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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

新地球日本史(直近版)2 南ギャグw篇

(2005/01/03)

【新地球日本史】(147)明治中期から第二次大戦まで

南京大虐殺は存在せず(1)

世界を駆けめぐった米紙の特ダネ

六十七年前の1937(昭和十二)年12月13日に、(中華民国の首都である)南京が陥落した。

同年7月7日が中共謀略の盧溝橋事件で、「支那事変」勃発ですからネw

当時の日本の新聞をみると城門の上で万歳をする日本軍将兵の写真や日本国内の提灯(ちょうちん)行列が特集されている。

西洋的というか当時の日本も含む近代国家では、首都が占領されたら「勝負ありっ!」で停戦交渉に入るのが常識。だからこれで一段落と大いに喜ぶわけですわw

ところがアメリカでは次の新聞記事が出ていた。

南京陥落から三日後のこと、十二月十五日(日本時間十六日)の『シカゴ・デイリーニューズ』は、「南京大虐殺物語」というトップ記事で、

「南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、その後の征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない人たちであった。…以上の記述は包囲中の南京に残った私自身や他の外国人の観察に基づく」

 と伝えていた。

つづいて十八日の『ニューヨーク・タイムズ』も、「南京屠殺(とさつ)が陥落の特徴」という見出しで、

「頻発する殺人、大規模な掠奪、婦女暴行、市民殺害…南京は恐怖の町と化した。…恐れや恐怖から走る者は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」

 と報じた。

私たちは、城門が陥落するや城内に雪崩れ込んだ日本軍が「殺人放火意のまま」に市民や捕虜を殺しまくったと思うであろう。

これが世に出た最初の「南京大虐殺」であった。

陥落前から南京にいて十五日に南京を離れたアメリカ人特派員のスティールダーディンが打電したスクープ(特ダネ)であった

彼らは「外国人の目撃」を根拠として陥落三日間の南京を報じたことになる。

当然「掃討戦」最中であること

               ■□■

このスクープは、たちまち世界を駆けめぐったようだ。

特ダネを求めて南京を走り回っていた二百人近くの日本の従軍記者や従軍カメラマンのなかにも、これを耳にした人がいた。

東大仏文科を出て間もなく南京戦に従軍した同盟通信の前田雄二は戦後、『戦争の流れの中に』(昭和五十七年)のなかで、

「占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったという外電が流れた。…私たちは顔を見合わせた。市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。…無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」

 と回想している。

南京戦に従軍した大阪朝日新聞の山本治も、南京大虐殺について、

全然見たことも聞いたこともありません。…夜は皆集まりますが…朝日新聞では話題になったこともありません」

 と言う。そして、昭和十三年夏に大陸から帰国するや、

「神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです」

 と回想する。

                ■□■

 どちらが正しいのであろうか。

二人のアメリカ人特派員は十五日に南京を離れているので十三、十四の二日間と、十五日に離れるまでの陥落三日間の南京の様子を、外国人の「観察」と「目撃」に基づいて報じたことになる。

そこで、南京陥落後の最初の二カ月間の事件を完璧(かんぺき)にとり揃えているという『南京安全地帯の記録』を見てみよう。

これは一九三八(昭和十三)年二月にスマイス南京大学教授の手で一冊にまとめられた「市民重大被害報告」が、一九三九年に徐淑希編として公刊されたものである。

問題の三日間を見てみると、十三日は婦女暴行と掠奪が三件、十四日は殺人一件、婦女暴行四件、手袋や万年筆や時計の掠奪が三件であった。

十五日は殺人四件、婦女暴行五件、掠奪五件である。

しかし誰が目撃したかは明記されていなかった

二人の特派員が南京を離れるまでの殺人は出所不明の数件だったのである。陥落から三日間、明確な市民殺害の目撃は一件もなかったことになる。

アメリカの特派員の言う「私自身や他の外国人の目撃」になる「頻発する殺人…市民殺害」とは、いったい何だったのであろうか。

(亜細亜大学教授 東中野修道)




(2005/01/04)

【新地球日本史】(148)明治中期から第二次大戦まで

南京大虐殺は存在せず(2)

米国人特派員は目撃していなかった伝聞ってことw

アメリカ人特派員のスティールやダーディン、そして他の外国人が虐殺を目撃したという陥落前後の南京を見ておこう。

陥落五日前、南京防衛軍司令官は全市民に安全地帯に避難するよう命令を出した。国際委員会の第九号文書が記すように、事実上全市民が城内の安全地帯に避難した。

ところが南京戦では、日本軍の予想だにしない事態が発生する。日本軍の降伏勧告を拒否して徹底抗戦を豪語していた司令官の唐生智が、陥落直前の12月12日午後8時、いまだ激戦の続くなか、降伏表明もせずに敵前逃亡した。

支那・朝鮮人お得意、「豚ズラ」w でも司令官だからなぁ、始末悪いどころか「降伏命令」権限者がいなくなったということ

巨大な城壁と城門で囲まれた城内(南京市の地図参照。城壁にぐるりと囲まれている)にとり残された中国兵は、城外に脱出するか、市民のための避難地帯である安全地帯に侵入するよりほかなかった。

陥落直前とあって、ほとんどの中国兵は安全地帯に殺到し、兵士と市民の渾然一体となった安全地帯は大混乱に陥った。その安全地帯に欧米人も残留していた。

中国軍の降伏が表明されない大混乱つまり個々の戦闘継続中ってこと)のなか、十三日未明に、城門が陥落する。

しかし城外では激戦がつづいていた。脱出する中国軍に猛撃(窮鼠猫を噛む状態w)されて、日本軍も死傷者を出していた。

十四、十五、十六の三日間、日本軍は城内外で「残敵ヲ掃蕩(そうとう)シ以テ南京城占領ヲ確実ナラシメントス」るため掃蕩に出る。

掃蕩とは治安回復のために残敵を追い払う、どの戦場でも、今でも不可欠な軍事行動である。

掃蕩で困難を極めたのが安全地帯であった。軍服を脱ぎ捨てて市民になりすました中国兵が市民の中に紛れ込んでおり、撤去されていない中国軍の軍事施設があり、武器を隠し持って反撃してくる兵士もいたからだ。

安全地帯で中国兵が蜂起すれば、交戦が始まる。市民も巻き込まれ、日本軍の安全も脅かされる。

日本軍は第七連隊のみに安全地帯の掃蕩を命じ、中国兵を摘発し、「抵抗の気配」のある者を揚子江岸で処刑した。

コレだって「愛国心・徹底抗戦意識」からの抵抗とかじゃなくて、少数の日本軍部隊にとんでもない多数の降伏支那兵が、パニくって暴動的逃亡てか烏合が襲い掛かってきて双方入り乱れての殺し殺されてな状況だったらしい

しかし多くは苦力(クーリー)(労働者)として使った。翌年二月末現在で苦力は延べ一万人に達している。

このような状況のなか、「頻発する殺人…市民殺害」は誰も目撃していなかったという事実に立って、アメリカ人特派員が確かに目撃したことを整理すると、次のようになる。

一つは(司令官前夜逃亡によって残された支那兵の南京城)陥落前後の大混乱とパニックであった。

日本軍が包囲する前に、まず金持ち階級から他都市に逃げていたし、南京外への逃走ができないすなわち路銀さえままならぬ下層階級だけが残っていたが当然戦闘地域に居るわけわなくて、それらの連中も既に「安全区」に避難していた

二つ目は「死体」であった。三つ目は揚子江岸の「処刑」であった。

そういう客観的状況からは、これだけから「一般住民(市民)無差別殺害」なんて出てきやしないハズ

彼らは以上の三点をもとに描いたとしか考えられない。

たとえばダーディンは「日本軍の下関(シャーカン)門の占領は防衛軍兵士の集団殺戮(さつりく)を伴った。死骸(しがい)は高さ六フィートの小山を築いていた」と書いて、死体を「集団殺戮」の証拠とした。

しかし彼が五十年後に回想するように、これは城内の中国兵が唯一の脱出路●江(ゆうこう)門に殺到して圧死したか、友軍の督戦隊が逃亡する中国兵を射殺してできた死体であった

※●=手へんに邑

督戦隊
「戦いを督促」する支那軍のみに存在した特殊部隊
支那兵は不利になると直ぐに敵前逃亡する為に、前線の後方に位置して、逃亡する自軍の支那兵を射殺した。
この恐怖心によって、直ぐに逃げたがる支那兵を強制的に戦わせるようにし向ける世界の軍隊にも類例のない支那独特の軍組織。

督戦隊の存在そのものが、粗末な支那軍の実態を雄弁に物語っている。
支那軍は地方軍閥の寄り合い所帯であって、士気は低く、統制も取れていなかった。近代国軍の統一されたイメージとはかなり違う。軍閥同士が殺し合いを演じ、支那民衆が最も怖れたのは日本軍ではなく、逃亡する支那兵の自国民衆に対する暴虐行為であった。多民族国家故の現象とも云える。
戦後、彼等の暴虐の罪を日本軍に擦り付けようとした事実を忘れてはならない。




スティールは南京を離れる直前に、「河岸近くの城壁を背にして三百人の中国人の一群を整然と処刑している光景」を目撃したと書いて、中国兵の処刑を中国人の処刑と書いた

ところが彼も同じく五十年後に、「中国人が虐殺される場面を見ましたか」と問われたとき、「はい。大勢の兵隊が銃殺されるのを見ました。整然と秩序だって銃殺されていました」と答えて、正確に「兵隊」と認めている。

彼は中国兵処刑を大虐殺とみなしたのである。

ダーディンも「南京にとどまっていた三日間」の印象を問われて、虐殺というなら女性や子供が殺されるのを見聞したという衝撃的な体験を語るべきところ、安全地帯は「難民でごったがえしていた」が、平和であり、「食料はたくさんあるようだった」と答えている。

つまりアメリカ人特派員は、「頻発する殺人…市民殺害」を目撃していなかった。

そのことは、第一回に述べた目撃証言の明らかな市民殺害は皆無という「市民重大被害報告」の記録や日本軍従軍記者たちの回想とも一致する。

アメリカ人特派員は、横たわっている死体と日本軍の処刑を南京大虐殺の根拠としていたようだ。

(亜細亜大学教授 東中野修道)




(2005/01/05)

【新地球日本史】(149)明治中期から第二次大戦まで

南京大虐殺は存在せず(3)

毛沢東は「虐殺」を否定していた

アメリカの新聞が「南京大虐殺」を報じてから、日本の陸海軍は、南京に将校を派遣して実情を調査している。

外務省の石射(いしい)猪太郎東亜局長も、南京安全地帯国際委員会から南京の日本大使館に届けられた「市民重大被害報告」を見て、政府に「南京に入城したわが軍による強姦・放火・掠奪」を報告している。そこに「虐殺」という文字がないのは偶然であろうか。

実際、石射が目を通したであろう「市民重大被害報告」の二カ月間の全報告を集計してみても、殺人は二十六件、婦女暴行は百七十五件、掠奪は百三十一件、放火は五件であったが、そのほとんどは目撃者を明記しない出所不明の「噂」である。

目撃されたのは、たとえば殺人は「合法的処刑」の一件であった。

掃討戦最中に、憲兵に誰何(すいか)されて逃亡したら、どこの世界(戦場)でも即時射殺だわなw
それを「平時の博愛主義」で、かわいそぉ~♪って言うのは別にかまわんwが、自分の勉強不足を嘆いたほうが吉、だと思うよ。かつて一橋の現代史のせんせが、戦線崩れて敗走する敵軍兵を攻める(射撃)するのは「虐殺だっ!」と書いてバカにされたからネw


南京市民と欧米人の訴えた事件を完璧に揃えていた「市民重大被害報告」は、南京の欧米人の共通認識であり、公式見解であった。

それに基づいて石射東亜局長らの日本側関係者が、外国人の目撃した「頻発する殺人…市民殺害」はなかったとみていたとしても、決して不思議ではない。

                 ◆◇◆

アメリカの新聞が配布されたアメリカにおける反応はどうだったのか。

スティールやダーディンの報じた二紙を基にして、他紙もまた同じことを報じ始めている。

しかしアメリカ政府の日本に対する抗議は、パネー号誤爆事件アリソン領事殴打事件であった

一九三八年二月、ジュネーブの国際連盟で、中華民国政府代表は、アメリカの新聞の報じた南京大虐殺を取り上げて世界に訴えたが、そのときも国際連盟は、リットン調査団のような調査団を南京へ送ろうとする動きさえ見せなかった。

自国民が大量虐殺されたと主張する中国国民党の反応はどうだったのか。

南京大虐殺が事実ならば今日以上に激しい日本非難が連日宣伝されたはずであった。

ところが国民党宣伝部が一九三八年四月に創刊した『戦時中国(China at War)』を見ても、国民党宣伝部は南京に触れながら、その創刊号に「南京大虐殺発生」と発表していない。

共産党の毛沢東は五月末から九日間連続の有名な講義「持久戦について」のなかで、日本軍は南京で皆殺しの殲滅(せんめつ)に出なかったから戦略的に拙(まず)かったと批判し、南京大虐殺そのものの存在を否定している。

つまり、私軍たる支那軍の兵隊は、さらわれて無理矢理兵士にされた連中だったので、帝国陸軍の「支那屋」将軍らは武装解除してその場で釈放(放逐)すれば田舎に帰ると見ていた。
でもまたそれをさらって兵士にするわけだから、けざわはんなもんサッサト殺しちまえって言うわけヨw


このように、アメリカの新聞が「南京大虐殺」を報じたものの、世界のどの国も「南京大虐殺」に公然と言及したこともなければ、公然と指弾したこともなかった。

                 ◆◇◆

しかし今から思うと、「南京大虐殺物語」がアメリカの新聞に出たとき、日本外務省は直ちに白黒を明確に公表しておくべきであった

国際調査団を招聘(しょうへい)し、世界に向けてアメリカの新聞報道の是非を明らかにしておくべきであった。しかしそうはしなかった。

それを奇貨として、日中戦争一周年のころ、つまりアメリカの新聞に南京大虐殺が出てから七カ月後の一九三八年七月のこと、ハロルド・ティンパーリ編『戦争とは何か-中国における日本軍の恐怖』がロンドンとニューヨークで出版される。

この単行本は第三者的立場の編者が日中戦争を題材にして戦争の悲惨さを訴えるという趣旨に立っていたが、しかし全八章のうち最初の四章は、南京の外国人が友人あてに出したという匿名の手紙で構成されていた。

そして南京は「二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行…」「完全な無政府状態が支配しており、さながらこの世の地獄だ」「四万人近くの非武装の人間が…殺された」と描写されていた。

英語版の『戦争とは何か』が出ると同時に、その漢訳版の『外人目撃中の日本軍暴行』も出た。やがてフランス語版も出たことが確認されている。

抗議することに慣れていない日本は、『戦争とは何か』が出たときも、それを放置していた

害務省はこのまま、真珠湾のヘマまで行くわけネw

これが日本の敗戦後に大問題になろうとは、当時、人々は、知るよしもなかった。

(亜細亜大学教授 東中野修道)




(2005/01/06)

【新地球日本史】(150)明治中期から第二次大戦まで

南京大虐殺は存在せず(4)

人口と同じ人数が殺害された?

東京裁判の始まる半年前の昭和二十(一九四五)年十二月八日、連合国軍総司令部は、全国紙の全面二ページに、「太平洋戦争史-真実なき軍国日本の崩潰-連合軍司令部提供」を発表する。

 「南京における悪虐…日本軍は恐る可き悪虐行為をやつてしまつた。近代史最大の虐殺事件として證人達の述べる所によればこのとき実に二万人からの男女、子供達が殺戮された事が確證されてゐる。四週間に亘つて南京は血の街と化し、切りきざまれた肉片が散乱してゐた」

 しかしそう述べた「證人達」とは、いったい誰だったのか。市民二万人殺害を示す「確證」とは何だったのか。

連合国軍総司令部が南京事件を検証したことはなかったのである。

 昭和二十一(一九四六)年五月三日、東京裁判が開廷し、七月南京大虐殺が俎上(そじょう)にのせられる。

ここで特筆しておくべきは、証拠価値が高いはずのアメリカの新聞記事や『戦争とは何か』が、証拠として提出されなかったことだ。

そして南京大虐殺を報じたスティールやダーディンや、『戦争とは何か』の編者ティンパーリや、その匿名の分担執筆者が、名乗りを上げて証言したこともなかった


 言い換えれば、アメリカの新聞記事や『戦争とは何か』の内容が俎上にのせられ、その是非が審議されたことはなかった。

 東京裁判の証言台に立ったのは、中国人五人、アメリカ人三人であった。本来なら、彼らの証言は目撃証言なのか、その裏付けはあるのか、徹底的に審議されて然るべきであったが、それが問われたのはジョン・マギーの反対尋問のときだけであった。殺人行為を何件目撃したのかと尋問されたとき、マギーは「一人ノ事件」だけだと答えた。しかしその「事件」すら、当時の彼の日記によれば、彼は目撃していなかった

 証言のなかで、裁判の行方に最も影響を与えたのはマイナー・ベイツの証言である。

 彼は一万二千という数字を挙げて、「色々ナ調査・観察ノ結果、我々ガ確カニ知ッテ居ル範囲内デ、城内デ一万二千人ノ男女及ビ子供ガ殺サレタコトヲ結論ト致シマス」と主張した。さらにベイツは三万という数字を挙げて、「中国兵隊ノ大キナ一群ハ城外ノ直グ外デ降伏シ、武装ヲ解除サレ七十二時間後、機銃掃射ニ依ッテ射殺サレタノデアリマス」と主張し、武装解除された中国兵の射殺という表現で、婉曲的に捕虜殺害をほのめかしたが、一度として日本軍が「戦争捕虜(POW)」を処刑したと公言したことはなかった

 彼は東京裁判で証言したのち、昭和二十二(一九四七)年二月に南京で次の「声明」を公表する。

 「日本軍の南京占領の最初の二、三週間に殺された非戦闘員の男女子供の死者数は、どんなに低く見積っても一万二千であり、武装解除された軍服姿の男の死者数は三万五千であると確信した。これらの殺人の九〇%以上が最初の十日間に生じ、その殆(ほとん)ど全てが最初の三日間に生じた

 大量殺害のほとんどが「最初の三日間に生じた」と述べていることは重要だ。

それが事実でなかったことは既に冒頭において論証した。

陥落直前の人口二十万、陥落八日後の人口二十万、陥落一カ月後の人口二十五万と言う欧米人に、人口減少の認識がなかったことからみてもまた二カ月間の「市民重大被害報告」に照らしてみても、数十人の市民殺害すら考えられない

 あえて大量殺害といえば、三日間(七十二時間)の掃蕩の際の処刑しか考えられない。

それゆえベイツの南京大虐殺の根拠は三日間の日本軍の処刑にあったことになる。

ただ日本軍は「武装解除された軍服姿の男」ではなく、軍服を脱ぎ捨てた非捕虜の不法戦闘員を処刑した。合法だったのである

 ともあれ、ベイツの証言が裁判に大きな影響を与える。

 昭和二十三(一九四八)年十一月十一日、「日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であった」という判決が朗読された。

(亜細亜大学教授 東中野修道)




(2004/01/08)

【新地球日本史】(152)明治中期から第二次大戦まで

南京大虐殺は存在せず(6)

極秘文書にも「虐殺」の記述ない

 国民党の宣伝謀略という言葉が現実味を帯びてきた今、ダーディンの次の記事が思い出されてくる。すでに述べたように彼は『ニューヨーク・タイムズ』に南京大虐殺を報じた特派員であった。また最近分かったことには、国民党宣伝部副部長の董顕光とは「旧友」「良友」の関係にあった。

 その彼が十二月二十二日の『ニューヨーク・タイムズ』に「防衛軍司令長官部は彼らが城壁で囲われた南京に包囲されることを十分承知していた。…日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにしようと意図していたことは疑いない」と書いていた。日本軍の南京占領を高価なものにする意図とは何であったのか。

 南京防衛軍司令部は、城内に残された中国兵が陥落前に安全地帯に入って大混乱とパニックが起き、陥落後は日本軍が安全地帯に入って中国兵を摘発し処刑することを事前に「十分承知」していたのではないか。これらの事態を渡りに船の宣伝材料にしようと意図していたのではないか

所詮「攫ってきた私兵」。置いてけぼりにしてその死を謀略宣伝の道具にしようとしたw ヤツラなら考え付くことだろな

                 ◆◇◆

 折から第二次国共合作下の国民党員と共産党員が結集した国民党中央宣伝部の宣伝工作を記した「極機密」文書が出てきた。それが『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(一九四一年)で、南京陥落前の一九三七年十二月一日から三年間の戦争宣伝工作の内幕を秘密報告していた。

 まず国民党宣伝部の五課三室の一つの「対敵課」の「工作概況」から見てみよう。「対敵課」は宣伝工作のために、宣伝本として『戦争とは何か』を編集製作したことを秘密報告し、その『戦争とは何か』を次のように要約していた。

 「その内容は、敵軍が一九三七年十二月十三日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道の行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても等しく詳細に記載している」

 宣伝本の『戦争とは何か』は殺人、強姦、放火、略奪の描写を満載した本であった。従ってその要約の冒頭には殺人や虐殺が出てきて当然ではなかったのか。ところが、宣伝部は肝心要の「殺人」「虐殺」を記していない。

                 ◆◇◆

 「外事課」の「工作概況」も見てみよう。外事課は外国人特派員が国民党宣伝部の宣伝文書を発信してくれるならば宣伝効果が上がるとみて、南京陥落前の十二月一日から翌年十月二十四日までの三百二十八日間に三百回の記者会見を、お茶会とともに開いていた

土日抜きだけの毎日接待攻勢だったてなことかな?w

 ところが、十二月中旬にアメリカの新聞が南京大虐殺を報じたときも、翌年七月に『戦争とは何か』が出たときも、そのための記者会見を開いたという記述がない

南京大虐殺が事実であったのならば、自国民が不法に殺害されたというニュースにいち早く反応して、世界に事実を公表するのが国民党宣伝部の当然の責務ではなかったのか。

 他の課の「工作概況」をも見てみたが、「大量殺人が起きた」ことを宣伝工作したという秘密報告は、やはり見いだせなかった。

 このように国民党宣伝部が一級史料の極秘文書においてさえ南京大虐殺に一言も触れていないという事実を、私たちはどのように考えればよいのだろうか。

 これまで述べてきたように、「市民重大被害報告」において不法殺害の目撃がなかったことや、国民党がベイツの四万人虐殺説大陸向けの『戦争とは何か』の漢訳版や同じく中国での四回にわたる英語版への転載において削除していたことや、その他の疑問や、矛盾点を考慮に入れるとき、国民党宣伝部は南京大虐殺を歴史事実と認めておらず、あくまでも宣伝謀略のための戦争プロパガンダの材料として位置づけていた、と言わざるを得ない。そう考えて初めて史料の整合性が出てくるのである。

支那地元民はそんなの出鱈目だってわかってるからネ。だからそいつらの目に触れる可能性ある「漢訳版」や地元出版の英訳版にも敢えてその部分は削除したのだ、と

 勿論(もちろん)摘発された中国兵の中に市民がいたのではないか、不法な処刑があったのではないかとも考えられるが、推測の域を出ない。

 こう考えてくると、南京大虐殺とは国民党の宣伝謀略に使われた宣伝本などをもとに、東京裁判正当化のために再構築された解釈に過ぎない。

大虐殺を主張する人は南京大虐殺を公然と明記する国民党政府の当時の記録を提示すべきだ。

(亜細亜大学教授 東中野修道)











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