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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

新地球日本史(5)

(2004/08/19)

【新地球日本史】(39)

明治中期から第二次大戦まで

日本の大陸政策は正攻法だった(4)

日清鮮国交交渉と征韓論

明治新政府樹立の大功労者・西郷隆盛は「今は往時戦国の猛士より猶一層猛き心を奮起さずば万国対峙(たいじ)は成る間じき也」(『西郷南洲遺訓』)と喝破した。

狡猾・獰猛(どうもう)な欧米列強に対抗できる物心両面での強国を形成して安全保障を確立すること、それは明治政府が自ら引き受けた大課題であった。

だが、やみくもに対抗するのは当然不得策である。それゆえ、「万国公法」を尊重し、欧米列強との外交関係を安定させ、同時に地政学的な観点から、近隣諸国との近代的な国交関係を樹立することが、当面最大の外交課題になった。

まず明治四年(一八七一)九月、清帝国と日清修好条規および通商協定を締結した。いわゆる対等条約で治外法権(領事裁判権)を相互に共有し、通商協定は欧米列国との取り決めと類似の基準を立てた。

日本政府の意図としては日清同盟への一歩前進だったのである。だが、清帝国は二重基準をもって我が国に対した。朝鮮や安南や琉球に対しては牢固として横柄・尊大な中華思想からなる華夷秩序維持をもって対した。

やっかいだったのは李氏朝鮮であった。彼の国は、建国以来儒教(朱子学)を国教とし、華夷秩序の宗属関係を遵守して五百年を閲(けみ)していた。だから、儒教原理主義は牢固であり、強固な小中華主義的鎖国政策が国是であった。

徳川幕府とは、対馬藩主・宗氏を介して「通信関係」を持ったが、日本を中華文明周辺の「夷人」「倭夷」と見下していた。

李朝では当時少年国王高宗の実父、大院君が実権を掌握し、宗主国の信任を得るべく過激な攘夷主義を実践して成功していた。

一八六四年(元治元)には露西亜(ロシア)の通商要求を退け、一八六六年(慶応二)には通商を求めて大同江を遡上した米国商船シャーマン号を襲撃、船員を殺害し、同年にはフランス人宣教師虐殺事件の報復に来襲したフランス海軍陸戦隊をも撃退した(丙寅洋擾)。一八七一年(明治四)、米国は軍艦を江華島に回航させ朝鮮開国を図ったが、朝鮮側は頑強に反撃して退けた。

大院君は夷狄撃攘の成功で伝統的な攘夷政策への自信を深めたのだった

ところで、明治政府は旧幕時代から対朝鮮外交の担当である対馬藩主・宗氏をして王政復古で天皇政府が成立した旨を李朝に告知させ、国交樹立を打診させた(明治元年十二月)。

ところが、釜山の東莢府倭館の係官(日朝交流の窓口)が告知文書に対して、これは旧幕府の文書形式と相違し、本来「北京の皇帝」だけが使用する「皇室」や「奉勅」の不遜の文字があり、受理できないと退けた

これが「皇勅問題」で、わが皇国を侮辱するものと朝野に「征韓論」が高揚する直接的な契機になった。

その後も交渉を重ねたが埒(らち)が開かない。そして判明したのは、「洋夷」の軍門に屈服して西洋化を目指す日本人は、「夷狄」以下の「禽獣」に成り下がったと、李朝高官らが我が国を軽視・侮蔑する事実であった。

我が国が朝鮮王朝に欧米外交の論理に基づく「開国和親」を求めたのは、日鮮が提携して前向きに国際社会に出れば列強侵略の脅威を和らげて安全保障に役立つと考えたからにほかならない。

ところが、聞く耳持たずに拒絶したのみならず侮蔑を投げつけてきた

本来独立自尊の矜持が高い武士道精神に溢れた当時の為政者・識者たちが、頑迷固陋(ころう)で尊大な隣国の態度に憤激したのは当然のことであった。

参議・西郷隆盛は、公議輿論(よろん)を汲み取り、丸腰で朝鮮の首府韓城(現ソウル)に乗り込み日本の新しい国是と外交理念を理解させよう、もしそれでも李朝が拒絶すれば、軍事的圧力を加えて合意させよう、と唱えた。

西郷朝鮮派遣策は、いったんは政府の方針になったが、日鮮軍事紛争になれば欧米列強の軍事介入を招来し、やぶ蛇になるのを恐れた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らに遮られて、明治六年十月の征韓論大政変になったのは周知のことである。

要するに、欧米条約(万国公法)の論理を選択した日本の「開国和親」と「提携」呼びかけを、朝鮮王国は疑似中華思想的攘夷論で拒絶し、我が国を負け犬と侮辱したわけである。

(大正大学教授・高知大学名誉教授 福地惇)




(2004/08/20)

【新地球日本史】(40)

明治中期から第二次大戦まで

日本の大陸政策は正攻法だった(5)

李氏朝鮮の混迷と日清対立

我が国で政府二分裂の大政変が起こった直後、朝鮮王朝でも政情が急変した。

高宗が二十歳になり、「国王親政」の大義名分で王妃閔妃(びんひ)が得意絶頂の摂政大院君の権力を剥奪奪し、彼女の創意で日本との国交樹立に応じる方針に転じたのである。

その背後には、北京政府が王位継承に干渉する噂高宗側室の第一子を皇太子に冊封(さくふう)させる意向だとの情報が、男児出産直後の閔妃の耳に入った事態があった。

閔妃は、日本をして清国を牽制(けんせい)させようと考えた。もちろん開明主義からの発想ではなかった(崔基鎬『日韓併合の真実』)。

李王朝の内情急変が、明治九(一八七六)年二月の日鮮修好条規(江華条約)締結に結びつく。同条規第一款は、「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と銘記した。

朝鮮を中華体制から離脱させる点にこの条約の意義があった

しかるに戦後の歴史学界では、これをペリー来航を模倣した砲艦外交で、朝鮮侵略の野望の表れだったと強調した。だがそれは朝鮮王朝上層部の複雑な情勢も、攘夷熱が高い両班(ヤンパン)階級の重い存在も見落とした、公平を失した評価である。

李氏朝鮮王国はようやく「開国」し、これを皮切りに欧米諸国と条約を結び「条約体制」の世界に参入したのである。欧米列国は日鮮条約を歓迎した。他方、清朝政府がこれを容認したのは、フランスの安南方面、露西亜(ロシア)帝国の北方辺境での侵攻に苦慮していて、朝鮮半島で日本と衝突するのは避けたいと判断したためだ。清帝国と朝鮮王国との宗属関係に変化はなく、むしろ間もなく宗属関係強化工作が始まる。

この後、李朝は二次にわたり大使節団を日本に派遣、日鮮の交流開始によって親日的政治家・知識人が育ち始め、李朝部内に「開明派」と「事大派」の対立が発生した。

別名「独立派」の「開明派」は、隣国日本の支援を得て清国の尊大・横柄な華夷秩序=宗属関係の頸木(くびき)から離脱し、明治維新を学んで独立主権国家を形成したいと考える金玉均、朴泳孝ら若手貴族たちだった。

他方「事大派」は、李朝五百年の伝統に基づく儒教原理主義による華夷体制尊重・宗属関係護持の保守主義者であった。後者が圧倒的に多勢だった。

両派の対立で李朝は大きく動揺した。その最初の大衝突事件が明治十五年(一八八二)七月の壬午軍乱(事変)、大院君復権のクーデターだ。

高宗と閔妃は日本の支援を得て宮廷護衛の近代的軍隊を編成したが、保守派の反発が強く、大院君はそれを活用したのである。日本公使館は襲撃されて外交官・軍事顧問は漢城を脱出、あるいは殺害された。

閔妃は襲撃を巧みに逃れ、潜伏一カ月後、清国北洋大臣・李鴻章の支援を得て逆襲に転じた。

宗主権回復強化の好機と見た李鴻章は軍を急派、大院君を捕縛して北京に拉致した。

閔妃と閔妃一族が復権し、やはり頼りになるのは宗主国だと、日本を見限った。

李鴻章は清鮮商民水陸貿易章程(明治十五年十月)を結ばせ、宗属関係を条約的に強化・確認させた。

これに対して我が国は、仁川に軍艦と千五百の兵を送り清国軍と対峙(たいじ)しながら李朝に謝罪と賠償を求め、済物浦条約(同年八月)を結び、謝罪と賠償金五十万円を獲得したが、直ちに四十万円を朝鮮国内開明改革資金として還付した。

要するに、この事変で朝鮮王国は「中華体制」に回帰、「万国公法」体制への方向性は大きく後退したのである。

なお、我が国の皇族や為政者の質素な日常生活と比べると、朝鮮王族や貴族(両班階級)のそれが国力の脆弱(ぜいじゃく)さに不釣り合いの華美・豪奢だったことも指摘しておこう。

李鴻章はいわば朝鮮総督の地位に袁世凱を任じた。

李朝は属邦だから公使は置かない。袁は日清戦争開始までこの地位におり、宗属体制の強化を推進した。こうした情勢の変化から「開明派」の金玉均らは甲申事変(明治十七年十二月)を起こすのである。

(大正大学教授・高知大学名誉教授 福地惇)




(2004/08/21)

【新地球日本史】(41)

明治中期から第二次大戦まで

日本の大陸政策は正攻法だった(6)

日清戦後、露国の満鮮侵出 

日本は「開国和親」と「富国強兵」とを国是に掲げた明治新政府の指導で国民上下を挙げて奮闘努力を重ね、およそ半世紀にして自力で有色人種の国家で唯一、白人欧米列強の仲間入りに成功した。

ポツダム宣言受諾の降伏から現在までがおよそ六十年だから、その進展は驚異的で世界史上に燦然(さんぜん)と輝く偉業だった。

だが、日本が置かれた国際政治的・地政学的位置は微妙だった。

長い歴史と伝統文化を持つから、欧米文明をモデルにしてももちろん欧米文明そのものになれるはずもない。他方、古来我が国は「中華文明圏」の辺縁にあって、独自の「日本文明圏」を形成して近代に至った。それゆえに文明論的にみて明らかに欧米文明と中華文明のはざまに位置していたのである。今もそうである。

さて、前節の続きだが、「独立派」(開明派)は明治十七年(一八八四)、北京政府清仏戦争で安南方面に忙殺されるのを好機と判断、日本政府の本格支援を得ぬままに、十二月に駐鮮日本公使と日本人有志の応援でクーデターを敢行した。

だが、漢城に駐留清国軍千五百余人と事大派朝鮮軍があるのに対し、金玉均側には後援する日本軍百四十人があるのみ。これは運を天に任せた大ばくちだった。

宮廷内クーデターは高宗の了解を得ていったんは成功したが、清国軍出動で王宮は親清派に奪還され三日天下に終わった。

竹添進一郎公使と金玉均、朴泳孝らはともに仁川を脱し、日本に逃走し、「独立派」は壊滅した。

「独立派」親族は三族にわたって幼児に至るまで虐殺された。政争敗北の一族虐殺は李氏朝鮮の伝統だった。亡命政治家・金玉均も日清戦争直前に高宗差し向けの刺客に暗殺される。

有名な福沢諭吉の「脱亜論」(明治十八年三月)は、この直後に執筆された。

福沢は金玉均らを親身になって支援していた。だからその絶望は深かった。いわく「輔車(ほしゃ)唇歯(しんし)とは隣国相助くるの喩なれども、今の支那・朝鮮は我日本国のために一毫の援助と為ら(ず)…我国は隣国の開明を待ちて共に亜細亜(アジア)を興すの猶予ある可からず。寧ろ其の伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其の支那・朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばす、正に西洋人が之に接する風に従いて処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免がる可からず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と断言した。

ここには日清鮮三国同盟論への絶望が記されている

ところで、露西亜(ロシア)帝国は、樺太経営や沿海州の軍港整備に力を入れ、モスクワから太平洋を目指すシベリア鉄道の延伸は、間もなく全通(一九〇〇年)で、本格的南下侵攻の機運は高まった。

他方、清帝国は北洋艦隊を増強、「定遠」「鎮遠」「威遠」などの最新鋭大型戦艦を黄海・東シナ海に配備した。各艦名は中華思想を露骨に表明していて、夷狄を鎮圧、平定して中華の威光を遠方まで及ぼすぞ、というわけだ。

日清戦争は我が国の安全保障を目指し、尊大な中華体制から朝鮮王国を解放する戦争だった。

日本の勝利は、東アジアの形勢を一変させた。

ところが、独仏三国の大干渉が強行され、下関講和条約で獲得した遼東半島を我が国は清国に還付せざるを得なかった。

中華体制の膨張を抑止したとたんに露西亜の侵略開始である。今度は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に露西亜帝国の満洲・朝鮮侵略の脅威に備えなければならなかった。

日本の勝利で一時は阿諛(あゆ)迎合して国政近代化路線を敷いた李朝は、三国干渉の結果を見て、たちまち軍事大国露西亜帝国になびいて日本型改革路線をしりぞけた。

このように明治前期における我が国の大陸政策は、この時代の国際政治・外交の正攻法をもって展開されたのであるが、日清戦争の後、露独仏などの侵出意欲は高まり、支那の混迷は深まって東亜細亜の風雲はますます急を告げ、我が国の真正な進運を遮る要素に満ち満ちていたのである。

(大正大学教授・高知大学名誉教授 福地惇)




(2004/08/23)

【新地球日本史】(42)

明治中期から第二次大戦まで

日清戦争-中華秩序の破壊(1)

日本の勝利で威信失った清国

日清戦争は、一八九四年(明治二十七)から九五年まで行われた日本と中国(当時は清国)との戦争である。結果は日本が勝利し、清国が敗北した。

その結果、かろうじて維持されていた中国を中心とする東アジアにおける諸国家間の秩序体制(「中華秩序」)は崩壊する。

十九世紀の国家間の戦争は、二十世紀の第一次、第二次世界大戦のような総力戦ではなく、限られた戦場において双方の国家の軍人が武力で問題の決着を図る限定された戦争であった。

「限定戦争」と「総力戦争」

そして敗北すれば賠償金の支払いと領土を割譲するルールが確立されていた。また戦争は、当事者である国家の、技術力、組織力、国民の忠誠心が試される試金石でもあった。日清戦争はこのような十九世紀の国家間の戦争として戦われた。

当時の日本は明治維新のあと二十年以上をかけて国内の政治混乱を収拾し、一八八九年(明治二十二)に樹立されていた明治帝国憲法体制のもとで、新興の民族国家nation state の訳語で「国民国家」とも書くが、後者が適当だろw)として、技術力、組織力、国民の忠誠心を充実させていた。

これに対する清国側は、二百年以上続いた政治体制が構造疲労をおこし、崩壊に向かいつつあった。清国は伝統的な中華秩序の中では、欧米諸国を夷狄(いてき)(野蛮人)とみなし、対等の外交関係を拒んでいた。このような姿勢は、一八四二年の英国との阿片(アヘン)戦争の敗北によっても変化せず、一八六〇年の英仏連合軍の北京侵攻まで続く。

このあと清国は、一八六〇年代に入り従来の方針を変換した。欧米諸国に対する夷狄の扱いを廃止し、各国に領事を派遣して、対等の外交関係を結んだ。さらに軍事技術を中心に欧米の技術移入を開始した。いわゆる「洋務運動」の始まりである。

しかし、洋務運動は、李鴻章(りこうしょう)らの一部の革新官僚により行われた軍事中心のハード面だけの局部的改革に過ぎず、ハード面もソフト面も含めて社会の各分野で全面的に行われた明治日本の大改革には比すべくもなかった。

洋務運動では、新技術の活用を裏打ちする、新しい組織力や国民の忠誠心の養成などは、望べくもなかったのである。

この状況を知る李鴻章は、日清戦争には反対していた。しかし、清朝内の強硬派に押し切られた形で戦争が勃発(ぼっぱつ)する。その結果は、李鴻章が三十年かけて育成した北洋艦隊の壊滅と半新半旧の陸軍部隊である淮軍(わいぐん)の壊滅であった。

日清戦争に勝利した日本は、清国から二億両の賠償金を獲得し、台湾を割譲され、西欧列強との間での中国を舞台とした本格的な勢力拡張競争に突入する。

そして敗北した清国は、大国の威信を失い、日本と欧米列強の露骨な侵略の対象となる。

日清戦争後、清国では儒教イデオロギーに革新的解釈をほどこし、日本の立憲君主制にならった体制変革がくわだてられる。

一八九八年六月以後、時の光緒帝は革新官僚の康有為の意見を採用し、次々に体制改革の詔勅(しょうちょく)を下した。官吏登用試験の科挙に改革政策を論じる論文を課し、北京に大学堂を、各省には高等学堂を設置する。

鉄道、鉱山、農業、工業を管轄する中央部局と地方部局を設置する。軍隊の冗員を淘汰して武器と操練を一新し、官庁の統廃合を行い冗員を淘汰する、であった。しかし、最高権力者wの西太后を中心に団結した保守派の反撃にあい、三カ月で体制改革は失敗する。

そしてこのあと政治権力の流動化が発生し、やがて政治体制は崩壊することになる。

このように伝統的中華秩序が崩壊するなかで、日清戦争の十年後には日露戦争が勃発し、この戦争にも、日本は勝利した。

しかし、賠償金は獲得できず、樺太(サハリン)の南半分の領土割譲とともに苦い勝利の代償として獲得した満州における権益が、日本を厄介な立場に追い込む。

満州での権益は、ロシアが清国から租借していた権益を、日本が清国の承認のもとにロシアから引き継いだだけのものであった。

そしてこの権益の処理をめぐる日中間の対立が、やがては日中戦争から日米戦争への道を開くことになる。

(立命館大学教授・北村稔)





(2004/08/24)

【新地球日本史】(43)

明治中期から第二次大戦まで

日清戦争-中華秩序の破壊(2)

日中を不安定にさせた満州権益

日露戦争での日本の勝利は、明治政府の近代化の成果とうけとられた。中国(当時は清国)からは日本の近代化にならうべく、万余の留学生が派遣された。

留学生たちは、江戸時代に頂点に達した漢文文化の影響を色濃く残す明治の日本の文章に親しみ、和製漢語に翻訳されていた多くの西欧文化をたやすく吸収した。

そして、日本式に翻案されていた数多くの近代的制度が中国に導入された。

このとき、中国に導入された制度の多くは、清朝が滅亡した後も継承され、以後の中国社会に見られる近代化された側面の基層をなした。

これは日中関係における正(プラス)の側面である。しかし、一方では大きな負(マイナス)の側面をもたらした。日露戦争で日本がロシアから譲渡された満州の権益が、日中関係を一貫して不安定ならしめる最大要因となる。

日本は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で、遼東半島の旅順と大連の租借権と、ロシアが満州に敷設した鉄道のうち長春-旅順間の線路(沿線の鉱物資源を含む)の租借権を獲得した。

そして一九〇五年(明治三十八)十二月の「満州に関する日清条約」により、これらの租借権が日本に引き継がれたことが中国との間で確認された。

しかし、中国とロシアとの元来の協定では、旅順と大連の租借権は二十五年であり、鉄道は三十六年後に中国側が買収できることになっていた。

日本にとり、これらの租借権を半永久的なものに変えることは焦眉(しょうび)の課題であった。この課題の実現は、日本政府のみならず、日本国民の願望でもあった。

日露戦争終結の講和条約締結に際し、民衆は血と汗の代償(特に賠償金)を十分に獲得していないと反発し、東京の日比谷公園で行われた講和条約反対集会のあと、大規模な反政府暴動が発生していた。

そしてこのあと、満州の権益は日本の生命線であり、揺るがせにできないという考えが国民の間に定着してゆく。

このような満州権益を確保しようとする日本の国民的ベクトルが、清朝崩壊後に勃興(ぼっこう)しはじめた中国のナショナリズムと正面衝突することになる。

支那にnationalismなんてあったの?w いや、マジに。「中華民族」(ましてや「国民」)概念が成立しえないのなら、大前提欠いて成り立たないような気がするのですけどぉw

日本はまた、日露戦争後の一九〇六年(明治三十九)十一月に南満州鉄道株式会社(略称・満鉄)を設立し、満州権益の独占化をめざした。この事態は、アメリカとの間に緊張を高めた。

アメリカはすでに一八九九年に列強諸国の中国での勢力圏設定に反対する「門戸開放」を主張し、日露戦争に際してはロシアの勢力を満州から排除するため日本を支援した。

そして日露戦争終結への調停役を務め、これを契機に満州への進出を狙っていたのである。

こうして日本の満州権益の獲得は、中国との確執のみならずアメリカとの対立という、日中戦争から太平洋戦争にいたるその後の日本の歩む方向を定めたのである。

 (立命館大学教授 北村稔)




(2004/08/25)

【新地球日本史】(44)

明治中期から第二次大戦まで

日清戦争-中華秩序の破壊(3)

満州権益の固定化を図る日本

日本の満州権益がいかに不安定であったかを、日清戦争後の台湾の獲得と比較する。

台湾は第一に、下関条約により日本に割譲された土地であり、国際的に承認されて日本の支配権が百パーセント及ぼされた。さらに台湾は大陸から離れた島であり、数百年にわたり対岸の福建省や広東省からの漢人種の移住があったとはいえ、その文化的浸透力は深刻なものではなかった。さらに漢人種間にも福建省出身者と広東省出身者の対立があり、漢人種と原住民との対立もあった。

それゆえ、新たな日本支配に一致団結して反抗するイデオロギー(例えば漢人ナショナリズムなど)が発生する可能性の少ないフロンティアであり、日本支配との間に抜き差しならない悶着(もんちゃく)が起こる要素は極めて少なかった。

これに比べ満州は、国際条約で中国から領土として割譲された地域ではなく、日本が得た満州での権益は、ロシアが中国から期限付きで得ていた権益を、中国の承認のもとに引き継いだに過ぎなかった。最初から日本の満州権益は不安定な要素に満ちていた。

また満州は、ユーラシア大陸の一部であり、清末からの政治的大変革が進行中の中国本土と地続きであり、この変化の影響を極めて受けやすかった。そして台湾とは比較にならぬ広大な地域(ドイツとフランスを合わせた面積w)に、清朝末期から隣接する現在の河北省や山東省から多数の漢人種が移住していた(ちなみに張作霖(ちょう・さくりん)は奉天省出身の漢人種である)。

正確な統計はないが一九〇〇年代のはじめには、満州には二千万人以上の人間が居住し、漢人種が九割以上を占めていたと考えてよい。

この圧倒的多数の漢人種の存在は、やがて日本が清朝の遺臣らと画策することになる満州の分離独立計画の論理、すなわち満州での漢人種の地位を相対化し満州人の皇帝を担ぎだして「五族共和」を唱えるという論理を、弱体化させるに十分な根拠であった。

                ■□■

このような状況下に、日本政府は満州権益の不安定要因を解消しようとして、一九一五年(大正四)一月に中国政府に対して「二十一カ条要求」を提起した。

一九一一年の辛亥(しんがい)革命により清朝が崩壊すると、一九一二年には北京を首都に、二院制(衆議院と参議院)の国会と大総統(大統領)並びに国務総理(首相)を擁する共和制の中華民国政府(以下、北京政府)が成立した。

これに対し、一九一四年に勃発(ぼっぱつ)した第一次世界大戦を好機とみた日本(大隈重信内閣・加藤高明外相)は、西欧列強が戦争に没入するすきに脆弱(ぜいじゃく)な満州権益をより確固なものにしようとし、北京政府(大総統は袁世凱(えん・せいがい))に「二十一カ条要求」を突きつけたのである。

二十一カ条要求の内容は、三つの部分に分かれる。

第一は、第一次世界大戦で日本が占領した山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと。

第二は、遼東半島の旅順と大連の租借および長春-旅順間の鉄道線路の租借の期間を九十九年に延長することによる満州権益の固定化。

第三は、満州における中国政府の政治・財政・軍事の各機関へ日本人顧問を優先的に招聘(しょうへい)し、日本の影響力を強化する-である。

日中両国間で二十五回の交渉が行われ、条文の修正が検討されたが、中国政府は最後通牒(つうちょう)に屈して日本の要求を受諾した。

中国側は、受諾日の五月九日を「国恥記念日」と定め、国民の間に日本への敵対心が固定化される。

                ■□■

さらに第一次世界大戦後のパリ講和会議においても山東省のドイツ権益の中国への返還は拒否された。これをきっかけに、一九一九年五月四日の北京の学生デモに始まる全国的な反日運動が展開された。

このあと一九二一年になり、第一次世界大戦後の中国を含む太平洋地域における列強の勢力圏を設定するためのワシントン会議が開催された。その結果、山東のドイツ権益は中国に返還され、満州の中国政府機関への日本人顧問の優先的招聘も取り消される。しかし、満州における日本権益の租借期間の九十九年への延長だけは、中国側の撤廃要求にもかかわらず維持された。

(立命館大学教授 北村稔)




(2004/08/26)

【新地球日本史】(45)

明治中期から第二次大戦まで

日清戦争-中華秩序の破壊(4)

中国ナショナリズムとの衝突

日本政府は、北京政府を相手に、満州での租借権益を確保する努力を続けていた。しかし、南中国に新しい政治勢力が出現し、この政治勢力が満州での租借権益をめぐって、日本と正面衝突することになる。

日中全面戦争の中国側当事者となる中華民国国民政府の登場である。

北京政府と敵対していた国民党は、一九二四年(大正十三)にソ連からの顧問を迎えて新興の共産党との合作を決定し(第一次国共合作)、翌二五年には北京の中華民国政府とは別の中華民国国民政府を南方の広州に組織した。

国民党は、軍閥内戦で混乱を極める中華民国を再統一する国民革命を提唱し、ナショナリズムをあおり立てた。

このような状況下に蒋介石を総司令に国民革命軍が組織され、一九二六年には全国統一をめざす北伐が進展した。

北伐途中の一九二七年七月には第一次国共合作が終焉(しゅうえん)し、国民党と共産党は内戦を戦うことになる。しかし、国民党は二八年初めには体制を建て直し、蒋介石を総司令とする北伐が、北京占領をめざして再開された。

これに対し日本は、北伐軍が山東省を通過した二八年五月に、居留民保護の名目で出兵し、北伐軍の行く手を阻もうとした。

田中義一内閣の1927~28(昭和2~3)年の3次に渡る山東出兵。1928年には済南事件

新興のナショナリズムが満州に波及し、租借権益が動揺するのを防ごうとしたのである。

その結果、当初の日中両軍の偶発的衝突は、満州での権益確保の決意を中国側に認識させようとする日本側のもくろみのもとに拡大され、済南城内の中国軍を全面攻撃して多数の民間人も巻き込む大被害を与えてしまう。これにより、日本と中国の間には抜き差しならぬ敵対関係が発生した。

この事件のあとも北伐は続行された。当時の中華民国は、北京に軍政府を組織していた張作霖(ちょう・さくりん)が代表しており、日本の満州での租借権益も張作霖を通じて維持されていた。

国民革命軍が北京を占領し、張作霖を追って満州に入れば、日本の租借権益には厄介な問題が生じる。

かくして悶着(もんちゃく)の種になる人物を早めに始末するべく、一九二八年(昭和三)六月四日に関東軍の将校らによる張作霖爆殺事件が発生する。

そしてこの直後に北伐軍は北京を占領し「北平」(ペイピンとか言うのかな?w)と改名した。

張作霖爆殺は別として、日本の山東出兵はかならずしも軍部の独走ではなく、日本の民間の中国に対する態度を強く反映していた。

これより先の一九二七年三月二十四日、折から全国統一を目指す北伐により南京を占領した国民革命軍の一部が、日本を含む英国や米国など列強の外交機関や商社を襲撃し死傷者が出た。

これに対し、英国と米国は、報復の砲撃を南京市内の国民革命軍に加えたが、日本の外務大臣・幣原喜重郎は不干渉を貫いた。

しかし、日本の朝野の議論は、それまで中国の新たな統一への胎動に理解を示していたリベラル派の一部も含めて硬化し、「南軍(国民革命軍)暴徒への懲罰」が主流となり、この論調が国民革命軍に対する大規模な武力干渉である日本の山東省への出兵を支えた。

(立命館大学教授 北村稔)





(2004/08/27)

【新地球日本史】(46)

明治中期から第二次大戦まで

日清戦争-中華秩序の破壊(5)

対中強硬政策を国民は支持

張作霖爆殺事件のあと、日本は鉄道支配を軸に満州での勢力拡大を推進しようとした。朝鮮や台湾ほどの規模であれば、当時の日本の国力でも植民地支配を推進できたと思われる。

しかし、満州は広大である。ましてや満州は日本の領土ではなく、中国の国益との軋轢(あつれき)が常に存在した。

爆殺された張作霖の息子の張学良は、一九二八年(昭和三)十二月には、国民政府から東北辺防軍総司令に任命される。

そして北京政府時代の国旗であった五色旗に換えて、国民政府の国旗である「青天白日満地紅旗」(現在も台湾で使用されている中華民国国旗)を満州の地に掲げ、国民政府の支配下に入ることを宣言した。

一方、新たに南京を首都に中国を代表することになった国民政府は、アメリカやイギリスとの連携下に矢継ぎ早に経済建設政策を展開し始めた。そして、さまざまな側面で日本の対中経済政策と競合するようになる。

一九二八年十一月には中央銀行が設立され(総裁は宋子文)、十二月には自主関税率が公布された。そして欧米各国との間に関税自主権を回復し、日本も三〇年五月には承認した。関税自主権の回復は、国家収入の安定的増大と自国産業の保護をもたらし、国内金融の統一が促進される。

そして満州では、張作霖の時代からの争点であった満鉄の線路に平行する線路建設や新たな葫蘆島の築港計画などが積極的に展開されはじめ、満鉄による輸送物資は減少し、日本の勢力拡張計画は脅威にさらされた。

日本が十分な資金力と欧米のようにキリスト教を先頭にした強力な文化的浸透力を備えていれば、しだいに勢力を拡張し得たかもしれない。しかし、日本の文化的浸透力は、しょせんは付け焼き刃で、その経済力も勢力拡張の要に耐えるほどの規模ではなかった。満州権益の維持にはかなりの無理があり、日本の満州経営は、じり貧状態に陥り始めていた。

この問題を軍事力で一挙に解決し、満州における日本の覇権を確立しようとしたのが、一九三一年(昭和六)のいわゆる「満州事変」であり、東北辺防軍総司令の張学良は、満州から駆逐された。

この事態に対し、当時の代表的な総合雑誌である『文藝春秋』のアンケート調査によれば、大方の人々は日本の軍事行動を正当な要求の貫徹として支持していた。

三浦白羽(会社員)「…満蒙における日支の交戦は、我々が、永久に日本の権益を保持する最後の決心であることを、中国と外国にすすんで知らせる事なのである」

芝山啓一郎「今回の日本軍の行動は当然であると思う。…失敗であろうとも成功であろうとも問うところではない。国家には生存の権利がある

沢柳猛雄(実業家)「日支衝突につき、是であると信じます。理由は、日本民族自活権のため、三千万の満蒙在住中華人民の幸福のため、東洋と世界平和を脅かす禍根を絶つため、です。…わが国はさらにすすんでこの問題の解決のためには、国運を賭けてでも極力頑張ることを中国と外国に宣言すべきである」

このあと一九三二年には満州国が成立し、中国側の抗議とこれに同調する国際世論に反発した日本は、国際連盟を脱退する。

続いて日本は一九三六年までには、各国間の海軍力の制限協定であったワシントン条約やロンドン条約からも退出し、中国をめぐる情勢は緊張の度を加える。

そして満州国の支配を強化する必要から日本は華北に対し、さまざまな圧力を加え始める。

これに対し、日本国内の世論は、満州事変の際と同様に、中国に対する強硬政策を支持した。

一方、中国側には反日の機運が一層たかまり、一九三六年五月には全国各界救国連合会が成立した。そして、共産党の支配するソビエト区を討滅して国内を統一するためには、日本への一時的譲歩もやむなしとしていた蒋介石が、抗日を要求する国民的機運に押される形で日本に対する持久戦を覚悟することになる。

 (立命館大学教授・北村稔)




(2004/08/28)

【新地球日本史】(47)

明治中期から第二次大戦まで

日清戦争-中華秩序の破壊 北村稔(6)

日中戦争から日米戦争へ

日本側には満州の権益保護こそが大事であり、莫大(ばくだい)な人員と費用を要する中国全土への軍隊の展開などは、何の得策でもなかった。

満州国建国を推進していた軍人の石原莞爾が日中全面戦争に反対していたことが、これを象徴している。

しかし、一九三七年(昭和十二)の盧溝橋事件をきっかけに、状況は全面戦争へと進む。

これまでの中国近現代史研究では、中国が日中戦争を戦い抜くことができたのは、一九三八年の毛沢東の「持久戦論」にもとづくゲリラ戦術があったからだと理解されている。

しかし、これは共産党史観の偏重であり、すでに一九三三年の南昌での軍事整理会議において、蒋介石は次のように述べていた。

「我々が一つの戦線だけにより日本と決戦する計画を採用するならば、…ひとたび破れれば復興の望みはない。…日本が我々の第一線の部隊を打ち破れば、我々は第二線、第三線の部隊でこれを補充する。…一線また一線と陣地をつくり不断に抵抗して少しも怠ることがない。…もし三年か五年も抵抗できれば、国際上において必ず新しい発展があると思う。…我々の国家と民族には死中に活を求める一筋の希望があるのである」

四年後に始まった日中全面戦争は、確かに蒋介石の談話に示された通りに展開し、さらにその四年後に勃発(ぼっぱつ)した日米戦争により、中国の勝利は決定的となる。

一九四一年十二月九日、国民政府は従来の宣戦布告なき戦争を改め、日本に宣戦を布告した

そして米英を中心とする連合国の一員として、共同して日本と戦うことになる。

日中戦争の勃発は、第二次国共合作を成立させ、共産党は国民党の支配体制に合法的に組み入れられ、抗日民族統一戦線の指導権を国民党と争う地位を手にした。

日本軍の進攻は都市部を中心に進められた国民党の経済建設を頓挫させたが、共産党は国民党の支配体制が崩壊した農村地域に浸透し、日中戦争開始直前のじり貧状態を脱して大きな勢力圏を作りあげた。

そして、この勢力圏を基礎に共産党は日本敗戦後の国民党との内戦に勝利し、一九四九年(昭和二十四)に中華人民共和国を樹立する。

毛沢東は一九六一年に、訪中した日本社会党の国会議員らとの対談で次のように語っていた。

「日本の軍閥はかつて、中国の半分以上を占領していました。このために中国人民が教育されたのです。そうでなければ、中国人民は自覚もしないし、団結もできなかったでしょう。

そしてわれわれはいまなお山の中にいて、北京にきて京劇などをみることはできなかったでしょう。日本の『皇軍』が大半の中国を占領していたからこそ、中国人民にとっては他に出路がなかった。それだから、自覚して武装しはじめたのです。多くの抗日根拠地を作って、その後の解放戦争において勝利するための条件をつくりだしました。

日本の独占資本や軍閥は『よいこと』をしてくれました。もし感謝する必要があるならば、私はむしろ日本の軍閥に感謝したいのです

歴史研究に「もしも(if)」は禁句である。しかし、

日本が日露戦争後の満州開発にアメリカを引き込んでいれば、その後の歴史展開は、はなはだ興味深いものになったのではないか。

中国のナショナリズムは、反日にのみ向かわず分断されたであろうし、資金力のあるアメリカは、国民政府の経済建設を飲み込む形で満州を開発したのではないか。

「ハリマン提案」だよな。小村寿太郎がぶっ壊した

日中全面戦争と日米戦争は発生したであろうか。その結果として、共産中国は出現したであろうか。

一九〇五年(明治三十八)九月のポーツマス条約の調印後、首相の桂太郎は、来日中のアメリカの実業家ハリマンとの間に、日本がロシアから獲得した満州の鉄道権益をアメリカと共同経営する予備的覚書(「桂・ハリマン協定」)を作成していた。

しかし、ポーツマス条約を調印し、ハリマンの離日と入れ替わりにアメリカから帰国した外務大臣の小村寿太郎が大反対し、この予備的覚書は、日本政府により破棄された。

 (立命館大学教授・北村稔)



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