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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

「百年の遺産~日本近代外交史」(8)

(54)【大東亜共栄圏】 アジアの解放が戦争目的に

(産経新聞2002年6月4日掲載)

アジア中が日本の勝利に沸き立っていた一九四二年初、重光葵は駐支大使として南京に赴任しました。

重光は、この機会に日支関係を抜本的に立て直すことを考えました。

満州については、南京の政府はすでに満州国を承認しているので問題はないので、「戦争が終われば、日本軍は完全に撤兵して、いかなる利権も求めない平等な関係としよう」という方針を決め、重光は度々帰朝しては、この方針を説き、天皇のご嘉納、東条の同意も得ます。

成功した理由は、重光によれば「大戦以来日本人の視野が広くなった」からです。

たしかに既に南方を制したあとで、華北の細々(こまごま)した利権などよりも、アジア人同士の相互信頼関係の方が大事だと、皆が考えるようになったのは自然の成り行きです。

最終決定が行われた四二年末の御前会議で、杉山元参謀総長は、これは「いわば懺悔(ざんげ)録の如きものなり」と言って出先の実行を監督するといっています。

日本も軍もついに十年の迷夢から醒(さ)めたのです。

それでも遅きに失しました。

その時点で戦局はガダルカナルでもスターリングラードでも、もはや挽回(ばんかい)不可能までに悪化していました。

しかし、重光が「時機は失われつつも、また熟した」と記している通り、四三年に外相となった重光の下で、日華基本条約が結ばれ、満州国、タイ、今後独立するビルマ、フィリピン等を加えて大東亜の同盟が構想され、インドネシアは独立の準備、朝鮮と台湾にも政治参与と自治が考えられるに至ります。

そして1943(昭和18)年11月に大東亜会議が東京で開催されました。

出席者が一様に感じたことは、今までは宗主国との上下の関係しかなく、一度も見たことのない隣人の顔を初めて見たということでした。

第二次大戦後、新興独立国が次々に国際連合に加盟した時に、その全てが洩(も)らした感想と全く同じです。ついに一人前の対等の人格となったという感想です。


≪いまだ対立する史観≫

大東亜戦争については、いまだに、それが侵略戦争だったという史観と、アジア解放戦争だったという史観が対立しています。

明らかに動機から言えば、それは自衛戦争です。

「兵は国の大事にして死生の地、存亡の道」(孫子)です。戦争はよくよくのことがなければできません。

百パーセント勝てるのなら別ですが、ひと稼ぎするだけの目的で侵略戦争を始める人もいないし、他方、他民族を隷属(れいぞく)から救おうという利他的な目的で自分の国の存亡を賭(か)ける人もいません。

やはり、石油禁輸で追い詰められたのです。

瀬島龍三氏が、「勝算はあったのか?」と訊(き)かれて、「あの戦争は押し付けられた戦争で、成算があって始めた戦争ではなかった」と答えた通りです。

したがって、当初は統一した戦争目的があったわけではありません

ビルマ進攻当初、進攻軍と東条英機首相が独立支援を明言しながら、南方軍総司令官寺内寿一が時期尚早と言って、ビルマの志士達に挫折感を与えたこともありました。

しかし、重光の新政策が確立された昭和十八年頃から、大東亜戦争の目的がアジアの解放であることに日本人は誰も疑いを持たなくなっていました

それはどうせ負けるのなら、というのとも全く違います。

昭和十八年ならば、日本国民はまだ皆、必勝の信念を持っていました。

やはり、重光の観察通り、破滅を二年後に控えた大日本帝国において、日本人が初めて大国民に成長したのです。

他面、アジア諸国の側にとっては、日本の敗勢が濃くなってくると、日本側についた独立では、日本が敗れると、独立が奪われる危険があり、むしろ日本に反抗した形の方が独立に有利となる形勢になってきます。

そして、戦後も米英覇権の世界では、日本の占領政策批判、日本による独立はまやかしだという史観に迎合する方が安全な時代も続きます。


≪二つあった日本の貢献≫

たしかに、戦時中の日本軍の尊大さ、とくにその習慣であるビンタへの反発が強かったのは事実です。

しかし、全ては民族の独立という至上価値で測られます。

独立する側の種々の事情で日本の評価は高くもなり低くもなります。

戦後日本の史観は、その一方の評価をお互いに引用して論争していますが、そんなことは末梢(まつしよう)事でしょう。

日本の貢献は、二つに尽きると言えましょう。

その第一は、有色人種が白人に勝てることを示したことです。それは日露戦争以来、二十世紀において今回が二度目でした。

第二は、日本人が戦争のやり方を教えたということです。植民地時代、ビルマの人は刃物の所持さえ禁止されていました。

日本は東南アジアで民族語普及などにより、民族意識を再興させた上、現地人の自治組織、軍隊を養育しました。その上に軍事技術だけでなく、敢闘精神を教えました。日本の占領後一年も経った頃には、もはや日本の真の意図を論じること自体無意味になっていました。

現地の人が、白人が脆(もろ)くも敗退するのをその目で見、日本人から戦争のやり方を教わった時点で、もういかなる植民地支配の復帰も不可能となっていました。





(55)【敗戦からの教訓】 欧米の植民地支配は覆したが

(産経新聞2002年6月5日掲載)

人間でも国家でも、失敗の経験は貴重なものです。

大失敗は滅多(めった)にするものでも、するべきでもないのですから、それから教訓を学び取らないテはありません。

しかし、戦後の日本が学んだのは、戦争の悲惨さと、もう戦争は嫌だということだけで、あれだけの戦争をしながら、これほど学ばなかった国も少ないと思います。

実は、敗戦後幣原喜重郎は、敗戦の原因究明こそ、日本再建にとって重要課題だと考えて、総理自らが、会長となって戦争調査会を設置しました。

ここで本来ならば、「敗戦責任」追及の事実確定検証しなければならなかったのかもしれないな

ところが、対日理事会が、会に旧軍人が参加していることを理由として、これは次の戦争に負けないよう準備しているのだと非難し、幣原は軍人の参加なしでは意味がないと言いましたが、結局は中止となった経緯があります。

その後は日本人の手による調査は行われず、軍事裁判のなすがままとなりました。

≪ミッドウェーが転機≫

戦争を振り返ってみると、開戦後わずか六カ月後の一九四二年六月のミッドウェーの敗北が転機となり、その年秋のガダルカナル戦で敗れてからは、もう勝機はありませんでした。

ミッドウェー攻撃の戦略は、山本五十六の真珠湾攻撃の延長線の上にあります。

日米の戦争は、小兵の力士と小錦の相撲のようなもので、立ち会いに奇襲をかけて相手が慌(あわ)てているうちに次々に攻め続ける以外に勝機はなく、相手が体勢を立て直して正面を向いてきたら、もう勝ち目はないという考え方です。

日米戦争には反対だが、やれと言うならばこれしかないという山本の連続決戦思想で、それなりに明快な考え方ではあるのですが、実際は二度目の攻撃で足を滑らせてしまって、それっきりになってしまったのが、戦争の経緯です。

戦術的な失敗の原因は、どこかに緒戦の勝利のおごりというか、一挙一動に国の運命がかかっているという徹底した緊張感--山本の戦略ならば、当然そうあるべきものですが--の欠如があります。

暗号が解読されていたのは、彼我の能力差でしかたないのですが、索敵をもっと丁寧にやっておけば、十分勝つチャンスがありました

そして、攻撃機を先に発出させて、帰着機の収容を後にするという、緊張感があれば当然そうしたであろう措置を怠ったため、敵の爆撃で全艦火の海になるという、僅(わず)かな手緩(てぬる)い措置の積み重ねが大破局を招いたのです。

そして、ガダルカナルの敗戦の主因は、ミッドウェーの敗戦がもたらした戦略的な環境の変化を直視せず、むしろこれを秘匿(ひとく)して、惰性的に行きがかりの作戦を続けたことにあります。

そして、結局はガダルカナルを諦(あきら)めて、陸軍二万の白骨を残して撤収しますが、その間に精強を誇ったラバウル海軍航空隊は二千余機を損耗(そんもう)してしまい、その後は敗戦まで、日本側は制空権なしという近代戦では絶望的な戦いを強いられます。

その後米軍は、二手に分かれて攻め上ってきます。

北はニミッツの率いる海軍、海兵隊で、南洋群島の島づたいに、1944(昭和19)年夏には、サイパン、グアム、1945(昭和20)年三月には硫黄島まできます。

南のマッカーサーの部隊は、ニューギニア北岸を西進して、航空戦力のないラバウルをバイパスして四四年十月にフィリピンに上陸します。

連合国の兵力、資材の15%が対日戦に投入されましたが、それがまた半分ずつに分かれて攻めてくるのに、どの戦場でも日本側は劣勢でした。とても量的に太刀打ちできる相手ではありませんでした。

何とか別の戦い方があったでしょうか。

真珠湾攻撃という戦略的失敗は米国の世論を完全に敵にまわしてしまいましたが、残る戦い方があるとすれば、それは米国の世論が、英蘭の植民地帝国を守るための戦争には冷たかったのを利用することぐらいだったでしょう。

その意味で重光葵のアジア解放政策は対米世論対策としても正攻法でした。

ミッドウェーで負けた後知恵ではありますが、その前に海軍が考えていたコロンボ占領作戦をしていれば、どうだったでしょうか。

少なくとも東インド洋の制海権は、日本が取れたでしょう。



≪別の戦い方を考えると≫

緒戦の勝利後は、インド中反英運動に沸き立っていたので、もし日本が力をインドに向けていたらば、その結果は予断を許さないものがあった情勢でした。

また、ミッドウェーの前には、汪兆銘と山東、山西、広西の各軍閥との話し合いも進み、重光の新政策を基礎に、重慶政府との接触も図られていました。

もし、ベンガル地方が解放されると、アジアには地殻的変化が走り、そこで中国の態度が変化すると、もう日米戦争の意味がなくなります。

しかし、ミッドウェー後、こうした全ての状況は崩れます。

いずれにしても、日本は早く負け過ぎました。

ナポレオンの栄光は十年でしたが、日本はわずか半年でした。日本人が偉大な国民となった短い時期はあったのですが、歴史と日本人の心の中に、それを刻(きざ)むには、あまりに短い期間でした。

ウォータロー後三十三年で、欧州のアンシャン・レジームがことごとく覆(くつがえ)ったように、大東亜戦争後三十年で、アジア、アフリカの欧米植民地支配がことごとく覆ったのは歴史的真実なのですが…。





(56)【滅びの叙事詩】 絶望の中での勇戦と覚悟の死

(産経新聞2002年6月6日掲載)

南の島々の日本軍は、制空権を奪われ、輸送船はことごとく沈められて食糧弾薬の補給もないまま、次々に米軍の猛攻に曝(さら)されましたが、その中でそれぞれに日清日露以来の軍の伝統を恥ずかしめない勇戦をしています。

その名将勇卒の事績の全てを記すことはできないので、その若干の例をもって墓碑銘としたいと思います。

絶望的な環境の中で、ニューギニアの東端から西端までの米軍の進撃に二年を費(つい)やさせ、その間軍の士気、規律にいささかの乱れも生じさせなかったのは、ラバウルの総司令官今村 均と現地ニューギニアの司令官安達二十三(はたぞう)の人徳と言って過言でありません。


≪聖将今村、仁将安達≫

今村は、ジャワから転勤しましたが、ジャワ統治では、現地の人の信頼を集めました。

敗戦後スカルノが、今村の幽囚(ゆうしゅう)された収容所の襲撃解放を企画したほどです。

また、今村は戦犯として巣鴨に服役中、部下と共にマヌス島に服役することを希望し、マッカーサーが「初めて真の武士道にふれた思い」をして許可しています。

今村は刑期を終えて帰国後も、死ぬまで一坪の小屋に起居して戦争責任敗戦責任」の意でしょう)を自らに課し、今なお聖将と慕われています。



ただ、ラバウルは航空隊を失って孤立し、現地の防衛は安達に委(ゆだ)ねられます。

安達は、軍人でありながら、キリスト教の愛を信じ、これを公言して憚(はばか)らず、兵の名誉を傷つける行動、苛酷(かこく)な命令を厳禁しました。

兵が飢えて倒れるのを「君国のためとは申しながら、わが胸中に沸き返る思いは、ただ神のみぞ知る」と、堪(た)え難い思いで見てきた安達は、敗戦の際は、ただとぎれとぎれに「何とも申し訳ない」と言い、全ての戦後処理を終えた後で、「死んだ十万の将兵と共に南海の土になる」と言って、軍刀もないので、自らの手で頸(けい)動脈を締めつけて死にます。

その遺書が読み上げられた時、将兵達は皆、声をあげて泣いたといいます。

全て、将の「敗戦責任」の取り方を心得ていた方々だったように思う



≪真の勝者への戦い≫

硫黄島の戦いこそは、最も壮烈な武勲詩でした。

司令官栗林忠道中将は、米軍の次の目標は硫黄島と、つとに判断して戦備の充実に努めていました。

かれの戦略は、敵の戦力を硫黄島に拘束して、連合艦隊が駆けつけて、側面から敵を撃滅するまで持久することでした。

ところが、新たに到着した参謀から、連合艦隊は、すでに潰滅(かいめつ)していると聞いて、もう覚悟は決まりました。

妻には、「私の遺骨は戻らない。しかし、私の霊魂は御身と子供の周辺に戻るでしょう。長生きして子供の面倒を見て下さい」と書き送ります。

少しでも長く持久して本土防衛を援(たす)けると共に、戦いの勝敗でなく、軍人として、敢闘精神と戦闘能力において、米軍に優ることを示し、「本当の勝者」となるための戦いとなりました。

栗林は、それまでの太平洋諸島の両軍の戦いを研究して、硫黄島防衛戦略を構築して、それを一貫して守りました。

一つは、従来の水際撃破では、味方の砲台の位置がわかって、敵の艦砲で破壊されるので、敵が上陸、近接して艦砲が味方を撃つのを恐れて撃てなくなるまで待って初めて砲撃するという原則です。

唯一の誤算は南端の海軍砲台が、密集する敵艦船の好目標に堪(たま)らず発砲して、早速に破壊されたことだけで、それ以外、日本側は洞穴(どうくつ)深く潜(ひそ)んで無言でした。

そして、上陸軍が海岸から四五〇メートル進んだところで、集中砲火を浴びせ、米軍の戦車の50%は擱坐(かくざ)し、米兵の死傷はたちまち25%にのぼりました。

その後も三段構えの防衛戦毎に猛抵抗を示し、屏風(びょうぶ)山の戦闘では、米軍が六回占拠しては、日本軍が五回奪還する肉弾戦が三昼夜にわたり、二段岩の戦闘では、米軍千名の一個大隊が九百九十名の死傷者を出して全滅しています。

各戦闘を通じて日本側二万一千の守備隊は全滅、米側は死傷者二万九千、太平洋戦争中米軍の損害が日本側を上まわった唯一の戦闘でした。


米軍は2月19日(一九四五年)に攻撃を開始し、二十三日までに戦闘に目鼻をつけて二月二十四日から沖縄作戦を始める予定でしたが、実に硫黄島の死闘は3月27日まで続きました

海軍司令官市丸利之助少将の洞穴では、最後の突撃の前に、ルーズベルト宛ての親書が読み上げられました。

「白人とくにアングロ・サクソンは有色人種の犠牲において世界の富を壟断(ろうだん)している。貴下はすでに繁栄した国なのに、何故(なぜ)、東洋人が東洋を自らの手で取り戻すのを妨害するのだ……」。

この抗議書は今でもアナポリスの海軍兵学校図書館にあります。

連隊長西竹一男爵は、一九三二年のオリンピックの馬術の金メダリストですが、終日斬りまくり、北部の断崖(だんがい)に辿(たど)りついて、「バロン・ニシ、出てきて下さい」という米側の降伏勧告を聞きながら笑って腹を切っています。

栗林は、(硫黄島戦闘の最終日である)3月27日に死んだと推定されますが、戦死か自決かを伝える人もいません。

その勇戦に感じた東京は、六日前に大将に昇進させていますが、本人はそれを知る由もなく死にました。

小学館文庫だったかな? 栗林氏の米国(英国?)勤務のときの日記が出版されてたような...




(57)【最後の地上戦】 沖縄に「特別の高配」なく

(産経新聞2002年6月7日掲載)

太平洋戦争最後の地上戦は、昭和20(1945)年、敗戦の年の7月まで続いたフィリピンの戦闘と、4月から6月まで続いた沖縄戦です。

いずれも戦史に残る本格的大戦闘ですが、ここでは詳細を書く余裕がありません。読者が、硫黄島の戦闘を思い起こして、同じような愛国心と自己犠牲の発露があったと思い、戦士達の霊を弔っていただくしかありません。

沖縄で敵に与えた人的損害は、硫黄島に三倍します。

その戦いぶりを讃(たた)えるには、七月に原爆実験成功の報を聞いた時のチャーチルの言葉を引用しましょう。

「私の心の中には、沖縄戦の記憶があった。

サムライ精神に満ちた日本軍を相手に一ヤードずつ日本本土を進むには、百万以上の犠牲が必要だ。

私は日本人の勇気を常に尊敬している

原爆の出現で、日本人は、最後まで戦う義務から、名誉を保ちつつ解放されるのではないかと思った」


≪沖縄県民の勇戦≫

ただ一つ、沖縄について書き落とせないのは、沖縄県民の勇戦ぶりです。

応召した現地出身の兵は約三万五千、他に中学生以上は鉄血勤皇隊、女子は従軍看護婦として、戦闘を支援しました。

海軍司令官大田 実は、六月六日の訣別(けつべつ)電報の中で、その実情を長文で紹介し、最後を「沖縄県民斯く戦へり、県民に対し後世特別の高配を賜(たまわ)らんことを」と結んでいます。

二カ月余にわたって米軍の攻撃を支え、本土上陸を遅らせたことの蔭には沖縄県民の勇戦があります。

いわゆる沖縄問題で、在日米軍基地の重荷云々は一面的な論理です。

横須賀のように理解をもって米軍の前方展開を支え、その経済的価値も利用している場所もあります。

日本の国全体の安全保障の観点なしで、基地を一面的に負担と呼ぶことの背後には、冷戦中日本の安保体制の弱体化を最大の目標とした左翼共産主義勢力のプロパガンダの残滓(ざんし)が見られます


本当の問題は、戦時中沖縄県だけが極端に大きな犠牲を払って日本のために敢闘したのに、日本の独立回復後も長く沖縄だけが外国支配に置かれたという点に、日本人一般が感謝も同情も示さないことに対する当然の怒りが根底にあるのではないでしょうか。

戦後には日本人全部が窮乏の底にあり、他を思う余裕がなかったのですが、今となって靖国を思い、戦争を思う時、半世紀経って、まだそのままになっている大田少将の遺言の実現を考え、沖縄県民がそれを受け入れる時になって、初めて沖縄問題の精神的整理がつくのでしょうが、それは何時(いつ)のことでしょうか。

沖縄戦のもう一つの特色は特攻です。

「カミカゼ」として英語の語彙(ごい)となった体当たり攻撃は、米側の報告では、沖縄戦の間、撃沈艦船三十六隻、損傷三百六十八回、海軍将兵の損耗四千九百七名の損害を与え、一時は、もう戦闘が続けられないという弱音も出たといいます。

神風攻撃は、実は効果がなかったんだという政治宣伝に惑わされてはならぬ

特攻の思想は、戦争の過程でだんだん生まれてきましたが、戦場で個人の判断による決死の体当たりの例は、いくらでもありました。飛行機が被弾炎上して、「もはやこれまで」と覚悟しての自己犠牲の例は、各戦闘で見られました。

そして、戦局が悪化して、今は死に直面していなくても、「いずれ次は俺の番だ」と思うようになれば、心理的条件は同じとなります。


     貴様と俺とは同期の桜
     同じ航空隊の庭に咲く
     仰いだ夕焼け南の空に
     未(いま)だ帰らぬ一番機

一番機はチームのリーダーの飛行機です。

使命感に満ちた●々(りり)しい若者を想像させます。

※●=凛の示を禾に

そして、その一番機だけが夕焼けの中を西南の空から帰ってこないのです。

敵艦に突入したのでしょうか。

     貴様と俺とは同期の桜
     別れ別れに散ろうとも
     春の都の靖国神社
     春の梢(こずえ)で咲いて会おう



≪「いい奴から順に-」≫

誰しもが、「散る桜 残る桜も散る桜」という心境になった時代です。

中には周囲の雰囲気にさからえず、いやいや志願した人もいたでしょうが、まだ多数の志願者から特攻隊員を選ばねばならないほど、士気は盛んでした。

敗戦後、「いい奴から順番に死んでいった」と日本の貴重な人材の喪失が惜しまれたほどです。



自ら少年飛行兵だった神坂次郎氏は、二つの文章を引用しています。

   「彼らは神々しいまでに純粋だった。あんなに美しい若者の姿を私は見
    たことがない」---戸川幸夫、

   「これら日本の英雄達は純粋性の偉大さというものについて教訓を与え
    てくれた」---ベルナール・ミロ。



司令官達も純粋でした。

初めて公式に特攻を命じた大西瀧治郎中将は、折々「君達だけを死なせない」と訓示していましたが、敗戦の翌日、自決します。

彼は割腹後「医者を呼ぶな」と厳命し、若者を死なせた責任を自らに課すために、長時間激痛に堪(た)えつつ死んだといいます。

その辞世の句は、「これでよし百万年の仮寝かな」でした。

やるだけやった、あとは後世にその精神を残せばよいのだという心情です。





(58)【戦争終結への動き】 「もうやめねば…」と鈴木総理

(産経新聞2002年6月8日掲載)

昭和20(1945)年4月7日、特攻出撃した史上最大の戦艦大和は、敵機二百五十機の雷爆撃を受けて、目的地沖縄に着く前に沈みます。

その日、親任式を終えて総理官邸に入った新総理鈴木貫太郎は、窓外の桜の散るのを見ながら、自らに問いかけます。

  「軍人達は、悠久の大義のために桜の散る如く潔(いさぎよ)く死ぬことを
   考えている。

   しかし、国家が滅亡して日本人の義が残るだろうか。

   カルタゴも滅びた。その勇武の民は、今いずこにあるのだろうか。

   一塊の土と化しているのではないか?」、そして

  「もうやめねばならない」

と考えます。



悠久の歴史観で日本民族の将来を憂(うれ)う、ヒトラーなどの胸には最後まで生まれなかった考え方です。

そして、外相に東郷茂徳を推します。

東郷が、戦争はあと一年続けることも不可能と判断するが、その点総理が同認識でないようなので協力できないと固辞すると、「その考え方でよい」と言って任命します。

客観的な情勢判断から政策が出てくるという外交の鉄則を守った東郷も立派ですが、ここに、言わず語らずして総理、外相間に終戦への合意ができたわけです。


≪知日派グルーが動く≫

ただ、その後外務省が試みたソ連を通ずる和平工作は、全くの徒労でした。

ソ連の態度は、二月のヤルタ協定で決まっていました

ヤルタ協定は、トルーマン米大統領がルーズベルトの死後、金庫を開けて初めて知って驚愕(きょうがく)したもので、日本は知る由もなかったのですが、ルーズベルトが何故(なぜ)そこまで譲歩したか、いまだに謎であるほど、日本だけでなく、同盟国中国の利益まで犠牲にして、ソ連に有利な内容でした。

この内容を知って憂慮したのは、知日派のグルー国務次官です。

グルーは「もう一刻の猶予もならない」と考えて、ソ連参戦前の日本降伏の早期実現を考えます。それには天皇制保全を条件として天皇の詔勅で戦争をやめさせるしかありません。

トルーマンは、これを健全な考えとして陸海軍と協議します。

満州事変の時の国務長官だった老スチムソン陸軍長官は、これを全面的に支持した上で、一つだけ批判があると言って、日本が幣原喜重郎のような進歩的な指導者を生み出す潜在力のある国だという点を十分に論じていないと言いました。

古き良き日本の理解者が立派に発言してくれたのです。

この発言が重きをなして、会議では反対はなかったのですが、ある軍事的理由(原爆開発)で、声明発出は見合わせることになりました。

もしこの声明が出ていれば、鈴木、東郷、米内は賛成でしょうから、そこで陛下の決断を仰げば、戦争は終わっていたかもしれません。

原爆とソ連の参戦という決め手はまだありませんが、宣言の内容はポツダム宣言より受諾し易くなっていました。

ここまでもってきて声明発出を延期されたグルーの無念は想像にあまりありますが、ポツダム宣言ができたのは、このグルーの努力の下地があったからといいます。

ポツダム宣言は、施行の段階で起草者の意図は踏みにじられますが、無条件降伏は軍隊だけで、対等の主権国間の合意という形をとっています

「日本は無条件降伏した」は間違いで、「大日本帝国陸海軍が無条件降伏して武装解除された」。

国家としての日本国はポツダム宣言の各条項に基づいて(=戦勝連合国側もポツダム宣言に拘束される)降伏し、占領軍司令官の「示唆」(命令・指令)に従って日本国政府は日本国を統治した=間接占領統治


その間、日本本土爆撃は惨烈を極めます。

3月10日以降19日までに、毎回B29三百機の大編隊を繰り出し、東京、大阪の大都市を爆撃して二十数万人を殺傷して二百万人の家を奪いました。

第二次大戦の最大の戦時国際法違反の行為ですが、それは二月のドレスデンの空爆に始まります。

つまりドイツに報復能力がなくなってからです。

国際法を支えるものは、しょせん力しかない国際政治の冷厳さの証左です。

その後も終戦までに六十一の都市を焼き尽くし、九月以降は、月間の延べ機数を四倍にして、残りの都市をことごとく焼き尽くす計画でした。

もし、八月十五日に降伏していなかったら、と思うと肌に粟が生じます。

八月六日の広島、九日の長崎の原爆もその延長線に過ぎません。

原爆の投下には、各方面から疑念の表明もありましたが、最終的にはトルーマンが決定しました。

その理由には、ここでも真珠湾攻撃が使われています。


≪天皇の決断を仰ぐ≫

原爆とソ連の参戦後、鈴木は時を遷(うつ)さず戦争指導会議を開き、陸軍の継戦論で会議がまとまらないと、その夜のうちに御前会議を開いて、天皇の決断を仰ぎます。

これは昭和史で誰も敢(あ)えてしなかったことでした。

ここで天皇は明確にポツダム宣言受諾の東郷の意見を支持されます。

そして継戦論のまだ残る8月14日の御前会議で、昭和天皇は「皇軍将兵、戦没者遺族、戦災者の心中を思うと、胸奥の張り裂ける心地がするが、時運の赴くところいかんともしがたい」と涙ながらに仰せられ、一同御前も憚(はばか)らずどっと泣き伏し、中には身を悶えるものもあったといいます。

最後まで継戦を主張した阿南惟幾(これちか)陸相は、詔勅に副署したうえで、武人の長として、一点非のうちどころのない割腹を遂(と)げます。

辞世は

   大君の深き恵みにあみし身は 言ひ遺こすへき片言もなし


大日本帝国の終わりを象徴する見事な死でした。

享年60歳




(59)【東久邇宮内閣の発足】 リベラルな硬骨漢の皇族

(産経新聞2002年6月10日掲載)

八月十五日正午、終戦の詔勅が放送されました。

徹底抗戦派の抵抗があり、すべての措置は危機一髪の間に行われましたが、放送が済むとすぐに、鈴木貫太郎内閣は総辞職します。

後任には、まだ不穏な陸海軍の動向を考えると、皇族以外では、この難局を抑え切れないということで東久邇宮稔彦王に大命が下ります。

降伏式は、九月二日ミズーリ艦上でおこなわれました。

日本歴史上最初の恥辱として誰も表に立つことを欲しなかったので、重光葵外相自ら、これに当たりました。

その直後にGHQ(連合国軍総司令部)から、驚くべき布告案が提示されます。

それは占領軍の命令に反する者は死刑以下の刑に処するとか、軍票を日本銀行券と同様に通用させるとか、日本の統治権の剥奪(はくだつ)を意味するものでした。

本来ポツダム宣言では、無条件降伏は軍隊だけで、民主化等は日本政府の責任で行うことになっています

この布告は外務省の必死の工作で差し止めてもらいますが、九月六日、米国政府は、五百旗頭真(いおきべ まこと)氏の表現を借りれば、「日本の敗戦と占領をめぐって米国政府が生産した文書のうち最も粗暴なる」文書により、マッカーサーに対して「日本との関係は、契約的基礎に立つのでなく、無条件降伏に基づくものである……日本管理を日本政府を通じて行うのは、それが満足な成果をあげる限りである」と指示してきます。

これは新任のアチソン国務長官代理が、日本を甘やかすなと進言した結果といいます。

≪武装解除で無力に≫

畢竟(ひっきょう)、国際政治は力の関係です。武装解除前ならば、そんなことをしたら軍の下部がおさまらない、鎮圧するのに百万の米軍が要(い)るというような説得も可能でしたが、もう日本側には、何の交渉力も残っていません。

日本はポツダム宣言の契約双当事国の合意。戦勝連合国もポツダム宣言に「縛られる」、はず)にしたがって降伏したのだと言ってもしょせんムダです。

あとは日本側の誠意、またはへつらいで、占領軍が文明的に振る舞うのを期待するしかありません

これが占領七年間の基本構造となります。


東久邇宮は、皇族の中で、総理、閣僚として使える方といえば、この人しかないと衆目の一致していた人です。

陸軍士官学校では「皇族は厳しい訓練についていけないことを前提とした差別」に不満で、自ら厳しい訓練に立ち向かっていました。

パリで陸軍大学三年の後、エコール・ポリティクで政治、外交を広く学び、クレマンソーとも交遊しました。

ある時、当時緊張していた日米関係について彼の意見を問うと、彼は「アメリカはドイツを叩いたから、次の戦争では日本を叩く。日本は外交が下手で短気だから、外交で苦しめて日本から戦争をしかけるようにもっていく。戦争になれば日本は敵(かな)わないから、我慢して戦争しないように」と忠告しました。

東久邇宮は、真珠湾の前に東条英機にこの話をしましたが、東条は今や勝つチャンスに賭けるしかない、と言ったといいます。

東久邇宮は、西園寺公望とも親しく、フランス仕込みのリベラルな考えをもち続けていました。

就任の言葉では、まず、聖旨を奉戴(ほうたい)して一糸乱れず平和裡に降伏することを訴えます。

もちろんこれが第一の任務です。そして厚木の部隊の反乱を抑え、無事にマッカーサーを迎える任務を果たします。

そして、次に新日本の建設については、他のことに一切ふれず、活発な言論と公正な世論に期待するとし、言論と結社の自由を宣言します。

そして翌日の閣議で、すべての政治犯の釈放と、言論、集会、結社の自由を指示し、憲兵隊の政治活動を禁止しました。

後にマッカーサーと会見した時も、共産党などの釈放は危険ではないか、と懸念を表明したのはむしろ米側で、東久邇宮は、過激思想に対しては「言いたいことを言わせた方がよい」と言っています。

ただ、東久邇宮内閣は、自由化政策の方針表明だけで、具体的実施に入る前に退陣します。

一つには占領軍受け入れ、武装解除と復員兵隊の故郷への帰参)、応急の戦災復興等に忙殺されたからですが、同時に内務省には、自由化実施の法制改正に着手するだけの実務上と精神的準備がなかったからです。

このことが結果として東久邇宮内閣辞任の原因となります。

≪最初で最後の抵抗≫

天皇とマッカーサーが並んだ写真が新聞に出た時に、まだ言論統制が残っていた内務省は新聞を発禁にします。

これを怒ったGHQは、内相や内務警察官僚四千名の罷免を突如発表しました。

自由化政策のためには、内務省の意識改革はいずれ必要なことでしたが、東久邇宮に言わせれば、それは自分がすることで、GHQが勝手にすることではありません。

副総理格の緒方竹虎の意見を求めると、「占領されている以上拒否はできないが、承服したのでは政府の威信がなくなる。承服できないという消極的な意思表示の意味で内閣総辞職しよう」と言い、東久邇宮も即座に同意して、東久邇宮内閣は終わります。

これが占領軍の命令に対して消極的であっても、日本政府がまとまって抵抗の意思を示した最初で最後となります。







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