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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

★当時日本人たる「朝鮮人の強制連行」


『明日への選択』/日本政策研究センター/平成14年11月号より




朝鮮人のいわゆる「強制連行」問題とは何なのか?

 全容解明までほど遠い拉致問題、そして核開発問題を抱えて、日朝交渉が始まった。

「平壌宣言」は、日朝双方が「国及び国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄する」こと、国交正常化後に日本側が経済協力を行うことを明記しているのだから、国交正常化に当たっては戦時補償や賠償の考え方を採らないというのである。 

だとすれば、国交交渉もその後に予定されている経済協力も、「植民地支配」に対する「反省」や「お詫び」とは関係なく進められるはずであるのだが、非常に心許ない観がある。

というのも、これまで日朝だけではなく日韓においても、政治交渉にあたっては常に歴史力ードが使われ、日本側が譲歩してきたからである。

 北朝鮮は、今回はいわゆる「強制連行」問題を持ち出すのであろう。

既に「現在わが国には過去、日本に強制連行されて半世紀が過ぎても生死すら分からない数百万の青壮年の遺族」がいて、「日本人数人の問題」、つまり拉致問題とは比較にならない(9月26日・朝鮮中央通信)と言っている。

 しかし、「強制連行」と言っても、いわゆる「従軍慰安婦」問題と同じく、証言ばかりがクローズアップされ、教科書にも掲載されてはいるが、実はその実態はきちんと検証されていないのである。

「強制連行」問題とは一体何なのか。そのアウトラインを整理してみたい。



■「強制連行」は「人さらい」?

「侵略」を、知らずに「強盗類推」で考えてるのと同じw

 現在使われている中学歴史教科書は「強制連行」をこう描いている。

例えば、日本は「不足する労働力を補うために、外国の人を強制的に連行して、本国の鉱山や工場で働かせました。日本で働かされた朝鮮人、中国人などの労働条件は過酷で、賃金は安く、きわめてきびしい生活をしいるものでした」(東京書籍)。

 また、平成13年まで使用されていた教科書のなかには「寝ているところを、警察と役場の職員に徴用令状を突きつけられ、手錠をかけられたまま連行された」(教育出版)とか、「町を歩いている者や、田んぼで仕事をしているものなど手当たり次第、役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用というが、人さらいですよ」(大阪書籍)という話も掲載されていた。 

 教科書だけでなく、今日、「強制連行」関係の証言集なるものが数十冊も出版されている。そこに出てくるのは、「連行」先での「使い捨て同然の酷使」であり、虐待に耐えかねての逃亡、捕まった後の見せしめのリンチ…奴隷労働さながらの「証言」がほとんどである。

夢(悪夢)でもみてたんとちゃいまっかぁ~?w

 果たして、こうした拉致同然の日本への送出や過酷な労働はどこまで事実なのであろうか。

証言の事実関係を逐一検証することは不可能に近いのだが、実はこうした証言の内容は当時の戦時動員の実態や労務事情などと大きくかけ離れていることもまた事実なのである。

 一例を挙げると、先に紹介した徴用令状を突きつけられ、手錠をかけられ日本の炭坑に連行されたという話は、朴慶植編『朝鮮人強制連行の記録』に掲載されている金大植という人物の手記からの引用だが、手記の原文を読むとこの人物が徴用されたのは昭和18年2月の話となっている。

コイツ、在日で「朝鮮大学校」のせんせ、だろw

後に述べるが、朝鮮半島において「徴用」という強制力をもった戦時動員が行われたのは昭和19年9月以降のことである。

昭和18年段階では軍関係がごく少数の徴用を行っていたが、徴用先は海軍工廠などであって炭坑ではない。

また原文では7回も徴用令状(正しくは徴用令書)を受けたにもかかわらず逃げていると語っているが、徴用拒否が事実だとすれば、1年以下の懲役である。

犯罪者なら逮捕されるのは当たり前だわナw

 もう一つの手当たり次第連行したという話も、同じ『朝鮮人強制連行の記録』に引用されている話である。こちらの方は「昭和16年か18年」に「朝鮮人を徴用に行った(炭坑の)労務の係から聞いた話」をさらに又聞きしたものとして登場する(こんな出典の暖昧な話が教科書に載っていたのだから驚く他ない)。

これも徴用されたとすれば時期が違うし、しかも徴用は徴兵と同様の強制力をもった動員なのだから、わざわざ炭坑の労務係が朝鮮半島に出張して「人さらい」をやる必要などない

そもそも、戦時でも平時でも「町を歩いている者」をさらっていくなどということが朝鮮各地で行われていれば暴動が起こっているはずである。

 つまり、こうした証言の多くは、戦時動員の実態や当時の労務事情などからして、あまりにも信愚性に欠けると言わざるを得ないのである。

少なくとも、まず当時の朝鮮人に対する動員の実態という枠組みなどの事実を踏まえなければ、そのまま受け入れることは出来ない代物と言えよう。



■ゆるやかだった朝鮮の戦時動員

 では、この「強制連行」問題を検証する際に、踏まえられるべき事実とは何であろうか。

 一つは(「外地」という大日本帝国内の)朝鮮に対しては(台湾・朝鮮以外の大日本帝国?wである内地と比較してかなり緩やかな戦時動員が実施されたという事実である。

昭和14年、前年に成立していた国民総動員法に基づいて国民徴用令が発せられ、戦時動員が開始される。

しかし、朝鮮ではこの国民徴用令が三段階にわたって緩やかに実施された。

 まず、同年九月から「自由募集」という形で戦時動員が始まる。これは、炭坑、鉱山などの内地の事業主が厚生省の認可と朝鮮総督府の許可を受け、総督府が指定する地域で労務者を募集し、それに応じた人たちが内地に集団渡航するというものである。 

 実は、戦前の日本政府は、朝鮮人の内地渡航に対しては治安や労務面で社会問題があるため就職や生活の見通しを持たない朝鮮人の渡航を制限する行政措置を講じていた。

日本への渡航には証明書を必要とするとか、釜山など出発港において就職先や滞在費を持たない渡航者の渡航を認めない渡航諭止制度を設けるなどしていたのに対して、この「募集」制度は、戦時動員の一環としての「募集」手続きに従った内地渡航に限っては渡航制限の例外としたのである。 

 従って、戦時動員とはいうものの、平時の渡航とほとんど変わらないものであった。

ところが、この「募集」方式では、当然のことながら、動員計画はほとんど達成されなかった。昭和16年までの3年間は動員計画数25万5千に対して、「募集」で送り出された朝鮮人労務者は14万7千人に過ぎず、達成率は66%に留まった。また、応募者の大半は農民であり、炭坑鉱山などの坑内作業を嫌い、職場を離脱するものも多かった。

 そこでこの「募集」に替わって、昭和17年から採られたのが「斡旋」という方式である。

これは、企業主が朝鮮総督府に必要とする人員を許可申請を出し、総督府が道(日本の県に当たる)を割り当て、道は郡、面に人員の割り当てを行う、つまり行政の責任において労務者を募集するというシステムであった。

 さらに、この「斡旋」が昭和19年9月から「徴用」に切り替わる。道知事の徴用令書によって出頭し、指定された職場で働く義務を伴う、いわば兵士の「応召」に準じるものであった。

「国家から命じられた職場で働く義務があり、その工場なり事業場の事業主とは使用関係に立ちますが、直接雇用関係に立たず、 (被徴用者は)あくまで国家との公的関係にある」(朝鮮総督府『国民徴用の解説』)わけであるから、徴用先も労務管理の充実した職場に限られ、給与も法定され、留守家族援護から収入減の場合の補償に至るまでの援護策が講じられた。また、同様の措置が「斡旋」で既に稼働している者にも現員徴用として適用された。

 むろん、「徴用」の場合は忌避すれば罰則があり、国家総動員法によって一年未満の懲役又は千円以下の罰金に処せられた。これに対して、「募集」「斡旋」に対しては、当然のことながら応じなくても罰則はなかった

 また、「募集」「斡旋」の場合は、配属された職場から離脱しても罰則はなく、離脱したり契約期間(多くの場合は1年~2年)を終えて内地に残留しても、日本国民としての公権(参政権など)が保証された。

これに対して「徴用」の場合は、指定された職場から離脱すれば徴用拒否と同じ罰則があった(ただし、「特高月報」などをみると実際は職場離脱によって検挙されても、ほとんどは元の職場に復帰させられるか朝鮮へ送還されている)。

 こう見てくると、朝鮮での戦時動員は内地より遅れて、しかもはるかに緩やかに実施されたということが分かる。

また、内地と違い朝鮮では最後まで女子には適用されなかった

徴用だけでなく朝鮮においては徴兵も昭和19年10月になってようやく実施されている。

なお、「徴用」による日本への送り出しも翌20年3月末には関釜連絡船の運行が止まり、わずか7ヶ月で終わる。

 「徴用」は、まさに強制力を伴った戦時動員であった。それを「強制連行」というのであれば、既に全面的に実施されていた内地の日本人はほとんど「強制連行」されていたということになる

それよりも、戦時体制化の「国民の(聖なる)義務」だろよ





■動員前からあった朝鮮人移住者の奔流

 第二に重要なのは、内地に渡ったのは動員による朝鮮人だけではないという事実である。

あまり知られていないが、戦前の日本には戦時動員とは別に自らの意志で内地に渡ってきた大量の朝鮮人移住者がいたからである。 

 この朝鮮人移住者については各種の統計資料をもとに森田芳夫氏が書かれた『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(昭和30年7月、法務研究報告第43集第3号)などの論文、さらに森田論文をもとにした西岡力氏の論文「朝鮮人『強制連行』説の虚構」(月曜評論・平成12年8月~11月号)があり、これらの研究を参考にさせていただきながら、簡単に紹介したい。

 先に述べたように朝鮮人の内地渡航は制限されていたが、明治43年の日韓併合以降(明治44年末で2千5百余り。 以下、百の位以下は切り捨てで表示する)、一貫して内地の朝鮮人人口は増え続けてきた。

とりわけ大正10年から終戦までの25年間は顕著で、森田芳夫氏によれば、在内地の朝鮮人人口は大正10年末には約3万8千だったのが、昭和2年末には約16万5千と増加し、昭和13年末には79万9千に達している。 

先に述べたように朝鮮半島での戦時動員は昭和14年9月にはじまるが、戦時動員が始まった時には既に約80万の朝鮮人が日本内地に在住していたのである。

これは今日の在日韓国・朝鮮人より20万も多い数である



 どういう人たちが内地に渡ってきたのかというと、「一般の海外移民のように、一家をあげて指定された移住先に定着するというのではなく、出稼ぎ的労務者として、日本内地に渡航し、職や住所を転々としつつ漸次生活の基盤を開拓し、その家族をよびよせたのであり、かつ、たえず朝鮮の故郷の地と往復していた」 (森田芳夫『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』)という。

 こうした大量の出稼ぎ移住が起こったのは、ひとえに朝鮮半島の人口急増によるものであった。

簡単に言えば、併合当初約1千3百万だった半島人口は終戦時には約2千9百万(朝鮮半島2千5百万、日本内地2百万、満洲・華北2百万)と35年で2倍以上に急増している。

ゴキブリ並みの繁殖力…w

これは衛生状態の改善による出生率の向上と死亡率の低下もあるが、何より農業生産性の向上によるものである。

1町歩当たりの米の収穫量をみると、明治43年の併合当初は7.69石であったものが、昭和8年の段階では10.72石と約4割も増えている。

日本統治下で農業生産性が向上した結果、朝鮮半島の人口が増え、さらに移住へとつながっていったのである。

 しかし、朝鮮には急増した農村人口を吸収できるだけの都市も産業もまだなく、増えた人口の大部分を農村が抱えることになり、昭和5年の総督府の統計によると春窮農家、つまり秋の収穫を食べ尽くし春には食糧不足となる農家が半数近くを占めている。

一方、日本には多数の出稼ぎ移住を受け入れる労働力需要があり、とりわけ戦時景気の起こった支那事変以降はその傾向は顕著だった。

 しかも、渡航が行政的に制限されていたとは言え、当時の朝鮮人は同じ日本国民であり、日本政府も朝鮮総督府も日本内地に出稼ぎ移住するのを法的には止めなかったため、こうした大量の移住者が出稼ぎのために渡航したのは自然なことでもあった。


■動員の3倍にのぼる「出稼ぎ」労働者

 さらに重要なのは、昭和14年に戦時動員が始まってから後も終戦まで、そうした出稼ぎ渡航が一貫して続いているという事実である。

 「募集」期間に相当する昭和14年から昭和16年の3年間で、内地に渡航した朝鮮人は約107万人であるのに対して、そのうち「募集」制度に則って内地に渡航した朝鮮人は約14万7千人(厚生省統計)に過ぎない。

 つまり、「募集」以外に約92万人もの渡航者がいたのである。

全渡航者のなかには内地から一旦朝鮮半島に帰り再度内地に渡航したものも含まれているが、「募集」という戦時動員による渡航者が、朝鮮人の内地渡航者全体のわずか16%に過ぎないことは注目に値する。

 さらに、西岡力氏の分析によれば、この3年間で内地の朝鮮人人口は約66万9千人増加している(昭和13年末の人口は約79万9千、昭和16年末のそれは146万9千)。

ここから内地での自然増(家族の呼び寄せなど家族で生活している多数の朝鮮人がいたので内地でも二世が生まれている)の8万1千を引くと、朝鮮半島からの渡航による人口増は58万8千となる。

この間の「募集」による動員数は14万7千だから、「募集」以外の渡航者によって約44万が増加したという実態が見えてくる。つまり、戦時動員期間でも、動員の3倍以上の人たちが自らの意志で日本に渡ってきていたのである。

 この流れは「斡旋」「徴用」の時期についても変わらず、昭和17年1月から20年5月までの内地への動員数は約52万。この同じ期間に朝鮮半島からの渡航者数は130万7千人だから、ここでも渡航者の約6割が動員以外ということになる。

 こうした渡航・移住によって、終戦時には約2百万の朝鮮人が内地にいたと推定されている。

しかし、終戦当時、動員先の職場にいた朝鮮人は約32万2千人。それ以外に朝鮮人の軍人・軍属が約11万2千人。併せて、動員された者は43万5千人となり、終戦時の朝鮮人人口の約22%にしかならないということになる。

 いずれにしても、戦時動員と並行して、かくも膨大な朝鮮人が自らの意志で日本に渡航していたわけであり、その事実を踏まえれば、嫌がる朝鮮人を無理やり日本に連れて行ったという「強制連行」イメージは明らかに虚像と言わざるを得ない。



■「日本に来たがってたの、大勢いたんだ」

 実は、いま出回っている「強制連行」証言を子細に見ると、そうした事情を裏付ける証言がいくつも見つかる。

 以下は、「斡旋」の時期に渡航してきた人たちの証言であるが、当時の「斡旋」によって渡航した人たちの事情がよく理解できる。(いずれも引用は『百万人の身世打鈴』から)。

 例えば、姜壽煕という人は、昭和17年に面長(日本の村長にあたる)と駐在所の所長から「日本に行け」と言われて日本にやってきたのだが、こう述べている。

目本は天国だと思っていました。村から日本に行った人が帰ってくると、洋服を着て中折れ帽子を被って革靴を履いているんです。親は親で、『うちの息子は日本から帰ってきて、革靴を履いている』と自慢していました。…その頃は、朝鮮では村一番の金持ちの子どもでも革靴など履けなかったのです。…ですから、『日本に行け』と言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」

 また、李斗煥という人も同じ頃に「斡旋」を受けている。 

「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。まあ正直いえば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国にあっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。おれだけじゃなくして、日本に来たがってたの、大勢いたんだ」

 「斡旋」は、「募集」とは違って朝鮮総督府の行政機関が関わり、罰則はないもののある種の圧力を感じていたことも分かるが、それ以上に日本への渡航熱が窺える。

 こうして見ると、戦時動員とはいうものの、特に「募集」「斡旋」については、実態としては大量の「出稼ぎ」の流れを、戦争遂行のための炭坑、鉱山、軍需工場へ転換させようとしたとも言えるのである。



■相当高額だった朝鮮人労務者の収入

 とは言え、証言集などを読めば、炭坑での坑内作業やダムエ事での過酷さ、少ない配給食糧による飢餓、朝鮮人に対する差別、そして堪りかねての逃亡…というエピソードが溢れている。こういう話を聞けば、制度としての動員とは別に、現場の実態は「強制労働」ではないのか、という疑問は残る。

 確かに、農業しか経験のない人たちが、わずかな訓練だけで炭坑の坑内作業やダム建設などの土木現場で働くというのは、相当な困難が伴うことは想像に難くない。国語を解さなかった者も多かったという。管理者である日本人との軋礫も当然あったであろうし、生活習慣の違いも大きかったであろう。実際、そうしたトラブルは「特高月報」にも毎月何件も報告されている。

 しかし、話はそう単純ではない。当時、何度か朝鮮人移入者の労務調査が行われているが、食糧の配給については職種(例えば炭坑では坑内作業と坑外作業) での配給量の違いは見られるものの、日本人と朝鮮人を理由とした違いは見られない。また、給与についても熟練度による違い(戦時期には日本人は比較的高齢の労働者しか残っていない)はあるものの特に差別があったとも思えない(昭和18年・労働科学研究所「半島労務者勤労状況に関する調査報告」などによる)。

 むしろ、戦時にあっては動員された朝鮮人の大半が就労した炭坑や鉱山、土木事業は、労働環境は厳しかったが、その分厚遇されていたというのも事実である。

昭和19年頃の九州の炭坑での賃金は1日4円~8円(平均5円)で、これに各種手当がついて月収は150円~180円、勤務成績のよいものは200円~300円であり、同じ職種では日本人徴用者に比較して「はるかにいいのが実情である」と指摘されているくらいである。

おぃおぃおぃ、丸っきり逆なこと言ってるてかぁw

従って、朝鮮の親元への送金や貯金 (徴用時は強制貯金)も行われ、「半島労務者の送金は普通30円~50円程度」であったという(大内規夫「炭山に於ける半島人の労務管理」昭和20年5月)。

 ちなみに、当時、巡査の初任給が月額45円、事務系の大学卒の初任給が75円、上等兵以下の兵隊の平均俸給が10円弱だから、朝鮮人労務者の収入が相当な高額だったことが分かる






■ある徴用工の手記

上では、朝鮮半島における戦時動員は緩やかに段階的に行われたこと、また戦時動員以外に大量の朝鮮人渡航者の流れがあったという事実を示し、その上で労働の実態においても(例外はあったであろうが)戦時動員された人々の待遇は決して悲惨なものではなかったことをマクロの数字で紹介した。

 続いて、待遇の実態について具体的ケースを紹介しよう。

 鄭忠海という人が書いた『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)がある。この手記は戦後の思いこみも多少あるが、徴用時の記述はかなり正確である。

ソウルのコンクリートエ場で事務の仕事に就いていた鄭氏は昭和19年11月末に徴用される。結婚していて、3歳の男の子と6カ月の女の子がいた。既に本土では空襲が始まっており、日本に行くのは「わざわざ爆撃を受けに行くようなもの」とは思いながらも、「徴用令状を受け取れば拒絶することはできない」と思ったという。 徴用先は広島の東洋工業で、仕事は銃の部品作りだった。

 ソウルの永登浦区庁前の広場に集合し、さらに各地から動員された人たちとともに商工会議所で送別会が催された。そして、釜山から連絡船、鉄道と乗り継いで広島に着く。

 鄭氏は徴用先での生活環境について非常に詳しく書いている。

住居は新築された寮で20畳ほどの広い部屋に「新しく作った絹のような清潔な寝具が」1人分、きちんと整頓されており、片方には布団と私物をいれるのだろう、押入が上下二段になっている…住についてはまずまずだ」。

また、食事は「食卓の前に座っていると、やがて各自の食事が配られた。飯とおかずの二つの器だ。飯とおかずは思いのほか十分で、口に合うものだった」

 昭和19年末の生活環境としては「まずまず」どころかかなり恵まれたものと言えよう。

この鄭氏の月給は140円。従ってお金には十分な余裕があった。

「みんなが集まって生活してみると、いろんな人がいる。 ある人は“みかん”や“ネーブル”を、またある人は“なまこ”や“あわび”など、さらには酒まで求めて来て夕食後に宴会を開く。これはここに来ている人たちの愉しみであり、唯一の慰めでもあった」。

 終戦を迎えてからは一日も早く帰国したいと、日本政府が用意した帰還船がもうすぐ出るから待つべきだという周囲の声を聞かず、同僚100人とともに1人400円を払って船を雇う(つまり、400円以上の現金を貯めて持っていた被徴用者が100人もいたということである)。

船の出発に当たっては簡単な歓送会があり、日本人の舎監長が声をつまらせながら別れの言葉を述べ、鄭氏が百人を代表して挨拶した。そして、親しくなった町の人たちと別れを惜しんで出発した、という。

 むろん、こうしたケースは例外だと言うこともできるかもしれない。

しかし、圧倒的な人手不足のなかで軍需工場が生産を続けるためにはどうしても朝鮮人労働者を必要とした日本側の事情を考えれば、単なる例外とは扱えないと思える。むしろ、こうした事実関係を無視した「強制連行」論の方が間違いではあるまいか。



■「逃亡」できたのは何故か

 事実をさらに挙げれば、「強制連行」論ではとても理解できないことがいくつもある。例えば、動員先の職場からの離脱(つまり逃亡)である。

 現在出版されている、いわゆる「強制連行」の「手記」には、過酷な労働のために「逃亡」したとする話が度々登場する。しかし、それらの「手記」では逃亡してもほとんど別の飯場なり炭坑なりで働くことになる。なぜ、朝鮮から「連行」された人たちが次々に職場を移ることができたのか。

 そうしたケースを紹介しておきたい。『在日朝鮮人関係資料集成』(第5巻)に昭和20年9月、大阪府下河内長野の警察署長が金谷、金山という二人の「逃亡」朝鮮人を取り調べた報告書が収録されている。

金山正掲(日本名)という人物は、昭和20年3月に徴用され、河内長野の鋳鉄工場で働き始めたのだが、そこで神農大律という朝鮮人の隊長(徴用者は隊組織になっていた)と衝突して、崔という同僚とともに7月末に徴用先から逃亡する。ちなみに、その時点で金山が所持していたのは250円。給与は書かれていないが、5ヶ月弱で250円を貯めたことになるわけだから、先の鄭氏と変わらない高給だったと推定できる。

 金山は、崔と二人で闇の切符を買い、東京・立川まで行く。立川駅前で出会った朝鮮人に小河内村にある飯場を紹介され、そこで働くことになる。8月2日には、さらに山奥に連れて行かれ、運搬作業をしたが、仕事は半日で終わってしまった。それで日給は15円。翌3日は陸軍が管理するトンネルで同じく運搬の仕事をして15円。4日は休んで東京見物。しかも、高幡不動で別の飯場を見つけ、小河内村は「山奥デ淋シイカラ」ということでその翌日から高幡不動の飯場に移る。 

その飯場では半島人が300人くらいいて防空壕を掘っていた。金山は測量の手伝いや壕の天井に板をさす仕事をして過ごす。そして、終戦になった後、「親切ニシテ下サツタ寮長ノ事ヲ思ヒ」「御詫ビニ寄セテ貰フ」ために、別に逃亡していた元同僚の金谷とともに、最初に徴用された大阪・河内長野の工場に戻る。

 もう一人の金谷の方はというと、彼は前述の金山より同じ徴用先から一足先に逃亡したのだが、事前に遠縁に当たる宮津在住の金村という人物と連絡をとり、京都府の宮津に行く。そこで飯場を紹介してもらい、海軍の防空壕堀の仕事をする。最初の半月で150円、後の半月はわずかの日数しか働いていなかったが200円くれたという。しかし、仕事が辛かったので、「長野ノ寮ノコトヲ、イツモ思ヒ出シタ」と言っている。その後、仕事を変えるが、9月になって東京から金山がやってきて、「北井寮長サンガ懐シクナリ謝罪シ様ト思ツテ」、金山と二人で河内長野の工場に帰ってきたと、述べている。

 これは終戦直前の話であるが、何とものんびりしたもので、また日本人の寮長の親切が身にしみていたであろうことがよく分かる。「強制連行」のイメージからはほど遠い。

 前号で書いたように、動員開始以前に既に80万もの朝鮮人移住者がいた。彼らのなかには土木工事などの肉体労働に従事するものも多く、そこでは定住した朝鮮人の親方が新たな渡航者を受け入れるというパターンが定着していた。

とりわけ、戦時期には朝鮮人労務者は飛行場作りや大がかりな防空壕作りなど軍関係の土木工事には欠かせない存在となっていた。当時の用語で言えば、動員された人たちを大きく上まわる数の朝鮮人の「自由労働者」が存在したのである。だからこそ、仮に徴用先から逃げ出しても簡単に受け入れられる環境があった(そういう環境があったからこそ、離脱も可能だったという言い方もできる)ということなのである。

 また、賃金が法定されている徴用より、こうした「自由労働者」の方が賃金も高いケースも多かったようである。

内務省警保局は「朝鮮人は大半土建その他自由労働的性質の労働に従事し従来相当多額の収入を得居りたるに拘らず徴用により急速に収入が激減し…応徴後に於ける勤労意慾も低下の傾向看取せらる」と指摘している(「思想旬報」昭和19年6月10日)。

 こうして見てくると、動員先からの離脱(つまり逃亡)は、動員が「強制連行」だったからではなく、「強制連行」ではなかったから生じたとさえ言えるのである。



■動員とともに増えた不正渡航者

 動員先での待遇だけでなく、朝鮮からの渡航についても、いわゆる「強制連行論」ではとても理解できない事実が存在する。

 朝鮮人の渡航者についての統計は前回に紹介したが、昭和15年(「募集」による動員の時期に当たる)を例にとってみると、戦時動員による日本への渡航者は5万3千人(厚生省統計。数字は便宜のため百の単位以下は切り捨てで表記)。

しかし、同じ年の朝鮮からの渡航者の総数は38万5千。つまり、戦時動員以外に約33万人が日本に渡航しているのである。

むろん、このなかには一旦出身地に帰って再渡航したり、既に定住していた者が家族を呼び寄せたケースも含まれるが、その多くは戦時動員以外で日本へ職を求めての渡航者であった。こうした戦時動員数を渡航者数が大幅に上まわるという事実は統計が残っている昭和19年まで変わらない。

 つまり、戦時動員と同時に、それを大きく上まわる大量の出稼ぎ的な渡航が並行的に存在していたのである。 動員が「強制連行」であれば、無理やり日本に「連行」される人たちと同じ日本へ、自らが旅費を払って出稼ぎに行く人たちとが同じ船に乗り合わせていたということになる。「強制連行」のイメージからすれば何とも奇妙な構図である。

 一方、当局は正規の手続きを踏まない渡航を止める努力をしていた。西岡氏によれば(前出論文)、大正14年から戦時動員が始まる昭和13年の間、証明書など所定の条件が不備のために渡航を差し止められた朝鮮人は労働者、家族を含めて16万3千人にのぼる。

また、昭和8年から13年までに朝鮮の出身地で、渡航を出願したものが108万7千人。それに対して6割の65万1千人が「諭止」されている。

 それでも正規の手続きをとらない不正渡航が後を絶たなかった。

当時は外地ではあっても同じ大日本帝国内だったから、「密航」とは言わないんだろナw

内務省の統計によれば、昭和5年から17年までの13年間で、不正渡航者は発見されただけで3万9千人にのぼる。

しかも、西岡氏によれば戦時動員の始まった昭和14年から17年までの4年間は、発見された不正渡航者が2万2千人(13年間全体の58%)と動員前に較べて急増している。

 では、内地の取締当局はこうした不正渡航者をつかまえて、これ幸いとどこかの炭坑にでも送り込んだのだろうか。

話はまったく逆で、当局は不正渡航を取り締まり、朝鮮へ送還している

ちなみに昭和14年から17年までに、1万9千人が日本の港から朝鮮へ送還されている。「強制」というなら、まさにこの朝鮮への送還こそ「強制」であった。

現状の文句と比べりゃ、笑い話ですネ、結果的にはw

 こうした不正渡航の取締まりに当たっていた福岡地方裁判所の検事はこう述べている。

「本県に於きましても、毎月200名内外の密航者を掴まへて、勿体ない様でありますが、之を送還する為、1人当り2円とか3円とかと云ふ旅費を使つて送還して居る状況であります。県内に労働力の不足して居るのに勿体ない事でありますが、今日では已むを得ない事であります」(昭和14年3月「福岡県下在住朝鮮人の動向について」・『在日朝鮮人関係資料集成』第4巻)

 この検事はこうも述べている。

「現在の鮮内、と申しましてもそれは主として北鮮地方でありますが、非常に重工業が発達して参りまして人的資源が不足しているのであります。で如何にして南鮮地方のものを北鮮に移住せしむるかと云ふことを苦慮して居るのであります。…処が朝鮮人は北鮮に移住するのを好まない傾向がありまして、内地に渡来したいと云ふ希望が相当多い様であります。

 …密航してくる朝鮮人は…大抵最低30円乃至40円位の金を密航ブローカーに渡すそうであります。其の金を作る為に自分の家、屋敷、田畑その他を売つて裸一貫になつて内地に密航して来るのであります。それが掴まつて朝鮮に帰されるのであります。…密航と云ふ事自体が、犯罪として取り扱ふ事の出来ない結果、又密航ブローカーを厳重に処分する法規がない為、私共の活動其他朝鮮当局の取締あるにも不拘(かかわらず)其の数なり活動が一向に減じて居ないのであります」

現在とおんなじようなこと、先祖もやってんじゃんw

 「強制連行」論者は、これらの不正渡航者は、借金までして自ら進んで「連行」されようとした、とでもいうのだろうか。

 さらに、戦時動員が始まってからは、「不正渡航の手段」として「募集」や「斡旋」を利用するものすら現れる。

内務省警保局の「募集二依ル朝鮮人労働者ノ状況」によれば、「応募ヲ内地渡航ノ手段トシタル者アリ、之等ハ坑内作業二恐怖ヲ感ジタル者等ト同様逃亡シツツアリ……更二移住朝鮮人中ニハ他人ノ替玉トナリ渡航シタル者アリ……」とある。

 事実、朝鮮総督府の送り出し統計と内地で受け入れた労働者を記録した厚生省の統計には明らかな差がある。

昭和14年から16年の3年間で、朝鮮からは16万9千人が送り出されているのに対して、受け入れた厚生省の統計では14万7千と、約2万2千の差がある。このかなりな部分は、内地への渡航手段として戦時動員(この場合は「募集」)に応じ、内地到着後に逃亡したものと思われる。

 戦時動員を「強制連行」というなら、その「強制連行」に潜り込んでまで、内地渡航をしようとするものが多数いたということになり、何ともマゾヒスティックな話になってしまう。



■引率も監視もない「強制連行」?

 最後に、唯一といってもいいほどのケースだが、いわゆる「強制連行」「強制労働」と言われるものが、日本の法廷で争われ、事実関係が割合はっきりしたケースを紹介したい。

 金景錫という人物が、昭和17年10月、出身地の慶尚南道昌寧郡昌寧面から「斡旋」に応じて川崎の日本鋼管に労務動員されたことが「強制連行」「強制労働」にあたるとして訴えた裁判である(但し、原告は動員先で当時の従業員から暴行を受けたために傷害を負い、重い後遺症が残ったことも併せて慰謝料と謝罪広告を請求した)。

この訴訟は、一審の東京地裁で原告が全面敗訴した後、会社側が違法性を認めないままで原告と和解した(和解金410円)ことをもって、いわゆる「戦後補償裁判」では初の補償金などと報じられたのだが、同時にこの地裁判決ではいわゆる「強制連行」「強制労働」の実態についての判断も示されている。

 要約すれば、東京地裁は次のように判断している。

まず「連行」については、原告は昌寧面長が原告の父を脅し、原告の兄・金景重を炭坑に「徴用」する代わりに、原告を動員して日本に行かせた。これは「強制連行」に当たると主張した。

 これに対して、判決はまず兄を炭坑に徴用すると面長が言ったことが、「国民徴用令の発せられた時期」、つまり強制力をもった「徴用」がまだ始まっていなかったこと、さらに原告の兄が何度か動員を免れていることから見て、「被徴用者側の抗命を許さない強制」とは「積極的には認定できない」とした。

 原告当人の「強制連行」については、事実関係に基づいて判決は次のように指摘している。

原告は、「斡旋」を受け入れた後、「昌寧面から京城まで誰にも引率されたり、監視されたりすることなく、一人で赴いた」。「原告本人の供述によれば原告と行動を共にした他の朝鮮人労働者100名弱も抵抗の気配もなく京城を発ち、釜山から下関へと渡航したことが認められる」。従って、「(総督府、郡、面など)当局の相当積極的な斡旋によるものであったが、その当局の強制によるものとまで言えず…」と「連行」を否定した。

 一方、「強制労働」についても、「なるほど、第二報国寮(引用者注・原告が住んでいた寮)における原告ら朝鮮人労働者の居住状況は、狭く、汚く、かつ、プライバシーのほとんど存在しようがない劣悪なものであり、川崎製鉄所の作業環境も高温、粉塵、落下の危険等による最低の水準にとどまっていた」けれども、「他方、原告は……それなりの給料が支払われることを期待していたこと、日本人労働者と組んで働き、…操作の難しい機械の運転を担当する程度に労働技能に習熟したこと、予想していた金額ではなかったが現実に賃金支払いを毎月受けたこと、川崎駅近くへ出かけ書店で本を購入するなどの行動の自由もあった」等の事情を考えると「処遇が奴隷的待遇であったとまではいうことはできず、したがって、原告に強制労働に屈従させたとまでは言えない」と判断した。

 いわゆる「戦後補償裁判」は、政府が被告となった場合はほとんど事実関係で争わないために判決でこうした事実関係の詳細は出てこないのだが、この場合は会社が被告であったために、個別ケースとは言え事実関係が明らかにされ、裁判所は「強制連行」「強制労働」に当たらないと認定したというわけである。

 「強制連行」が争われた裁判において、その事実関係が「京城まで誰にも引率されたり、監視されたりすることなく、一人で赴いた」というものであったことが明らかになったわけで、この判決は当然のことと言える。






■同じ国民であったという事実

 さて、ここまで統計資料や具体的事例を紹介しつつ、「強制連行論」について戦時動員の枠組みのなかで、また内地への朝鮮人渡航者の全体像を眺めるなかで検討してきたが、こうしてみるといわゆる「強制連行論」は到底成立し得ないことは明らかであろう。

 しかし、「強制連行論」が何よりも無視しているのは、それが強制を伴うものであれ何であれ、戦時動員は朝鮮人だけを対象としたものではなく、当時の日本国民を対象にしたものであったという事実である

半島在住の朝鮮人が特別に扱われたのは、先に示したように内地よりも緩やかに動員が実施されたということに過ぎない。

 紹介したように、朝鮮から内地への不正渡航や「密航」が犯罪ではなかったのも、また、徴用は別だがそれ以前の動員において動員先から離れても基本的な権利に制限がなかったのも、朝鮮人が外国人ではなく、同じ日本国民であったからに他ならない(端的な事実を一つ挙げれば、昭和17年に行われた衆議院選挙や地方議会選挙に111名の朝鮮人が立候補し、そのうち38名が市町村議会議員に当選している)。

 鄭大均・都立大教授はこう述べている。

朝鮮人も日本人も当時は日本帝国の一部を構成していたことを忘れてはならない。

『労務動員』とは戦時期の日本帝国の国民に課せられた運命共同性のようなもので、多くのエスニック朝鮮人はそれを義務や運命と考え、従属的に参加していたのである
」(中央公論・本年12月号)

 むろん、動員を日本への渡航のチャンスとして捉え積極的に参加したものもいたであろうし、逆に動員が、不本意だった者もいたであろう。しかし、それが義務だと考え動員に応じた人がいたこともまた事実である。

 徴用で樺太に渡った権煕悳氏はこう述べている。

「徴用令状がきて大邱の公会堂に出頭すると、300人集まっていた。身体検査の結果115人残して他は帰らされた。更に出発の日に集まったのはそのうち85人だけで、あとはみな逃げられてしまった。そのころの私は、徴用で行くことは天皇陛下の赤子として名誉であり国民の義務なので仕方ないと思っていました」(伊藤孝司『樺太棄民」)

天国日本内地へなら、借金してでも行きたいが…w

 当時は朝鮮人も同じ国民であったという事実に立てば、この権氏の心境は当然と言える。

 むしろ、戦時の動員と労働を「強制」として捉える「強制連行論」というのは、こうした事実を無視して、朝鮮人を外国人として捉えるという前提に立たない限り成立しないとも言える

その意味で、「強制連行論」を検証するにあたって、同じ国民であったという事実こそ核心的な事実と言えるのである。



■驚くばかりの無知

 最後にこの問題の深刻さについて触れておきたい。

というのも、「強制連行論」は単なる歴史解釈の問題に留まらず、日本の外交や「在日」を巡る内政問題、教科書をはじめとする教育などの分野で現実の影響を及ぼしているからである。

 例えば、外国人指紋押捺問題では、在日韓国・朝鮮人のほとんどが「強制連行などの形で日本に居住を強いられた人々とその子孫」だから、韓国政府が要求している「特別の扱い」に理解を示すべきだとの主張がなされ、特別永住者などの指紋押捺は廃止された。

また、在日韓国・朝鮮人の地方参政権や公務就任権要求などを求める運動でも、例えば地方議会への請願などで、同じ論理が展開されている。

既に公務就任権ではその一部が現実化し、地方参政権の方は現在の自公保連立の際の合意事項となった。

まさに現実政治に影響を及ぼしていると言えよう。

 むろん、在日韓国・朝鮮人のほとんどが「強制連行」の結果だというのは事実ではない。

事実はまったく逆
である。


紙数もないので詳しくは述べないが、例えば、昭和34年の法務省の「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人のうち昭和19年から20年に渡日してきたという人は4千3百4人(在日全体の0.9%)に過ぎない。

これが政府の公式の調査結果なのである



 さらに、この4千人余とその子孫のすべてが「徴用」の結果、日本に住むようになったわけでもない。

「徴用」は19年9月以降であり、時期はさらに限定される。また、先に見たように「徴用」と同じ時期に渡日したからといっても、「徴用」と並行して自らの意志で内地に渡航する朝鮮人がいたわけで、その数はさらに少なくなる。

従って、仮に「徴用」を「強制連行」だとしても、今日の「在日」のほとんどは「強制連行などの形で日本に居住を強いられた人々とその子孫」ではないというのが事実なのである


息を吸うように嘘を吐く、とはよく言った。
つまりは、実体験からでた言葉、なのだろ。



 とは言え、地方参政権を推進している与党の中心人物すらこうした政府公認の事実をまったく知らないこともまた事実なのである。

平成12年に当時の野中広務幹事長は、永住外国人に地方参政権を付与する法案に関連して、付与する対象を「強制連行」によって日本に連れて来られた外国人とその子孫に限定してはどうかと発言したことがある。

この野中発言がいかに的はずれかは本稿をお読みいただければ誰にでもわかるはずである(仮に昭和14年以降の動員全体の時期の渡航者を対象としても「在日」全体では少数派で、大半は動員以前に渡日していた者とその子孫である)。

国民の権利・義務に関わる重大な問題である外国人地方参政権問題の大前提となる事実に、推進者である与党幹部がここまで無知だというのは驚くほかない。

 また、「強制連行論」が外交に影響を及ぼしたのが北朝鮮外交、なかでも拉致問題だった。

 例えば、野中広務氏は

「北朝鮮外交では、日本が過去に彼らを強制連行して酷い目に会わせた事実を踏まえて対処しなければならない」(平成9年10月自民党朝鮮問題小委)と発言し、また、その翌年には

「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが、(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった。近くて近い国にしたい。日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい」(産経・4月7日)

とも述べた


 コメ支援の理由として「強制連行」が提起され、それが拉致問題の解決を遅らせてきたわけである。

そして、最近では北朝鮮による日本人拉致と「強制連行」とを相殺するかのような議論すら出ている


いかに「強制連行論」が浸透しているかがわかる。

 これまで見てきたように「強制連行論」は一種のフィクションと言える。

しかし、そのフィクションに立って、コメ支援は行われたし、外国人参政権問題は議論されているのだ


捏造・嘘八百、のほうが適語でしょw

 日朝交渉は中断状態にあるが、いずれ再開されれば必ず過去の清算が持ち出されるであろう。その時、わが国は確固とした事実に立って「過去」を議論できるのだろうか。

歴史認識にこそ構造改革が必要とされている。






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