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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

新地球日本史(3)

(2004/07/26)

【新地球日本史】(19)

明治中期から第二次大戦まで(1)

フェノロサと岡倉天心

救世観音、初めて姿をあらわす

明治初期の東大の外国人お抱え教師、フェノロサとその弟子であった岡倉天心が、明治十七年(一八八四)、法隆寺の夢殿で長い間秘仏となっていた救世(ぐぜ)観音像を、学術調査の目的ではじめて開けた、というのは有名な話である。

このことにより仏像が宗教から開放され、はじめて仏像が祈る対象から鑑賞される対象になった象徴的な事件であった、といわれている。

フェノロサの記録によると、法隆寺の僧侶がいうには、この救世観音像は推古朝のもので、ここ二百年もの間、その厨子(ずし)の扉が開かれていない。もし開けたとすれば、地震が起こって寺が破壊されてしまう、だからお見せできない(天心の方は雷が落ちると聞いたといっている)といわれたという。

しかし、この調査は官命である、と主張して、その学究的な態度をもって要望したので、僧侶も最後は折れたという。さびついた厨子の鍵穴に鍵が入ったときの感激は忘れることができない、と書いている。

                 ■□■

天心がいうには、僧侶たちはみな怖れて立ち去った。開けると千年前の臭いが漂い、蜘蛛(くも)の巣をはらい、像を包んでいた幾重もの布などを除くと、蛇鼠(ねずみ)が飛び出してきたと書いている。やっとこの像が眼前にあらわれたとき、世界にも稀な像がそこにあった。フェノロサは日本美術史上、特筆すべき大発見であるといい、天心は一生の最快挙である、と述べている。

しかし、私は別に彼ら二人の快挙を今更とりあげようと思っているわけではない。また逆に、お寺の秘仏として信仰されてきたものを、学問の名で無残にも引き出してしまった「近代」の悪などといいたいためでもない。日本の研究者だけでなく、フェノロサという外国人教師がおこなったことが、いかにも日本の明治維新の西洋信奉の一端をあらわしている、などといいたいためでもない。遅かれ早かれ誰かがやらねばならないことであったのだ。

私にとって問題にしたいのは、そのような傑出した仏像のひとつを、布にまいたまま、長い間、見る習慣を失っていたことの事実である。仏像は元来見せるべきもので、決して隠しておくものではない。秘仏としておくことが奥ゆかしくていいわけではない。多くの人々が見ることによって信仰の対象になるものである。

その習慣を失わしめたのが、どうやら江戸時代(もしくは室町時代までさかのぼる時代)であることを、この発見がいみじくも示していることである。この時代の日本人の仏教観そのものに、眼をやることが必要である、ということだ。

                 ■□■

法隆寺といえば聖徳太子が開いたお寺である。そしてこの救世観音そのものも太子そのもののお姿である、という伝えもある。そして聖徳太子自身が、蘇我氏とともに、仏教を日本の宗教にしたことも知られている。法隆寺はまさに、飛鳥寺とともに、日本の仏教の最初のお寺なのであった。

その中心仏のひとつが見られなかったことは、いかに江戸時代が古い仏教そのものの受難の時期であったかが推測されるのである。とくに徳川政府は儒教を重んじ、古い仏教そのものを否定する傾向にあった。江戸の国学者たちもまた仏教を軽んじた。天皇を崇拝するあまり、崇峻天皇を誅(ちゅう)した蘇我馬子を咎めない聖徳太子を非難したことは知られている。

法隆寺そのもの、ひいては古い仏教そのものをないがしろにしていたのである。このことが、仏像が開陳されなかったことと大きく関係している。仏教軽視は、明治初期の「廃仏棄釈」の神仏分離のせいだけではなかったのである。

(東北大学大学院教授 田中英道)




(2004/07/27)

【新地球日本史】(20)

明治中期から第二次大戦まで

フェノロサと岡倉天心(2)

奈良は日本のローマである

私は五月初旬か十一月初旬になると、仲間たちと奈良、京都に歴史・文化の旅に出かける。なぜこの時期かというと、法隆寺の救世(ぐぜ)観音ばかりでなく、運慶の無著・世親像など、この時期しか見られない仏像が多いからである。

この時期以外でも、名仏が一年に一日しか見られないといったものが多い。なぜ本来、見せるため、信仰を広めるためにつくられたすぐれた仏像が、短い期間しか開かれないか、ということは問題である。

それは秘仏であるとか、有り難いものは、そうそう姿を見せてはいけないからとか、まことしやかにいわれている。しかし、実をいえばあの救世観音が、フェノロサと岡倉天心によって初めて開かれたように、江戸時代を中心として長い仏教軽視の時代があったことの名残なのである。

仏教が浄土真言をはじめ、念仏宗中心になったとき、仏像は軽んじられた。奈良・京都旅行は今日まで続いている寺院まわりの巡礼に変わったのである。そこには必ずしも、仏像は重要ではなくなった。

岡倉天心がいっているように、救世観音は、それ以前は秘仏ではなかったのである。十二世紀はじめに大江親通が書き、鎌倉中期にそれを写した『七大寺巡礼私記』ではちゃんとこの像が球をもって立っている様を描写している。この私記は、下級武士による奈良の東大寺をはじめとする、お寺の巡礼記で、丁寧に各寺の仏像を銘記している。

十五大寺日記なども書かれており、鎌倉時代までは、仏像を見ながら各寺を巡礼することが一般化されている様子がうかがわれる。

                 ■□■

フェノロサは明治二十年(一八八七)に『奈良の古美術(奈良の諸君に告ぐ)』という題の講演をしている。彼は西欧の古都ローマとの比較をしながら、奈良の重要性を説いている。

ローマは貴重な宝物を有する都市であり、その古物を研究することが盛んになり、西欧の文化の源流がここにあるということがわかってきた。同じように奈良も、その宝物を見せて、日本のローマたるべきであると述べている。

とくにその仏像彫刻について、それがギリシャ彫刻がアレキサンダー大王の東洋進出によってインドの仏教彫刻にもたらされ、それが日本に至った。古代日本人の美術思想の純粋さは、全くギリシャのそれと同じ内容をもっている。これらの奈良彫刻は人間の性格・思想をあらわし、西欧の美術に少しも劣らないものをもっている。アジアの仏像美術はこの奈良において完成した、といって過言ではない、と述べているのである。

他のアジアの国の古美術が、国が滅亡したり、戦乱・革命によって破壊されていたりしている中で、日本にだけに当時のものが残されている。奈良に来ることによって初めて見ることができるのだ、といい、アジアの博物館であると強調している。

この言葉は、天心の「アジアはひとつ」の言葉と強く関連している。

これは「西洋美術」の流通経路とその終点という認識から齎された「比喩」であって、生活様式(文化)や思考形態が「唯一」だというとこではまるでないだろうネ。むしろ、コレを捩った「アジアは、ひとつひとつ」が実態を遥かに反映してるだろ

そしてフランス政府が数百万を費やして博物館をつくり美術教育を奨励している例をあげ、日本も負けずに彼らと同じことをすべきだ、と語る。

美術は技術のたまものではなく、人間の心の感得したものをあらわしたものである。彼はへーゲル学者らしく、美は理念の感覚的なあらわれであり、「妙想」の産物である、という。これは美術教育によってのみ理解できるのだという。

                 ■□■

フェノロサは古美術を称賛するだけでなく、当時の西欧礼賛一辺倒の日本人の傾向を排し、この奈良から、日本の仏法の精神を体した新しい精神運動を創造すべきである、とさえ述べて奈良の人々を鼓舞している。奈良が保存する古い仏像・建築は、ひとり奈良のものだけでなく、日本の宝であり、世界の至宝であるのだ、と。

このような奈良の賛美は、むろん私も同じ見解だが、これがフェノロサという教養ある欧米人のひとりの訴えだけに、客観性をもっていることは疑いを容れない。

(東北大学大学院教授 田中英道)




(2004/07/28)

【新地球日本史】(21)

明治中期から第二次大戦まで

フェノロサと岡倉天心(3)

日本美術は西洋より優れている

フェノロサの『美術真説』(明治十五年、一八八二)ほど、日本の文化を世界的に評価することで、人々に衝撃を与えたものはない。明治初期の芸術家、学者たちがほとんどすべて西欧から学ぶことこそ、文明開化の道だと思っている時代に、ひとり日本の文化の偉大さを主張したからである。

東大の経済学や哲学担当のお抱え教師であったフェノロサであるから、専門外の美術の講演で素人談義のように聞こえるかもしれないが、事実は全く異なっている。彼の美術理解は、おそらく欧米でも第一線をいっていたのである。

彼はハーバード大学でもアメリカ的なスペンサー流の進化論よりも西欧のヘーゲルの哲学を勉強し、その理想主義的な美学を受け継いでいた。大学を最優秀で卒業したあと、なぜか美術学校に入り、そこでデッサンや油絵を勉強するという芸術遍歴をしている。彼はボストンの裕福な家庭に生まれ、音楽家の父のもとで育ち、北斎をはじめジャポニスム(日本主義)の流れを知っていたといわれる。有名なジャポニスムの画家ホイスラーは彼と同郷であった。

また単にその知識だけでなく、彼の宗教的な悩みや救いの問題がからみ、芸術にその魂の問題を託していたという。多感な彼が美術に向かったのは、芸術が魂の救いの問題を含んでいたからとみることができる。

日本に来て、彼は日本の美術の中に、その救いを感じたのである。ただそれは明治期の美術家たちの動きの中ではない。

彼の近代美術への見方は悲観的である。かつてのギリシャ美術は紀元前五世紀に豊穣期に達し、西欧美術は十六世紀に最盛期を迎え、中国は唐・宋の時代に、日本はすでに数百年の前にその最も「精妙」な表現の時期は終えていた。近代においてはすべての美術は彼にとっては衰退の時期にあった

しかし、何とかして、これまでの日本美術の成果を基礎にして、近代の日本美術振興を考えていた。

この『美術真説』で「美術とは何か」が語られ、人間のつくるものは「須用」なものと、「装飾」なるものがあるが、美術は後者である。それは楽しむもので、人間の品格を高める作用があり、これもその意味で「須用」なものであるという。そこにあらわされるものは「善美」であり「気格」を高めるものである。それは決して技術を見るものでもなく娯楽のためでもなく、また自然を模倣するものでもない。何か特別な目的をもつものでもなく、美術自体の「善美」を求めるのである。部分を総合し有機的な統一をはかる。このような全体が「妙想」を獲得する人々を感動させるのである。

それまで日本では芸術とは何かが、まだ論理的に語られたことがなかったから、人々に感銘を与えた。たしかにすでに中国から「画の六法」が伝えられており、絵の見方は知られていたが、あらたに「妙想」という言葉が使われ理想化されることによって、若い芸術志望の人々を鼓舞したのである。さらにこれが日本美術に存在する、という自信を与えられることになった。

西洋画は「写真」、すなわち写生を主眼とするが、その陰影法とか色彩の豊富な表現法よりも、墨とか線による日本画の「妙想」の方が上である、というのである。

日本人がそのことを忘れて、西洋画を取り入れるばかりであるとは、手中の珠を捨てて、野の石を拾おうとするものだ、といっている。一方でフェノロサは詩文による文人画や、写実の北斎などを非難し、狩野派の伝統を好み、とくに狩野芳崖を愛したことでも知られる。

私はフェノロサのこのような意見にすべて賛成ではない。東西の絵画の優越論よりも、日本人は自分たちにむいた伝統的な絵画表現を取るべきだという意見だし、文人画でも、絵画だけですぐれているものもある。北斎は世界最高位の画家の一人である。しかし、フェノロサの日本美術の優秀さを主張することについては同意見である。 

(東北大学大学院教授 田中英道)




(2004/07/29)

【新地球日本史】(22)

明治中期から第二次大戦まで

フェノロサと岡倉天心(4)

『小説神髄』と『美術真説』

坪内逍遙の『小説神髄』(明治十八年、一八八五)はどこの歴史教科書にものせられている。明治の新しい文学の指標となるべき文学論として著名だ。かつての勧善懲悪の文学からその独自の文学世界を志向する態度は、近代文学の前提として評価された。

具体的な小説の方法として世態人情の写実を主張し、人情や心理を写すべきだと述べたことは知られている。その論理に粗雑さがあったとしても、この著者はまだまだ二十歳代で、その画期的な論が傷つくものではない、といわれてきた。

しかし、この画期的な文学論が、実はフェノロサの『美術真説』と呼ばれる日本美術論の焼き直しであることは意外に知られていない

東大のお抱え教師として来日したこのアメリカの新進気鋭の哲学者の美術論は、まだ美学や芸術論を知らない日本の文学者にとっては新鮮で、おおいに学ぶべきものであったのも想像に難くない。

一方で美術に通じ、日本の古美術の再発見者であるフェノロサは実は、東大でこの逍遙の先生であったのである。逍遙はその意見を知らないはずはない立場にいたのである。

この論は前回述べたように明治十五年に発表され、芸術青年のみならず、一般の人々にまで影響を与えていた。原稿用紙六十枚ぐらいの短いものであったが、美術を哲学的に論じるとともに日本美術への高い評価を行って、西洋崇拝に傾いていた日本人の風潮を批判する意図を持っていたのである。

逍遙はのっけから「小説は美術である」と述べ、その美術とは何かを説けば、自ずから小説とは何かがわかるというと述べている。それを「某氏」という「米国の博識」による美術論を紹介したうえで自分の説を言おうというのだ。

それは明らかにフェノロサであることがわかるのだが、その名をわざと触れていない。

フェノロサの美術の定義とは、ひとつは「須用」であり、また「装飾」でもある、というものであるが、逍遙はそれを引用している。人間の創造は「須用」という実用的な面と「装飾」という娯楽的なものがあり、また「装飾」の方は人間の「気格を高尚にする」ものだ、と述べている。それが「善美」となり、またそれが人を「高尚」にするというのである。

こうして人は美術によって「幽趣佳境(ゆうしゅかきょう)」(おくゆかしいよい心境)となり、「神韻雅致(しんいんがち)」(きわめてすぐれたみやびやかさ)と対峙すると、「清絶高遠」(きよらかでたかい)なる「妙想」の起き感じることができる、と難しい言葉を使っていう。

文学もそれと同じで、何かが目的となるものではなく、その「自然さ」を主張するのである。美術は美術であり、それ以外のものではないのと同じく小説も小説自体である。重要なのは「人情」であり、「世態風俗」である。それを写すのは、その外形だけでなく「内部につつめる思想」を表さなければならないという。

たしかに逍遙の主張は写実主義的な芸術論であり、フェノロサの主張は理想主義的な色がある。しかし、フェノロサの美術論もまた何かが「目的」となって主張するものだ、と言っているわけではない。つまり勧善懲悪的な目的を、美術がもつべきだ、ということでは決してない。逍遙はこのフェノロサの論を、あたかもそうした目的がある論であるかのようにすり替えて批判するに至る。そこに自分の新しい論があるかの如くに語るのである。

ここに逍遙のレトリックがある。つまりフェノロサの名をあげず「某氏」としたのは、まさにこのすり替えを可能にするためだ。もしフェノロサの名をあげ、その説を引用した形にしたのなら、それは単に紹介となり、盗用の類となる。しかし、「某氏」としたために、それが逍遙自身が作り上げた芸術論として引用し、批判できることになるのだ。

いずれにせよ、日本の近代文学論の出発は、このフェノロサの美術論に始まるのである。

 (東北大学大学院教授 田中英道)




(2004/07/30)

【新地球日本史】(23)

明治中期から第二次大戦まで

フェノロサと岡倉天心(5)

西洋に学ぶより自分で考えよ 

岡倉天心が東大の卒業論文で、はじめ「国家論」を書いていたのだが、若妻にそれを焼却されてしまい、たった二週間で「美術論」を草して提出した、というエピソードはよく知られている。

その国家論がどんなものであったかわからないが、国家と美術という全く反対の事柄を書き上げてしまう十八歳の天心の精神は、のちの美術論が常に国家や歴史と結びついていることで生かされることになる。

彼が美術論から「アジアはひとつ」と叫ぶ土壌が、すでに若いときにあったのである。

えっ!? あれが「国家論」ですかぁ?w

彼は明治十九年(一八八六)から洋行する。アメリカ廻りで、フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、オーストリア、イギリスと渡っている。洋行などという言葉は現在では死語化しているが、当時はまさに洋行であった。

しかし、彼の場合、その旅行記『欧州視察日誌』からは華やかな語感は感じられない。初めて見たもの接したものであるにもかかわらず、あまり感激や驚きを示していないのである。まるですでに西洋に行き、多くのものを見、経験しているものの態度である。しかし、事実は初めてであるのだから興味深い。

その態度はあるいは彼が美術行政のための役人として洋行したためかもしれない。それにしても明治四年の岩倉使節団による『米欧回覧実記』などの恐ろしい好奇心とも異なっている。あるいはこの旅行記が英語で書かれているからか、と思ったりする。しかし、天心は幼少時代、横浜で多くの外国人に接し、英語の環境で育ったことも知られている。最初に見た感激を英語で書けないとは考えられない。

それはどうも彼が着物を着て旅行をした、という事実に関係しているようだ。最初から西洋文化を日本と対等のものとして見る態度をもっており、あくまで西洋を異質なものと考えていたから、と思われる。

このことは伊藤博文がその四年前に帝国憲法制定のために、教えを乞うた西欧の法律学者シュタイン教授とのウィーンでの会見との比較でもよく理解される。そこにはおそらく伊藤博文がはらったであろう尊敬と緊張感はない。天心はこうした教えを乞う、日本人の政治家自体への懐疑を、このシュタイン老教授の言葉から引き出している。

老教授は日本人たちが、西欧に学ぼうとしにやってくるが、欧州の国々のそれぞれの性格を知らずに真似しようとするので、迷ってしまっている。

そこには比較の視点が欠けているのである

伝統的に、「守・破・離」だからですかねぇ。
学ぶは「真似ぶ」だとかw


このシュタインの思想はヘーゲル派の歴史観に基づいているといってよい。日本の天皇の存在を専制社会の存在とみており、遅れた封建共同社会の体制が存続している、と考えている。そんなところではもともと法の意識は育たない、というのだ。家族の観念しかなく、個人の観念とか所有の観念などを育てなければならない、という。そしてその改革のためには、三十年かかるし、世代が変わるのに六十年かかる、と考えている。

それはドイツやオーストリアでの体験から出た言葉であろうが、天心はその点までは言及していない。しかし、日本の「若い人々をこちらに送ってよこすのは、特に有用ではない。彼らは立派な若者となって帰って行くが、本当に役に立つかどうか、彼の意見では必ずしもたしかではない」と述べている。天心のこの西洋留学への懐疑で述べたいのは、若い日本人が自ら考えること、自分で作り出していくことを忘れてしまうことだ。

この旅行記で、西洋の文明そのものへの礼賛もないのは興味深い。彼がフランスやイタリアの美術を見たときの、その態度によく表されている。彼の日本人としての精神は、フィレンツェでジョットー、ぺルジーノを見たときに、日本の美術の流れが「河成、弘法が金岡への道」を準備したように、彼らがラファェロ、ダ・ヴィンチの道を拓(ひら)いた、というのである。西洋のガイドブックを見て、それを説明する、などということはないのだ。

(東北大学大学院教授・田中英道)





(2004/07/31)

【新地球日本史】(24)

明治中期から第二次大戦まで

フェノロサと岡倉天心(6)

「アジアはひとつである」の意味

「アジアの兄弟姉妹よ! われわれは、さまざまな理想のあいだにさまよってきた。さあ、ふたたび現実に目覚めようではないか。われわれは、無感覚という苛酷な河をただよい流れてきた。さあ、もう一度現実という苛酷な岸に上陸しようではないか」と、岡倉天心は、『東洋の目覚め』で述べている。

この叫びは日露戦争が始まる前の、アジア全体におおう「白禍」の中で言われた言葉である。北方で「ロシアの侵略がシベリアから襲いかかり、南方ではイギリスが陰謀のペルシャと抗争のアフガニスタンにおいてスラブの鎖と接触し」ている、ちょうどそのころのアジア情勢を分析しているのである。

「ヨーロッパの栄光は、アジアの屈辱である」という天心の有名な言葉は、ヨーロッパを欧米に置き換えたにしても、今日のグローバリゼーション経済の時代においては、あまり現実的ではないかもしれない。「白禍」とか「黄禍」といった言葉もまた死語化していよう。

しかし、二十世紀末のハンチントンによる「文明の衝突」にある宗教の対立、文明の対立は、冷戦の終結の後、こうした天心の東西の対立の情況を、いみじくも顕在化しているように見える。

アジアの実力やその過去の文明の重みは、徐々に評価されてきているが、しかし、それはあくまで欧米の必要性に応じて生まれているのであって、アジアの側から、あるいは日本の側から発せられているわけではない。

一方でアメリカ大統領の口から、イラクやイランにせよ北朝鮮にせよ、欧米にとって「悪の枢軸」国は相変わらずアジアにある、といわれることは決して偶然なことではない。「欧米の静穏は、つねに、アジアにおける嵐を意味している」という言葉は、まだ生き続けているのである。

私は欧米とアジアが対立するべきだとは思っていない。しかし、天心が目指したように「アジアはひとつである」理由を、西洋的な文明論の文脈で見るのではなく、アジアの歴史と文化交流の文脈で見ることは必要だ、と考えている。

ハンチントンのいうように、アジアには世界の八大文明のうち五大文明もある、ということになると、アジアは四分五裂しているように見える。ヨーロッパ連合のようにキリスト教圏でまとまることは不可能とみられているのである。しかし、これは彼らの主観的な見方から出た結論にすぎない

そうですかねぇ。

宗教はアジアにおいては決定的な対立点とはなっていない。日本が固有の神道をもとに仏教、儒教、道教、キリスト教を融合してきたように(それは日本の美術によく表されている)、宗教は対立よりも共存しているのである。

天心はアジアこそ「世界のすべての偉大な宗教は、われわれがおくったものである」と述べている。アジアには深い宗教性が宿っており、その宗教的対立を生んだのは、ヨーロッパがそれを受け取った後のことであるのだ。

「アジアはひとつである」という言葉で始まる天心の『東洋の理想』は、副題にあるとおり「とくに日本美術について」の本である

そうでしょっ! そうですよねぇw

アジアの複雑さの統一をとくに明確に実現することは、日本の偉大な特権であった、と述べているのも、それが、各国の思想と文化が、美術が基礎にあると考えるからである。

「万世一系の君主を抱く比類ないしあわせ、征服されたことのない民族の誇り高い自尊心、膨張を犠牲にして祖先伝来の理念と本能をまもった島国的孤立が、日本を、アジアの思想と文化を託する真の貯蔵庫とした」という一節は、そのような視覚的体験がささえている。

その考え方にはむろんフェノロサの影響があることは、天心がこの東大のお抱え教師の最初の学生であり、通訳をしていたことからも断定できる。

天心の『東洋の理想』も、『日本美術史』も、フェノロサの高い日本美術への評価なしには考えられない。しかし、同時にそれは岡倉天心という人物の視野の大きさに深く関わっている。

 (東北大学大学院教授 田中英道)




(2004/08/02)

【新地球日本史】(25)

明治中期から第二次大戦まで

西洋人の見た文明開化の日本(1)

大胆な変革への驚嘆と憂慮

明治三年十一月八日(陽暦一八七〇年十二月二十九日)、太平洋を横断して横浜に入港した蒸気船「グレート・リパブリック号」で、一人のアメリカ青年が日本にやってきた。ウィリアム・エリオット・グリフィス、二十七歳。福井藩から招かれ、藩校で理化学を教えるために来日したのである。

そのころ日本は、「世界に智識を求める」という大方針のもとに、政治・経済・文化などあらゆる分野で西洋先進諸国から、制度・技術・学問・思想などを取り入れて、近代的な国づくりを始めていた。そして、グリフィスが福井に着任してからわずか六カ月後、封建支配体制を根底から解体する大変革が断行され、福井藩は消滅する。廃藩置県であった。

彼は廃止される藩の側からこの変革を実地に体験することになった。明治四年七月十八日、廃藩置県通告の使者が東京から到着したときの模様をこう記している。

「まさに青天の霹靂(へきれき)!政治の大変動が地震のように日本を中心から揺り動かした。……今朝十時に東京からの使者が藩庁に着く。にわかに学校で騒動が起きた。日本人教師と役人が全員、学監室に呼び出された。数分後に会うと、その人たちの大方は顔は青ざめ、興奮していた。……藩の財産は天皇の政府のものになる。福井藩は中央政府の一県に変わる」(グリフィス著・山下英一訳『明治日本体験記』)

廃藩置県は、少数の明治政府の実力者によって計画され、天皇の詔(みことのり)発布とともに一方的に諸藩に通告された。日本人にとってと同様に、多くの外国人にとっても、それは全く思いがけぬ出来事であった。

ニューヨーク・タイムズは、日本政府が封建制度の全面的解体と四民平等の実現という大胆な改革を実行したことに非常な驚きを表明し、その歴史的意義を高く評価している(『ニューヨーク・タイムズ』一八七一年十月七日)。しかし、それがあまりにも急進的すぎて、強い抵抗と大きな混乱を招くのではないかと危惧する外国人も少なくなかった。

来日中のオーストリアの外交官ヒューブナーは、諸大名の既得権を一挙に剥奪(はくだつ)したのは行き過ぎではないかと深い憂慮を示し、イギリスの代理公使アダムスは、岩倉具視に対し、思い切った改革を評価しながらも、ヨーロッパの例を引いて抵抗勢力への軍事的準備の必要性を示唆したという(松尾正人『廃藩置県』)。

幸いなことに、それらの懸念は、おおむね杞憂(きゆう)に終わった。

廃藩置県という大きな変革が、さしたる強い抵抗を受けることなく実施されたことは、明治維新における奇跡ともいわれている。

その重要な理由は、諸藩の財政的窮乏という現実的条件もさることながら、やはり明治政府と諸藩との間に、強い対外危機意識と国際社会で欧米列強と肩を並べる強国を建設する(「万国対峙(たいじ)」)という基本的国家目標が共有されていたからであろう。

グリフィスは、福井に大きな動揺が起こり、政府高官暗殺を叫ぶ乱暴者もいたと述べているが、同時に、影響力ある多くの武士たちが、廃藩置県は国情の変化と時代の要求によるもので、国のために必要なのだと異口同音にそれを支持し、中には、これからの日本はアメリカやイギリスの仲間入りができると意気揚々と語る者もあった、と書いている。

より大きな「公」が見えていたっ!

廃藩置県の実現に心血を注いだ明治政府の実力者の一人、木戸孝允(たかよし)は、詔発布の当日(明治四年七月十四日)の日記に、「始めてやや世界万国と対峙の基(もとい)定まると言ふべし」と記しているが、グリフィスの観察からは、これと同じ考え方が、廃止される福井藩の側でも大勢を占めていた様子がうかがわれ、はなはだ興味深い。

そして、それから十数年、「性急すぎる改革」という西洋からの批判を振り切るかのように、日本は、一気に立憲政治の実現にまで、突き進んでいったのである。

(東京大学名誉教授・鳥海靖)




(2004/08/03)

【新地球日本史】(26)

明治中期から第二次大戦まで

西洋人の見た文明開化の日本(2)

自国の歴史を軽蔑する日本人

廃藩置県から五年後、明治九年(一八七六)六月、ドイツ人医学者、エルヴィン・ベルツが来日した。東京医学校(東京大学医学部の前身)から教授として招かれたのである。

とんでもない高給取りの「お雇い外国人」w
でも五月雨式の「留学生」派遣よりは効率的だったろな


この数年間で日本は急速に変わりつつあった。太陽暦が採用され、かつてグリフィスが目にした切支丹(キリシタン)禁制の高札はどこにもなかった。

明治5(1873)年12月3日を、明治6(1873)年1月1日とした。太陽暦採用日曜休日制も

外国人の恐怖の的、二本差しのサムライも姿を消した。東京・横浜間に鉄道が敷かれ、一時間足らずで往来できるようになった。開通式で横浜の商人代表が天皇の前で祝詞を読みあげた光景は、封建的身分制度の撤廃を象徴するものであった。

全国には二万五千以上の小学校が設立され、二百万人以上の男女の児童たちが学んでいた。

江戸時代「寺子屋」の遺産w 女性教師も多い

東京の銀座・京橋界隈(かいわい)には、煉瓦(れんが)造りの西洋風建物が軒を連ね、夜の街路をガス燈が照らし出した。

西周(あまね)、津田真道(まみち)、福沢諭吉、加藤弘之ら明六社の洋学者たちが、築地の精養軒で一円二十銭の西洋料理をとりながら、政治・経済・教育・思想・宗教・国際関係など万般にわたって新しい知識を交換し、活発な論議をたたかわしたのもこの頃のことである。

彼らの多くは、旧幕府の蕃書調所(ばんしょとりしらべしょ)(開成所)に集った人々であるから、旧幕府の人材登用政策が、明治時代に見事な果実を結んだ一例といえよう。

「国内では進歩が合言葉だった」とグリフィスが記したように、まさに世をあげて文明開化の時代になったのである。

しかし、ベルツの目から見ると、それはあまりに性急で、足が地に着いていないような危うさがあった。「(日本は)ヨーロッパの文化発展に要した五百年たっぷりの期間を飛び越えて、十九世紀の全成果を即座に、しかも一時にわが物にしようとしている」とベルツは日記の中に書いている(一八七六年十月二十五日)。

江戸時代におけるかなり中央集権化された行政組織、全国的な商品経済圏の発展、交通・通信・情報の全国ネットワークの形成、庶民教育の普及などを考えれば、ベルツが江戸時代の日本を中世騎士時代のヨーロッパと同様だと考えたのは、いささか認識不足であったが、明治政府の改革がときには民情を無視するほど急進的であったことは否定できない。これが「死の跳躍」にならねばよいが、とベルツが憂慮したのも当然であろう。

とりわけベルツが大きなとまどいを感じたのは、教養ある日本人が、明治維新以前の日本をことごとく否定するという自国の歴史や文化的伝統をあからさまに蔑視する態度を示したことである。

勝てば官軍「薩長史観」w

ベルツの日本の歴史についての質問に、ある者は「全く野蛮なものでした」と恥じ入り、中には「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と答える者もあった。

自国の歴史や文化をこれほど軽視するようでは、とうてい外国人の信望は得られない、とベルツは日本の知識人のそうした態度に苦言を呈している。

むろん大きな変革の後に、それに先行する時代を全面的に否定する傾向は、大革命後のフランス、ロシア革命後のソ連、「光復」後の韓国など、洋の東西を問わず広くみられる現象である。

第二次大戦後の日本で、日本の近代史の「遅れ」や「ゆがみ」をことさら強調する歴史教育が流行したのも、その一例であろう。

そして、同じ敗戦国ドイツなどに比べて、戦後の日本でそうした傾向が、いっそう強く、より長かったことも、最近の比較現代史の研究で明らかにされている。

明治初期にも似たような現象があったわけだが、フェノロサの日本古美術再評価にみられるように、日本の文化的伝統のすばらしさを西洋人学者から教えてもらったのと同じく、第二次大戦後、日本の近代化の肯定的評価を積極的に取り上げたのが、ライシャワーら西洋人の日本研究者だったことは、何とも皮肉なことであった。

(東京大学名誉教授・鳥海靖)




(2004/08/04)

【新地球日本史】(27)

明治中期から第二次大戦まで

西洋人の見た文明開化の日本(3)

あふれる好奇心、旺盛な知識欲

もう二十数年前のことになるが、ある中国人留学生からこんな話を聞いた。彼は来日して明治時代の小説を好んで読んでいたが、その中で、店番を頼まれた十四、五歳の少女が、お客があまりこないので、つれづれに新聞を読みふけるという場面に出合ってひどく驚いた、というのである。

「なぜそれがびっくりするようなことなの?」と聞きかえすと、「日清戦争のころの小説ですよ。日本では十九世紀末に庶民の少女が新聞を読めたんですね。驚くべきことじゃないですか。中国ではとても考えられませんから…」と答えがかえってきた。日本人の読者なら、多分、何の気なしに読みとばしてしまう場面であろう。なるほど、そんな受けとめ方もあるのだなあ、と感心させられたものである。

日本人の教育熱心ぶりは、今日でも世界的に有名らしく、時にはそれが揶揄(やゆ)の対象になったりもするのだが、確かに日本の急速な近代化を可能にした重要な条件の一つに、教育の力をあげることは、的はずれではないだろう。

一八七一年一月(陰暦明治三年十二月)、東京に着いたグリフィスが真っ先に訪れたのは、神田一橋の大学南校(のちの東京大学)であった。

明治6(1873)年12月3日までは陰暦だから、太陽暦との比較意識しないと理解がズレるんだなw

旧幕府の開成所を引き継いだこの学校には、ちょんまげを結い、大小二本を差した多くの武士や庶民出身の学生たちが、石盤を持ち、帯に墨汁入れをくくりつけて、下駄の音を響かせて通学してきた。下足番に下駄と大刀を預け、小刀は持ったまま教室に入るのである。

学校にふさわしくない雑然たる光景に、グリフィスはいささか辟易(へきえき)したが、学生の熱心さには大いに感心させられた。

福井でも学生たちは、この青い目の若い教師を深い尊敬と礼節をもって迎えた。グリフィスは、担当の理化学ばかりか、地理や歴史、アメリカの社会制度、さらに希望者にはキリスト教についても講義した。

十二室もある自宅を開放して、夜も授業を続けたらしいから、グリフィスの熱意には驚かされる

何よりも彼を喜ばせたことは、旺盛(おうせい)な好奇心と知識欲にあふれた学生たちの真摯(しんし)な態度であった。「学生が授業をまじめに熱心に受けるのには驚く。覚えも早いし勉強もよくする」とグリフィスは称賛している(『明治日本体験記』)。

とにかく先人はスゲェw

五年後、ベルツが東京医学校で教鞭(きょうべん)をとったころには、すでにちょんまげ・帯刀スタイルの学生は姿を消していた。やはり、ドイツ語によるベルツの講義を驚くほどよく理解し、最初の試験では、八段階評価で、ほぼ半分の学生に最高ランクをつけたという(『日記』七六年十一月二十五日)。

もっとも、それから二十数年後、ベルツは自分のドイツ語の講義を学生があまり理解できなくなったと嘆いているが、これは、大学教育が日本人の手により、日本語で行われるようになったあらわれであろう。

日本語って「物事(概念)をはっきり表現できない」のかな? 憲法ってぇと何となくボンヤリ(掲げた法律?w)してるが「国柄」「国家の体質」とか書いてあるとすぐピンとくるもんねw

教育熱心なのは江戸時代からで、天保-慶応年間には、国内各地に八千数百もの寺子屋が新設されたという。明治政府が「邑(むら)ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン」として、国民教育普及に成功したのも、こうした江戸時代の遺産があったればこそである。

明治十一年(一八七八)に来日したイギリスの女性旅行家、イザべラ・バードの日光近郊の村での見聞では、男女とも子供たちは午前七時になると小学校に登校し、洋式の立派な校舎で、椅子(いす)に腰かけて授業を受けた。「教科書をじっと見つめている生徒たちの古風な顔には、痛々しいほどの熱心さがある」。正午には下校して、女の子は子守など家の手伝いをするが、夕方になると家々から、予習に本を読む声が聞こえ、夜は暗い行灯(あんどん)(まだランプは普及していなかった)の下で、年嵩(としかさ)の少女たちは、母親とともに貸本屋から借り出した小説(草双紙のたぐい)を読むのだという(イザベラ・バード『日本奥地紀行』)。

この冒険旅行おばちゃんの記録は泣かせるわぃw

間違いなく明治の子供たちは、平成の子供たちよりよく読書したようである。

 (東京大学名誉教授・鳥海靖)




(2004/08/05)

【新地球日本史】(28)

明治中期から第二次大戦まで

西洋人の見た文明開化の日本(4)

世界中でもっとも安全な国

幕末から明治初年に来日した西洋人にとって、ピストルは生活必需品であった。グリフィスは日本に来る前に、最新の回転式連発ピストル一丁を購入して持参した。彼らは皆、寝るときにはそれを枕元におき、外出するときも持ち歩いた。「居留地の外国人でピストルを持たずに家から遠くに出かけた者はほとんどいない」とグリフィスは書いている(『明治日本体験記』)。

西洋の剣とは比べものにならない日本刀の鋭い切れ味は、彼らの恐怖の的だった。「日本刀は剃刀(かみそり)のように切れ、おそろしい深傷(ふかで)を負わせる」とは、イギリス人外交官、アーネスト・サトウの言葉である(『一外交官の見た明治維新』)。

明治三年十一月二十三日(陽暦一八七一年一月十三日)夜、大学南校のイギリス人英語教師、ダラスとリングが、東京の神田で切りつけられて重傷を負うという事件がおこった。

急を聞いて現場に駆けつけた同僚の日本人英語教師、高橋是清(へぇ~w 達磨さんがこんなところに)によると、二人は愛人の日本人女性と手を携えて歩いているところを、背後から襲われたのだという。

外国人の身の安全にことのほか気を使っていた日本政府の措置は、迅速で的確だった。東京中の武士の刀が調べられ、研(とぎ)師も取り調べを受けた。人を切った刀は、血痕や刃こぼれからすぐわかるのである。

高橋の刀にかすかな血痕が付着していて、大騒ぎになったが、宿舎に出没するねずみ退治に刀を使ったアホですかw)ものとわかって、お咎(とが)めなしであった(『高橋是清自伝』)。まもなく、犯人が捕らえられ処刑された。鹿児島藩の攘夷派の武士だったという。

外国人の安全を守るために、幕末から幕府は腕の立つ幕臣たちを集めて別手組を組織し、外国人の外出時などの警護に当たらせた。新政府のもとで、それは東京府に引き継がれた。

世界中どこでも、いつの時代でも、頑固な攘夷主義者・排外原理主義者はいるものだが、幕末・明治初めの日本では、政府の開明化政策もあって、それはごく一部の士族にとどまり、民衆の大規模な排外運動に発展することはなかった。

グリフィスの見解では、その当時の西洋人殺傷事件は、多くの場合、西洋人の側が、「正当化できない原因」をつくり出したものだという。

廃藩置県から数年のうちに、こうした事件はほとんど跡を絶った。生麦事件(一八六二年、神奈川付近でおこったイギリス人殺傷事件)を契機に横浜居留地に配備されていた英仏軍も、日本側の治安維持能力が確立されると、明治八年(一八七五)には撤退した。

こういう顛末が普通の教科書には書いてないから誤解してしまうんだろなw

もっとも、安全イメージが定着するには、なお時間が必要だった。明治十年(一八七七)に来日した動物学者、モースは、その年の夏の日光旅行にピストルを携帯している。しかし、幸いなことに、グリフィスもモースも実際に使う場面のないままに、まもなくピストルを持ち歩くことはやめてしまった。

日本にしばらく住むと、そんな必要がないことが、よく理解できたからである。モースは、日本の荒れ果てた場所でも、母国アメリカのどんな都市の静かな通りよりも安全だとわかった、と述べている(『日本その日その日』)。

世界各地を旅行した経験をもつイギリス人女性旅行家、イザベラ・バードは、日本の東北・北海道の奥地を旅したが、危険な目には一度もあわなかった。「世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はない、と私は信じている」(『日本奥地紀行』)と力説している。

その十数年後、彼女は中国(清国)奥地を旅行し、多数の暴徒に襲われて、投石で負傷したり、ピストルを握りしめて救援を待つという恐怖の体験をすることになる。

さて、それからさらに百年余、日本国内での犯罪は国際化し、凶悪犯検挙率は大幅に低下している。世界一安全な国という表看板は一体どうなったのであろ
うか。

なに、普通に入管行政やりゃあ不逞支那朝鮮人水際で食い止められてすぐに安全になりますよw

(東京大学名誉教授・鳥海靖)




(2004/08/06)

【新地球日本史】(29)

明治中期から第二次大戦まで

西洋人の見た文明開化の日本(5)

豊かさと貧しさの共存

イザベラ・バードがアメリカ経由で来日したのは、明治十一年(一八七八)五月二十日であった。八年前、グリフィスが二十八日間かかった太平洋横断の船旅は十八日間。アメリカの汽船会社が旧式の外輪船に代えて、最新鋭のスクリュー船を投入したので、大幅なスピードアップとなった。五年前に出版されたジュール・ベルヌの小説『八十日間世界一周』が、すでに現実のものになりつつあったのである。

日本に着くと彼女は、知人たちが制止するのも聞かず、ただちに日本奥地旅行の準備にとりかかった。諸外国との修好通商条約で、外国人の自由な行動範囲は、原則として開港・開市場の十里(約三十九キロ)四方と制限されていたが、英公使、パークスの後押しもあって、すぐに日本政府からの旅行許可が下りた。

こうして日光への旅を皮切りに、東北・北海道はじめ全行程約二千キロ、三カ月に及ぶ旅がはじまった。グリフィスの福井への旅が、たくさんの日本側役人・護衛・従者・人足などを引き連れ、大名旅行さながらだったのに対し、彼女の旅は、従者として十八歳の日本人少年一人を伴っただけの簡素なものだった

バードはこの旅を通じて、東京や横浜で見た日本とはまったく違って、文明開化から取り残された貧しい日本に出合った。

日光から奥会津を通って新潟までの山越えの旅、新潟から飯豊(いいで)・朝日山地をぬった米沢盆地への旅などでは、狭くて険しい山道は、雨がちょっと降ると泥濘(でいねい)と化し、「日本の貧弱な馬」はたちまち立ち往生した。山間の家々はみすぼらしく非衛生的で、汚水の悪臭が鼻をついた。

すげぇなっ!馬を使ったんだろなw

住民は貧しく、子供はほとんど裸で、大人でも男はふんどし一丁、女も上半身をあらわにしていた。皮膚病や眼病にかかっている者も多かったが、医者に診てもらっている様子はなかった。山村の宿では雨漏りと蚤(のみ)に悩まされてまんじりともできず、従者の少年までが、日本にこんな所があるとは知らなかった、とボヤクありさまだった。

旅先でどこでも、彼女を何よりも閉口させたのは、プライバシーがまったく保てないことだった。いたるところで西洋人の女性を一目見ようと集まった物見高い住民たちに取り囲まれ、時には宿の部屋の障子が無断でそっと開けられ、のぞき見されることもあった。

しかし、彼らに悪意はなく、貧しくても決してお金を盗んだりゆすり取ったり、過当な料金を要求することはなかった。人力車夫や馬子も物静かで親切で礼儀正しく、落とした革帯一つ拾うのに、一里(約三・九キロ)の道を引き返してくれた。それでも決してチップは受け取らないのである。たまに罵声(ばせい)を浴びせる子供がいると、周囲の人々がきびしく叱りつけた

当時から民度が遥かに高いw

悪路に悩まされてきたバードをおおいに喜ばせたのは、山形県に入ると米沢盆地から新庄まで、すばらしく整備された広い道が百キロ近くも続いたことである。彼女はここでふたたび豊かな日本を見出した。「山形県は非常に繁栄しており、進歩的で活動的であるという印象を受けた。…幅広い道には交通量も多く、富裕で文化的に見える」。山形の市街に入ると、街路は広く清潔で、県庁・裁判所・学校・警察署・病院などの洋風の立派な建物が「町の繁栄にふさわしく調和している」(『日本奥地紀行』)。

当時、山形県では、明治政府の殖産興業政策を反映して、三島通庸(みちつね)県令(知事に当たる)のもとで、物産をおこし道路を建設して物資運搬の便をはかり、県内の繁栄をはかるという政策が進められていた。

コノ名前なんか、「福島事件」で悪の権化のような印象持てるからなぁw 当初歴史教育て相当後引くもんだと了解できるわ

バードは、今、日本にとって必要なことは、国内の物資輸送に役立つ道路の建設に予算を投入し、国を富ませることだと述べているが、山形県ではまさにそうした政策が成果をあげていたのである。

三島は第二次大戦後の歴史家から、「民権運動を弾圧した鬼県令」として悪玉視されているが、同時代人バードの記録からみると、まったく別の姿が浮かびあがってくるのである。

そうだよねっ! 確かこの人は「鬼県令」的書かれ方だったっよ

 (東京大学名誉教授 鳥海靖)




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