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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

「現憲法の改正論議を巡る諸問題」

(平成11(1999)年8月29日 清和政策研究会研修会にて講演)

             小林 節
          (慶應義塾大学教授)


私は今五十歳(1949年生の2004年の今年は55歳)ですが、29歳でアメリカから帰ってまいりましてから二十(今年で25年経ったからもう飽きたでしょw)年間、大学の教師をやっております。

改憲論議は、帰国後すぐからずっと孤独な闘いをやっていたような気がいたします。

もう二十年(25年wの四半世紀)もたって、そろそろ私個人としては改憲論議は卒業だと思い、飽きがきていたころですが、永田町で憲法調査会が二つできるという大変すばらしいお話を伺い、しかも今回、森先生の研究会でこういう話をさせていただけるということで、久しぶりに、改憲論議に関心がよみがえってまいりました。

(略)

そういうたくさんの憲法論議にかかわっていて思いますことは、どうして、論議をすることの正当性を説明することにこんなにエネルギーがかかるんだろうということで、私にしてみれば、実に無駄だという感じがいたします。

どうして早く内容に入ってくれないのかという感じが今でもしております。

超党派の議員連盟ができたときも、中山太郎先生だったと思いますが、まずは日本国憲法の制定過程の見直しから始めると発言なさったと思うのです。

それを聞いて私は少し白けてしまいました。

実感でしょw 不勉強言い訳繰り返しの如し

昔話を今いろいろやっても、当事者はだんだんぼけてきていろいろ違ったことを言い出しますし、それから、五十数年前の議論というのは、実は今を知らない人々の議論でありますから、ある意味では実用性がない。例えば「プライバシー」という言葉自体が問題になっていない当時の議論なのです。

それから、人は死ぬ前に自分を正当化しようと思っていろいろ言います。

大きな戦に負けて、国がまさに占領されて体制が変わったときに、押しつけられたの、いや、歓迎したのと言っても始まらないと思います。

あれは押しつけられたに決まっているわけで、そういうことを確認して怒ったり涙を流したりするエネルギーを使い過ぎたような気がします。

むしろ、もう時計は後に回らないわけですから、よくも悪くも我々は日本国憲法のもとで五十何年もやってきまして、いい面もたくさんあると思うのです。

ただ、結論を先に言ってしまいますと、憲法などというものはそもそも、私たちが国家生活をする際の国家運営のマニュアルに過ぎない、と私は思います。

マニュアル:手引き。便覧。取り扱い説明書。w

我々がこの国の主(あるじ)であり、その主権者・国民がこの国をどう使いこなしていくかが問題です。

森先生のお書きになったものに、政治は国民に幸福を返していくものであるという趣旨の文章がございましたけれども、全くそのとおりで、政治の責任は、国民に自由で豊かで平和な生活――これが幸福の要因ですが――を保障することであり、そのために国家という組織、権力機構があって、それを政治家を含む公務員がどう使いこなすか、その使い方の約束・マニュアルが憲法なのです。

それは、ある意味では、たかだか「道具の説明書」なわけで、それを「恋人の選択」ででもあるかのように、あるいは何か御神体の真贋論争みたいに目くじら立てて興奮してやるほどのことではない、と私は思っているのです。

これはアメリカの感覚だとお気づきいただけると思いますけれども。

前置きが長く申しわけございません。きょうは七十七人の先生方のリストを見せていただき驚きました。まさに森先生をいただいてこれから日本国を直接指導していこうという能力と決意をお持ちの方たちの集団でありますから、国会で早く改憲論の各論に入っていただくために、実はこんなに問題点があるんですよという材料を提供しに参上したわけでありますから、これからレジュメに従って話に入ってまいります。

まず改憲論議自体が違憲だという議論があります。

ぷっw

ただ、これはもう簡単に通過していただきたいのですが、日本国憲法自体が九十六条に改憲の手続を規定している。それはすなわち、この憲法をつくった人々の意思が、「この憲法は完璧ではない」ということです。

あぁ~あ、「不磨の大典」w

これは立法府の先生方はよくお分かりだと思いますが、法はすべて、あしたのことを議論してきょう作っているわけです。

つまり、原則として法は将来適用されるもので、過去に適用されたらこれは大変なことになり、人権問題になってしまうわけです。

「事後法の禁止」

コレを、よりによって東京裁判の「合法性。合目的性」の説明・根拠の理屈として使って言ってた中共の御用「学者」朱 建栄なるお方が、日曜日のおっさん時間に報道2001でくっちゃべってたなw


「見たことのない」将来のことについて相談して作って、あした以降適用するわけです。ですから、実は、適用される時をだれも見てないで作るのです。しかも、それを相談したのはみんな人間なわけです。人間というものは神ではないという意味において「不完全」でありますから、間違いは幾らでもあるわけです。だから、念のため、必要なときにちゃんとモデル・チェンジができるように、九十六条に改正の手続があるわけです。

ですから、改憲論議をすること自体は決してやましいことではなく、むしろ政治家としてこの国をきちんと発展させていく責任をとり続けることなのです

あぁ~あ、こういうことを説明しなくちゃならん「国会議員」てのは、何者らなんだろw

国民に幸福な生活を保障する国家という道具を日々点検し、修繕、モデル・チェンジをしていく、これは政治「屋」じゃなくって「」wの責任です

ただ、問題は、改憲論議をするとすぐ『赤旗』の一面などで書かれてしまうのですが、「危険」だとか、「軍国主義」だとか…。

そういうレッテル張りはむしろほめられたんだと思って歓迎いたしますが、それはそれとして、要はそこで一つごまかしがあるわけです。

道具としての日本国を改良しようとする議論をすると、危険だとか改悪だとか、そういう議論で黙らされてしまうのです。

でも、議論の中身を見てほしい。しかし、現実にはそういう批判に必ず遭遇すると思います。そのときに必ず、ちょっと待って、と。

まずは話を聞いてみろ、そしてそれが国民の幸福を増進する方向性のものなら「改正」、もしそれが幸福を減殺する方向性のものでありそれがきちんと立証されるならば「改悪」というネーミングあるいはレイベリングをあえて受けよう…というふうに話は進んでいくべきだと、私は思います。

それから、さっきも触れましたが、敗戦でアメリカから憲法を押しつけられたということは紛れもない事実であり、それを、日本国民が押しつけられたから悔しいとか言っても、負けた以上それは仕方ないわけで、戦というものは古来そういうものであります。

あるいは、いや実は歓迎していたんだとか、うそをついても始まらないわけで、そういう歴史論争を今やるよりも、二十一世紀の日本をどうするか、学者や学生がそういう議論をやる分にはいいんですが、政治家は現実に闘う方たちですから、あまりそれにはまり込んでいただきたくない、と思います。

ヘーグの陸戦法規の中に、「占領国は被占領地の基本法制を占領中に変えてはならない」という趣旨の規定があります。

教養のある方は、それを鬼の首でも取ったようして、だからドイツは、抵抗して憲法を改正させず、基本法というものにしておいたんだ、と。

それはそうかもしれません、ドイツ人は理屈っぽいですから。

ただ、ヘーグの陸戦法規でも、「占領に支障なき限り」という条件がついているわけです。

ですから、あの当時、皇国・日本をポツダム宣言の条件どおり民主的で平和主義的で人権尊重の国に変えようとしたら、あの憲法を変えるしかなかったのです。

ですから、そういう小ざかしい法律論を今主張してもそれは簡単にクリアされてしまうもので、あまりそういうことにエネルギーをお使いにならない方がいい、と私は思っております。

そして、次なる一番肝心な点は、改憲論議がここ数年世間に受け入れられていったきっかけは、日本国憲法を肯定した改正論を私や読売新聞が主張したことにあるのだと思います。

もっとも、私…というのは図々しい話で、発行部数一千万の読売新聞がやったことが大きかったと思っております。

かつて日本で改憲論というと、アメリカにいわば国が強姦されるようにして憲法を改正させられた、あれが悔しいと、まず思い出話を言って怒るおじ様方。

そして、自主憲法というと出てくるのが、現憲法は違法な手続でつくられたものだから無効とすれば旧憲法に戻るしかないという主張で、かなり、はやらない改憲論の中の主流派だったわけです。

改憲論自体が長いこと流行っていませんでした。

もっとも、恐らく岸総理はそういうお方ではなかったと思います。極めて開明的な方ですから。

自主憲法期成議員同盟などの責任者として人を集めて事務方に任せておられたけれども、あの方はそういう視野の狭い人物ではなかったと私は思います。あの方のパーソナル・ヒストリー、それから、御存命中に何かのパーティーで立ち話をさせていただいたときの記憶によれば、「気持ち悪い右翼」といった感じは全然ないと私は思いました。

このイメージなんだよね。「ウヨは気持ち悪い」w

象徴が「天皇は神聖にして侵すべからず」てな大日本帝国憲法の条文だったりする。しかし、これは「立憲君主制」を表わす西洋立憲主義憲法の定番表現であって、別に「現人神」だからなんてな表現でもなんでもないと分れば、右翼=神懸り集団てなことじゃないと理解できたりする。つまり、旧憲法を真っ黒に塗って勉強全くしてなかったというだけwだと分ったりする


ただ、あの方が志を持って立てられた運動が、ちょっとその志からずれた方針で維持されていた面があるのではないかとは思います。

あの運動自体はもう下火になっておりまして、むしろ新しい、日本国憲法の三大原理すなわち、国民主権主義、平和主義、人権尊重主義を是認した上でさらにもっとこれをよくしていく憲法を作りましょう、という前向きの改憲論が、今の世論調査などを見る限り、明らかにトレンディーになっています。

三大原理、ってどこに書いてありますか?
コレも戦後憲法学の抽出提示した「仮説」でしょ?


政治家はトレンドをつくると同時に、トレンドに乗ってトレンドを拡大していく、そういうお仕事でもあると思いますので、この点ははっきり申し上げておきます。

ちなみに、私が三十歳のとき、教壇で改憲論議の話を学生にして手を挙げさせましたら、五百人教室で賛成は二人しかいなかったのです。しかし、今教室で手を挙げさせると、圧倒的多数が、良い憲法を作りましょうよ…という方に手を挙げてくれます。そのくらい時代は変わっているのです。

もう一つ、手続論の問題として、こうなったら、いっそのこと新しい憲法を作ったらという議論が時々出てきます。私は、実質的にはそれは大賛成です。

ただ、手続論として、今の憲法をずたずたに皆で筆を入れて改正するという手続を一度やらなければいけないと思います。

「学者」は仕事だからどんどんやっていただいても、政治日程とか急迫な世界政治の展開考慮すると、9条2項削除論だけに的を絞ってまず「改正」を経験したほうが実際的だと思いますけど。議論しましたそのままですwってのが一度あったわけでしょ?

なぜかというと、アメリカ人は二百年の間に二十何回も憲法改正を、主権者として気楽にやっております。

あすこは憲法に禁酒条項いれちゃうお里でしょw

日本では、憲法改正は一種のアンタッチャブルなタブーになっているのです。

どうしてかと考えますと、まず明治憲法は、徳川幕府を倒した明治天皇という神格化された人物が――あの告文の文言からそうなのですが、神からいただいて、偉大なる明治天皇が臣民に下げ渡したものなのです。

ですから、それこそ畏れ多くて神々しくて触れなかったわけです。

筆など入れられないのです。日本国憲法はどうかというと、現人神たる天皇陛下を倒したアメリカ軍のジェネラル・マッカーサーが、「嫌だったらもう一遍ピカドンでも浴びてみるか」と、日本の当局者を脅しながら「下げ渡した」ものなのです。

日本人は、絶対的な権力者から憲法を賜った経験しかないものですから、我らが主権者・国民様で、この国の主で、この国をうまく政治家と官僚に使わせて、私たち主権者に幸福すなわち、自由で豊かで平和な生活をよこしなさいよ…という関係を忘れてしまっている。

その約束文書であるマニュアル、憲法を自分たちで筆を入れて書き直すという経験を一度してみると主権者であることがぴんとくると思うのです。

やっぱり「主権」って言葉にこだわりますか?w
「唯一」「絶対」「無制限」とかの属性ある言葉ですけど


そういう意味で私は、かなり全面改訂に近いことになりかねないと思いますが、新憲法の制定という断絶的な経験よりも、着実に階段を上がっていく現憲法の「改正」経験を一度はさせたらいい、という立場をとっております。


■そこでやっと本論に入りますが、まず前文で、政府の行為によって再び戦争が起きないようにと書いてありますが、これ自体が無責任というか、要するに、戦争は勝手に政府がやったもの、もっと歪曲すれば軍部がやったもの、さらに、中では陸軍だけが悪いというような一種の常識があります。

ココに中共が突け込んだ。
てより「日本国民も被害者です」てなお為ごかしに乗ったんでしょね、サヨクがwネ


しかし、戦争というものは、昔の体制下ですら、一種の国民世論の裏づけがなければできなかったはずです。君主主権国家であっても。

大日本帝国憲法に「主権」てな言葉出てこないでしょ?「統治権」は出てくるけど。統治権の「総覧者」としての天皇

そういう意味で、戦争というものは民族全体が世界史の流れの中で決断して起こすことであり、つまり権力者の位置にいない国民大衆にも歴史的責任があるという感覚はやはり皆が持っていてもらわないと困る、と私は思います。

それどころか「行け行けどんどんと、朝日新聞が世論煽って、また基本的にそういう気分・空気があったからマスコミは敏感にそれを察知して拡大して提示したんだろな

その点、この前文が実に無責任な民衆をつくってしまうことになります。

それから、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と、どうやって北朝鮮の前で言えるのか、国際政治の現実においてはあり得ないことです。

完全な「お花畑」論理w

こういうとぼけた憲法――どこかの政党の方が党首選に立候補するときに、それは日本の理想だからと言いました。理想を私は否定する気もないし、理想を守りたいということも同感ですが、要は、現実の生活の中に理想を押しつけようとするから、そこに論理の飛躍があって無理があるというだけのことであります。


■それから、天皇制についてですが、これはうっかり論及しますと街頭宣伝車がやって来たり、突然、私の愛する日の丸が私の愛さない人によって掲げられてご挨拶を受けたりするのですが、そんなことで発言にタブーがあってはいけない、と私は思います。

比較憲法学、つまり世界の憲法を通観して議論する学問ですが、世界の常識からすれば、天皇は日本の国王ですね。

ただ、もちろん宗教的背景がありますから、法王のたぐい、エンペラーという表現になっておりますが、要するにキングのたぐいでありまして、ヘッド・オブ・ザ・ステート、国の顔、元首です。

日本の憲法学の主流派は、日本には元首はないとか、元首は総理大臣だとか、元首は内閣だとか言います。

元首とは、生身の肉体をもってその国の顔の役割をする公的地位で、イギリスでは女王で、アメリカやドイツでは大統領です。

これは、よく分かっていただけると思いますが、最高の権威性があって、必ずしも、最高の権力性があることは必要ないのです。

権力性は総理にあります。

そういう意味で紛れもなく、天皇は、日本の君主にして元首であります。

と言うと、また「大元帥様の再来」かというような議論にされますけれど、我々に軍国主義的必要と動機がない以上、加えて、シビリアン・コントロールもありますし、立憲君主制が徹底している現代において、軍人・大元帥・天皇 が始まるわけもありません。

ですから、そういう議論に惑わされずに言い返していっていただきたいと思います。

それから、これは現実の問題になりつつありますが、歴史の中でも女帝という先例は数人おられます。代としては十代ぐらいです。

思えば、二十一世紀を前にして、天皇は男でなければならないなどとこだわる理由がないような気がいたします。少なくともこれも議論の対象にはなるということであります。

平らな紙の上の議論に過ぎないですがね、それは。一方に
「伝統」という要求もあるわけでして。決して「女帝」は存したが「女系」はなかったという指摘にどう答えられるか....


それから、さきの天皇陛下の崩御の際の大喪の礼の時、私はテレビで見ていて憤慨したんですが、あの方のお家の宗教は神道です。なのに、ここからは国の金がかかるので鳥居を取り外したとか、何かわけのわからないことをやっていました。

変な言い方をしますと、あの方はあの方の宗教で葬られる権利があったはずです。そういう意味では、あの方はあれで「成仏」するのかなと――仏という言い方も変ですが、本当に心配しました。

「神仏習合」てなことでいいんじゃないですか?w

神道の体系である天皇制、それは歴史的事実です。その歴史的事実を日本国憲法がそのまま持ち続けると決定した以上、天皇制が天皇制であり続けるために必要な宗教儀式は、政教分離原則の明文例外のはずです。

例えば貴族制度を認めないと、法のもとの平等だと憲法に書いてあります。しかし、皇室制度は認められています。皇室制度がなかったら天皇制は成り立たないのですから。簡単な話です。原則としてこれはいけません、ただしこれは例外として許しますというたぐいです。

だったら「女帝の問題」も同じく、一般の「男女平等」でくくるわけにはいきませんですねぇw、となりません?

皇太子殿下の御成婚のときに我々はいろいろ宮中の神道儀式を見せていただきました。あれはまさに神道そのものです。あれが政教分離違反だといって全部取ったら、彼らは結婚もできないわけです。

「神道」は、宗教というより「日本固有の伝統習俗」といったほうがぴったりくると思うのですけど、...

あるいは天皇陛下は毎日のように宮中の賢所で何をなさっているのですか、宗教儀式でしょう。それでこそ天皇なのでしょう。

ですから、憲法七条の天皇がなさる国事行為の中で、十号に「儀式」という言葉があるのですが、私はこれで大喪の礼はいけると主張したのです、少数派でしたけれども。

しかし、法制局は不安だったようで、鳥居を解体するようなばかなまねをしたわけです。

あれは外国からの賓客の前で大変ぶざまなことをしたと、私はいまだに情けない思いでおります。

だからやはり「伝統尊重」と「米独立革命」以降の近代思想との折り合いどこでつけるかの「決断」の問題かもしれないですかねw

■それから、憲法九条に関しては、「戦争の放棄」というタイトルそのものが、まずはどうしようもなくいただけない。

戦争は放棄できるのでしょうか。放棄できるのだったら簡単です。北朝鮮の方に向かって、「おい、戦争は放棄したぞ」と言えば済むわけでしょう。

しかし、あちらが撃ちたいときはテポドンでも何でも撃ってくると思うのです。あるいは、クウェートがイラクのフセインに侵されるのが三日前ぐらいからもう分かっていたわけです、世界中から情報が来て。そのとき、クウェートの人々が国境に立って、「戦争を放棄しました」と言って騒いだらイラクは来ませんでしたか。そんなことはあり得ないですね。

もっとも、私たちが他者に対して侵略戦争をすることだけは、私たちの責任で放棄できる。これは明確に放棄できると思います。

ですから、第二章のタイトルが「戦争の放棄」などというのは、教養がないと疑われると思います。やはりこれは「国家安全保障」と書きかえるべきだと思います。

そして、九条についていろいろ議論はありますし、過去のいきさつもありますが、要は私たちの主体性で決めるとしたらこれがいいと、一応御提案だけ申し上げます。

侵略戦争の禁止。自国の不当な要求のために軍事力をもって他国に押しつける姿勢は放棄する、これは分かり易い話です。

国が国をいわば強姦すること、これがいけないのはもう国際法の常識ですし、我々もその常識を共有しています。

ただ、存在するものは存続する権利がある。日本という国は滅んでいいなどという人は議論の外にいてほしい

私は、日本という国は存続し続けてほしいと思っております。なぜならば、その上に私と私の愛する者、家族などが自由で豊かで平和な生活を維持してきたし、これからも維持していく権利があるからです。

だれだって道端で人に襲われたら、逃げられるだけ逃げ、逃げ切れなくなったら反撃する、これはどう考えても合法です。

国だって同じことです。人の集団としての法人格ですから、自衛権がある。

ただ、自衛権の行使の制約の問題は御議論いただきたいと思いますが、自衛権があるということは当たり前の話だと思います。

それから、米ソ二大大国の冷戦時代が終わって、逆にアメリカやロシアを含めた中規模大国による集団相談指導体制に入ったやに見える世界の中で、日本は世界を利用しているという意味もあって、もう一つは日本の大きさからいって、責任があると思います。

将来的には国連軍の形成に参加すべきであると思いますが、現時点では、自分の巻き込まれていない第三者の戦争にとめに入る、仲裁戦争、これは聞こえが悪いなら国際警察活動と呼んでこれも当然普通の国として認めるべきである、と思います。

それから、アメリカの例などを見ても、内閣総理大臣がコマンダー・イン・チー フ、最高司令官であるということを明記するのが憲法として普通だと思います。

これは逆に言えば、シビリアン・コントロールの明確な宣言であります。

さらに、周辺事態関連法が通りましたので、これから有事立法の議論が始まりますが、本来、有事法制というものは明確な人権停止と権力統合の瞬間をつくるわけですから、これは法律で片づけてよい次元の話ではありません。

本来、憲法の中にそういう例外を作るという根拠を置いておかなければいけないはずです。ですから、有事法制の根拠規定を憲法の中に入れるべきだと私は思います。

国防の義務というのは、一種の倫理規定で、この国は我々の国であるから、何かあったら我々以外守ってくれる者はいないということを明確にするために、書いて当たり前です。

ただし、宗教上の理由などでどうしても嫌だという人がいるわけです。つまり銃を持って人に危害を加える可能性それ自体が我が宗教上の罪に当たって、成仏できないとか天国に行けないとか、本気で脅えている人がいます。それは信教の自由ですから。

アメリカの判例を読んでいたら実に笑わせますが、そんな人に無理やり鉄砲を持たせても効果はない(役に立たないどころか他の兵士に危害だ)から許してあげなさい、と。

それもそうです。ですから、そういう人はむしろ戦場にいると邪魔ですから、例えば後方でクリーニングをやっていて下さいとか、人々が戦争に行って、町中の事業所に人が足りなくなるとそこを手伝いなさいとか、代替役務を与えることによって兵役を免除してあげる、こういうことは合理的にやったらいいと思います。

これはごく普通の、世界の標準的憲法規定を御紹介したまでであります。特別に恐ろしい話ではないと思います。


■第三章につきましては、まず、外国人の権利の保障とその限界を明記すべきです。

これは実に不可解な、日本に特殊な事情ですけれど、外国人に参政権を認めろという話があります。

私もアメリカで三年間働きました。それは二国間条約で免除されたことにはなりますが、納税の義務は負っていました。

だからといって参政権をくれるものと思ったこともないし、よこせと言ったこともありません。

けれども、在日韓国人は、日本で働いて税金も払っているんだ、参政権をよこせ、と本気で言います。在日の子どもたちに授業で食ってかかられたこともあります

しかし、税金が参政権の根拠になるでしょうか。なったら、多くの場合、先生方は納税者ですけれども、先生方の奥様に参政権がありますか、一般に単なる扶養家族である場合が多いと思うのです。納税と選挙権を絡めたら、それこそ、その昔の不平等選挙に戻ってしまうのです。

参政権は国籍から派生するものです。なぜならば、国籍とは、何かあった時この国と一緒に沈む身分的関係です。

つまり我々は、世界史の現実という荒海の中を「日本丸」に乗って航行しているわけで、かじをとるのは総理大臣です。

そのかじをとる人に間接的に指令を発する権能が参政権です。ですから、この船が沈みそうになった時に、「さよなら、私は母国へ戻ります」と言える逃げ道のある人に参政権を与えていいのでしょうか。

ましてや、「民族四十年の恨み」などと公言している人々に与えていいのでしょうか

これは理論的にもおかしいけれども、政策としてもまずいと思います。

選挙権どころか「教育委員」「公安委員」の選定罷免権までついてたナw

そうすると、「外国人は人じゃないのか」、「人権というのは人の権利というじゃないか」と言われてしまいます。それはそうです。ですから、外国人だから生命権がない、目の前を歩いたら殺していいとか、だれもそんなことは言っていません。

外国人にも人の権利は保障する、ただし、国民固有の権利は保障しない。

どこの国の憲法も、もともとこれほど国際化されるとは思っていませんでしたから、当然、人という表現は国民であることを前提に書いてあるのです。たまたま人と書いてあるから、外人も人だと言いながら、いろいろなところで議論が起きているわけです。それはどこかで整理したらいい。

人の権利は国籍にかかわらず保障する、ただし、国民固有の権利は保障しない、これだけのことです。

これが国際社会のマナーだと思います。外人は外人として遇すること、あるいは外人は外人らしく振る舞うことがマナーだという ことです。


それから、情報公開法制が今度できましたが、私が非常に不満でしたのは、「政府の説明責任」という根拠です。

つまり、すでに憲法上、裁判は公開裁判です。同じく国会は当然公開です。しかし、行政府だけは公開と規定されていません

ですから、主権者・国民は権力者が何をやっているかを詳しく見ることができないから、情報公開が求められ、つまりこれは行政府に向けられたものです。

それに対して今回の立法では政府の説明責任、つまり「説明してやるよ」になってしまっているのです。

世界の常識からいけば、主権者・国民、つまりこの国は国民のもの、だから国の持っている情報は国民のもの、だから自由にアクセスさせろ――。もちろん手続論的にはかなり乱暴ですけれども、これが情報公開の本質です。

そういう意味で、国民の知る権利という根拠規定がないから、情報公開法制は、一歩間違うと情報管理法制になっていく危険性がある。ですから、知る権利という新しい人権を憲法の規定に入れたらこの 議論はなくなります。

それから、公務員はただの生身の人間ではありません。権力を預かっている。国などというのは御存じのとおり抽象的な法人格で、国家の名で行動する資格を持った自然人がいて初めて、つまり国会という建物があっても議員会館があっても国会は動きません。先生方がいるから動くわけでしょう。

そういう意味で、公務員というのは具体的に権力を握った生身の人間ですから、その他の非権力な私人としての国民と同じ扱いでよいはずはなく、公務員の政治活動と労働争議は禁じられるべきなのです。

これは確立された最高裁判例ですけれども、いまだに不満を言う人がいます。

もちろん、ここで言う公務員というのは一般職公務員であって、政治家はむしろ党派的に行動することが全体として民意のモザイク模様になって国のためになるわけですから、政治家は大いに党派活動をなさって下さい、という例外は理論的に明白です。

■それから、初等中等教育で使用される教科書の検定は検閲ではない。

検閲というのは、出版物の公刊前に公権力が中身をチェックして、気に入らないと発禁にするというものです。これは表現の自由が保障された社会ではあってはならない。

しかし、初等中等教育の子どもたちは知的抵抗力のないいわば「壊れ物」でありますから、そんなものに教師が自由に情報を提供したら恐ろしいことになってしまいます。洗脳です。

毎日日の丸を掲げて、皇居に向かって遙拝する子どもたちだけのクラスができたり、「信濃町が日本で一番尊いところだ」と思う子どもたちだけで一クラスできたり、あるいは「代々木が日本の中心だ」と思う子どもたちだけで一クラスできたり。

こういうことは大人になってから自分の責任で選ぶべきことです。

そういう意味で、教科書の検定などは表現の自由の外にあるのは当たり前の話なのです。

表現の自由というのは、抵抗力のある大人が言い合う世界の話でこれを守るために検閲の禁止もあるのです。ですから、これも無駄な議論を封鎖するために憲法の中に書いたらよいと 思います。


■それから、プライバシー、私に関する情報で私が人に知られたくないと思うことは隠す自由です。もちろん、先生方の場合はだめですね。公務員及び公職候補者はプライバシーが制約されます。私は民間人ですから、私に愛人がいようがいまいが、それは私と愛人の問題で、せいぜい発展しても私の女房が納得すれば済む。納得しなければそれなりの手続をするだけの話ですね。

しかし、公権力者の場合は、それが公的関心事になる。それは、この人に権力を預けておいていいのかしらという人格判断の材料になるからであります。ただ、その上でも奥様と話がつき、有権者が納得すればそれ以上の問題は起きないわけです。

細分化された論点持ち出すと、肝心の防衛力がまた「お花畑」の彼方にいっちゃうんじゃないですかぁ?w



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