあるが、考えて何かを判断する年齢ではまだない。ならば八、九歳まで私は日本と世界の関係についてまったく何も考えないでいたのかといえばそうではない。昭和十九年十月以来、神風特別攻撃隊の出撃が報じられだした。三年生の二学期が始まって間もなくである。私は将来特攻隊に志願するつもりだと親にも、先生にも伝えた。それは当時の子供の多くが口にした当然のことばだった。

今の知性は、戦時体制が幼い子供たちまでをも欺き、犠牲にしようとしたとわけ知りに言いたがるだろう。純情無垢(むく)な心ほど色を染めるのが簡単だ、と。けれども幼い無垢な心といえども、道理に合わない事柄をそうやすやすとは受けつけないものなのだ。子供でも理性を納得させない事柄には進んで参加しようとはすまい。幼い心は幼いなりに、自分と国家、国家と世界の関係について、漫然と何が正義であり、何が不正であるかを、教えられてきた事柄の中から選び、掴(つか)み出して、案外正確に黙って判定の根拠にしているのである。

間違えないでいただきたい。棋士が将棋を指すときに「待った」は許されない。一度指した駒は元に戻らない。つまり行為の選択は、そのつどの決断である。そして決断は不可逆である。日本はその通過点をすでに通り越している。そのことは九歳の理性にも判然としている。いったん開戦した戦時下の日本には戦う以外のいかなる選択の道もなかった。その必然の中にしか自由はなかった。

昭和十九年には六月にB29による本土空襲が始まった。七月に東条内閣が総辞職した。南の島々の日本守備隊が相次いで玉砕した。間もなく一億玉砕、本土決戦が口の端にのぼるようになった。特攻隊員は「お先に行きます」の気持ちだった。無差別の行動ではない。イラクの自爆テロとはわけが違う。元に戻らない時計の針を自分の意志で少しだけ前へ進める。それは自由への跳躍だった。

子供心にもそのことは分かっていた。

 (評論家 西尾幹二)




★(2004/07/12)

【新地球日本史】(7)

明治憲法とグリム童話(1)

伊藤博文の“歴史の発見”

明治十五年(一八八二)七月、伊藤博文は悶々(もんもん)とした日々を過ごしていた。この年の三月に渡欧の大命を受け、五月以来ベルリンに滞在していたものの、憲法調査の仕事が何ら捗(はかど)っていなかったからである。

伊藤は五月半ばにベルリン大学教授で高名な憲法学者であったルドルフ・フォン・グナイストを訪ね、憲法制度に関する講義をしてくれるよう依頼した。しかし、そのときのグナイストの言葉に伊藤は失望した。

「憲法は法文ではなく、精神であり、国家の能力である。自分はドイツ人であり、ヨーロッパ人なので、ヨーロッパやドイツのことは知っているが、日本のことは知らない。だから日本の歴史や風俗、人情について説明して欲しい。それらを考えてみて参考になることは申し上げるが、それがあなたの憲法編纂(へんさん)に参考になるかは自信がない」

このグナイストの発言は、後に述べるように彼が依拠した「歴史法学」の立場からの憲法編纂に関する適切なアドバイスであったが、伊藤はこれを自分たちに対する冷淡な姿勢と誤解した。また国会を開設しても外交・兵制・会計の三点については関与させてはならないとの助言は、伊藤には専制的に過ぎるとも映っていた。

確かに日本はヨーロッパではない。ヨーロッパ人以外には立憲政治運営の能力はなく、無理だというのか--伊藤はグナイストの言葉に、このような人種差別的な感情さえ見出そうとしていた。

加えてグナイストの講義は必ずしも体系的ではなく、談話風のものだった。体系的な講義は弟子のモッセに任せられたが、彼は法律実務家といった性格が強く、講義もプロシア憲法の逐条解説で、伊藤らを満足させるものではなかった。

しかし、何と言っても、伊藤にドイツ語が理解できないことは決定的な問題だった。ドイツの法政理論についても全くの門外漢で、通訳を通じて理解することも難しかった。随員もドイツ語が理解できたのはわずかに二人。このような中で、憲法調査はほとんど実績が上がっていなかった。

伊藤らはベルリンで無為の時間を過ごし、焦燥感だけが募っていた。ついには、予定の一年間ではとても憲法調査の目的を達せられる見込みがないので滞在を延期して欲しい、と日本政府に申し出るまでの心境に至っていた。

その後、いわば藁(わら)をもつかむ気持ちでオーストリアのウィーンを訪れ、ウィーン大学の看板教授で著名な国家学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪ねることにした。随員らがかねて旧知のシュタインであれば我々の思いに適(かな)うような講義をしてくれるに違いない、と助言したからである。

八月八日、伊藤らはウィーンに到着するや、その日のうちにシュタインに面会した。伊藤はシュタインが説く英独仏三国の政治体制・立憲政治の比較論に強く魅了された。加えてシュタインはグナイストと違って、初めから伊藤らに極めて好意的に接してくれた。講義も伊藤らが理解できる英語で行ってくれた。しかし、伊藤らにとって重要だったのはシュタインの講義内容である。

シュタインはこのとき、多くの日本人が遙々(はるばる)ヨーロッパに来て、ヨーロッパの法制度を機械的に習得していることを論難した。

そのような学び方をして作り上げた日本の法は単なる外国法の引き写しでしかない。そうではなく、まず自国の歴史についての省察が学問の根幹になければならない。そしてその上にヨーロッパで学んだ知識を接ぎ木していくことが必要である--このようなことをシュタインは繰り返し教え諭した。

そうか、憲法は何より日本の歴史や伝統に基づかねばならないのか。ただ西洋の物まねだけでは駄目だ。日本の歴史に根差した憲法を作らねば…。シュタインとの出会いは伊藤にこのような確信を与えた。そしてこのいわば“歴史の発見”とでも呼ぶべき精神的な事件が明治憲法の起草の姿勢を決定付けた。

(高崎経済大学助教授 八木秀次)




(2004/07/13)

【新地球日本史】(8)

明治憲法とグリム童話(2)

歴史法学者としてのグリム兄

伊藤博文はシュタインの講義によって、日本の事情に何ら配慮することなく、単に欧米の政治思想をそのままに輸入し、それを金科玉条のように振り回す自由民権論者の主張に対抗できる「道理と手段」を得た。伊藤はまるで「死処を得た」かのような満足感と自信に溢れた気持ちになり、そのことを岩倉具視や井上馨に書き送っている。

実は伊藤に見られた“歴史の発見”は、明治憲法の他の起草者にも期せずして共通して見られたことだった。その意味では明治憲法は起草者たちによる自国の歴史・伝統への回帰ないしは再認識といった現象の上に成立したものだった。

先に伊藤らが最初に教えを受けたグナイストは「歴史法学」という学派に属する学者であると述べたが、実はシュタインもまた同じ学派に連なる学者だった。

「歴史法学」とは一八一四年、ドイツにおける民法典編纂(へんさん)の是非を巡る論争をきっかけに、ベルリン大学教授のフリードリッヒ・カール・フォン・ザヴィニーが創設したものである。ザヴィニーはナポレオン法典を近代法典として称揚する刑法学者アンゼルム・フォイエルバッハや民族の統一を法の統一によって行うべきだと主張するローマ法学者アントン・ティボーらに反対して、法は人為的に作られるものではなく、自然に生成するものだと主張した。法は言語や習俗と同じく民族に固有な性質を持っており、それは古くからの慣習に基づくものでなければならない。法は「民族の共通の確信」や「民族信念」に基づくものであり、民族そのものである-。

このような立場からザヴィニーは早急な立法よりも法学の確立こそが重要であり、それは法の歴史を明らかにすることであると主張した。そしてあり得べき法学を「歴史法学」と名付け、翌年、『歴史法学雑誌』なる雑誌を創刊して「歴史法学派」を形成していった。やがてこの歴史法学派は、ドイツ法学界を支配していくことになる。

ところで、このザヴィニーのマールブルク大学時代の一番弟子が『グリム童話』で有名なグリム兄弟の兄、ヤーコブ・グリムであることはあまり知られていない。彼は『歴史法学雑誌』にその第二号から「法の内なるポエジー」他、しばしば論文を発表し、『ドイツ法古事誌』(一八二八年)や『判告録』(一八四〇-六三年)などの著作もある代表的な歴史法学者であった。

ヤーコブはゲルマンの慣習法を収集するのと並行して民間伝承の収集を行い、それが一般に『グリム童話』と呼ばれる『子供と家庭のための童話』(一八一二年、一五年、二二年)や、『ドイツ伝説集』(一八一六年、一八年)、『ドイツ神話学』(一八三五年)などに結実した。その意味では『グリム童話』は歴史法学研究の副産物であるといっていい。

彼にとってゲルマンの民間伝承の収集と慣習法の収集とは別物ではなかった。二つともゲルマンの民衆の歴史を物語るものであり、立派な歴史的資料である。『グリム童話』こと『子供と家庭のための童話』は、物語性を追求して弟のヴィルヘルム・グリムによって何度も書き換えられることになるが、当初は、その残酷な描写や性的描写を含めてゲルマンの民衆の抱く正義や罪と罰の観念をそのまま反映したものでもあった。

しかし、歴史法学はやがて法の歴史的研究の重きをドイツ民族の固有の法たるゲルマン法の研究に置くゲルマニステン(ゲルマン法学派)と、ローマ的学説法の延長にドイツ法学を構想するロマニステン(ローマ法学派)とに分裂することになる。しかも学派の創始者ザヴィニーが後者に属することになったのは皮肉なことであり、そのためヤーコブはザヴィニーと決別することになる。

実は伊藤が大きな影響を受けたシュタインもまたザヴィニーから大きな思想的影響を受けながらもやがて決別し、その学説を批判的に継承することになるゲルマニステンの一人であった。

(高崎経済大学助教授 八木秀次)




(2004/07/14)

【新地球日本史】(9)

明治憲法とグリム童話(3)

シュタインの先進理論に学ぶ

シュタインは伊藤博文に日本の歴史と伝統に基づいて憲法を作るようにと助言した。この助言こそは、法は民族固有のものであるととらえるゲルマニステン(ゲルマン法学派)の立場からのものであった。

ところで法の歴史的研究をするに当たって、ロマニステン(ローマ法学派)が『ローマ法大全』を権威的テキストにするのとは異なり、ゲルマニステンには依拠すべきテキストが存在しなかった。そのためヤーコブ・グリムらは古いゲルマンの慣習法の研究に関心を向けていった。しかし、シュタインの場合は、その目を過去にのみ向けるのではなかった。

シュタインは歴史法学の歴史的方法を、歴史には発展段階があると理解した。その上でヨーロッパをゲルマン精神に基づいて一つの内的な統一体とすることを構想し、ゲルマン法を基にしたヨーロッパ法を構想した。その意味ではシュタインにとって古来の法を研究するゲルマン法史学はそのままヨーロッパの将来を構想するヨーロッパ法史学でもあった。重要なのはシュタインがヨーロッパ法史学を構想するに当たって、現代を「社会」の時代と規定し、この新たな時代には新たな学問の構築が必要であると考えたことである。

シュタインは一八四一年から一年半、パリに留学した。彼がそこで見たのは、フランス革命以来活発化していた社会主義・共産主義の諸運動であり、産業化の進展によって生み出されたプロレタリアートの存在、そしてそれと同時に促進される階級分化、階級間の不平等の強化・固定化といった事態であった。

このような階級間の敵対構造を放置しておけば不断の革命状況が醸成する。これは以前には知られていなかった全く新しい状況であり、現代の生活を規定するものである。シュタインはこのように考えた。

シュタインにとって、フランスの現在の状況はドイツの明日の状況でもある。この階級対立、大衆窮乏化という現象こそが民衆にとって最も切実な問題である。この現実を前にしながらローマ法の研究なぞしているなんて、何と呑気(のんき)なことか。

ここからシュタインは、現代の「社会」問題を解決するために、行政部の優位による上からの社会改革を構想する。行政権力が上から強力に社会改革に乗り出し、市民社会に積極的に介入することで国民間に融和をもたらし、国民の福祉を増進させる。シュタインはその担い手を行政官僚に見出し、彼らを国家を担う存在たる「国家人(Staatsmann)」として養成するための学問として「国家学(Staatslehre)」を構想した。今日、シュタインの考えは行政国家・福祉国家論の先駆と捉えられている。

伊藤がシュタインから学んだのは、このように自由民権派が依拠していた理論を一歩も二歩も先取りした極めて先進的な学問であった。階級対立状況の中で自由民権派が依拠していたJ・J・ルソーやJ・S・ミルの思想は、もはや時代遅れのものになっていた。伊藤がシュタインの話を聞き、自由民権派を乗り越える「道理と手段」を得、「死処を得る心地」がしたと岩倉具視に手紙(明治十五年八月十一日付)を書き送ったのは、そのような事情があってのことである。

シュタインの理論は、明治憲法第八条に規定された「緊急勅令」や、第九条の「独立命令」に直接表われ、また運用においても超然内閣主義に表われた。伊藤らは行政の力によって国民の福祉を増進すべきというシュタインの考えに伝統的な「仁」の発想を重ね合わせようともしていた。

ただシュタインの理論は当時としては故国ドイツには全く受け入れられず、この頃、シュタインは孤立していた。その時、シュタインの目の前に現れたのが伊藤ら一行であり、シュタインは好機到来とばかりに、自らの理想の国づくりを明治日本に託そうとしていた。伊藤らに親身に接したのは、彼の性格によるものばかりではなかった。

(高崎経済大学助教授 八木秀次)




★★★★★(2004/07/15)

【新地球日本史】(10)

明治憲法とグリム童話(4)

井上毅の国典研究

伊藤博文はシュタインに魅了され、日本政府にシュタインを憲法制定のための顧問として招くよう進言する。日本政府も聞き入れたが、当のシュタインは断った。

六十八歳という年齢の問題もあったが、何より自分は日本の言葉もできず、日本人の人情・風俗も理解できない。また日本の歴史についての知識に乏しい外国人の自分が日本の憲法の起草に携わるのは、その任に堪えられない、というのがその理由であった。

これは彼の歴史法学者としての良心の反映でもあった。

こうしてシュタインは渡日を断ったが、その後も日本から訪ねてくる政府関係者や留学生を懇切に指導した。そして彼らの口から「ヨーロッパに行くならシュタインを訪ねよ」と語られ、当時「シュタイン詣で」なる現象があったほどシュタインは日本人から頼られた。一八九〇年(明治二十三)に彼が亡くなった際には日本国内で神式で祭られたほどだった。

シュタインは彼らに、国家を改良する際には風俗・文化と伝統的な宗教を保持すべきことを説いた。「建国の体」や「慣例教化」を重視し、それを損なってはならない。あくまでそれらに基づいた改良が必要であって、その点に留意しないで唐突に行えば、国家は混乱に陥るだけだ、と拙速な西洋近代化を戒めた。

また日本人が自国の歴史に関心がなく、自国の文化や歴史を軽視する傾向があるのを憂い、歴史教育の必要性を強調した。「日本は自ら日本に特有の文化あることを知らざるべからず」--シュタインはこう述べて、日本人は自国の歴史と独自の文化にもっと自信を持つべきであり、歴史の連続性の上に近代的な法制度を作り上げるべきだと繰り返し説いた。

一方、伊藤が遠くヨーロッパの地で、自国の歴史の重要性に目覚めさせられたころ、日本国内には井上毅(こわし)が残って憲法調査をしていた。井上は伊藤にヨーロッパに憲法調査に赴かせる舞台作りをした人物で、伊藤が調査する項目も井上が書いたものだった。

彼はもともと欧米の法制度に通暁しており、憲法をイメージするに当たってはもっぱらドイツ諸国やベルギーの憲法を念頭に置き、聖徳太子の十七条憲法など我が国の歴史・伝統に遡ることを厳しく戒めていた。

その井上が小野梓(あずさ)に刺激され、「海の東西を問わず、総(すべ)ての国がその憲法および百般の政治については、その淵源基礎を己の本国の歴史典籍に取らぬ国はない。国の歴史上の沿革及び故典慣例は、その憲法並びに政治の源である」(「国典講究ニ関スル演説」)との認識に至り国典研究の必要に目覚めることになる。

こうして井上は、小中村清矩(きよのり)、落合直文、増田于信らの国文学者と交わり、日常の助手として小中村の養子、小中村(池辺)義象(よしかた)を用いて、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』以下の六国史、『令義解』『古語拾遺』『万葉集』『類聚国史』『延喜式』をはじめ、『貞観儀式』『江家次第』『姓氏録』『和名抄』『玉海』『禁秘抄』『神皇正統記』『職原鈔』『大日本史』『日本政記』『本朝皇胤紹運録』『古事記伝』『職官志』『弘道館記述義』『新論』などの研究に励む。

そしてこの国典研究の中で井上は、「我が国の憲法は欧(ヨー)羅(ロッ)巴(パ)の憲法の写しにあらずして、すなわち遠つ御祖(みおや)の不文の憲法の今日に発達したものなり」(「梧陰存稿」)との確信を強めていく。

中でも千葉県鹿野山登山をしていた際に、小中村義象の示唆から着想したとされる、『古事記』の「出雲の国譲り」の段で区別して使われている「シラス」と「ウシハク」という二つの統治理念の違いは、明治憲法第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という規定を制定する際に大きな影響を与えた。

井上が明治二十年(一八八七)春に伊藤に提出した二つの憲法草案の第一条にはともに、「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」と規定され、「シラス」の理念が明記されることになる。

 (高崎経済大学助教授 八木秀次)





(2004/07/16)

【新地球日本史】(11)

明治憲法とグリム童話(5)

「シラス」と「ウシハク」

井上毅(こわし)が重視した「シラス」という統治理念とはいかなるものか。このことについて、井上自身が明治憲法公布直後の明治二十二年(一八八九)二月十六日に詳細な講演を行っている。

井上によれば、歴史の記述の始まる前からその国には言語があったのであり、言語をよく研究すれば古人の思想や風俗を知ることができる。その上で「国を支配する」という意味を持つ言葉を各国でどのように表現しているかに着目する。

例えば、中国では「国を有(たも)つ」「天下を奄有(えんゆう)す」「民を御す」「民を牧す」というが、これは君主が国を自分の私有財産と見、人民を馬や羊に喩(たと)えたものである。ヨーロッパでも国土を手に入れることを「国を占領する」(occupy)、人民に対しては「船の舵を執る」(govern)といい、これは国土に縄張りをして自分の領分にすることを目的とし、人民を品物と見て手綱を付け、舵を執って乗り治めるという行為を示したものである。

ヨーロッパではこのような家産国家思想からつい二百年前まで、国を支配することを民法上の思想によってとらえ、君主が亡くなった際には民法上の相続を行い、子供が三人あれば国を三分割していた。井上がここで述べているのはフランク王国分割のことである。周知のようにフランク王国はルートヴィッヒ一世の死後、ヴェルダン条約(八四三年)とメルセン条約(八七〇年)によって国土が三人の子供に分割相続され、東・西・中部の三つに分裂した。

井上は、こういった考えはヨーロッパのみならずモンゴルの相続法にも見られたとし、モンゴル帝国が分割相続された例を挙げる。そしてこれはかつて中国やヨーロッパの人々が私法と公法との差を知らず、国と家との区別も知らずに一家の財産相続法によって国土を分割相続したものであると説明してみせる。

これに対し、我が国では『古事記』上巻「出雲の国譲り」の段で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が建御雷神(たけみかつち)をして大国主神(おおくにぬし)に問わしめた言葉に「汝のうしはける葦原中国はわがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」として対照的に出てくる「ウシハク」と「シラス」の二語がある。そして二つの言葉が区別されて使われている以上、そこには大きな差があるはずだと井上は見る。

まず「ウシハク」は本居宣長の解釈によれば、領するということで、これはヨーロッパ人や中国人の発想と同じく、土豪の所作であり、土地・人民を自分の私産とするということである。

これに対して「シラス」は我が国の皇室独自の統治理念で、これに類する言葉は他国にはない

「ウシハク」が支配者が公私を混同して国土・人民を自分の私有財産ととらえるのに対して、「シラス」は支配者が公私を混同せず、国と家とを明確に区別して、さらに支配者自らの利益のために統治するのではなく、支配者が国民の心を汲み取り、国民の利益を図るべくして行うという統治理念である。そしてこれは神代の昔から定まっている我が皇室の伝統的な統治理念であり、これこそが我が国を国家として成り立たせている理念に他ならない

井上がこのように「シラス」の理念を重視したのは、何より天皇による国家統治が天皇個人やその一族のためになされるのではなく、国家全体のためになされるのだということ、すなわち天皇統治は家産国家思想によるのではなく、あくまで公共的な性質を帯びているのだということを示すためであった。

そのことを井上は伊藤の私著の形で出された明治憲法の逐条解説書『憲法義解』においても、「けだし祖宗、その天職を重んじ、君主の徳は八洲臣民を統治するにありて、一人一家に享奉するの私事にあらざることを示されたり。これすなわち憲法のよってもって基礎となすところなり」と強調している。

こうして井上は独自に日本版の歴史法学とも呼ぶべき認識に達し、日本の歴史に根差した憲法を構想しつつあった。

 (高崎経済大学助教授 八木秀次)




(2004/07/17)

【新地球日本史】(12)

明治憲法とグリム童話(6)

日本のバーク 金子堅太郎

明治憲法の起草者として、伊藤博文、井上毅とともに金子堅太郎の名前を忘れることはできない。

金子は明治四年(一八七一)、岩倉視察団と同じ船でアメリカに留学した。はじめボストンで小学校に入学し、飛び級で卒業後、中学校に入学。中退後にハーバード・ロースクールに入学し、明治十一年(一八七八)に卒業している。日露戦争終結の際、セオドア・ルーズベルトが仲介役を務めたのは彼が金子とハーバード時代に同級生だったという背景があってのことである。

金子はロースクール入学準備のため、当時ボストンで弁護士をしていたある人物に指導を受ける。この人物こそ、後に連邦最高裁の判事として令名を馳せることになるオリヴァー・ホームズである。ホームズは金子に憲法を独習させるが、その際、英米法の古典を読むことを勧めるとともに、法制については歴史的考察が重要であると指導している。

これは歴史法学の手法であるが、同時期、金子は保守主義思想の確立者エドマンド・バークの著作にも親しんでいる。

バークこそはヨーロッパ中世の「古き良き法」やイギリスに伝統的なコモンローを重視し、そこにこそ自由が宿ると主張した人物である。

歴史法学をバーク思想の継承・発展だと考えれば、金子がバークに魅了されたのも当然の成り行きと言える。

金子は帰国後、バークの著作を『政治論略』と題して翻訳している。実はこれが井上の眼に留まり、明治憲法の起草に関わることになる。以後、金子は歴史法学とバーク思想に基づいて憲法起草に大きな影響を与えていく。

金子は明治十九年(一八八六)、新たに発足した帝国大学法科大学に行政法の講師として出講している。東大法学部の初代行政法担当者になった金子がどのような講義を行ったのか。

その一端を彼自身が「国家学会」(シュタインのいう「国家学」に基づいて命名)での講演で語ったところによれば、維新後、法律学を教授する学校が設立されたが、もっぱら欧米の法理のみが教授され、我が国の法律規則については疎(おろそ)かにされている。

また法学部に学んだ者が皆、我が国の法制度に疎(うとく)く、歴史や伝統に全く無知であり、海外に留学する者も同様である。彼らは帰国後、しきりにその国の法律を賞賛し、日本の実際を顧みない。

こう述べて、金子はまず自国の法令や慣習を研究せよと言う。ただ外国の法令のみを知り、日本の法令や慣習を知らない姿は地球の性質を知らないで、しきりに月の世界や太陽の性質を研究しているようなものだと批判する。そして、かつて伊藤らがベルリンで指導を受けたグナイストが、日本からの留学生と対話してみても欧米の法令には熟知しているものの、自国の行政法やその実施状況を十分に説明答弁できる者に出会ったことがないと嘆いたことを紹介している。

ちなみに金子はこのような認識から日本の法学を教授する学校として日本法律学校を創設した。現在の日本大学法学部である。その研究紀要が『日本法学』と称しているのは金子の歴史法学の発想に基づいている。

金子は憲法や行政法規を起草するに当たって、単に欧米の憲法や行政法規、それに関する理論を直輸入して、木に竹を接ぐように我が国にそのまま当て嵌(は)めることの愚かさを痛感していた。

何より我が国の「古法」「祖先より継承せし遺法」を研究し、その上に欧米の法制度や法理論を取り入れることが必要であると考えたのである。

明治憲法とは、このようにその経緯は異なるものの、起草者たちそれぞれの自国の歴史と伝統への再認識という精神的事件の所産であった。

しかし、「憲法(constitution)」が「国柄」という意味を持つものであれば、それは当然のことでもある。

現行憲法の改正が現実味を帯びている今、そのことを再認識する上で明治憲法制定のドラマに学ぶことは多い。

(高崎経済大学助教授 八木秀次)




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