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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

★新地球日本史~(国家神道・現人神の嘘)

(2005/01/31)


【新地球日本史】(171)明治中期から第二次大戦まで


現人神の真実(1)

「現人神は明治以来」の幻想の呪縛

 三十年ほど前まで、こんな議論が横行していた。曰(いわ)く-

《明治維新によって天皇の絶対化が始まり、帝国憲法の制定によって、ついに天皇は、神聖不可侵な神とされるにいたった。「現人神(あらひとがみ)」となった天皇は、人間から隔絶した絶対の真理と至高の道徳の体現者に仕立てあげられ、天皇の名による戦争は、外に向って天皇の権威を輝かし、「八紘一宇(はっこういちう)」を実現するための聖戦とされた。つまり、大日本帝国においては、現人神天皇がそなえている普遍的価値を全世界に及ぼす行動として、対外侵略が正当化され、戦時、平時を問わず、全国民は、天皇と国家にたいする際限のない滅私奉公の忠誠を要求されたのである》

                 ◆◇◆

 明治維新以後の近代日本では、天皇は唯一絶対の神とされ、その絶対神の名において戦争が正当化され、国民に無限の滅私奉公が強制されていた、というのだ。

 さすがに、最近の専門研究者でこんな極論を展開する人はいなくなったが、まだ、言論界あたりでは、このような幻想は生きていて、次のような趣旨のことが言われたりする。

 《明治時代後半から昭和時代前期までの日本は北朝鮮以上に異様な国家だった。金正日はほとんど神格化されているとはいえ、まだ「将軍さま」「首領さま」であって、神様ではない。誰も彼を神様とは呼ばないし、礼拝もしない。しかしかつての日本では、天皇は現人神とされ、神として礼拝されていたのである。だから、あの戦争でも、多くの兵士が天皇陛下万歳を叫びながら天皇のために惜しげもなく命を捧げたのである。イスラム教徒が、ジハード(聖戦)が宣せられると、この戦争でアラーのために戦って死ねば天国に行けると信じて平気で命を捨てるようなものである》

 《教育勅語の精神は結局、天皇を唯一の神として、その神のために死ぬことを根本道徳とし、一切の道徳をこの根本道徳に従属させるものだった》

                 ◆◇◆

 結論から先に言えば、明治時代から一貫して、天皇が唯一絶対の「現人神」とされ、戦争がその名の下に正当化されていたなどということはない。それは昭和十年代のごく限られた期間の出来事にすぎない

でも、そのような「絶対神」的捉え方だったんですか?w

 どうしてそう言いきることができるのか。答えは戦前の小学校国定教科書を調べてみれば分かる。そこに、「現御神(あきつみかみ)」「八紘一宇」という言葉が登場するようになるのは、昭和十六(1941)年以降のことだからである。

「現御神」といっても唯一神的意味合いなどなく「権威の象徴」でしょ? 八紘一宇は World-wide neighborerhood てな英訳あるようですし

 近代日本の指導者たちが、国民に「現人神」や「八紘一宇」の観念を植え付け、それによって戦争を正当化し、国民を動員しようとしていたのであれば、まず第一に考える方法は、国民教育のためにつくられた小学校において、そのような観念に基づく教育を実施することであっただろう。

したがって、その教育の中心となるべき国定教科書には、当然のこととして、最初から「現人神」「八紘一宇」という言葉が書き込まれていなければならないはずだ。

 ところが、明治三十七年に初版が出されてから、修身については四回、日本史については六回の改訂が行われているのに、それらの教科書に「現御神」「八紘一宇」が登場するのは、大東亜戦争開戦の昭和十六年になってからのことなのである。

 ということは、「現人神」や「八紘一宇」は、国家の指導者たちが明治の初期から国民統合のために期待を寄せた思想だったのではなく、日本近代のいずれかの時点で登場し、やがて有力化して、小学校の教科書にまで取り入れられるようになったものだった、ということになりそうだ。

 その過程はどのようなものだったのか。また、徐々に浮上していった「現人神」「八紘一宇」の思想が、何故、近代のはじめから日本を支配していたなどという幻想が生まれ、長らく信じ続けられてきたのか

 この謎解きをしてみようというのが、今日から六回にわたって私が論じていこうとしている歴史の主題である。

(皇學館大学教授 新田均)




(2005/02/01)

【新地球日本史】(172)明治中期から第二次大戦まで

現人神の真実(2)

教育勅語に天皇の絶対神化はない

 教育勅語は《天皇を唯一の神とした》、言い換えれば《天皇を絶対神とした》などということは、教育勅語の成立史を少しでも学んだことのある者にはとても言えない絵空事である。

 教育勅語起草の中心者は、言うまでもなく、帝国憲法起草の中心者でもあった井上毅(こわし)だが、彼が勅語の起草について、

「勅語ニハ敬天尊神等ノ語ヲ避ケザルベカラズ何トナレバ此等ノ語ハ忽(たちま)チ宗旨上ノ争端ヲ引起スノ種子トナルベシ」

「世ニアラユル各派ノ宗旨ノ一ヲ喜バシメテ他ヲ怒ラシムルノ語気アルベカラズ

と述べていることは有名だ。

 さらに、彼はこんなことも言っている。

「肇国(ちょうこく)ノ基礎ヲ叙(のぶ)ルニハ、皇祖トハ神武天皇ヲ称(とな)ヘ、皇宗トハ歴代ノ帝王ヲ称ヘ奉ルモノトシテ解セザルベカラス」

「皇祖皇宗ノ偉業盛徳数千年ノ久シキヲ経、我ガ国民ノ君ニ忠ニ親ニ孝ナル徳義ノ極メテ大ナルハ、我国ノ教育ニ於ケル固有ノ基本タリ、蓋(けだし)教育ハ国民ノ歴史慣習ニ従ヒテ之レヲ施サザルベカラズ、之レヲ国民的ノ教育トス」

(稲田正次『教育勅語成立過程の研究』)。


 要するに、各宗教によって対立がある神観念のようなものは書きこまないで、神武天皇以来、天皇と国民が互いに徳義をつくして協力してきたという国史の精華を教育の基礎としようというわけである。

ここには、天皇の絶対神化どころか、日本神話の重視さえ見えない(この背景には、明治初年以来の宗教行政をめぐる幾多の混乱から学んだ教訓があった)。

                 ■□■

 したがって、明治二十四年に文部省が定めた、今日の「学習指導要領」に当たる「小学校教則大綱」では、日本史は神話からではなく、「建国ノ体制」(建国の歴史)からはじめて、「皇統ノ無窮、歴代天皇ノ盛業、忠良賢哲ノ事蹟(じせき)、国民ノ武勇」などを教えることになっていた。

                 ■□■

 事実、これに従って編集された検定教科書を見ると、神話についての記述はなく、神武天皇による建国から書きはじめて、その神武天皇が天皇陛下の御祖先だと説明している。

 この記述が変化するのは明治三十二年頃からで、神武天皇の前に、「天照大神」「三種の神器」「天孫降臨」などの項目が追加され、その中で天照大神が天皇陛下の遠い御祖先で、神武天皇は人皇第一代であるとの説明がされるようになった。

 このような記述の変化は、日清戦争以降に忠君愛国教育の徹底を求めるようになった帝国議会の議論を受け入れてのことだった。

そして、この記述形式が明治三十七年以降の国定教科書に継承されていったのだという(海後宗臣『歴史教育の歴史』)。

 つまり、井上毅が最初に教育の基礎として意図した君臣協力の歴史(君臣徳義論)と、日清戦争後の帝国議会の意向を反映した日本神話の重視(天皇神孫論)-絶対化された現人神ではない-とが合体して、明治三十七年の国定教科書の基本が形作られたのである。



 ところで、教育勅語が出された当時、社会一般でこの勅語はどのように解釈されていたのだろうか。そう考えて、当時、出版された解説書類を調べてみると、その多様さに驚かされる。

 例えば、神道思想に基づいて、天皇ばかりでなく、国民もまた日本の神々の子孫であると書いているものがある(内藤耻叟(ちそう)『勅語私解』、今泉定助『教育勅語衍義(えんぎ)』)。


あるいは、仏教思想から解釈して、現世の尊卑上下貧富の差はすべて過去の因縁によるのだから、君主には忠義を尽くさなければならないと説いているものもある(太田教尊『勅語と仏教』)。

 さらに、キリスト教思想から見て、この世のすべては全知全能の神の思(おぼ)し召しによるのだから、日本で皇室が続いているのも神のご意志であり、したがって、キリスト教徒はすべからく尊皇を実践しなければならないと書いているものもあった(石川喜三郎『勅語正教解』)。



 つまり、民間においては、天皇を敬びさえすればその根拠はどのようなものでも良いというのが、当時の思潮だったのである。

(皇學館大学教授 新田均)




(200/02/02)

【新地球日本史】(173)明治中期から第二次大戦まで


現人神の真実(3)

多様な天皇論の中で出た「現人神」

大正十年に内務省神社局が刊行した『国体論史』という書物がある。江戸時代から大正時代までのさまざまな国体論の要旨をまとめたもので、ここに盛られている議論を追っていくと、日清戦争以後から明治末年にかけて、日本国民は全て家族・親戚であり、皇室はその本家のようなものであるから尊ばなければならないとする「家族国家論」が次第に有力化し、大正時代に入ると、ついに、それが国体論の主流になっていったことが読みとれる。

例えば、天皇主権論や「民法出でて忠孝亡(ほろ)ぶ」と題する論文で有名な憲法学者の穂積八束(やつか)が明治三十年に刊行した『国民教育・愛国心』には「吾人の祖先は即ち畏(かしこ)くも我が天祖なり。天祖は国民の始祖にして皇室は国民の宗家(そうけ)なり」とある。

そして、この家族国家論の主流化を決定づけたのが、哲学者の井上哲次郎が明治四十五年に刊行した『国民道徳概論』で、この本は中等学校教員検定試験の必須参考書とみなされ、全国の師範学校や高等学校の修身倫理科の教科書としても使用されるようになっていった。

この流れを受けて、大正十年改訂の小学校教科書に「我が国は皇室を中心として、全国が一つの大きな家族のやうになつて栄えて来ました」(修身)という記述が登場することになったのである。

他方で、この時代には、教育勅語発布当時よりも、さらに多様な天皇論が展開されるようになっていた。

憲法学者の美濃部達吉は君主を神もしくは神の子孫と考える思想や家族国家論は、自らの天皇機関説とは相いれないと主張していたし(『日本憲法・第一巻』)、キリスト者の小崎弘道(ひろみち)は『古事記』の冒頭に出現する神々は「太古人智蒙昧(もうまい)なる時代の信仰であつて、つまり天地宇宙の主宰たる独一の神を指す者であつて、決して他に神あるを云ふのではない」(『国家と宗教』)などと書いていた。

実は、このような自由で多様な天皇論を許す雰囲気の中から、「現人神」論も「八紘一宇」論も登場してきたのである。


★絶対神的「現人神」の提唱者は、宗教学者の加藤玄智(げんち)という人物で、彼は日露戦争以降に神道を研究する外国人が現れてきたのに刺激されて神道研究をはじめ、《外国人研究者には日本の真相が十分に分からないために、誤解がひろがる恐れがあり、したがって日本人自身が有りのままの日本を外国にも伝える必要がある》との動機から、明治四十五年に『我が国体思想の本義』を刊行した。

この本において加藤は、天皇は「神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身である」「明らかにバイブルにおける神の位置を日本では天皇陛下が取り給ふて居つた」と主張しはじめた。


★それでは、「八紘一宇」の提唱者は誰だったのか。それは、田中智学(ちがく)という在家の日蓮主義者だった。

彼は日露戦争のころから、神武天皇の「東征の詔(みことのり)」には《世界を道義的に統一するという大理想》が込められていると主張しはじめ、大正時代に入ると、この理想を表現する言葉として、神武天皇の「橿原宮造営の詔」の中にある「掩八紘而為宇」を「八紘一宇」という四文字熟語に置き換えて用い始めた。


こうして、「現人神」「八紘一宇」の登場となったわけだが、両者がすぐに有力化したわけではない。それは冒頭で紹介した『国体論史』の末尾解説を見れば分かる。

そこでは結論として「神話は其国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、之を根拠として我国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、之等の『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられ居る国民は或は之を信ずる事を得ざるが故なり」と書いている。

進化論を教えられている国民に神話をそのまま信じさせることなどできないというのである。

こんな言葉が内務省神社局の発行した書物に掲載されて問題にすらならない。

そこに、大正十年当時の時代の空気が如実に見て取れる。

 (皇學館大学教授 新田均)




(2005/02/03)

【新地球日本史】(174)明治中期から第二次大戦まで

現人神の真実(4)

共産主義の脅威と「総力戦思想」

第一次大戦の結果、ロシアでは帝政が倒れて社会主義国が出現(大正六年十一月)し、ドイツとオーストリア・ハンガリーにおいても、帝政が崩壊して共和国に移行した(大正七年十一月)。

日本の指導者たちは、こうした欧州の政治思想状況に不安を抱きつつも、この時はまだ、「特殊の沿革、特殊の歴史を有つて居る我国であるから、此国民思想には左(さ)まで意とすべきではない」(『資料・臨時教育会議』)などと高をくくっていた。

ところが、一斉検挙にあって崩壊した第一次共産党が、コミンテルンの指令と資金援助とによって大正十五年十二月に再結成され、昭和三年二月の第一回普通選挙の時には、天皇制打倒を掲げて、大衆の前に公然と姿を現した

そして、この普通選挙の直後に行われた一斉の摘発(「三・一五事件」)では、多数の学生(東京帝大以下三十二校百四十八人)が検挙され、国家の将来を担うべきエリート層に対する共産主義思想の浸透が白日の下にさらされた

この事件は、政府指導者に大きな衝撃を与え、国家の根幹を揺るがす「思想国難」であると認識されるようになった。


この学生の思想問題に対処するために、昭和六年七月、文部省は「学生思想問題調査委員会」を発足させた。

河合栄治郎東大教授らが中心となったこの委員会が、翌年五月に発表した答申では、「我が国体、国民精神の原理を闡明(せんめい)し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くること」が提案された。

これを受けて、文部省内に事務局を置く「国民精神文化研究所」が発足した。


こうして、「国体」に、共産主義に対抗できるだけの強力なイデオロギーとしての役割が期待される時代がやってきた。

多様な国体論の許容などという鷹揚(おうよう)なことは、もはや言っていられなくなってしまったのである。


もう一つ、第一次世界大戦が生み出したものに「総力戦思想」がある。

それは、《これからの戦争は、軍隊が強いだけではダメで、政治、経済、思想など国家の保有するあらゆる能力を戦争に向けて全面的に、そして効率的に動員しなければならない》との考えである。

この思想は瞬く間に日本軍に浸透し、「世論ニ惑(まど)ハズ政治ニ拘(かかわ)ラズ」と説く「軍人勅諭」(明治十五年)の枠内に軍人がとどまることを困難にしていった。

政治ばかりでなく、思想や教育についても、軍は無関心ではいられなくなったのである。

しかし、大正時代後半は、反軍・軍縮の風潮が支配的な時代でもあったため、総力戦思想を前面に押し立てて、思想や教育の分野に軍部が露骨に介入していくことは困難だった。

そこで、陸軍大臣宇垣一成(うがき・かずしげ)は、四個師団を廃止して軍縮の要請に応える代わりに、整理によって浮いた予算で陸軍の近代化・合理化を推進し、さらに、大正14年4月には「陸軍現役将校学校配属令」を制定して、中学以上の学校に現役将校を配置して、生徒に軍事教練を施す体制を整えた

いざという時に備えての下級将校の大量養成、軍縮による余剰将校の失業救済、国民教育への介入がその狙いだったといわれる(久保義三『昭和教育史・上』)。


大正時代後半の軍人に対する著しい軽侮は、昭和六年の満州事変などを境に逆転して、軍部に対する称賛と期待の声が世を覆う

背景には、政党政治の腐敗と昭和恐慌・世界恐慌あり

この世情反転の中で、配属将校は軍部が教育をコントロールするための強力な梃子(てこ)となっていった。


軍事教練中の学生が靖国神社への参拝を拒否して問題となった昭和七年の上智大学事件。武道場に生徒が設けた神棚を校長が撤去して問題化した昭和十年の同志社大学神棚事件

さらに、同志社大学の綱領から「キリスト教をもって徳育の基本とす」との文言を削除させ、「敬神尊王愛国愛人ヲ基調トシ」との文言を書き込ませた昭和十二年の同志社教育綱領事件などがそれである。

(皇學館大学教授 新田均)




(2002/02/04)

【新地球日本史】(175)明治中期から第二次大戦まで

現人神の真実(5)

政府刊行物に初めて「現人神」登場

共産主義の脅威に誘発された文部省の国体イデオロギー創出・思想統制の意図、同じく内務省の思想弾圧の意図、さらに総力戦思想による軍部の教育介入の意図が合体して誕生したのが、昭和八年四月に斎藤実(まこと)内閣が設置した「思想対策協議委員会」だった。

この委員会が公表した「教育・宗教に関する具体的方策案」は、

(1)国家的指導原理とする日本精神を闡明(せんめい)し、これを普及徹底せしむること、
(2)不穏思想の人的物的取締を厳にして、不穏思想に対する防禦および鎮圧を完くすべき思想取締方策を立てること、
(3)社会政策によって不穏思想の基盤をなくすこと、

の三つだった。


これに基づいて、同年九月十五日に「思想対策三大綱」が閣議決定された。

                 ■□■

このようにして高まっていった「日本精神の闡明」「思想統制」の要求を白熱化させ、政府自身が国体論の中身を公定しなければならなくなるという事態をもたらしたのが、天皇は国家の一機関であって主権者ではないとする美濃部達吉の憲法学説が指弾を受けた、昭和十年の「天皇機関説事件」だった。

これが帝国議会で問題化しはじめた当初、岡田啓介内閣は「天皇機関説」には同意できないとしながらも、その取り扱いについては「学者の議論に委して置くことが相当」(松田源治文部大臣)、「学者に委ねるより外仕方がない」(岡田首相)との態度をとり、学説の当否や中身を政府が決定することには消極的だった。

ところが、次第に、議員や軍部、さらに一部の過激論者の追及におされて、文部大臣による「国体明徴(めいちょう)の訓令」、内務大臣による美濃部の主要著書の発禁処分、内閣による二度の「国体明徴声明」などがなし崩し的に実施されていった。

こうして、政府は、明徴にすべき「国体」の内容を明らかにすることを迫られることになってしまった。

昭和十一年度の文部省予算に「国体ノ本義ニ関スル書冊編纂(へんさん)」費が計上され、文部省思想局において『国体の本義』の編纂が開始されたのは、そのような事情からだった。

この編纂過程で、文部省が用意した草案の中に「現人神」という項目が登場し、編纂委員の間からも「天皇が現人神たらせ給うことを明にし之を納得せしめ信奉せしむるに非ざれば『国体の本義』は無益と思う」(久保義三『昭和教育史・上』)といった発言があって、ついに「現人神」が「国体」の内実を示す言葉として、政府編纂物の中に登場することになったのである。

これが、昭和十六年の小学校教科書につながっていったことは、今さら言うまでもないだろう。

                 ■□■

ただし、昭和十二年三月に刊行された『国体の本義』には、まだ「八紘一宇」という言葉は登場していない。

「八紘一宇」が政府の公開文書に登場するのは、昭和十五年八月一日に第二次近衛内閣が公表した「基本国策要綱」がはじめてである。

この背景には、アジアに日本が主導して「東亜新秩序」を形成するというブロック勢力圏の構想があった。

昭和九年十二月、当時貴族院議長であった近衛文麿は『月刊維新』という雑誌に発表した「国家主義の再現」という論文の中で次のように書いている。

「日本も亦(また)、欧洲大戦後に世界を風靡(ふうび)した国際主義、協調主義に没頭して、パリ会議以来、彼等〔欧米諸国〕の云ふところに従ひ、領土の現状維持は承認して来たのであるが、併しそれは、人間の移住、貨物の輸出入に関しては自由な世界の来ることを条件としてゞあつた。

然るに事実に於ては、彼等は本国に於ても、また有色人種の世界たるべき東洋の領土に於ても、日本人は固より、有色人種は総て排斥し、貿易の如きもまた、彼等の門戸は盡(ことごと)く閉して、極東に対してのみ、機会均等、門戸開放を切(しき)りに要求してゐるのである。

これは彼等に取つて、その防衛上、当然と云へば当然なことであるが、併し、今や非常な勢ひを以て勃興(ぼっこう)しつゝある日本に取つては、洵(まこと)に迷惑なことであり、困つたことなのである」


(皇學館大学教授 新田均)




(2005/02/05)

【新地球日本史】(176)明治中期から第二次大戦まで

現人神の真実(6)

昭和の危機克服から生まれた観念

昭和4(1929)年に世界恐慌が発生すると、欧米各国は自らの生き残りのために、自由貿易を放棄してブロック経済圏を設定しはじめた。

広大な領土を有するアメリカは、昭和5(1930)年六月にホーリイ・スムート法という高関税法を制定して自国の中に閉じこもり、地球の約四分の一を支配していたイギリスは、昭和7(1932)年、カナダのオタワに英帝国のメンバーを召集して会議を開き特恵関税同盟によるブロック経済化を協定した。

オタワ会議

このような国際情勢に直面して、日本国内でも自給自足のための経済圏を東洋に持たなければならないとする意見が台頭してきた(渡部昇一『日本史から見た日本人・昭和編』)。

近衛文麿は、少壮の内務官僚であった時代から、英米本位の世界秩序の現状維持には批判的であったが、国内外の状況の変化が、彼をして自らの抱負を日本の首相という立場で内外に表明する機会を提供することになった。

その第一弾が、支那事変の収拾を目指して、第一次近衛内閣が発した、昭和13(1938)年十一月の「東亜新秩序建設声明」だった。

「帝国の冀望(きぼう)する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、今次征戦究極の目的亦此に存す。この新秩序の建設は、日満支三国相携(たずさ)え、政治、経済、文化等各般に亘(わた)り、互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防衛の達成、新文化の創造、経済統合の実現を期するにあり」

つまり、東亜におけるブロック勢力圏の建設こそ支那事変の戦争目的であると公言したわけである。

このブロック圏構想は、第二次近衛内閣においてさらに拡大されて「東亜にある英仏蘭葡の植民地を新秩序に包含する」とされた。

この方針を明らかにしたのが昭和15(1940)年八月の「基本国策要綱」で、ここにはじめて「八紘一宇」の語が登場し、近衛内閣の外交方針は「建国の大精神」に由来しているのだと説明された。

「皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国(ちょうこく)の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先ず皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする、大東亜の新秩序を建設するにあり」

この「大東亜の新秩序」建設のために独伊と提携する、という外交政策を「肇国の大精神」を根拠として国民に説明するために編纂(へんさん)されたのが、昭和16(1941)年七月に文部省教学局から刊行された書物『臣民の道』だった。

そこでは「世界新秩序の建設」という題目が第一章を飾り、「日本の世界史的使命」は「万邦協和し、万民各々(おのおの)その所を得るに至るべき道義的世界の確立」にあるとされた。すなわち

「政治的には欧米の東洋侵略によつて植民地化せられた大東亜共栄圏内の諸地方を助けて、彼等の支配より脱却せしめ、経済的には欧米の搾取を根絶して、共存共栄の円滑なる自給自足経済制を確立し、文化的には欧米文化への追従を改めて東洋文化を興隆し、正しき世界文化の創造に貢献」する。そして、

八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)となす我が肇国の精神こそ、世界の新秩序の基本理念」である、というのである。


要するに、ブロック勢力圏構想が、「八紘一宇」を媒介として、日本建国の理念に結びつけられ、基礎づけられたのである。


昭和三十年に書いた文章の中で竹山道雄はこんなふうに言っている。

「〔昭和の〕天皇崇拝は『理想的な天皇はわが上代にかくおわしたはずである』と幻視されたものだった。

あのような性格の天皇は歴史的事実ではなく、明治以来につくられたものでもなかった。(中略)

水戸学以来…という起源による説明では、あの動きを解明することができるとは思われない」(『昭和の精神史』)。

「現人神」も「八紘一宇」も、昭和の危機を克服しようとする苦闘が浮上させた観念だった。その意味では、まさしく「昭和の精神」だったのであり、これを明治以来と捉えるのは「幻想」にすぎない。

これに気づかない人々は、いまだに昭和の精神に翻弄(ほんろう)されている、というほかない。

(皇學館大学教授 新田均)



ま、平たく、「戦時体制」の特殊イデオロギーってなことでw






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