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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

新地球日本史(206~210)


【新地球日本史】(206)明治中期から第二次大戦まで

翻弄される最後の外交(1)

経済制裁招き選択迫られた日本

 両次大戦の戦間期の世界貿易は、一九二九(昭和四)年の世界経済恐慌の発生後、急速な縮小過程に入った。そのスイッチを入れたのが、米国による一九三〇年のスムート・ホーレイ法の制定であり、自由貿易に引導を渡したのが英連邦諸国のオタワ会議による一九三二年の帝国特恵協定の締結であった。この後世界経済は急速にブロック経済化していった。

 世界恐慌前の一九二六年と比べて一九三七年の日本の総輸出に占める対米輸出の比率は四二%から二〇%に、対中(関東州、満州を除く)輸出は二〇%から五%に急落した。欧米諸国は日本を「為替ダンピング」「社会(低賃金)ダンピング」を行う「不公正な国」だと非難し、中国は日貨排斥のボイコット運動を展開した。この間日本は関東州向け輸出を四%から一二%に、満州向け輸出を二・五%(推計値)から七%に拡大したが、前途は八方塞(ふさ)がりであった(大蔵省『日本外国貿易月表』)。

 その後日中戦争がその戦火を拡大し、日本が独伊との三国同盟に加わるに及んで、日本は世界の輸出市場から締め出されるだけでなく、いわゆるABCD包囲陣による対日禁輸網によって石油、屑(くず)鉄、ゴム、錫(すず)、ボーキサイト、ニッケルなどの戦略物資の入手の道を封ぜられた。

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 日本の国論において北進論を制して南進論が台頭してきたのは、この理由による。そのなかで「武力ノ行使ヲ辞セズ」との文言が初めて語られるようになったのは、一九四一年二月ころから策定作業が始まった「対南方施策要綱」のなかにおいてである。

 そこで南方進出は平和的に行うが、「自存自衛上忍ビ得ザルニ至リタル場合ニハ武力ノ行使ヲ辞セズ」とされた。「自存自衛」には、今日で言う「自衛権」の思いが込められていたことを否定しきれない。当時の日本人の意識において、対米英蘭戦争が欲せざる戦争であり、回避したい戦争であったことは、議論の余地がない。

 それは米英等諸国の「経済制裁」によって扼殺(やくさつ)されつつある日本の悲鳴であった。ただし、なぜ「経済制裁」を招いたかとなれば、そこには日本の対中戦争という深い泥沼があっただけに、日本は根源的な選択を問われていたのである。

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 日米開戦直前の米国で発行された『フォーリン・アフェアーズ』誌一九四一年十月号は「日本に選択させよ」という興味ある論文を掲載している。論者はユージン・スティリーという評論家である。その説くところは大局を把握し、その後の事態の推移をよく予見している。

 スティリーは「率直に言って、日本はいまや追いつめられ、不具合な片足になっている。米国は、大英帝国、中国、東インドのオランダ政府、そしてシベリアのソ連政府と歩調を合わせて、その残った足をぶった切ることもできるし、また日本が最少の損害で面子(めんつ)を保ちながら、公平な条件で、この危なっかしい立場から引き下がるのを助けることもできる。われわれは第一案実施の用意を整えたうえで、第二案を提案すべきである。そのあとは日本が選択する番である」と言う。

 その第二案とは、日本軍の中国大陸、仏印からの撤退を条件に、日本に中国市場、アジア植民地市場、米国市場への進出を認め、原材料の入手を保証すべしとする提案であって、「このような日本は対独戦争における補助的な『民主主義の兵器庫』になるだろう」と結論している。

 たしかにこの時期の日本が直面していた課題の困難にして、複雑であったことは、民族の歴史において前例を見ないものである。蒙古襲来と日露戦争の二つの国難を超えるほどの国難であった。

 孫子は「兵は国の大事、死生の道、存亡の道、察せざる可からざるなり」と述べ、毛沢東は「国の運命を賭ける戦略的決戦は断じて行わない」と述べたが、この時期の日本の指導者は、最終的に真珠湾攻撃への道を選択した。

 日本はなぜ、どこで間違えたのか。その外交の最後の軌跡を検証してみたい。

 (日本国際フォーラム理事長・青山学院大学教授 伊藤憲一)



【新地球日本史】(210)明治中期から第二次大戦まで

翻弄される最後の外交(5)

見抜けなかったハル・ノートの罠

 「最後の外交」は、翻弄(ほんろう)される外交であった。米英蘭中ソ、そしてドイツからさえも翻弄された外交であった。なぜ翻弄されたのか。日本に戦略がなかったからである。なぜなかったのか。情報がなかったからである。なぜ情報がなかったのか。情報に関心がなかったからである。そうとしか言いようのない「最後の外交」の実態であった。

 ハル・ノートへの対応を議論した十二月一日の御前会議は、これを米国の最後通牒(つうちょう)であると断じたあと、「仮ニ之ヲ受諾センカ、帝国ノ国際的地位ハ満州事変以前ヨリモ更ニ低下シ、我ガ存立モ亦危殆ニ陥ラザルヲ得ヌモノト認メラレル」(東郷茂徳外相の報告)との結論に達し、満場一致開戦を決定した。

 しかし、実はハル・ノートは最後通牒ではなかった。最後通牒というのは、敵に最終条件を示し、それに不同意なら開戦するぞと警告を発する文書であるが、ハル・ノートは最終条件こそ示したものの、不同意ならどうするということをまったく示さなかったからである。これは米国として示すことのできない事情があったからである。日本の悲劇は、これを見抜く賢者が一人もいなかったことである。

 米国憲法によれば、宣戦布告の権限は大統領ではなく、議会にあったが、当時の議会は依然として反戦中立派が多数を占め、国民世論もまたこれを支持していたから、米国として日本に「不同意なら開戦するぞ」と言えない弱みがあったのである。ハル・ノート手交前日の陸海軍長官および参謀総長、軍令部長との会議(いわゆる「戦争会議」)においてルーズヴェルトは、「米国に過大な危険を招かぬように配慮しつつ、日本が第一弾を発射せざるを得ないように仕向けることが、われわれの課題だ」と語っている(拙著『大国と戦略』)。

 日本はルーズヴェルトの仕掛けた罠(わな)に引っかかったのである。しかし、米国の内情について情報があれば、その罠を外す手はまだ残されていた。それは対米工作の対象をルーズヴェルトの頭越しに米議会、米世論に設定し、まず第一に極秘文書ハル・ノートの全文を公表し、ついで日本軍の仏印、中国よりの段階的撤退の意図を一方的に宣言するという手である。

 ハル・ノートの存在を知らずに対日宣戦布告に賛成したハミルトン・フィッシュ米下院議員は、後日、その過酷な内容を知って、ルーズヴェルトの戦争政策の徹底的な批判者となった(Hamilton Fish“Tragic Deception”)。

 孫子は「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先づ戦いて而る後に勝ちを求む」と言ったが、日本の対米開戦はまさに「敗兵」の戦略であった。なぜ日本が勝算なきまま対米開戦を決定したかと言えば、それはドイツの最終的勝利を想定したからであった。六月二十二日に対ソ戦争を発動したヒトラーは大島浩駐独大使に「六週間位で終わるから、日本の援助は不要」と、強気の見通しを述べたが、日本指導部はこのヒトラーの言を妄信するのみで、「独ソ戦線異常あり」の情報をいっさい無視しつづけた。対米開戦を決した御前会議でも、独ソ戦争の推移の見通しはまったく議論されていない。

 しかし、まさにこの十二月の第一週において、独ソはその攻守の所を変えつつあった。夏装備だけで侵攻したドイツ軍は、冬将軍の到来の前で苦境に立っていた。南方軍集団のルントシュテット元帥が罷免され、陸軍総司令官のブラウヒッチュ元帥が辞職を申し出ていた。翌週には中央軍集団のボック元帥と北方軍集団のレープ元帥がともに辞任した。いずれも攻撃中止あるいは一時撤退と冬季布陣の設営を希望して、ヒトラーから拒否された後の人事であった。

 この同じ十二月第一週に南雲忠一中将の率いる機動部隊は北太平洋の濃霧をついて真珠湾をめざして東航しつつあった。そして「新高山上レ一二〇八」が打電された。このとき独ソ最前線の戦況が日本にとってどうでもよいことであったはずはない。

 (日本国際フォーラム理事長・青山学院大学教授 伊藤憲一)




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