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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

新地球日本史(7)

(2004/09/14)13日月曜日は休刊日

【新地球日本史】(60)明治中期から第二次大戦まで

日清日露の戦後に日本が直面したもの(1)

冷静と激高-対照的な国民の対応

極東の小さな島国だった日本が、思い切り背伸びをして、まなじりを決して戦ったのが、日清・日露の両戦争だった。

当時の清帝国はアジアの大国であり、ロシア帝国は世界の大国中の大国だった。

両戦争とも日本の負けと思われて当然だったが、実際に戦ってみたら、日本の連戦連勝に終わったので、世界中が驚きあきれ、かつ賞賛して止まなかった

当時は西欧列強がやがては地球全体を支配する運命にあると考えられていたが、日露戦争での日本の勝利以後、そうした運命論には疑問が持たれ、逆にアジアから中東に至る非西洋の人々が日本の行動によって励まされて、後にこの地域のすべての国々が、第二次大戦後に独立するに至る一つの契機となった。

日清・日露の両戦争でともに紛争の焦点となったのは、朝鮮半島の帰趨(きすう)だった。日本は自国の安全保障の見地から、朝鮮半島が清国にもロシアにも支配されることを許せなかった。これは、清国がやがてヨーロッパの列強によって分割されることになっても、「自主の邦(くに)」としての朝鮮をそこから外すための配慮であり、かつまた日本と対峙(たいじ)する可能性のある大陸国家ロシアに、朝鮮半島を支配させないための配慮だった。

これは地政学的にみれば当然のことだったが、明治時代のわれわれの祖父や曽祖父たちが、日本を取り巻くそうした地政学的状況をよく理解して、なおかつ果敢に行動するのを躊躇(ためら)わなかったのは、感嘆すべきことである

地政学者のマッキンダーは、島国が大陸国家と対峙する場合に、中間にある半島部分を大陸国家に支配されないことが大切だと喝破したが、それははるか後年の一九一九(大正八)年のことである。

明治時代にそんな学説は知られてもいなかった。マッキンダーは、クレタ島のギリシャ人が、ペルシャやマケドニアなどの大陸国家と対峙した際の、ペロポネソス半島の重要性を述べたのだが、アジア大陸と日本の関係について同じことを考えれば、今も昔も重要なのは朝鮮半島である。

明治の日本人はそのことを知り抜いた上で、なおかつ清国やロシアといった見上げるような大国と、敢えて戦うことを選択したのである。

それは今の日本人が、地政学的な配慮にも乏しい上に行動力も失いがちなのに比べると、まことに見事な気概だったと言うほかはないだろう。

日清戦争と日露戦争の戦後を比べると、幾つか興味深い事実が目につく。日本国民が自国の勝利に熱狂したのは同じだが、その熱狂の行方は日清と日露では違っていた。

日清戦争で平壌の陸戦黄海の海戦に日本軍が勝って、有利な講和条約を結ぶ運びになった日本人は、陸奥宗光の『蹇蹇(けんけん)録』の言葉を借りれば、「ここにおいてか、一般の気象は壮心決意に狂乱し驕肆高慢に流れ、国民いたるところ喊声凱歌(かんせいがいか)の場裡に乱酔したるごとく将来の欲望日々に増長し」という状況になったが、その日本国民の「狂乱」と「乱酔」に水を掛けたのが、ロシアとドイツとフランスの三国干渉だったのは言うまでもない。

周知の通りこのヨーロッパの三大国が申し合わせて、下関条約で日本に割譲された遼東半島を、清国に返せと迫ったのである。

しかし、日本国内の当時の新聞を見ると、日本国民の意外に冷静な反応に驚かされる。清国との戦いには勝ったものの、自国の力の弱さをヨーロッパ列強に比べて改めて知らされる形になった日本人は、三国干渉を平静に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」し、「堪忍すべきこと」と受け取っていた。

これに対して日露戦争の戦後は違っていた。ポーツマス会議においてロシアから賠償金も取れず、樺太全島も取れないと知った日本人は、全国各地で声高に講和反対を唱え、東京・日比谷公園の国民大会では会衆は暴徒と化し、講和に賛成していた国民新聞社は焼き討ちに遭った。交番や総理邸もまた暴徒に襲撃され、「東京は無政府・無警察状態」と新聞が書くほどになった。

この顕著な違いはなぜ起こったのだろうか。

(明治大学教授 入江隆則)




(2004/09/15)

【新地球日本史】(61)明治中期から第二次大戦まで

日清日露の戦後に日本が直面したもの(2)

勝利にも軽挙妄動を戒めた知識人

ロシアとドイツとフランスの三国干渉によって日本が苦境におちいっていたときの、陸奥宗光の『蹇蹇(けんけん)録』の記述を見ると、国民大衆は「すべての屈辱すべての失策をもって一に政府の措置に基づくものとし、大いに政府の外交を非難し、戦争における勝利は外交において失敗せりといえる攻撃の喚声は四方に起こり、その反響は今なお轟然たり」と書いている。

したがって日清戦争後の国民の間に憤懣(ふんまん)の声があったのは明らかだが、当時の新聞を読み返してみると前回述べたように、その反応は意外に冷静であり、落ち着いていた。

当時の意見として今日までよく知られているのは、三宅雪嶺が二度にわたって『日本』に連載した「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という文章である。

「臥薪嘗胆」というのは、受けた屈辱を忘れまいとして、薪の上に臥(ふ)して身を苦しめ、苦い肝を室内につるして時々それを舐(な)めて、他日の報復を誓うという意味だから、三宅に怒りの気持ちがあったのは言うまでもないが、彼はむしろそれを抑えようとしている。

清国と戦うまでは相手をもっと強いと思っていたが、案に相違して日本の方が強かったので、「我ながら力の大なるに驚くほどなりしが」、三国干渉によって、その「慢心は良き所にて挫けたり」と彼は言う。

「清国の弱を知り得しも、以って我が帝国の強を知るに足らず」「清国より大なるものに勝つの覚悟」がなければならないとして、「大言壮語に益なし」と言っている。

続いて三宅は、ロシアもドイツもフランスもイギリスも虎視眈々と東洋を狙っているのであって、「西洋各国がいかに東洋を料理すべきかは、予め料るべからざれども」、日本としては「充分に度胸を据え置くべきこと」が必要で、そのために「臥薪嘗胆の念、それ何人の懐をか去らん」と言っている。

しかし、三宅雪嶺よりもさらに平易な言葉で、日本人が冷静かつ沈着であるべきことを説いたのは、同じ時期の『時事新報』に「ただ堪忍すべし」という文章を発表した福沢諭吉であった。

福沢によると日本人は、忠臣蔵でいうと赤穂の浪士たちが「ただ堪忍」して城を幕府の上司に明け渡したときのように、「忘れても軽々しき挙動あるべからず」であって、「外来の困難を柳と受け流し」て「無限の不平を抱きながら沈黙堪忍して時節を待つ」べきときであると言う。

つまりこの時代の日本の知識人たちは、アジアの大国の清国には大勝したものの、世界の中での日本の力はまだ弱いことを知っていて、くれぐれも軽挙妄動を戒めたのである。

そういえば戦争行為それ自体においても、日清戦争の時代の日本人は、適度な勝利の大切さを理解していた。

日清戦争の代表的な会戦といえば平壌の会戦だが、日本軍は一八六六年のプロイセン・オーストリア戦争のケーニヒグレッツの会戦にならって、兵力を四方向から分進合撃させて、平壌にたてこもっていた清国軍を敗走させた。

しかし、日本がプロイセンに学んだのは、そういう戦術だけではなくて、大きな戦争の政略もプロイセンに学んでいる。つまりプロイセンのビスマルクが、将来プロイセンがフランスと戦う場合にオーストリアを敵にまわさないために、モルトケ参謀総長を制して、オーストリアの首都ウィーンを攻略せずに講和を図ったのと同様に、伊藤博文も平壌の勝利後、清国の首都北京を攻略しようとせず、北京の関門である山海関をも越えずに、講和を実現しようとした

平壌会戦以後の日本の世論は、勝利の興奮のあまり、「山東、江蘇、福建、広東を取れ」とか、「吉林、盛京、黒龍江を奪え」などと叫ぶ者も現れたが、伊藤博文らがそういう大衆の興奮を抑えて制限戦争に徹底し、適度な勝利に満足して下関条約を結んだのは功績だったと思う。

三国干渉はその直後に起こり、それに対する国民の不満は大きかったが、伊藤博文や陸奥宗光ら日本政府の判断は平静であり、また「軽挙妄動」を戒めて「堪忍」を説いた当時の言論も優れていた。

(明治大学教授 入江隆則)




(2004/09/16)

【新地球日本史】(62)明治中期から第二次大戦まで

日清日露の戦後に日本が直面したもの(3)

自己認識失った日露後の日本人

三国干渉によって日本が遼東半島の領有をあきらめて、清国に返還すると、たちまちこの三国の清国への侵蝕合戦が始まった。

ドイツは膠州湾と青島を租借し、フランスはインドシナ半島から北上して、海南島と雲南、広西、広東の三省に触手を伸ばした。

ロシアはあろうことか日本が放棄したばかりの遼東半島の旅順を租借して、そこに一万五千ルーブルとセメント二十万樽を使って、金城湯池の大要塞(ようさい)を築いた。

しかもロシア軍は、北清事変(1900明治33年)以後も満州に居座って朝鮮をうかがっていた。それを放置すれば朝鮮半島は必ずロシアのものになり、最後には日本の安全が脅かされる。やがて時間が経過すればシベリア鉄道も完成して、極東ロシアの兵力はますます増強される。

そういうわけで日本は清水(きよみず)の舞台から飛び降りる思いで対露宣戦を決断するのだが、天佑に恵まれた日本は、この乾坤一擲(けんこんいってき)の戦争に辛うじて勝つことができた。遼陽の会戦にも奉天の会戦にも勝ち、あるいは旅順の要塞攻略も、日本軍の努力によって落とすことができた。

日本海海戦に至っては世界の戦史に前例のない完全勝利であって、明治三十九年五月二十七日の『毎日新聞』で、捕虜となったロシアの提督ロジェストウェンスキーが「かほどの敗滅を受くべしとは予想せざりき」と告白したほどだった。

しかし、日本政府の首脳たちは、連戦連勝とはいっても、すでに国力が枯渇しかかっており、兵員の余力もなく、武器弾薬も尽き始めているのを知っていた。したがって日本としてはアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに依頼して、一日も早い講和を締結する必要があった。

しかし、日本政府としてはロシアとの戦争の遂行上、あるいはまた講和を有利に締結するためにも、日本の国力が枯渇しているとは口が裂けても言えない状態にあった。

したがって国民はその事実を知らなかった。そのため国民の間では、屈辱的な講和を排して、樺太、カムチャツカのみならず沿海州全部を割譲させよというような、威勢のよい話ばかりが語られていた。その一人は例えば河野広中だった。

ポーツマス講和条約を不満として、日本国内の各地で暴動が起こったのは、政府と国民の間のこの認識のギャップからである。

明治三十八年九月初旬の新聞各紙を開いてみると、日比谷焼き討ち事件や国民新聞社焼き討ち事件のニュースが、数日間にわたって続いている。

九月六日の『国民新聞』によると、同志連合会の挙行せんとした日比谷公園での集会が「形勢はなはだ不穏」とみられたので、「禁止命令」が出され、諸門を閉鎖して警官が警備についていたのだが、群集はその制止を振り切って、「絶えず瓦礫を飛ばし」「鯨波を挙げて園内に突入」した。

別の一団は、当時講和賛成の論陣を張っていた唯一の新聞だった国民新聞社に「来襲」して、「乱暴、狂態」を演じた。それは「理性の判断を失い、前後の見さかいをも失いたる」もので、おおぜいの暴漢が「潮のごとく」社に押し寄せ、「窓硝子はことごとく破壊せられ、扉はおおむね破損せられ、社内に投げ込まれたる瓦石、竹木の数に至っては、処処に山を築きてなお足らず」という状況だった。

また同じ日の『時事新報』によると、内務大臣官舎を襲った群集は、放火して「大混乱の修羅場」となったので、ついに「近衛第一連隊に向かって出兵の命を下す」ほどの騒ぎとなってしまった。

日清戦争の戦後に、あれほど「沈黙堪忍」を言い、「忘れても軽々しき挙動あるべからず」と説いた識者はどこへ行き、またその声をよく聞いた冷静な日本国民はどこへ行ってしまったのか、といぶかるばかりである。

この変化がなぜ起こったかといえば、日清戦争の戦後の日本人は清国に勝ったといっても日本の国力はヨーロッパ列強の前では弱く、「隠忍自重」するしかないと知っていたのに対して、日露戦争後の日本人にはそういう冷静な自己認識が失われたためだと見る外はあるまい。

(明治大学教授 入江隆則)




(2004/09/17)

【新地球日本史】(63)明治中期から第二次大戦まで

日清日露の戦後に日本が直面したもの(4)

満州で陸軍独走の原型が表面化

日露戦争の直後の日本の世論に関して注目すべきことの一つは、その後日米戦争を経て今日まで続く大衆のルサンチマン(恨み)としての日本人の反米感情が、この時点ですでに表れていることである。

明治三十八年九月十三日の『時事新報』に「アメリカは暴動に不快感」という記事が載っている。それによると日露講和に反対する日本人の騒擾(そうじょう)事件に関して、「暴徒の所業を見るに、歴然として米国に反対の気風」があり、「米国教会堂を焼燬し、ハリマン氏等を威嚇せり」。そして「特に米国人に対して不安、不快の感を与えたるは、蔽うべからざるの事実なり」と書かれている。「けだし過激派が、以って不名誉と見做す平和成立に対し、米国が力を尽くしたる所ありとて、米国人民に痛絶なる攻撃を加え、米国に対し、暴言、悪声を放つ」者があったというのである。

ここでハリマン氏というのは、当時来日中だったアメリカの鉄道王E・H・ハリマンだと考えられる。彼が来日していた目的は、日露戦争後の満州の経営を日米が協力して進めることにあり、とりわけ南満州鉄道を日米の合弁事業とすることにあった。

この案には日本の政財界がほぼ賛成していたのだが、ポーツマスから帰国した外相・小村寿太郎の反対で流れたのは周知のことである。

この経緯に激怒したハリマンが「日米両国は十年を出でずして旗鼓相見ゆるに至るだろう」(『小村外交史』)と放言したのも知られている通りで、日露講和に反対して東京で騒擾事件を起こしていた群衆がハリマンを「威嚇」していたというのは、まことに象徴的な事件だったと思われる。

日露戦争末期において日本の国力は尽き果てようとしており、したがって講和の周旋者としてのアメリカにはむしろ感謝すべきなのだが、その事実を知らずに連戦連勝の報道に酔い、かつまたロシアから賠償が取れないことを知った大衆は、その「恨み」を、講和を周旋したアメリカに向けて発散させたのである。

これといささか文脈は違うが、やはり日本と同盟国だったイギリスや準同盟国だったともいえるアメリカとの対立は、日露戦争の戦後ただちに満州でも起こっていた。

日露戦争の翌年の明治三十九年四月二十四日に駐日イギリス大使マクドナルドから伊藤博文あてに書簡が届き「満州における日本の軍部は、軍事的動作によって外国貿易に拘束を加え、露国占領当時より一層厳しく満州の門戸を閉鎖している。(中略)かかる事情に対して英米両国政府は厳重な抗議を」(『外務省の百年』)せざるを得ないというのである。

これと同じ声は国内からも上がっており、山県有朋は戦後の満州における日本陸軍の行動には「外国の疑惑を招く虞(おそれ)がある」(同)としていた。

日露戦争中の日本は戦後の満州の「門戸開放」を宣言していたから、戦後の日本陸軍はそれに違反する動きだったことになる。

この問題について同年の五月に日本政府は緊急会議を開き、席上、伊藤博文と陸軍の児玉源太郎の間で激論が交わされた。

伊藤や山県や西園寺公望首相や林董外相や山本権兵衛前海相らは、日本陸軍の軍政署が平和回復後も戦時のような感覚で民政に口出しをすることに疑問を呈し、軍政署を廃したらどうかと主張した。

しかし、寺内正毅陸相と児玉参謀総長の二人はそれに反対し、とりわけ児玉は「南満州は将来我国と種々なる関係を生ずる」から「一切を指導する官衙(かんが)を新組織」(同)すると主張して譲らなかった。

伊藤は児玉の考えを口をきわめて論難しているけれども、このときの日本政府の態度は「決して釈然たるものではなかった」(同)。つまり伊藤らは児玉の主張するような国際信義に反する陸軍の独走を非難はしたが、それを阻止する具体的な手は打たずに、陸軍の行動をそのまま放置してしまったのである。

これが何を意味するかといえば、後の昭和時代の満州事変と支那事変の際に日本政府と陸軍の意見が食い違った際に政府が陸軍に引きずられるという原型がすでに日露戦争の直後に表れていたということである。

(明治大学教授 入江隆則)




(2004/096/18)

【新地球日本史】(64)明治中期から第二次大戦まで

日清日露の戦後に日本が直面したもの(5)

勝者と周辺国とに意識の違い

日清戦争と日露戦争の戦後には似たところと違ったところがあった。最大の類似点はそれがともに朝鮮半島の帰趨(きすう)をかけた戦争であり、両方の戦争に日本が勝ったことだった。それによって日本は地政学的に有利な地歩を東アジアで固めることができたのは言うまでもない。

日清戦争の結果、朝鮮が清国の属邦ではなく、その「独立」を「日清両国においてこれを確認」(陸奥宗光『蹇蹇(けんけん)録』)することができたし、日露戦争ではロシアによる朝鮮半島の領有を阻止することができた。

はじめにマッキンダーの海洋地政学に触れて述べたとおり、この二つの勝利が海洋国家としての近代日本にとってどれだけ重要な勝利であったかはいくら強調してもし過ぎることはない。

しかし、日清・日露の戦後には違った点もあった。日清戦争では下関条約によって、朝鮮半島の付け根の部分にあり、朝鮮半島と清国の北京をともに扼(やく)する地点にある遼東半島を日本が領有することになっていたが、それがロシア、ドイツ、フランスの三国干渉によって阻まれたことで、日本人が世界の中での自分自身の立場を再確認する助けとなった。日本人は清国に勝ったとはいえヨーロッパ三国の連合の前では、自国の力はたかが知れていることを知ったのである。

三国干渉に関しては、日本政府の対応はすでに述べたように適正だったし、三宅雪嶺や福沢諭吉らの識者の意見も「堪忍」を説き、大衆もまた暴動などの動きには出なかった。

だが日露戦争の戦後は違っていた。日本が賠償金も取れず、樺太の南半分以外には領土の割譲もなく、その「屈辱的な講和」を準同盟国の立場にあったアメリカが周旋したことに対して河野広中や東大教授らのような知識人が憤激し、彼らの過激な言論に煽られた大衆が焼き討ち事件を起こしている。それは軍隊が出動するほどの大事件となり暴動は東京だけでは収まらずに地方にも飛び火していた。しかし、当時の日本は事実上国力が枯渇していて、ロシアに譲歩しても講和を結ぶ以外に道はなかったのであるから、日本政府の選択が正しく、騒乱を起こした日本の大衆は、自己認識を失っていたという外はないだろう。

もう一つの自己認識の困難に直面した問題としては、日本が日露戦争に勝ったというまさにその事実からきた問題があった。

ロシアの東アジアへの進出を阻むことは、日本の利益であるのみならず支那や朝鮮の利益でもあるはずなのに、日本人だけが血を流したという事実は、必然的に日本と周辺アジア諸国との間の、意識の違いを生み出すからである。

日本人の周辺諸国への軽蔑(けいべつ)はこのとき必然的に芽生えざるを得なかったといえるはずである。

これによって日本人は世界の中での自己認識が難しくなったばかりでなく、東アジアという地域においても自己認識が難しくなったのである。これがまさに勝者としての日本が直面した困難だったと思われる。

さて、日清・日露の戦後を振り返って現在の日本の状況を考えると、今日の東アジアはあたかも日清戦争前夜に似ているのに気づかずにはいられない。

日米戦争の戦後は朝鮮半島が南北に二分されて、南半分の韓国がアメリカの同盟国となって半世紀を経過し、そのアメリカが日本とも同盟国であったので日韓の親密な関係が維持されてきた。

しかし、最近の韓国内には反米・反日的でかつ親中国・親北朝鮮的な雰囲気が醸成され、このまま進めば、北朝鮮の核保有を容認する政権さえ生まれるかもしれない。そうなれば朝鮮半島の地政学的状況は、日本にきわめて不利となるだろう。

また同盟国アメリカはイラクで消耗してしまったので、東アジアでは新たな行動には出られそうもないし、日本には独力で行動する実力も気力もない。

だから日清戦争前夜に似ているとはいっても、局面を打開する道は限られている。しかもこの半世紀の日本人は地政学的発想をタブー視してきたので、東アジアの現実の推移に鈍感なところがある。そこに今日の日本の困難があると言っておきたいと思う。

(明治大学教授 入江隆則)




(2007/09/20)

【新地球日本史】(65)明治中期から第二次大戦まで

ボーア戦争と日英同盟(1)

南アで英とオランダ系移民が激突

ボーア戦争と言っても日本では馴染(なじ)みが薄い。簡単に説明すれば、いまの南アフリカで、ケープ地方を植民地として支配していた英国とオランダ系移民を主とするアフリカーナーとの二度にわたる戦争である。

第二次ボーア戦争は日英同盟が締結された一九〇二年に終わった。英国にとってはまことに頭の痛い問題だったのである。

そこで、まずボーアとかアフリカーナーとは何か。元南ア大使の太田正利氏は、著書「物語・『虹の国』南アフリカ」の中で、こう述べている。

「『ボーア』とは、オランダ語で農民という意味である。英国人は彼ら開拓者を見下して『ボーア』と呼んだ。一種の差別用語でもあった。しかし農業を天職と心得る開拓者たちは、誇りをもって自ら『ボーア』と呼んだのである。現在では彼らの子孫はアフリカーナーと呼ばれ、アフリカーンス語を話す。この言葉はオランダ語が変化・単純化した言葉であり、オランダ人とアフリカーナーは曲がりなりにもお互いに読み書きができ、かつ会話を交わし合える。その差異は筆者の経験によれば、標準ドイツ語とスイス・ドイツ語の差異よりもはるかに小さいようである」

英国がインドとの海上交通路の要衝としてケープ地方に目をつけ、軍事占領したのは一七九五年であった。ナポレオン戦争が終了し、ナポレオンがセントへレナ島に流されたのは一八一五年だ。この年にケープ地方はウィーン会議で英領と認められた。

摩擦はここから始まる。オランダ人が粒粒辛苦の末につくり上げた植民地のケープ地方が英国の支配下になったのであるから、ボーア人にとって面白いはずはない。公用語はオランダ語から英語へ、行政制度も英国型に切り替えられた。宗教も違う。

ここからボーア人が内陸部に向かう大移動(グレート・トレック)が始まった。彼らはオレンジ自由国とトランスバール共和国に流れ込み、自由な天地をつくろうとした。国力が頂点に達していた大英帝国は支配地をさらに拡大しようとしたが、先住民の反乱が生じたり、英軍の兵力が少な過ぎるなどの事情が重なって、一八五二年にトランスバールを、次いで五四年にオレンジ自由国もボーア人の独立国として認めざるを得なくなったのである。

しかし、英国の領土的野心は旺盛だったうえ、その欲望をそそるできごとが発生した。オレンジ自由国とトランスバール共和国の国境地帯で一八六七年にダイヤモンド鉱区が発見されたのである。この鉱区は世界最大のキンバレー鉱山として名を知られるようになる。

英軍はトランスバール政府が政府の態をなさないほど弱体で、これがアフリカ南部の不安定を引き起こすことを口実に進軍したが、制圧に失敗した。

トランスバールのボーア人たちは、ポール・クリューガーを先頭に立て、英国に激しく抵抗した。これが一八八〇年から八一年まで展開された「第一次ボーア戦争」である。

アフリカに関心を持つ欧州諸国はボーア軍の勇敢さに驚いた。何しろ当時世界最強と称された英陸軍が敗北を喫してしまったからである。英政府は失敗の原因を報告書にまとめ、準備不足が最大の原因だと弁解に努めたが、はたしてそうであったか。

戦争はいまの常識では考えられない騎兵戦が主であり、兵士の射撃の腕が物を言った。どうぞ狙い撃ちしてくれと言わんばかりの派手な軍服を着た英軍は、射撃を生活の一部としてきた農民軍にしてやられてしまったのである。

両者の間にはトランスバールに自治権を付与する代わりに条約の締結は英政府の承認を必要とするなどを決めたプレトリア協定が成立した。双方に不満を残しながらも第一次ボーア戦争は終わったが、大英帝国の面目は丸つぶれとなった。

(杏林大学客員教授・田久保忠衛)




(2004/09/21)

【新地球日本史】(66)明治中期から第二次大戦まで

ボーア戦争と日英同盟(2)

金鉱めぐり英独関係も険悪に

一八九五年、英国の第三次ソルズベリー内閣で植民相に就任したのは、ジョセフ・チェンバレンである。外相として活躍し、ノーベル平和賞を受賞したオースチン・チェンバレンと宥和(ゆうわ)政策をとったネビル・チェンバレン首相の父親だ。

かねがね英国の植民地政策には一家言を持ち、首相から蔵相として入閣してほしいとの要請を受けながら、当時の閣僚としては最も格が下の植民相に就任した。十年同じポストにいなければいい仕事はできない、が持論であり、一九〇二年に成立したバルフォア内閣でも植民相を務めている。彼が入閣するや、植民省は規模が大きくなり、ソルズベリーと並んで大英帝国の舵取り的役割を演じることになる。

植民相に就任したときに、チェンバレンが一番頭を痛めたのは南アフリカの問題であった。英国対アフリカーナーの対立は尖鋭化する一方だった。そこに発生したのが、「ジェームソン侵攻事件」である。

南アのダイヤモンドで大金を儲け、ダイヤモンド王と言われた英国人セシル・ローズの腹心、レアンダー・スター・ジェームソンが警察機動隊とヨハネスブルクに来ていた「外国人」(Uitlanders)の不平分子を集め、トランスバール政府を武力で打倒しようと試みた。企ては失敗し、ジェームソン自身は捕虜になった。チェンバレンは事件を知らされていなかったようだ。

一八八六年にヨハネスブルクの近くで金鉱が発見された。ひと儲けしようとの山師は金鉱開発が進むにつれてヨハネスブルクにやってくる。そのほとんどが英国人だったから、トランスバールのクリューガー大統領がますます警戒心を強めて当然だろう。

ロンドンから眺めていると、クリューガーは金鉱で入った国富を軍備に注ぎ込み、ボーア人の圧倒的優勢を夢見ているように映る。実際にクリューガーが政府を強化するためオランダ人の優秀な役人を雇うようになれば、反英的な姿勢はいやでも強まる。彼らはクリューガーに欧州諸国、とくにドイツとの関係を強化すべきだと進言した。

実は「ジェームソン侵攻事件」で英政府に強い抗議を行ったのはドイツであった。同時にドイツの皇帝ウィルヘルム二世はクリューガーに対し、自国の力で侵略を撃退したことに敬意を表する、との祝電を打っている。この祝電は斑気なウィルヘルム二世の一存で発せられたのではなく、皇帝のほか首相、外相ら三人が臨席したうえで決められている。

祝電を打つ前にベルリンは、植民地軍をドイツ領東アフリカ(現タンザニア)からデラゴア湾に運ぶよう命令を発した。ローレンソマルケス(現マプト)には、すでに待機中のドイツ巡洋艦三隻から分遣隊が上陸して植民地軍と合流し、鉄道でプレトリアに出撃する手筈(てはず)が整っていた。ローレンソマルケスを支配していたポルトガルは断固として領土の通過を許さなかったが、さもなければ英独間に戦争が起こっていたかもしれない。

「ジェームソン侵攻事件は怪しからん」という国際世論の中で、英国の世論は逆にドイツ批判で沸いた。英政府はすぐに遊撃艦隊を現場に派遣した。七つの海を支配した英海軍であるから、ドイツは態度を軟化させる以外に手はなかったが、反英の基本的外交姿勢が変化するはずはない。英海軍力に対抗するためには大海軍をつくるべきだとの意見がドイツには高まっていくのである。

英独関係が険悪になれば、当然ながら事件の究明はうやむやになる。トランスバールの裁判では、セシル・ローズの弟を含む首謀者四人に死刑、他の五十九人にはそれぞれ禁固と罰刑が言い渡された。だが、国内と国際政治をにらみながら、チェンバレンは異常な努力で死刑を免除し、他の刑を軽減する措置をとった。これがボーア人をどれだけ激高させたか。英国とトランスバールとの関係はさらに抜きさしならぬところに進む。ただし、チェンバレンは国際情勢全体の中で、英国がどのような位置を占めているのかを常に気にしていた。

(杏林大学客員教授・田久保忠衛)




(2004/09/22)

【新地球日本史】(67)明治中期から第二次大戦まで

ボーア戦争と日英同盟(3)

南米では英米が戦争前夜の危機

ドイツのウィルヘルム二世が「ジェームソン侵攻事件」に際し、トランスバールのクリューガー大統領に祝電を打った出来事の直前に、英ソルズベリー内閣は米クリーブランド政権との間で、あわや戦争と思われるほどの危機を迎えていた。

ベネズエラと英領ギアナ(現ガイアナ)の国境線をめぐって、米側が一時的にせよ感情的に反英で固まってしまったのである。

一八八〇年代の終わりから一八九〇年代の初めころの米国には、「英国嫌い」(anglophobia)の空気が濃厚に残っていた。それに火をつけてしまったのがこの問題だ。

英政府は一八四〇年に、ロバート・ションバーグ卿を現場に派遣し、詳細な調査を基にションバーグ線を確定したが、ベネズエラ側はそもそもこの国境案に大きな不満を抱いていた。

第三次ソルズベリー内閣誕生二年前の一八九三年に米国で、グローバー・クリーブランド大統領が登場する。

彼は生真面目を絵に描いたような人物で、弱小民族を犠牲にして大国が勝手な行動をするのは許せないと信じていた。

ハワイ併合条約を撤回する挙に出たのも自らの信念からである。

クリーブランドはベネズエラ側の強い働きかけに真剣に耳を傾けた。

たまたまベネズエラ政府が顧問として採用したウィリアム・レスクラグス元駐ベネズエラ米公使が書いた小冊子「英国のベネズエラ侵略と試練に立つモンロー・ドクトリン」が米国内で飛ぶように売れ、世論を形成していった。

悪いことに国境線の微妙なところに位置するコリント港の騒動を収めるため英国が同港を占領する事件が発生した。国際法違反でもないのに、英国の行動は「モンロー・ドクトリン違反」との声が米上下両院にも拡大してしまったのである。

事態がいかに深刻だったかは、米歴史学者のトマス・A・ベイリーが「戦争は可能性があるというよりは、多分起こる」状況だった-と書いているのでもわかる。

クリーブランドが一八九五年十二月十七日に議会に提出した覚書は、事実上の対英最後通牒だった。自ら国境確定の委員会委員を任命し、モンロー・ドクトリンの名の下に、必要なら戦争によって英国に委員会の決定を認めさせるというのである。

米国人の妻を持つチェンバレンは驚いた。最初は同じく米国人女性と結婚しているプレイフェア卿を米国に派遣、次いで自身も訪米し、リチャード・オルニー国務長官ら要人と私的に会談するなどの裏工作を進めた。

英国民の間には米国と戦う気持ちなどはなかったのである。

覚書に議会が熱狂している間に米国内にも変化が生じた。宗教関係者、学者、知識人、編集者の間に、クリーブランドや議会はおかしいとの議論が高まった。

ニューヨーク・ワールド紙を買い取り、のちにピュリツァー賞を創設したジョセフ・ピュリツァーは、米国の国境でもない問題を重大化するのは大きな犯罪だ、と厳しい政府攻撃を展開した。

同時に彼は数多くの英有力者に電報を打ち、米国との戦争どころか友好関係を望んでいるとの英国側の回答を公表した。米世論の沈静化に少なからぬ役を演じたのである。

正義の味方であったはずのクリーブランドはあたかも軍事的対決を好む帝国主義者のようなイメージに変わってしまった

結局、この問題を調停に持ち込むとのワシントン条約が成立し、皮肉なことにションバーグ路線に近い形で解決をみたから、戦争前夜のような米国内の大騒ぎは一体何だったのかと首をかしげざるを得ない。

ドイツが、クリューガー宛の祝電を打つなど英国敵視の行動に出た背景には米英関係の悪化があったのである。

米英両国は以後、関係改善に相当な神経を使うようになった。お互いに敵にしてはまずい相手だと気付いたのだ。

(杏林大学客員教授 田久保忠衛)




(2004/09/23)

【新地球日本史】(68)明治中期から第二次大戦まで

ボーア戦争と日英同盟(4)

植民地戦争に英国は勝ったが…

一八九九年から一九〇二年までの三十二カ月間にわたって、英軍とアフリカーナー軍は激しく戦った。第二次ボーア戦争である。

「光栄ある孤立主義」と余裕のあるところを誇示していた英国は、国際政治上完全に孤立に追い込まれたのを悟った戦いであった。

英国とボーアの反目に新たな火をつける役を演じたのは、一八九七年にケープの総督として赴任してきたアルフレッド・ミルナーとトランスバール共和国のクリューガー大統領だった。

一般には、好戦的なチェンバレンが消極的な内閣にはっぱをかけて戦争に向かわせたと考えられているが、それは本当ではなかったようだ

在野時代にはリベラルの立場を自称していたミルナーだったが、エジプトに勤務して英帝国の威光を体験した途端に帝国主義者に変身した。外交的な感覚も弾力的思考もなかった人物である。

一方のクリューガーは「ジェームソン侵攻事件」の勝利で自信過剰気味になっていた。

彼がいかに軍事力強化に熱意を示したかを物語る数字がある。デラゴア湾を利用してトランスバールが輸入した軍需品は、一八九五年の六万千九百三ポンドから二年後の九七年には二十五万六千二百九十一ポンドへと四倍以上に急増している。

ヨハネスブルクの要塞(ようさい)建設に百二十万ポンドが費やされ、強化された重火器の指導にドイツ軍将校が雇われた。軍備増強を急ぐクリューガーは一八九八年の大統領選挙で文句なしの当選をした。

英国側にはポルトガルならびにドイツと話をつけ、デラゴア湾を押さえてしまえば、戦争に訴えることなくトランスバールを締め上げることができるとの構想もあったが、実現しなかった。

ミルナーは、トランスバールが態度を改めないかぎり戦争はやむを得ない、との報告をロンドンに送る。欧州情勢全体に目配りをしていたチェンバレンはボーア人との争いは回避したいと考えた。

そんなところに、ヨハネスブルクで、英国人労働者がボーア人警察官に射殺される事件が発生する。ところが、この警察官はいったん逮捕されたものの、さしたる咎(とが)めを受けずに釈放されてしまった。緊張感は高まった。

ソルズベリー、チェンバレン、A・J・バルフォア第一国家財政委員、ヒックス・ビーチ蔵相の四人の態度は、冷静で団結は固かったが、「大英帝国の誇り」を持った世論は、「ボーア討つべし」の好戦論が支配的になった。

現地における外交が最も必要な時期に、ミルナーは何をしたのか。ある程度の事実は裏付けにしたようだが、クリューガーはオランダを宗主国とした「南アフリカ合衆国」を建設しようと夢見てトランスバールの軍事力を増強している-と信じ込んだ。軍事力で叩く以外にない、との結論になる。

しかし、一見するとクリューガーが戦争を仕掛けたようにも観察される。

射撃の名人をそろえ、統一された派手なユニホームもないボーア軍にとって戦争開始の時期は雨季に入った途端が望ましい。一八九九年九月にオレンジ自由国はトランスバール共和国と運命を共にすることを決め、五万人の歩兵、八万人分のライフル銃と弾薬を整えた。

この時点で南アフリカに駐留していた英正規軍は一万四千七百五十人で、すぐインドから一万人が補強された。このほか英本国から四万五千人の増派が九月の閣議で決まる。

先に宣戦布告したのはボーア側であった。戦況は詳しく述べるゆとりはない。当初ボーア軍は優勢に戦いを進めたが、最後には敗北する。英軍は本国からだけでなく、カナダから八千四百人、オーストラリアから一万六千人、ニュージーランドから六千人の部隊を調達し、さらにボランティア(義勇兵)三万人が軍事作戦に参加した。

それにしても、大英帝国を相手に、ボーア人が二年八カ月の間、よくぞ戦ったと思う。

英国はボーア戦争の直前にスーダンでフランスと軍事衝突寸前のファショダ事件を引き起こしており、植民地における戦争は手いっぱいだというのが本当の気持ちだった。

(杏林大学客員教授 田久保忠衛)




(2004/09/24)

【新地球日本史】(69)明治中期から第二次大戦まで

ボーア戦争と日英同盟(5)

国際的孤立に追い込まれた英国

ボーア戦争は、大英帝国にとって単なる局地戦だったのだろうか。英国の派兵は三十二カ月間で四十五万人、うち英軍の正規兵は二十五万人だった。ちょうど日本の自衛隊の規模と同じ兵力を正規軍から割いて南アに派遣したことになる。

死者は五千七百七十四人、負傷者は二万二千八百二十九人という数字が記録として残っている。だが、このほか一万六千人が風土病で命を落としたという。

戦費は二億二千二百万ポンドだった。いまの価格に直すとどうなるのかわからないが、当時の英国の国民所得の約一割と言われているから、少ない金額ではない。

近代戦とは異なる南アという特殊な地域の特殊な戦争であったが、英陸軍はボーア戦争で欠陥があることを露呈してしまった。それよりも何よりも、英国は精神的な衝撃を受け、加えて国際情勢下で自らが置かれた地位をいやというほど知らされたのである。

英国の歴史学者、R・C・K・エンサー氏は、著書「イングランド一八九〇-一九一四」の中で、「ボーア戦争の最中に英国は自らの孤立を痛感した。英国は全く同盟国を持たなかったし、友好国もまずなかった。まさに三十二カ月の間は片手を背中に縛り付けられていたのだが、この間に大国が英国を攻撃しなかったのは天佑だった」と書いている。

「光栄ある孤立政策」などと威張っているうちに、自国は孤立に追い込まれていたのだ

それでも英国と米国の関係は好転していた。雨降って地固まるの役目を果たしたのは、事実上の対英最後通牒であったクリーブランド覚書である。

次が米・スペイン戦争の際に英国がとった親米的行動だ。一八九八年に戦いが開始されるや、米艦隊はマニラ湾のスペイン艦隊を簡単に打破してしまった。日本、英国、ドイツ、フランスも、自国の権益保護のためとの名目をつくって、それぞれ艦隊を派遣したが、ドイツは戦艦四隻のほか二隻を含めた艦隊を湾内に入れた。

米国に好意的な態度を示してきた英艦隊は米、ドイツ艦隊の間に割って入って最悪の事態を回避させるのに一役買った。米国が英艦隊に感謝したのは当然である。

米英両国は一八五〇年にクレイトン・ブルワー条約を締結した。米英両国が将来パナマ運河を取得したり、独占管理権を持たないことを宣言し、ニカラグア、コスタリカ、モスキート海岸などの植民、占領、保護などを厳しく禁じた条約で、両国は五十年にわたってその内容をめぐり対立を続けてきた。が、大西洋と太平洋をつなぐことに野心を抱いていたマッキンレー米大統領は、一九〇〇年にニカラグアに新しい運河をつくる法案を議会に提出した。クレイトン・ブルワー条約は破棄しなければならなくなる。

英国はいくつもの条件をつけたが、米側の要求をいれた。理由は二つ考えられる。

一つは第二次ボーア戦争で実力者のチェンバレンをはじめとする指導部は解決の目処が立たず、手を焼いていた時期であった。

二つはドイツとの対立をどう解消するかに英外交は腐心していた最中であった。

二度にわたる戦争をし、世界の各地で対立を繰り返してきた米英両国であるが、米国内における「英国嫌い」の感情は薄れていき、第一次、第二次大戦を経て、いまのような「特殊な関係」に入っていく。

英国人の研究者、ディヴィッド・スティーズ氏は、「ボーア戦争は一連の緒戦の敗退で英国陸軍の大きな弱点を示すとともに、英国に対する全般的な大陸の敵意(アメリカも加わった)を導き出すなどの問題を突きつけた」と述べている。

米国との関係はまずまずになってきたが、ボーア戦争に対する米世論は厳しかったし、ロシア、フランス、ドイツなどの敵意は剥きだしだったと言っていい。

孤立化政策を大きく転換することを躊躇(ちゅうちょ)していたソルズベリーも、孤立化を脱することで局面を切り開いていかなければ英国の将来はないと確信する実力者チェンバレンに次第に足並みをそろえるようになる。

チェンバレンは手強い敵であるドイツと手を握ってしまおうとの正面突破策を実行に移した。

(杏林大学客員教授 田久保忠衛)




(2004/09/25)

【新地球日本史】(70)明治中期から第二次大戦まで

ボーア戦争と日英同盟(6)

日本と結ぶ以外になかった英国

「ジェームソン侵攻事件」に際してドイツ皇帝がボーア側に祝電を打った翌々年に、チェンバレンはドイツの駐英大使ハッツフェルトあるいは参事官のエッカートシュタインと何回も接触した。孤立を脱するためにドイツと同盟を結ぼうと考えたのである。

ウィルヘルム二世が奇矯な言動をするなど、人格的に問題のある人物であることはよく知られているが、ビスマルク首相以来のドイツの伝統的外交政策は、露仏同盟を揺さぶることであり、そのためにはロシアの関心が極東に集中してくれればありがたい。

一八九八年にロシアは旅順・大連の二十五年間の租借権を得るなど、南下政策の推進に余念がなかった。

日本の安全保障にとっては重大な脅威であるし、英国にとって最大の市場が危うくなるかどうか、国益を左右する話になってくる。

エッカートシュタインがドイツを加えて日英独の同盟を持ちかけ、途中でさっと身を引いたのもしたたかな計算による。

それはともかく、ウィルヘルム二世は一八九九年十一月にビクトリア女王の八十歳の誕生日を祝うためロンドンを訪問する。チェンバレンは直接皇帝に同盟を提案し、ウィルヘルム二世は独英米の三国同盟にしてはどうか、など調子のいいことを口にして帰国する。

ところが、ドイツ側はすぐ約束を反古(ほご)にした。その直後にドイツ船三隻がボーアに禁輸品を運んでいるところを英巡洋艦に押さえられる。ドイツは居丈高に抗議をしたが、これは一九〇〇年六月に議会に提出した新海軍法の口実にするため仕組まれた芝居だったらしい。

英独間に信頼関係は最初からなかったのだから、同盟がまとまるはずがない。それでも交渉は一九〇一年まで続いた。

チェンバレンはロシアやフランスとも関係改善を試みたが、いずれも成功はしていない。第二次ボーア戦争に明るい見通しがつかない間は、自在に外交の腕を振るうのが難しかったのかもしれない。

ミルナーもこぼしているように、「本国政府は欧州外交で頭がいっぱいで、現場に思い切った指示をしてこない」との不満も事実だったのだろう。

その中でドイツの新海軍法が成立し、ドイツは英海軍に対抗するために大々的な増艦計画を進める態勢に入る。英国にとって悩みの種がまた増えた。

日英同盟を結んだ明治の指導者は確かに優れていた。が、英国は別に日本を助けようとして手を差し伸べたのではない。大英帝国の運命を左右するかもしれない中国での権益を守るには、日本と結ぶ以外に選択はなかったのである

欧米における一つの見方を紹介しよう。戦前に日本でも翻訳出版された米カトリック大学のタクラナス・ダス教授の著書『極東における列国の外交戦』の中に、英外務省のフランシス・ベーティ卿が一九〇一年三月十日に記した覚書が載っている。

孫引きになるが、内容は「日本をして遼東半島を占領せしめることは、日露間に和解を不可能ならしめる保障となるであろう。これは英国および欧州にとっては便宜なことだ。黄禍の危険は絶えずロシアによって阻止されるべく、ロシアよりの危険は日本によって防止されるであろう」である。

日本も英国を必要としていたから日英同盟はお互いに便宜上の結婚であった。

米国の大統領セオドア・ルーズベルトは中立の立場を取りつつ、帝政ロシアの南下政策を日本によって防止しようと思っていただろうから日英同盟支持だった。

日英米対露仏の対立である。

だが、日露戦争後に日米間には満州と移民という二大問題が立ちふさがる。

日米が戦った場合、理論的に日英同盟は米国にとって障害になる。米英関係はさらに緊密になり、一九二一年のワシントン軍縮会議で二十年間にわたった日英同盟は廃棄が決まった。

以後は米英中の三国対日本の対立へと国際秩序は変化していく。

ボーア戦争が日英同盟をもたらしたと断定したら牽強付会になろう。が、この戦争が及ぼした多面的な影響に触れることなく、この同盟を論ずるのもどうかと思うのである。

(杏林大学客員教授 田久保忠衛)




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