482228 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

新地球日本史(2)

(2004/07/19)

【新地球日本史】(13)

明治中期から第二次大戦まで(1)

「教育勅語」は曲解されている

開明派の井上毅が起草

教育勅語-この明治最高の文章は、今やほとんど読まれていない。のみならず、曲解さえされている。例えば、梅原猛は論証もなくいきなり「教育勅語をつくったのは元田永孚(ながざね)という水戸学者です」(『梅原猛の授業 道徳』、朝日新聞社、平成十五年、四〇ページ)と断言する。

しかし、海後宗臣『教育勅語成立史の研究』(東京大学出版会、昭和四十年)をはじめ諸研究によれば、教育勅語は井上毅(こわし)法制局長官の草稿に元田永孚(明治天皇の侍講)が意見を加える形の往復が十二回にわたって行われた合作である。しかも井上の意見が主流であったのである。それがどうして元田独りの作となるのか。

また元田が水戸学者であるとする根拠は何なのか。例えば、梅溪昇『教育勅語の成立』(青史出版、平成十二年、一八九ページ)は「(教育)勅語は、前文で水戸学的に『国体』を具体化し」と述べる。しかし、井上草案初稿は「発布された教育勅語の構成と著しく近い」(海後前引書、二五七ページ)し、事実、草稿前文は完成文と近似している。

となると、あの開明派の井上毅もまた水戸学者ということになってしまうではないか。梅溪はあくまでも「水戸学的」と〈的〉という類似表現をしているだけであり、水戸学者と言っているわけではない。

なによりも元田自身の「還暦之記」(『元田永孚文書』第一巻所収、元田文書研究会、昭和四十四年)は、次のように述べている。

                ■□■

熊本藩士の若かりしころ見聞を広めるため長崎を訪れた帰路、久留米で神職の真木和泉守に会い、会沢正志斎、藤田東湖ら水戸学者の話を聞き、会沢の撰『新論』を借り受けたりした。その後、同藩先輩の横井小楠を中心としての読書会に参加した。藩校では文章の辞書的解釈や形式的なことばかりが講じられており、(個人の)人格を高めたり社会や国家のことを論ずる実践の学風がないことに不満だったからである。

そのためか、熊本藩では横井、元田ら(家老の長岡監物を含む)と藩校派とが対立した。そこへ藩内の政治的対立が加わり、幕閣において水戸藩グループが失脚したとき、その影響が熊本藩に及ぶのを恐れた勢力が元田らに圧力を加え、家老の長岡の辞職に至る。それを元田はこう記している(三五ページ。加地が引用文をひらがなで分かりやすくし、括弧(かっこ)で補足した。以下同じ)。

「最も孝悌和順の徳、純忠至誠の道に由(よ)るを主として、決して私(わたくし)に偏(かたよ)る党派の心無ければ、素(もと)より水府(すいふ)の学風(水戸学)を效(なら)うに非(あら)ず。其(そ)の、国を興すの志は同じと雖(いえど)も、国を経(ととの)うるの道は、見る所亦(ま)た異なり。是(こ)れ常に四先生(長岡、横井ら)と講熟して自ら信ずる所…然(しか)るに世俗の傍観(は)固(もと)より之(これ)を知らずして水戸同党(水戸学派と同じグループ)の看(かん)を為(な)し、俗論(藩校派ら)の忌(い)む所となれり。亦た時運の然らしむる所なり」と。

                ■□■

天皇の侍講の元田は、還暦の明治十一年(文の清書は二十二年)のころ、尊王だった水戸学派を称しても別に損になるわけでもないのに、自身で水戸学と区別して水戸学者ではないと言っているのである。梅溪が「水戸学的」と評すること自体、誤解を招く。

また、はじめ攘夷論者であった松平慶永(よしなが)越前藩主は幕閣の水戸派失脚後に謹慎するが、それが解けたあと政事総裁職となり一橋慶喜と協力して幕政改革を行う。そのとき慶永の政治顧問となった横井小楠は西欧文明導入など開明主義を献策している。

同じ熊本藩出身の徳富蘇峰による略伝『元田東野(とうや)翁』(『増補元田先生進講録』所収、明治書院、昭和十九年)は、横井は西欧の思想を中国古代聖王の政治思想と融合させていたとする元田の文章を引用している。彼らは水戸流の攘夷論者ではなかったのである。

梅原の前引書は、高校生に実際に講義した記録である。しかし、十分な準備も根拠もなく奇説を主張するのは、授業でなくて扇動である。それは教育の名に値しない

 (同志社大学フェロー・大阪大学名誉教授加地伸行)




(2004/07/20)

新地球日本史】(14)

明治中期から第二次大戦まで(2)

「教育勅語」は曲解されている

徳育の必要を提案した府県知事

社会生活について、よく「昔はよかった」と言う。では、その中身とは何であろうか。

そのほとんどは人間関係の温かさを指している。家族のつながり、師弟の交流、友情、近所の人の親切…というふうに。

それら人間関係が〈よかった〉とは、広い意味での道徳が備わっていたということであろう。それが〈昔はよかった〉という気分になっている。生活の便利さや物資の豊かさでは、今のほうがずっと上ではあるが。

それでは、昔は本当に道徳が備わっていたのであろうか。

実は、そのようなことはなかったのである。いつの時代でもどの地域でも、道徳の頽廃(たいはい)が指摘され、道徳教育の必要が絶えず叫ばれ続けていた。明治時代の前半においても、今日と同じく道徳の頽廃が叫ばれ、立て直そうとしていたのである。

その大きな理由は、当時の日本において欧米先進国の文化と自国の文化との衝突があり、そのすりあわせをしなければ生き残ってゆけなかったからである。そのうち、道徳の場合、欧米と日本との大きな違和感は二つあった。

一つは、欧米の個人主義道徳、いま一つは、欧米の国民国家道徳であった。

                ■□■

日本は伝統的に家族主義であり、個体は家族のリンクの中にあったので、個体が個人として独立するという観念はなかった。また、江戸時代、藩という巨大な土豪の下、地域に限定された藩の意識はあっても、明治政府が主導する日本国という国民国家の観念はなかった。当然、個人主義道徳・国民国家道徳の両者はなかった。

ところが、欧米留学者、あるいは明治十年創立以来の東京大学卒業生が作った学士会の会員など、いわゆる開明派知識人は、欧米人を優等な、日本人を劣等な国民として、日本の伝統を無視して欧米的道徳を勧めようとしていた。しかもそれを学校教育において行おうとして文部省に圧力をかけていたのである。

そのことを憂え、伝統に基づく徳育を推進しようとしたのは、文部省ではなくて、府県知事たちだった。知事は県内の学校行政も担当していたので非常な危機感を抱き、明治二十三年の地方長官会議において、伝統に基づく徳育の必要を提案したのである。

これは重要な点だ。中央政府・省庁からではなくて、地方行政における初等中等教育の現実や学校の実態を背景として、全国民的規模の要求として徳育の要求が出てきたのである。

学士会は「欧米の風(ふう)を知らねばだめである」とし、「(儒教道徳の)五倫などということは道徳として殆(ほとん)ど価値のないものである。せいぜい朋友信(しん)あり位(ぐらい)はとることができるが、その他は不必要である」としていた。「文部省の中を見ると…アメリカ帰りの学士が力をもっていた。…教育については教科書は勿論(もちろん)その他すべて…学士会の意向によって定まる有様(ありさま)」であった(前引の海後同書一三九ページ)。

一方、明治十九年に明治天皇が東京大学に行幸、その教育観を元田永孚(ながざね)が記録した。その趣旨は、道徳を基礎とした上で西欧の科学を学ぶようにしなければ真の人材を育成できない。欧米の知識教育ばかりではだめで、知識人であることに加えて、過去の伝統を心得、現実社会を把握し、未来を洞察して、見識を有する人間すなわち教養人をつくること、教養教育、換言すれば知識教育と道徳教育とを並行する必要があるというものである。

                ■□■

以上のような対立と環境とがあった中で、教育勅語への道が生まれたのである。元田一個人の考えで教育勅語を構想したのではない。まして、仏教はほとんど関係がなかった。儒教は伝統道徳として関わりがある。

ところが梅原猛は、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(仏教を排し神道を盛んにする)が原因で教育勅語が元田によって作られたと主張している。それは欧米文化・道徳と日本文化・道徳との衝突という歴史的大状況が分かっていない珍説である。

(同志社大学フェロー・大阪大学名誉教授加地伸行)




(2004/07/21)

【新地球日本史】(15)

明治中期から第二次大戦まで(3)

「教育勅語」は曲解されている

特定の宗教、哲学・政治色を排除

道徳教育-徳育問題は、地方長官会議の意見に基づき、内閣において議論されるようになった。

山県有朋首相は、明治十五年の軍人勅諭の起草に関係していたので、軍人勅諭が軍人の持つべき精神の根本となったのと同じく、教育の根本に勅諭が必要と考えた。

山県は井上毅(こわし)法制局長官も同意見であったと回想し、こう述べている。「外国にては宗教を元として軍隊教育をなし、幼年学校などにては祈祷(きとう)を唱(とな)ひて授業をなす有様(ありさま)なるに、我国に於(おい)ては、神道、仏教、耶蘇(やそ)教の一(いつ)に偏すべからず」として、軍人勅諭を作ったように「教育に関しても同様の方針を採るべきものと考へたり」(海後同書一五〇ページ)と。

外国は宗教を教育に導入しているが、日本は神道、仏教、キリスト教といった宗教のどれかに偏することなく、すなわち宗教色のないものという方針だった。

梅原猛は〈明治政府は神仏を殺し仏教や神道の道徳を除いた〉とするが、曲解である。

神仏は御座(みわ)しますものの、あえて神仏から距離を置いたのである。それと言うのも、芳川顕正文相に対して明治天皇から「教育上の箴言(しんげん)を編(あ)めよ」という異例の要請もあったからである。「箴言」とは、格言、いましめ、道徳訓であり普遍的な知恵である。

教育勅語の出発は徳育のための箴言集の編纂(へんさん)にあった

こうして始まった教育勅語の草案は、中村正直(東大教授。『西国立志編』『自由之理』の訳者)が起草した文部省案であった。ところが、この草案を井上毅が次のように批判した。

 (1)中村案に神道や儒教の語句「天人一致・敬天・敬神・天地神明」など
    があったことへの批判である。これであると仏教側から批判が出る。
    すなわち特定の宗教的立場に立つことを拒否し宗教からの独立を求め
    た。

 (2)特定の哲学の立場や政治的立場に立つことを拒否した。必ず反対論者
    が出るからである。

 (3)こまごまとした勧善懲悪的な訓戒ではだめで、「汪汪(おうおう)と
    して大海(たいかい)の水の如(ごと)くなる文言(ぶんげん)であ
    れ」とした。加えて〈頑迷の漢学〉流の陳腐な、あるいは〈軽薄の洋
    学〉流の翻訳調の文体であってはならないとした。

つまり、宗教色がなく、特定の哲学色・政治色がなく、大文章であること、それらが中村案では満たされていないという厳しい批判であった。

その結果、文部省案(中村案)は没となり、内閣案として井上毅みずから起草することとなった。儒教を尊重する井上は漢文の名手として知られていたが、開明派でもあった。

井上は中村案の欠点を克服する困難な作業に当たって、かつて熊本藩における大先輩であった元田永孚(ながざね)に意見を請うた。すなわち井上案に元田の意見が加わって教育勅語原案ができたのである。元田も個人として起草していたが、その元田案は表に出ないままで残った。

梅原猛は明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が原因で神道も仏教も否定され天皇のみを崇拝することにしたのが教育勅語であると言う。

しかし、上述の教育勅語成立史からすれば、なぜ廃仏毀釈が教育勅語成立の原因となったとするのか、まったく実証性がない。そもそも井上がいわゆる宗教色を除いたのは、一つの立場を取れば別の一つが反発することを避けるためである。同じことは思想的立場や政治的立場についても言える。井上はあくまでも〈普遍的な知恵・道徳〉を求めたのである。

その際、日本国の国体として、すくなくとも奈良朝から幕末に至るまで、皇室が〈明治維新前の漠たる日本領域〉の精神的中心であったことを踏んで、歴史的空間的連続性からして、皇室が〈明治維新後の明確な国民国家としての日本〉においても精神的中心であるとするのは、当時の日本人としての自然な共通感情・共通観念であり妥当であった。

梅原のように〈突如、天皇のみを崇拝し、他の神や仏を殺して教育勅語を作った〉というのは説得力なき妄説である。

(同志社大学フェロー・大阪大学名誉教授 加地伸行)






※教育ニ関スル勅語
(教育勅語)

明治23(1890)年10月30日 発布
昭和23(1948)年 国会で排除・失効確認を決議

「徳」は旧字。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我ガ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣ノ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラズ又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
   御名御璽

朕惟ふに我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり
我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世世厥の美を濟せるは此れ我が國軆の精華にして教育の淵源亦實に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習ひ以て智能を啓發し徳器を成就し進て公益を廣の世務を開き常に國憲を重じ國法に遵ひ一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし
是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん
斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悖らず
朕爾臣民と倶に挙挙服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ

明治二十三年十月三十日
   御名御璽


※教育(きょういく)勅語(ちょくご)

朕(ちん)惟(おも)フ(う)ニ 我(わ)カ(が)皇祖(こうそ)皇宗(こうそう) 國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ 徳(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ

我(わ)カ(が)臣民(しんみん) 克(よ)ク忠(ちゅう)ニ 克(よ)ク孝(こう)ニ 億兆(おくちょう)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ 世(よ)世(よ)厥(そ)ノ美(び)ヲ濟(な)セルハ 此(こ)レ我(わ)カ(が)國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ 教育(きょういく)ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス

爾(なんじ)臣民(しんみん) 父母(ふぼ)ニ孝(こう)ニ 兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ 夫婦(ふうふ)相(あい)和(わ)シ 朋友(ほうゆう)相(あい)信(しん)シ(じ) 恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ 博愛(はくあい)衆(しゅう)ニ及(およ)ホ(ぼ)シ 學(がく)ヲ修(おさ)メ 業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ(い) 以(もっ)テ智能(ちのう)ヲ啓發(けいはつ)シ 徳噐(とくき)ヲ成就(じょうじゅ)シ 進(すすん)テ(で)公益(こうえき)ヲ廣(ひろ)メ 世務(せいむ)ヲ開(ひら)キ 常(つね)ニ國憲(こくけん)ヲ重(おもん)シ(じ) 國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ(い) 一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ(ば) 義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)シ(じ) 以(もっ)テ天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スヘ(べ)シ 

是(かく)ノ如(ごと)キハ 獨(ひと)リ朕(ちん)カ(が)忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラス(ず) 又(また)以(もっ)テ爾(なんじ)祖先(そせん)ノ遺風(いふう)ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足(た)ラン

斯(こ)ノ道(みち)ハ 實(じつ)ニ我(わ)カ(が)皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)ノ遺訓(いくん)ニシテ 子孫(しそん)臣民(しんみん)ノ倶(とも)ニ遵守(じゅんしゅ)スヘ(べ)キ所(ところ) 之(これ)ヲ古今(ここん)ニ通(つう)シ(じ)テ謬(あやま)ラス(ず) 之(これ)ヲ中外(ちゅうがい)ニ施(ほどこ)シテ悖(もと)ラス(ず) 

朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ 拳拳(けんけん)服膺(ふくよう)シテ 咸(みな)其(その)徳(とく)ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶(こい)幾(ねが)フ(う)

明治二十三年十月三十日

御名(ぎょめい) 御璽(ぎょじ)

 
教育勅語の口語文訳

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や,秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。





(2004/07/22)

【新地球日本史】(16)

明治中期から第二次大戦まで(4)

「教育勅語」は曲解されている

儒教道徳を再編し欧米思想導入

教育勅語(正式には「教育に関する勅語」)の本文は、漢字とカタカナの混合文で三百十五字の短いものである。その漢文訳は、訳者によって相違するが、一般的には百九十四字であり、英訳もある。

全体は(1)前文(2)生活道徳(3)個人道徳(4)国民道徳(5)生命の連続(6)後文の六部分から成り立っている。

まず理解すべきは、「我が臣民」「爾(なんじ)臣民」の「臣民」の意味である。これは臣と民とを足したことば。臣とは官吏のことで、まさに天皇の官僚。民とは、それ以外を指す。「草莽(そうもう)の臣」とは、民・在野の人のことであり、その「臣」とは正規の臣の意味ではない。

江戸時代、藩主・藩士(家臣)・民という階層意識が強固にできあがっていたが、日本国となった以上、藩主を除外し天皇を国民国家の代表とする階層へ移行するのは現実的であった。そこで、臣(天皇の官僚)と民との両者に呼びかけたわけである。

今風(いまふう)に言えば「官・民」は「国民」のことだ

さて生活道徳は「父母に孝に、兄弟に友(ゆう)に、夫婦相(あい)和し、朋友相(あい)信じ」。一見したところ、儒教道徳風である。

しかし、実は非常な工夫が加えられている。

儒教道徳の五倫(父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)ではないからである。

従来、親は父で代表されていたものを父母とし、兄弟は長幼の<序>ではなくて友(ゆう)すなわち仲の良さとし、夫婦における上下の区<別>は<和>合とした。そして「君臣の義」は除き、「克(よ)く忠(まごころ)に」とした。

もちろん、それぞれ儒教文献にその出典がある。つまり五倫にそのまま従わず、儒教文献に基づき再編成しているのである。その理由は、近代国家においてもなおかつ普遍的な生活道徳を建てるためである。近代国家における儒教の再編成と言ってよい。この生活道徳を指して単に儒教的と評するのは、江戸時代までの儒教道徳の五倫との相違が分かっていない。

これら生活道徳は、家族や友人との関係のもので、ついで個人道徳が述べられる。「恭倹(きょうけん)(謙虚であって)己(おの)れを持(じ)し(自己責任を心得)、博愛(を)衆に及ぼし、学を修め業を習い、以って(自分の)智能を啓発し、(自分の)徳器を成就し」と。これは個人の人格を高め知識を求めること、すなわち徳育と知育とを併せて盛んにすること、つまり知識人たることに終わらず、教養人であれとしている

それを可能にしてから国民道徳を身につけよとする。「進んで公益を広め、世務(せいむ)を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵(したが)い、一旦緩急(いったんかんきゅう)あれば(ひとたび国に危急がさしせまったときは)、義勇(正義のために勇気を振るって)公(こう)に奉じ」と。

国民のだれもが等しく国家のためにという気持ちとなるそのような国民道徳は、儒教にはない

儒教では、君臣すなわち君主と臣下(それも科挙官僚)との間に忠はあっても、土着の吏(り)や民に忠はない。しかし、

臣と民と、すなわち国民が構成する国民国家においては、国家に対する忠誠や公共の優先や国法の遵守は、官だけではなくてすべての国民の義務となる。国民国家だからこそ、たとえば国民皆兵という論理が成り立つ。これは欧米の近代思想であって儒教の思想ではない

明治維新後、欧米諸国の侵略を受けないため、日本は国民国家として自立せざるをえなかった。するとそれを可能にするには、国民に国民道徳を一から教えなくてはならなかった。教育勅語が、生活道徳個人道徳国民道徳を加えるのは、欧米近代思想を受け入れざるをえなかったためである。つまり、日本国が近代的な国民国家として世界に位置するための近代的道徳教育をも担ったのが教育勅語であった

なお「公に奉じ」を国家優先の「滅私奉公の儒教道徳」と言う人がいる。しかし、儒教には「滅私奉公」ということばもそうした概念もない。この語は明治以後に日本人のだれかが創ったのであろう。

(同志社大学フェロー・大阪大学名誉教授 加地伸行)




(2004/07/23)

【新地球日本史】(17)

明治中期から第二次大戦まで(5)

「教育勅語」は曲解されている

日本人の原宗教意識を据える

教育勅語の道徳は、生活道徳・個人道徳・国民道徳の三者から成り立っているが、個人道徳はその中間にあって前後両者をつなぐ役割も果たしている。その典型は「博愛衆に及ぼし」である。

「博愛」ということばは昔から漢文にある。しかし、「人々のだれをも等しく愛する」という、キリスト教における絶対最高唯一神が人間に対する平等な愛に類似するような、普遍的な人間愛-いちおう近代的と言っておこう-そのような博愛の観念は、われわれの住む東北アジアにはなかった

われわれは、まず家族を愛し、それが十分にできたときにはじめて他人に対してすこしずつ愛を広げてゆく、という愛である。私はそれを相手によって区別される愛、別愛と称している。

教育勅語の第一案では、「夫婦相(あい)和し」のあと、この別愛に基づき「親族相睦(あいむつま)じくし、隣里相保(りんりあいたも)ちて相侵(あいおか)さず…自(みずか)ら愛して他に及ぼし」とあった。それが最終的には短く「博愛衆に及ぼし」となった。その「博愛」は見たところ別愛かキリスト教的愛か分からない。両観念が重層しているというほかない。しかし、そこのところが重要である。

生活道徳は再編成された儒教道徳であり伝統的道徳の延長として受け入れやすいが、欧米近代的な国民道徳は旧武士層以外にはなかなか分かりにくい。ところが、その中間に置かれた個人道徳は、伝統的生きかたとほとんど一致しており、その個人の生きかたというものを通じて、伝統道徳と近代道徳とをつないでいるのである。

どのようにつないでいるかというと、伝統的な(儒教にもある)ことばを個人主義に基づく近代的概念にかぶせて重層させ、頭脳中において融合させている。「博愛」はその典型であるが、その他も同じである。儒教のことばを踏みつつ「学を修め業を習い、以って智能を啓発し徳器を成就し」と述べるのがそれだ。これらは欧米の個人主義に基づく道徳においても同じ行為であり、重層となる。こうした個人道徳に続いて「進んで公益を広め」と国民道徳へはいってゆくのである。

さて、それら生活道徳・個人道徳・国民道徳を述べたあと、重要なことばが続く。〈生命の連続〉を示す部分である。

〈生命の連続〉とは、儒教の本質である。

すなわち、われわれが存在するのは、突如として現れた個体としてではなくて、遠くから父祖とつながって、つまりは生命の連続の結果として存在しているとする。その結果、祖先を祭って生命の連続を意識する。これは東北アジア(中国・朝鮮半島・日本など)に共通する死生観であり、根源的な宗教意識である。

そのことを中国で儒教がいち早く表現した。日本人のほとんど百パーセントが、祖先を祭祀(さいし)し、祖先とのつながりを意識し、そのゆえにこそ、いま存在する自分の家族を愛し、自分が祖霊とともに住むこの国土を、この国家を愛するという気持ちとなるのである。

それを踏んで、教育勅語はこう述べる。前記の諸道徳を守ること「是(かく)の如(ごと)きは、独り朕(ちん)(天皇)が忠良の臣民(として及第し)たるのみならず、爾(なんじ)(の)祖先の遺風(りっぱなありかた・名誉)を顕彰する(明らかにする)に足らん」と。

教育勅語は神道・仏教・キリスト教など既成宗教を除いたが、祖先への敬意、最終的には祖先祭祀(日本仏教では先祖供養)という、生命の連続の認識に基づく、日本人の原宗教意識をしっかりと据(す)えている。それが日本人の胸を打つのである

その生命の連続は、日本人の個々それぞれに在(あ)るのではあるが、自分の父祖がこの国土に生きてあり続けたことを具体的に示すものがある。

それは皇室である。われわれ日本人が皇室に対して抱く気持ちの最大のものは、(1)奈良朝以来、生命の連続を示す皇室への畏敬の念、(2)その皇室とわれわれの父祖とが、時代を同じくしてこの国土に生きてきた感動-なのである。

(同志社大学フェロー・大阪大学名誉教授・加地伸行)




(2004/07/24)

【新地球日本史】(18)

明治中期から第二次大戦まで(6)

「教育勅語」は曲解されている

他律により成功した道徳教育

人間は組織を作り国家を形成し、必ず代表者を定める。その場合、代表者に求めるものは、統治能力人格的尊敬との二点である。この前者から権力が、後者から権威が生じる。

東北アジアの伝統的政治理論は儒教によって作られた。代表者を天子とし権力と権威の両者を併せ持つが、権力よりも権威が上であり有徳者であることが最も重んぜられる。有徳者であるがゆえにその人格的影響が周辺に及び、国家秩序が成り立ち天子として選ばれるとする政治理論(それが真の中華思想)である。天子によるその感化が教化、徳化、文化である

現代の日本では、権威と権力とが分かれ、前者は皇室に、後者は首相に帰属しているが、それでもなお首相には付帯的に〈有徳性〉が求められている。首相の〈器(うつわ)〉であるかどうかと。

明治維新後、日本国という国民国家の代表者(元首)として天皇が選ばれたのは、これまで述べてきたように、当時の日本においてはしぜんな選択であった。

すると、東北アジアの伝統的政治理論から言えば、有徳者によって国家が起こり、国民を感化、教化してゆき、国民が徳化、文化され、りっぱな日本国ができる。それが教育である。そのことを示すのが教育勅語の前文「我が皇祖皇宗(皇室の祖先が)国を肇(はじ)むること宏遠(こうえん)に、徳を樹(た)つること深厚なり。(それを受けて)我が臣民克(よ)く忠に克く孝に(忠を尽くして孝を行い)億兆(多くの者が)心を一(いつ)にして、世々(よよ)、厥(そ)の美を済(な)せるは(道徳的となっているのは)、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源、亦(また)実に此(ここ)に存す」である。

ついで生活道徳・個人道徳・国民道徳・生命の連続を述べ、後文としてこれらの道徳は古今東西を問わず普遍的なものであり、「朕(ちん)(は)爾(なんじ)臣民と倶(とも)に」みなで守っていこうと締めくくっている。

梅原猛は〈教育勅語が天皇のみを崇拝することを求め、天皇を神とした〉と言う。しかし、教育勅語のどこに〈天皇を神とする〉ことばや主張があるのか。

また〈神〉と言うならば、一神教における全知全能の絶対的な唯一最高神を意味するのか、多神教における一知一能の相対的な神を意味するのか。明示せよ


教育勅語を、明治前半期の状況、儒教の伝統的政治理論、日本人の祖先祭祀(さいし)の宗教的感情・原宗教意識、教育勅語成立の経緯等を踏んで虚心に読めば、その意味は私が論述したごとくである。

にもかかわらず、梅原猛のような曲解が大手を振ってまかり通っている。しかも、その所論には実証性がない。つまり研究的見解ではなくて、扇動家の言(げん)となっている。もちろん、梅原以外、教育勅語をろくに読みもせず、教育勅語を悪(あ)しきものとして、ただ否定する者が多い。教育勅語の曲解された姿である。

紙幅上、簡潔に付け加えよう。


道徳は自律によるとするのは、欧米の自律する個人主義や利己を抑止するキリスト教の最高神の存在があってはじめて可能である。

一方、キリスト教文化も個人主義もない東北アジアでは、道徳教育は自律でなく他律(教育勅語はその方法の一つ)により成功してきたのであるが、今や他律は捨てられ、できもしない欧米風自律が教育の中心となっている。

もちろん成功するはずもなく、似而非(えせ)自律の利己主義が横行し、学校崩壊を加速させている


私は、教育勅語を高く評価する。文体も卓絶しており、朗誦するに足る大文章である。

しかし、残念なことがあった。日本人は実(じつ)(内容)よりも名(な)(形式)を重視する傾向があり、教育勅語の中身よりも、外形的なもの(勅語を納めた箱や安置場所など)の尊崇へと様式化・形骸(けいがい)化されていった悲劇である。

その類型は今もある。日本国憲法への対応がそれである。改正の中身は問わず、日本国憲法の存在自体が大切とする外形的重視をし、ひたすら改正拒否という様式化・形骸化だ。それは教育基本法への対応についても言えることである。

(同志社大学フェロー・大阪大学名誉教授 加地伸行)





Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.