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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

還暦日本

(2005/01/03)

【ニッポンの還暦】人・世相・風景(1)

集団結婚 昭和39年 時代は温かくて

 日本は終戦から六十年の節目を迎えた。人間になぞらえていえば「還暦」の年だ。焼け跡からの復興、高度成長、バブル崩壊…。「戦後日本」には、その時々の世相や風景、それぞれの人の歩みがあった。平成十七年の年頭。年配の人には懐かしさを、これからのニッポンを支える平成生まれの子供たちには、私たちの国には昔、こんな時代があったんだ、と知っておいてほしい。昔を知ることは、現在を考え未来への羅針盤にもなるだろう。そんな願いを込めた。

 元旦。大阪市平野区で電器店を営む迫田和弘さん(64)宅に、奈良県で働く長男の昌孝さん(37)夫婦が帰ってきた。

 妻のチエ子さん(63)が作ったお節料理と雑煮を長女の有紀子さん(33)とともにいただく。その後は神社に初詣で。

 「家族は一番大切な宝」。全員が元気でそろい、今年もごく普通に正月を迎えることができたことを、迫田さん夫妻は幸せに感じる。

               ◇

 アジアで初のオリンピック「東京五輪」が行われ、東海道新幹線が開通した昭和三十九年。迫田さん夫妻は、この年の二月十三日、大阪・中之島の中央公会堂で初めて行われた「勤労青年集団結婚式」で結ばれた。

 日本経済が長期の発展を続けた「高度経済成長」(昭和三十-四十八年)の真っただ中。都会の町工場や商店街では、人手が足りず、若者が地方から出てきた。

 集団結婚式は、地方出身でまじめに働く若者のために無料の結婚式をと、中小企業経営者の妻らが主催。当時の大阪市長らが仲人役を務めた。

 岡山県出身の和弘さんは中学卒業後、平野区内の米穀店に住み込みで働いていた。月給は一万三千八百円。配達先の衣料品店に勤務していた、滋賀県出身のチエ子さんを見初めた。

 当時の男性の平均初婚年齢は現在より二歳ほど若い二十七歳、女性は三歳ほど若い二十四歳。和弘さん二十三歳、チエ子さん二十二歳と、世間では早い結婚だった。

 他の十九組三十八人のカップルとともに約四百五十人の参列者の前で「三三九度」を交わした。花嫁全員が白無垢(むく)に色打ち掛け。「あの日は花嫁さんを間違えないようにと緊張した」と、和弘さんは苦笑いする。

 「みんな貧乏だった。けれど、こうした若者のために協力してくれる人がいた。そういう温かい時代だった」。集団結婚式を企画したひとり、松本千津子さん(83)は、懐かしそうに話す。

 迫田さん夫妻は結婚を機に二万五千円に上がった給料で、二畳と四畳半の二間、月五千五百円のアパートを借りて新婚生活をスタート。そして「商売を始める」という夢を二人で追い始めた。

 和弘さんは電器店の見習いを経て、四十一年に独立。高度経済成長は国民の消費意欲を高め、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機の“三種の神器”が飛ぶように売れた。

 「贅沢(ぜいたく)したいとは思わなかった。二人の子供を育てながら、夫と二人三脚でがんばってきた」と、チエ子さんは振り返る。

               ◇

 戦後六十年。ライフスタイルの変化に景気の浮き沈みも加わり、人生の門出である結婚式と、その後に営む家族のかたちは変わった。

 昭和二、三十年代は、自宅や地区の集会所などで新郎新婦双方の親族を前に三三九度を交わす、ささやかな結婚式が主流だった。四十年代の主流は神社での神前結婚式。六十年代は、教会結婚式が流行する。

 「婚礼事典」の著書があるブライダルアドバイザーの綾部良一さんは「豊かになるにつれ結婚式に厳格さを求め、神前式やチャペル式が流行していった」。バブルのピーク時には億円単位の教会結婚式が開かれ、神社にチャペルができる“ミスマッチ”も起きた。景気低迷とともに人前結婚式が増え、ここ数年は“ジミ婚”がはやりだ。

 国勢調査によると、一世帯あたりの人数は昭和三十年には四・九七人だったが、四十年には四・〇五人に減り、平成十二年には二・七一人。女性一人が一生に産む子供の数値「合計特殊出生率」も四・五四(昭和二十二年)から下がり続け、平成十五年には一・二九にまでダウンした。

 出生率からは「子供は一人で精いっぱい」との女性の訴えが聞こえる。子供を持たずペットをわが子のように育てる夫婦も珍しくはない。その上、晩婚・非婚も進む。

 集団結婚式で、人生の新たなスタートラインに立ち、貧しさを克服してきた和弘さんは「家族がいるから頑張れた。家族と一緒に夢を持ちたかった」と、家族の素晴らしさを静かに語るが、東京学芸大の山田昌弘教授(家族社会学)は、結婚や家族に抱く若者の気持ちや、平成十七年の雰囲気をこう解説する。

 「昔の若者は豊かな生活を築くという希望を持っていた。今の若者も結婚や家族へのあこがれはあるが、豊かであるため、求める水準が高く、実現が難しくなっている。そういう意味では、昔の若者の方が幸せだったかもしれません」(石毛紀行)

               ◇

 ■結婚と家族に関する歩み■

 昭和22年 名古屋・大阪に民間の結婚式場が誕生

   23年 第1次婚姻ブーム、ピークに

   34年 天皇、皇后両陛下がご結婚

   41年 丙午(ひのえうま)で出産数が136万人に激減

   47年 第2次婚姻ブーム、ピーク

   51年 日本初の五つ子ちゃん誕生

   55年 歌手の山口百恵さんが俳優の三浦友和さんと結婚し、芸能界を引退

   59年 平均寿命、男女とも世界一に

   62年 女性の間で結婚相手の条件に身長・学歴・年収の3高がブーム

 平成 5年 皇太子さまと雅子さまがご結婚

    7年 世帯平均人員が3人を切り2.88人に

    9年 歌手の安室奈美恵さんが、ダンサーのSAMさんと電撃結婚

   11年 SAMさんを起用した「育児をしない男を、父とは呼ばない」というコピーの厚生省ポスターが話題に

   16年 30歳以上、子供なし、独身の女性を「負け犬」とした「負け犬の遠吠え」(酒井順子著)が話題に







【ニッポンの還暦】人・世相・風景(2)(2005/01/04)

金の卵 昭和35年

希望を捨てない

 「おはよう」。生徒数五百五十一人。横浜市立六ツ川中学の校長、石川勇喜さん(60)は校門で、登校してくる子供たち一人ひとりに声をかけるのを日課としている。

 新潟県の山村、上川村に八人兄弟の末っ子で生まれた。わずかな現金収入と米に頼る暮らし。貧しかった。家計を考えると高校進学はあきらめざるを得なかった。

 生徒数十八人の中学校の卒業式。この時の恩師の言葉が今も胸に刻まれている。「一度描いた夢や希望はあきらめるな。今高校に行けなくてもいつか必ずチャンスが訪れる。それをしっかりつかめよ」

 十五歳。石川さんのなかで夢と希望が芽生えた。それは、先生になること。「高校に進学できないという思いを先生が心に留めてくれていたことが心底うれしかった。『こんな先生になれたらいいなあ』と考えた」

        ■□■

 一年間の職業訓練を経て昭和三十五年、集団就職で、横浜市の工作機械の組立工場で働いた。

 「空気はよどみ、石油のにおいがほのかに漂う。まだ十六歳でしょう。一人になると『ここに一生いるんだなあ』と寂しさが込み上げてくるんです。新潟に帰りたくて、上野駅に何度も一人で行きましたね」

 昭和三十年の高校進学率は50%。三十四年から始まった岩戸景気の活況は続き、中学を出て就職する子供たちは『金の卵』ともてはやされた。青森発上野行きの全国初の集団就職列車も二十九年から走っていた。

 三十五年秋。石川さんは定時制高校の存在を知り、翌年から通った。

 定時制は当時、集団就職した若者の貴重な勉学の場だった。石川さんが卒業した昭和四十年には都内でも、五万人を超える生徒が百二十一の定時制で学んだ。

 「当時の定時制にはいい仲間がたくさんいて夢の語らいの場でした。よく『定時制? 大変でしたね』といわれますが、活気あふれる学校生活は心底楽しかったんです」

 ♪上野は俺らの心の駅だ くじけちゃならない 人生が あの日ここから始まった

 井沢八郎さんの哀感漂う『ああ上野駅』が都会で働く「金の卵」たちの応援歌としてヒットしたのは、石川さんの高校時代のことだ。

 夢中で勉強した。先生になるため、大学に進みたかったからだ。「大学に入るには、自分の貯金と比べ三十三万円、どうしても足りなかった」。意を決し、帰省したが、親を前にすると切り出せなかった。

 母はそんな息子を察し、帰り際にそっと封筒をくれた。なかに預金通帳と印鑑が入っていた。

 涙が止まらなかった。

        ■□■

 四十五年四月。夢をかなえ、横浜市内の中学校の教壇に初めて立った。以来、中学時代の恩師を見習って、親身に生徒に接するよう心がけた。

 五十年代に入って、小・中学生の自殺が目立つようになり、学校の荒廃が各地で表面化。「偏差値」「乱塾」「おちこぼれ」「いじめ」といった問題が論議を呼ぶ。

 石川さんもその後、「荒れた学校」に赴任した。寝食を忘れ、問題のある生徒に粘り強く声を掛けた。

 悪態をついていた生徒が別れ際に、「ありがとう」と感謝の言葉を漏らした。ふてくされながらも「わかったよ」と口にし始めた。そして、自分を語り始めた…。微妙な変化の兆しには、丹念に耳を傾けた。

 卒業式では、こうした生徒たちが登壇し、「先生たちにお礼が言いたい。見捨てないでくれてありがとう!」と言って巣立っていった。

 「大変なことも多かったけれど報われた瞬間だった。教壇での思い出は尽きませんよ」

 平成十二年から校長職を務めるが、子供たちをめぐる問題は尽きない。最近は、定職に就かない「フリーター」や進学も就職もしない無業者「ニート」の急増など、「無気力な若者が増え、夢や希望をどう持たせるか」といった問題が深刻になっている。

 先生になって三十四年。三月には定年となり、教員生活にもピリオドを打つときがきた。

 「夢や希望はあきらめるな。そして、目的意識を持つことと、自分を大事にして生きることの大切さを説き続けたい。自分を大切にしなければ、他人を思いやることなんて、できないのだから」

 退職まであと三カ月。残された日々は少ない。自分を鼓舞し続けてくれた中学の恩師の言葉を、子供たちに機会あるごとに伝えたいと、考えている。(安藤慶太)

               ◇

    ■就職と仕事に関する歩み■

  昭和29年 集団就職列車が走り始める。国鉄の初乗り運賃は10円。サラリーマンの平均収入月2万8283円

    37年 東京の人口1000万突破。就職戦線は企業が早期に雇用を確保しようとする「青田買い」が問題に

    44年 戦後の第1次ベビーブームで生まれた「団塊の世代」が企業戦士に。「モーレツ」が流行語に

    50年 石油ショック後の不況で、就職内定者に取り消しや自宅待機続出

 52~53年 出口が見えない「トンネル不況」で企業は減量経営。合理化で大した仕事を与えられず、窓際の机に座らされる中高年社員が「窓際族」と呼ばれた

  平成 4年 バブル経済は崩壊したが企業は4年まで大量採用を続け、就職戦線は「広き門」に

     6年 不況が深刻化。「リストラ」が流行語に

    16年 労働白書が定職を持たないフリーターに加えて卒業後、進学も就職もしない無気力な若者を無業者「ニート」と呼ぶ





(2005/01/05)

【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相(3)原宿ドリーム 昭和32年
米流、あこがれて

 

 原宿駅を降りると、目の前は初詣で参拝者数日本一の明治神宮。表参道にはケヤキ並木が続く。商店街振興組合「原宿表参道欅(けやき)会」理事長、山本正旺(まさおう)さん(60)は「終戦直後、米軍が残した影響が、今も街の根底を流れている」という。

 神宮前交差点近くの「原宿ピアザビル」。山本さんが所有するビルだ。「石油販売事業を始めていた父がここに給油所をつくるため、昭和三十二年、十三歳のとき、移り住んできました」

 大空襲で、原宿は焼け野原となった。そんな中、米進駐軍の集合住宅「ワシントンハイツ」が、今の代々木公園に建てられた。金網の向こうには、緑の芝生、大きなアメリカ車、そして、ジーンズ姿の子供たちが暮らしていた。

 「中学のころ、暇さえあれば金網の中を見に行った。小遣いをためて、彼らが来る喫茶店に行き、ナポリアイス(イタリアンジェラート)を食べた。こんなうまいものがあるのかと思った」

                 ■□■

 昭和三十九年の東京五輪で、ワシントンハイツは返還、跡地は選手村として開放された。道路が拡張され、外国人相手のおしゃれな店が増え、若者が集まってきた。

 彼らのあこがれは、三つボタンのジャケットの「アイビー・ルック」で、スポーツカーを乗り回す「原宿族」。大学生の山本さんも「原宿族」の一人だった。

 アパートの一室を借り、そこで服を作って売る“マンションメーカー”も生まれた。コシノジュンコ、三宅一生、山本寛斎といった若い才能が集まった。

 「ワシントンハイツのアメリカの生活にあこがれ、自分たちの手で作りたいという若者が集まってきたのが始まり。新宿、渋谷という二大繁華街の谷間で、家賃も安く、実力次第でのしあがれる“アメリカンドリーム”ならぬ“原宿ドリーム”につながった」

 大阪で「日本万国博覧会」が開かれた四十五年、米国留学から帰国した。あえて「日本」と名付けられた万博は、経済成長を続けるニッポンを世界にアピールする舞台となった。一方で、豊かさの代償として、工場煤煙(ばいえん)や排ガスなどによる「公害」が社会問題となっていた。

 そんな風景に「石油を主力商品としている会社に将来性はない」と、原宿の給油所の閉鎖を思い立つ。

 原宿が発展すると信じ、跡地をビルにしたいと、父親に申し出た。当然反対されたが、なんとか説き伏せ、昭和四十八年に原宿初の大型商業ビルが完成した。それが今の「ピアザビル」だ。

 今でこそ通行人は一日二十万人以上あるが、当時は千二百人。二十八歳の大きな賭けだった。

 だが、時を経ずして原宿は、爆発的な集客力を持つ街に変わる。

 「コム・デ・ギャルソン」「BIGI」といった今では有名なブランドが相次いでショップをオープン。女性誌「anan」などが特集を組んだ。五十三年には、ラフォーレ原宿ができ、若者の“聖地”となった。

 歩行者天国にはラジカセを持って踊りに来る竹の子族やロックンロール族も出現。五十年代後半からは、竹下通りに中高生が集まり、修学旅行のメッカにもなった。

 「原宿は半歩進んだ時代を表してきた。若者が好きな格好をできる“ステージ”のような場所だ」とファッション評論家の大内順子さん。原宿は常に戦後若者文化の発信拠点となってきた。

                 ■□■

 山本さんは平成十一年、商店街振興組合の理事長になると、表参道の原点回帰を訴えた。

 パリのシャンゼリゼ通りからとった組合名「シャンゼリゼ会」を「欅会」に変え、クリスマスのイルミネーションはちょうちんにした。

 「戦後、欧米に追いつき、追い越せというのは自然の流れだったが、もう卒業しないと。日本には誇るべき文化がある。アイデンティティーがなければ、世界から認められない」

 表参道には、ルイ・ヴィトンなど、世界のスーパーブランドも乱立している。「この街には学歴や国籍、性別の差別が一切ない。やる気があれば、のしあがれる。この精神がワシントンハイツの時代から流れている。世界のスーパーブランドを超える日本の若者がでてくればいい」

 還暦を迎えても、ジャケットにスカーフ姿のおしゃれな男性は、少年のとき、金網越しに感じた米国のスピリットだけは、これからも街に根付かせたいと思っている。

 (清家愛)

               ◇

 ■原宿とファッション、若者文化の歩み■

 昭和20年 原宿に米軍駐留地ワシントンハイツ開設

   23年 アロハシャツ、アメリカンルック流行

   31年 石原慎太郎の「太陽の季節」が芥川賞、ジーパン姿の「太陽族」登場

   35年 「ダッコちゃん人形」が大ブーム

   40年 「原宿族」、ミニスカート登場

   41年 ビートルズ来日、グループサウンズが続々出現

   43年 サイケデリック、ヒッピースタイルが流行

   46年 女性ファッション誌「anan」「non-no」を片手に原宿などを歩く「アンノン族」登場

   53年 原宿で原色の服を着て踊る「竹の子族」流行

   58年 原宿を中心にDCブランド流行。全身真っ黒な「カラス族」登場

   60年 「おニャン子クラブ」ブーム

   62年 体のラインを強調したボディコン全盛

 平成 2年 原宿の歩行者天国でバンドブーム

    5年 ブルセラ、コギャル台頭

    8年 安室奈美恵のファッションをまねするアムラーが出現

   10年 原宿の歩行者天国が中止に

   11年 渋谷で日焼けしたメークの「ヤマンバ(ガングロ)・コギャル」が流行




(2005/01/06)

【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相(4)

「おしん」ブーム 昭和58年

心の豊かさ求め

 九日、小林由紀子さん(64)がプロデュースしたドラマ「おばあさんの反乱」が、テレビ朝日系で放映される。介護がテーマ。社会問題を扱うのはライフワークだ。

 昭和五十八年から一年間放送されたNHKの連続テレビ小説「おしん」(橋田寿賀子作)のプロデューサーを務めた。貧乏や辛抱を重ねた“女の一生”を描き、最高視聴率62・9%をはじき出した。「おしんドローム」との言葉が生まれるほど、ブームとなった。

 小四のとき、少女時代の「おしん」を演じた小林綾子さんは現在三十二歳。「家族や人への優しさや思いやり。そういうことが大切と気づかされて、共感につながったのではないでしょうか」と振り返る。

 幼かった綾子さんの目に、小林さんは「クールで優しい女性」と映った。実際、小林さんはブームに冷ややかだった。

 「ミスター臨調の土光敏夫さんの『あのころを忘れてませんか』という発言がきっかけで、辛抱や我慢、貧困に耐えること、そればかりが取り上げられてしまった」

 その後、NHKで女性初の番組制作局長に抜擢(ばってき)されたが、「現場に戻りたい」と平成四年に退局。フリーになった。

                 ■□■

 テレビ放送開始は昭和二十八年。NHKの半年後に日本テレビが開局した。大卒初任給八千円前後の時代に、米製の受像機が十七インチで十五万円と白黒テレビは“高根の花”だった。「街頭テレビ」が映し出したプロレスの力道山に、黒山の人だかりができた。

 小林さん宅に白黒テレビが鎮座したのは三十四年。天皇、皇后両陛下のご結婚中継を見るためだった。お二人は八・八キロを五十分間、華やかにパレードされた。その模様は全国中継され、テレビが大いに売れた。

 当時の放送は一日三回数時間で、沈黙のほうが長かった。「夜の放送を午前中から待っていた。街頭テレビで肩越しに見るのと違い、お茶の間はまさに特等席だった」

 テレビへのあこがれが膨らみ、三十五年、NHKに就職した。

 プロデューサー初作品は四十九年の「四季の家」。女系四世代の同居で起こる介護問題などを扱ったドラマだった。

 前年、中東の石油産出国が原油価格と生産削減を発表。「オイルショック」だ。日本の石油価格は高騰し、商品はすべて値上がりした。テレビも放送時間が短縮された。「商品がなくなる」と思い込んだ主婦のトイレットペーパーなどの買い占め騒動も起きた。

 だれもが、自分の生活にばかり目が向きがちの変動期だった。高齢者は暮らしにくくなり、介護が、いずれ大きな問題になると思った。

 「ドキュメントは今を直接伝えるが、ドラマは物語に置き換える分だけ、間接話法。私は日本や日本人に欠けているものをテーマにする。心を揺さぶり、何かを考えてほしいんです」

                 ■□■ 

 「心の豊かさとは何か」。「おしん」で伝えたかったことだった。

 おしんは奉公先で米が商品になる流通経済を知り、商売で稼ぐことに夢中になった。最後は手塩にかけたスーパーが倒産する。「明治から高度成長までの経済をなぞった物語。日本人は物質的に豊かになったけど、日本の戦後はこれでいいのか。何か忘れていないか、本当に心豊かになったのかを問いたかった」

 東京ディズニーランド開園、女性にワインブーム…。当時、世間は「飽食の時代」を満喫していた。反動から、おしんは「忍耐」や「辛抱」の代名詞のように使われたが、おしんを通じ、日本の足元を見つめ直してほしかったのだという。

 ブームの前にその願いは届かず、作品の良しあしさえも、語られなかったとの思いが強い。

 「戦後六十年」をテーマにするなら「政治」という。田中角栄、福田赳夫らが総理の椅子(いす)を争った昭和四十年代後半…。「良くも悪くも政治家の言葉で、国が動いた時代をとりあげたい」。それに比べて現在は「ポスト小泉」が、なかなか見当たらない。自民党内も野党も迫力不足のせいか、「なれ合い」に感じる。

 テレビを仕事にして四十五年目。バラエティーが幅を利かせる現在のテレビ界を「電波のたれ流し」と憂う。

 「何かを考えてもらおうと、私は時代の半歩先を行くドラマを心掛けてきた。これからも変わりません」

 政治ドラマがかなうなら、やはり視聴者が、日本を見つめ直す契機となるよう、描きたいという。(日野稚子)

                  ◇

【テレビ界と番組の歩み】

昭和28年 NHK、日本テレビが開局、テレビ放送始まる

  30年 ラジオ東京(現TBS)がテレビ放送開始

  33年 東京タワー完成。NHK全国網完成

  34年 東芝が国産初のカラーテレビ製造。フジテレビ、日本教育テレビ(現テレビ朝日)、NHK教育が開局

  35年 カラーテレビ販売開始。各局カラー本放送始める

  36年 NHK朝の連続テレビ小説開始

  37年 テレビ保有台数1000万台超え、普及率48.5%に

  38年 NHKがケネディ暗殺を初の衛星中継

  39年 東京12チャンネル(現テレビ東京)開局

  44年 TBS「8時だョ!全員集合」(60年終了)、「水戸黄門」(10日から第34部放送予定)開始

  48年 オイルショックで深夜放送自粛

  56年 フジ「北の国から」(平成14年・第8弾スペシャルで終了)「オレたちひょうきん族」(平成元年終了)開始

  58年 NHKで「おしん」始まる

昭和64年-平成元年

      昭和天皇崩御と大喪の礼で民放各社CM抜き特番

  15年 三大都市圏で地上デジタル放送開始




(2005/01/09)

【ニッポンの還暦】戦後60年 人・世相(7)

バブル崩壊 平成2(1990)年

消えた成長幻想

 あの“涙の会見”からほぼ六年半。山一証券最後の社長、野沢正平さん(66)は昨年、センチュリー証券社長として、東京・兜町に復帰した。

 社員約二百人余の小所帯。日本橋の本社入り口には大きな自分の看板が出迎える。「広告塔といわれてもいい。社員とお客さまが喜んでくれるなら」と笑う。

人寄せパンダでつかw

 平成九年十一月二十四日。総会屋への利益供与事件を機に経営危機に陥り、二千六百億円に上る簿外債務(含み損)が発覚した山一は戦後最大の負債を抱え、自主廃業を決定した。

 社長就任からわずか三カ月。創業百年の名門企業の幕引き役となった野沢さんは会見で、「すべて私ら(経営陣)が悪い。社員は悪くありません。どうか社員を応援してください」と号泣した。その映像は世界を駆け巡り、日本の金融破(は)綻(たん)の象徴として、その後も繰り返し、流れた。

 「部下思いの野沢さんらしい涙だった。感情を抑えきれなくなったのだろう」。当時の審査引受部長で、現在は千葉県館山市でペンションを経営する谷川勝さん(60)は振り返る。

 社員約七千七百人の解雇や残務整理を終えた野沢さんは、千葉県野田市の自宅で年金生活に入った。が、再就職に苦しむ元社員らを見て「引きこもってはいられない。自分ががんばる姿を見せ、みんなを励ましたい」と復帰を決意。平成十二年三月にITベンチャーの会長に就任後、中堅ゼネコン会社の顧問を経て、証券界に戻った。

 「カミさんは『お父さん、あの時の苦しみを忘れたんですか』って猛反対だった。でも、昔の仲間にエールを送り続けたい」。野沢さんを慕って仕事の悩みや再就職の相談に訪れる元社員は今も後を絶たない。

                 *  *

 山一への入社は昭和三十九年四月。東京五輪の開幕を控え日本が盛り上がっていたころだ。だが翌年には五輪景気が終焉(しゅうえん)し、企業倒産が続出。勤労者世帯の収入は昭和二十六年以降初めて実質マイナスになった。

 四大証券の一角、山一も不況のあおりで経営危機に陥った。日銀特融を受け、倒産だけは免れるが、先輩社員たちは次々と会社を去った。野沢さんが新人社員として営業の第一線に配属されたのは、まさに企業の存亡を懸けたときだった。

 駆け出しの大阪の支店時代から、野沢さんが何より大切にしてきたのは、「同じ屋根の下、同じ釜のメシを食った仲間たち」という。

                 *  *

 日本経済は昭和六十(1985)年ごろから始まったバブル景気プラザ合意)で、株価や地価は急上昇。

高級車やゴルフ会員権が飛ぶように売れ、日本企業はニューヨークのロックフェラーセンターをはじめ海外の不動産を買いあさった。外資系証券では年収数千万円を稼ぐ社員もいた。

 その後、平成元(1989)年末に3万8915円の最高値を記録した株価は、翌(1990)年から下降の一途をたどる。バブルの崩壊だ。

 バブルがはじけた後、日本は長い不況を抜け出せず、山一が自主廃業に追い込まれた平成九(1997)年は、北海道拓殖銀行をはじめ破綻が相次いだ。不良債権は今も金融機関の足かせになっている。

 作家で経済評論家の江波戸哲夫さんは、「右肩上がりの経済成長は明治維新以降、とりわけ戦後の五十年間、日本が豊かさを目指してたどってきた道。その最後に咲いたあだ花がバブルだった。日本人は随分痛い目にあったが、永遠に収入が増え続けるという成長幻想を捨て、自分の足元から地道に人生を見直すきっかけになったのでは」と話す。

 事実、バブル崩壊後の「失われた十年」で、企業と社員の関係も様変わりした。倒産やリストラなどで失業率は上昇し、年功序列から成果主義へ変わりつつある。

 「人生五十年」といわれた昔に比べ、いまの六十歳は元気だ。それにひきかえ、同じ還暦を迎えた日本の経済は、足取りが弱い。

ポルポト竹中ぁ~~

先行きさえもまだ十分に見えないが、日本経済の浮沈を肌で感じ、「人生で一番つらかった」と、会社消滅の悲哀を知っている野沢さんには特別の思いがある。

 「いつの時代も社員あっての会社。今度こそ社員の幸せにつながる証券会社をつくりたい」

 社長就任二年目の二〇〇五年。“営業の野沢”といわれた手腕を発揮し、飛躍の年となるよう、心に誓っている。(中曽根聖子)

                  ◇

 ■景気と金融機関破綻などの歩み■

 昭和25年 朝鮮戦争勃発に伴う特需景気

   30年 神武景気始まる

   31年 経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言

   35年 池田勇人首相が所得倍増計画を発表

   47年 田中角栄首相が日本列島改造論を発表

   48年 中東戦争で石油危機。トイレットペーパーなどの買い占め騒動に

   60年 プラザ合意で円高ドル安に。地価高騰が始まり、地上げ屋が暗躍

   62年 ニューヨーク株価大暴落(ブラック・マンデー)

 平成 元年 消費税導入

    9年 消費税が5%に。北海道拓殖銀行、山一証券などが破綻

   10年 日本長期信用銀行、日本債券信用銀行が破綻

   13年 完全失業率5.5%と過去最悪を更新

   16年 ダイエーが産業再生機構に支援要請

   17年 山一が1月26日破産手続きを終了。法人登記は抹消され、名実ともに消滅










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