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憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

「孫文に裏切られた日本人たち」

(2004/11/29~2004/12/04)6/6

◆【新地球日本史】(124)明治中期から第二次大戦まで

孫文に裏切られた日本人たち(1)

中国、台湾双方の「国父」孫文

「台湾吸収」の格好の理屈になりうるから、最近は「孫文は支那人」てことで台湾史と分割する動きに出てるネ

十数年前まで台湾へ行くたびに、国民党幹部から「あなたは宮崎滔天(とうてん)先生のご親戚か? あの方にわが『中華民国』は大変お世話になった」と言われ、苦笑した経験がある。

1949(昭和24)年、国共内戦に敗れて台湾へ逃げ込んだ蒋介石は、孫文を「国父」とする中華民国の正当な後継者として歴史的正当性を主張した。

台北市の真ん中に「国父紀念館」を建て、一番の目抜き通りを改称して孫文の雅号「中山」を冠した。

「中山」いわくは、多種あるなぁ。下宿の大家の名前「なかやま」だってのは、なかやま公園とか読むし、ちゅうざんに拘る人もいるし。 で、あえて「なかやま」言うとムキになったりするから揶揄するにはちょいとしたアイテムとw

その中山北路の中枢部分を東西に横切る幹線道路は北から「民族路」「民権路」「民生路」である。これは孫文が唱えた「三民主義」の三大要素に由来する。

中国大陸を席巻した毛沢東も、革命の正当性を誇るため孫文を「国父」と言って飾り付け、未亡人の宋慶齢まで国家副主席に祭り上げ、歴代皇帝よりも大きな陵墓を南京郊外に造成する(中山陵)。

こうして中国も台湾も、ともに形骸だけの三民主義を依然として表看板にしている。



ともかく孫文ほど日本に世話になった政治家は珍しい

ところが、現代中国は史実をねじ曲げて正面から日本の革命支援を評価しないのだ。

中華思想と華夷秩序の矜持(きょうじ)が、日本の深い関与という史実を受け入れないのだろう。

まして1993(平成5)年から江沢民前国家主席が開始した反日キャンペーンでは、全土二百カ所に「反日記念館」をつくった。

歴史の歪曲(わいきょく)、改竄(かいざん)は朝飯前の国だけに、展示は「反日一色」を基軸とする支離滅裂な内容が目立つ。

典型のひとつは、かの柳条湖事件を記念する建物で瀋陽にある「918記念館」だ。ここには首をかしげる展示と解説が多い。

日本の満州経営の解説に何ほどの深みもなければ、その「歴史認識」は実態から遠い。

おざなりの「帝国主義」「軍閥」という短絡的な図式でしか分析されておらず、「満州は日本帝国主義の植民地経営」であって、「満州から石炭などの資源を略奪した」云々(うんぬん)。

最も驚かされるのは「日本軍国主義時代のイデオローグ」として大川周明北一輝頭山満内田良平らの顔写真が、あたかも犯罪者のように並んでいる個所である。

この人たちこそ孫文革命を熱情をこめて支援し、中華民国の建国に協力したのではないのか?




日露戦争に勝った日本には当時、二、三万人の清国からの留学生がいた。
1905(明治38)年に東京で、清朝打倒を誓う組織が密かに結集し合同した。

孫文が率いた興中会、章炳麟が率いた光復会、宋教仁が率いた華興会が大同団結し、「中国革命同盟会」が内田良平の屋敷で旗揚げされたのだ。

もっとも革命同盟会は実態が曖昧(あいまい)で、組織は分裂状態。

とても革命を担う主体ではなく、中国の実態はといえば、北閥華南閥が猖獗(しょうけつ)をきわめ、権力状況は星雲のごとく混乱の極みにあった。

頭山満、内田良平ら浪漫的な大陸浪人に加え、宮崎滔天など純粋な日本人が私財を擲(なげう)ち、生命をかけて孫文を最後まで助けることになる。

のちに辛亥革命が成功し、1912(明治45)年1月1日に孫文が「臨時大総統」に祭り上げられたときの「就任宣言」で、孫文は「伍族協和」を謳(うた)い、「漢満蒙回蔵ノ諸地ヲ合シテ一国トナシ、漢満蒙回蔵ノ諸族ヲ合シテ一人ノ如カラントス」と書き残した。

ところが1921(大正10)年、孫文は『三民主義の具体的方策』を著し、「漢族ヲ以テ中心トナシ、満蒙回蔵四族ヲ全部我等ニ同化セシム」。

要するに漢族があくまでも中心だと宣言し、日本の理想とした五族協和路線から大いに隔絶を見せていくのである。

(評論家 宮崎正弘)





◆【新地球日本史】(125)明治中期から第二次大戦まで

孫文に裏切られた日本人たち(2)

「恵州蜂起」に殉じた山田良政

日清戦争直後から清朝は日本へ夥(おびただ)しい留学生を派遣した。

明治維新によって近代化に成功した日本を兄貴分と見立て、大いに学ぼうとしたのだ。

一八九六年といえば、下関条約の翌年である。はやくも清国から最初の留学生十三人が来日。以後、澎湃(ほうはい)と日本留学熱が中国全土に広がり、前途有為の青年たちが日本へ、日本へ、と目指してくる。

一九〇五年、日露戦争に日本が勝利すると、留学ブームは頂点を打つ。合計三万人近い在日留学生が日本の各地で近代の思想、技術、医学を学んだ。

そのなかには文豪・魯迅も、革命家で女傑として知られた秋瑾も、蒋介石梁啓超もいた。

ロンドンからの帰路、孫文はエジプトからトルコにかけて航海中に、日露戦争で日本の勝利に狂喜熱狂する中東、アラブの人々を目撃、日本に大いに期待する。

軍事を学ぼうとする留学生のために、日本は陸軍士官学校予備校を開放したばかりか、振武学校を創設し、そこで近代軍事を教えた。

仮想敵国に近代軍事教練などをするはずがない。
日本は中国の興隆を心から願っていた証拠
ではないのだろうか。



百年後の現在、日本の頭越しに米国へ留学した中国人は累積四十万人を突破している。

反体制、自由・民主、法輪功運動の拠点でもあり、現代の孫文をめざす魏京生王丹も、中国へ潜入して無期徒刑を受けた王炳章も、ニューヨークを拠点に「中国民主党」を組織した。

つまり革命派を助けた日本というかつての舞台がそのまま米国へ移転した様子となった。日本は政治亡命を認めない日和見主義国家となった。



孫文は日本で盛んに革命を煽(あお)った。しかし、一度も蜂起の現場に居合わせてはいない。

孫文を信じて武装蜂起に参加して生命を落とした日本人がかなりいるが、その第一号は山田良政である。

山田良政の家系は津軽藩士である。北海道昆布会社の上海支店員となり、語学の才能を買われて陸軍通訳。

「戊戌(ぼじゅつ)の変」で康有為が天津に逃れ、譚嗣同、王照らは光緒帝を救出して海外に亡命政権を樹立しようと動いたが失敗。そういう激動を山田は現場で日々目撃し、悲憤をひろげた。

この間にドイツが膠州湾を占拠、山田は実情探査のため現地に深く潜入した。

このため旅順でロシア兵に捕まるが、からくも脱出に成功、こうした体験を書き残した山田の文章のなかに、『国を愛せんとすれば国賊』という言葉がある。

一九〇〇(明治三十三)年、蜂起を準備中だった恵州革命軍に義勇軍と軍資金、武器などを送るため、山田は孫文と上海から南京へ至る。

が、革命蜂起の準備が甘く、孫文は台湾へわたり、当時台湾民政長官をしていた後藤新平から援助の約束をとりつけた。

ところが日本の政権が変わり、孫文への援助は反故(ほご)となってしまった。

ほかの日本の支援者も蜂起は時期尚早と山田に勧告した。

革命軍はわずか千余人。絶望的戦況の中、山田は同士との約束をまもって戦陣に身を投げて処刑された。

彼の死を悼み、孫文が揮毫(きごう)した碑は弘前に残る。

「山田良政君ハ弘前ノ人ナリ。庚子閏八月、革命軍恵州ニ起ツヤ君挺身シ義ニ赴キ、遂ニ戦死ス。アアソノ人道ノ犠牲、亜洲ノ先覚、身ハ殞滅(いんめつ)スルトイエドモソノ志ハ不朽ナリ。

民国八年九月二十九日 孫文謹撰并書」


革命への情念に燃え、多くの日本の若者が中国へ駆けつけ戦場に散った。

(評論家 宮崎正弘)





◆【新地球日本史】(126)明治中期から第二次大戦まで

孫文に裏切られた日本人たち(3)

資金援助を続けた平岡浩太郎ら

義和団の乱前後の中国はといえば、政治の基本構造として清朝の弱体化がすすむ一方で、地方軍閥の群雄割拠がつづいていた。

抜本的改革は何もなされず、革命派は組織されていなかった。

処世と組織力にぬきんでた袁世凱が、着実に他の軍閥を排斥し、権力の階段を上り詰めていく過程だった。

孫文が唱えた民主革命など端(はな)から存在しないばかりか、中国人の多くにとって理解不能だった。

袁世凱はもともと北洋軍閥・李鴻章の子分である。目先が利き、機会便乗にかけては天才といっていい男である。

李鴻章の中央政界における没落は、日清戦争の敗北が原因だった。

子飼いの「淮(わい)軍」と北洋艦隊を日本に殲滅(せんめつ)させられたために急速に発言力を失った。

三東半島突端、大連向かいの)(威海沖にある劉公島に中国は1995(平成7)年に「甲午戦争記念館」を建て、海軍司令として日本と戦った丁汝昌の巨大な銅像を建立し「反日、愛国教育」の拠点にした)


すきに乗じて袁世凱は「新建陸軍」なる私兵を培養する。

しかも従来の腐敗しきった規律のない軍隊とはちがって袁世凱の「新軍」は軍律厳しく、兵員数のごまかしもなく、訓練が行き届いていたという。

宮廷改革をめざす戊戌(ぼじゅつ)変法派のクーデター計画に理解者を装って巧みに近づき、土壇場で康有為ら変法派を平然と裏切り、さらに義和団の乱の混乱に乗じてほかの軍閥が衰退してゆくなかで、袁世凱は直隷総督に大出世する。その処世術、『三国志』なみに波瀾(はらん)万丈だ。

袁世凱は親分だった李鴻章の誇った勢力圏を凌駕(りょうが)し、蓄えた財産と軍の陣容は膨らみ、ついには軍機大臣に上り詰める。

袁世凱はここでさらりと変身し、鉄道権益をドイツ、米国、イギリスに売り渡し蓄財に励んだ。

やがて西太后が死ぬと、周囲の恨みを買ってきたため、「袁世凱を処刑せよ!」という清朝の内側の声が高まった。

袁世凱はすかさず天津の租界へ逃げ込む。しかし、袁世凱の天津での雌伏はそれほど長くはなかった。

1911年、武昌で反清を掲げる集団の突発的な蜂起が始まった。

この決起は孫文と一切関係がなく、そもそも孫文は米国にいた


日本では福岡を中心に赤池炭鉱などで巨富を築いた平岡浩太郎(内田良平の叔父)、中野徳次郎安川敬一郎らが孫文の革命軍を援助するために資金、とくに武器代金の援助を行った。

玄洋社黒龍会が中心だった。

当時、内田良平が「軍器代金」などといって三井物産から二十五万円を借用した書類が残っている。



だが日本の思惑より中国は謀略が進んでいる国である。

善意は忽(たちまち)にして裏切られ、マキャベリストたりえない宮崎滔天や、大人の風格を誇る頭山満など、まだ孫文に夢を託すという浪漫主義から抜けきれなかった。

大陸では失脚したはずの袁世凱にまたもや出番がきた。

1911年十月、軍資金集めで渡米中の孫文のもとに、辛亥革命勃発のニュースが飛び込む。

孫文は列強の資金援助を期待して、欧米を訪問してから悠々と帰国した。

弁舌さわやかにして金集めのうまさと外国への知名度から初代臨時大総統に推される。

「孫大砲」または元祖「うどんやの釜」かw

いわば棚ぼた大総統だった。


翌1912年1月1日、中華民国が誕生した。

しかし、このまぐれあたりの孫文政権、「極めつきの短期政権」であえなく潰(つい)え、袁世凱の軍事力が圧倒的にものをいう時代になるのである。





◆【新地球日本史】(127)明治中期から第二次大戦まで

孫文に裏切られた日本人たち(4)

満蒙独立のため奔走した川島浪速

当時の日本には大陸雄飛を夢見る、ロマンティスト兼革命家が大勢いた。

なぁ~んかなぁw

川島浪速もその一人である。

孫文が満蒙は漢族の地にあらず、いずれ日本へ譲渡も辞せずとほのめかした事実は、多くの証拠文書からも明らかである。

孫文は辛亥革命前まで「駆除韃虜、恢復(かいふく)中華」(中国革命同盟会軍政府宣言、一九〇六年)を謳(うた)っていた。

明治維新をモデルとした近代化の発想があった。

しかし国際情勢は激変していた。

日露戦争に辛勝した日本は満州において鉄道の権益を譲渡され、大連旅順ばかりか奉天(瀋陽)新京(長春)の都市作りが急がれた。

社会的インフラ、学校の整備などの進捗(しんちょく)ぶりを目撃した漢族や朝鮮族が陸続として万里の長城を越えて、東北部へ移住していた

清朝が興隆をきわめていたころ、漢族の東北部移住はかたく禁止されていた。

だが、この夥(おびただ)しい漢族の流入に、原住民たる満州族蒙古族は、不安とともに清朝復帰のナショナリズムに目覚めていくのである。

「宗社党」という組織が旧清朝王族らによって組織され、大陸浪人の川島浪速らがこれを密かに支援した。

日本で澎湃(ほうはい)とあがった「南満州および内蒙古を経営して列強の大陸進出分割を阻止し、東亜恒久平和の確立」という世論を背景として大陸浪人たちの運動に軍のひそかな協力があった。

すなわち民間の孫文支持派も満蒙独立支持派も理念では通底するものがあり、日本政府と軍は表向きの外交と裏での工作支援を使い分けていた。

ところで川島浪速とは何者なのか?

川島は松本藩の出身で、中国語を学び、大陸を放浪、日清戦争では通訳として従軍した。このとき乃木希典とも知り合った。義和団の乱でも陸軍の通訳を務め、こうした人脈を生かして清王朝の王族と親しくなる。

やがて粛親王の娘、金璧輝を養女(川島芳子)とした。

彼女はのちに「東洋のマタハリ」と言われる女傑になる。

一九一一年の辛亥革命とともに、川島浪速は北京から粛親王を脱出させた。ついで日本陸軍はカラチン王、巴林王を北京からひそかに脱出させ、王族らと謀って満蒙独立国家建設を画策する。カラチン王府に日本は以前から河原操子を「教師」として派遣し、王府内外の動きを探らせていた。

田中正明氏の偶然古本屋で買った100円本で、ここいらのこと詳しく書いてあったのがあったな。映画「203高地」の冒頭シーンの処刑された日本人の二人が、このカラチン王府での河原操子(みさこ)の手引きでの行動とか説明があったような記憶

川島らは王族の兵集めに協力し、武器を調達したが、王族のなかには反日派で袁世凱のスパイがいたために発覚、各地で袁世凱と激突を繰り返し、かなりの日本人が死んだ。計画は中断された。

一九一五(大正4)年、またも独立に立ち上がった内蒙古のバプチャプ将軍に呼応して清朝復活を夢見る馬賊などを糾合した川島らに内田良平らも合流した。

ところが袁世凱急死のあと、日本を牽制(けんせい)する列強が満蒙独立運動に反対したため、日本はバプチャプ将軍の軍事行動支援を取りやめてしまった。

孤立したバプチャプ将軍は不遇のなか、戦場で死に、その後、紆余(うよ)曲折を経たが、満蒙独立軍はハイラルを占領し「ホロンバイル独立」を宣言する。

だが、ひそかに日本軍が支援したホロンバイル政権も、ロシアと中国の軍事攻撃でわずか百日で崩壊した。

(大東亜戦争中、日本はハイラルに大規模な軍事要塞(ようさい)を建設した。現在この地区は、内モンゴル自治区ホロンバイル市ハイラル区と行政上呼ばれている)

※ここの旅行記と写真が宮崎氏のHPにある。

http://www.nippon-nn.net/miyazaki/travels/


 (評論家 宮崎正弘)





◆【新地球日本史】(128)明治中期から第二次大戦まで

孫文に裏切られた日本人たち(5)

孫文の変身と内田良平らの離反

辛亥革命が「成功」し、孫文が初代大総統になったはずなのに、軍事バランスから勘案しても、孫文は封建的軍閥と妥協せざるを得なかった。

南京の革命政府は十分な軍事力も資金もなく、初代顧問に内田良平を仰ぎ、日本から資金を導入したりした。

全土にはまだ清朝の残党が徒党を組んで地方に残存・蟠踞(ばんきょ)し、しかも封建的モラルを重視する住民が多かった。

清朝の軍閥である袁世凱は革命政府を冷ややかに見ていた。

明治維新がなったのに、首都を守る近衛兵さえいなかった明治政府。それでも政権転覆を狙う反乱は起きなかった日本と中国はじつに対照的である。

             ■□■

1912(大正元)年3月10日に袁世凱は北京で臨時大総統に就任する。

内田良平らは信じられなかった。

孫文は裏切りに走った、と認識した内田良平にとって孫文への支援の限界を感じ始めていた。

歴代王朝が例外なくそうであったように、絶対権力は絶対的に腐敗する。袁世凱政権も、すぐさま腐敗が始まった。

第一回国会選挙で、「中国革命同盟会」を中軸とした国民党が勝利するが、十日後に国民党の事実上の党首だった宋教仁が袁世凱の刺客によって暗殺される。

その直後から国民党幹部を買収し、袁世凱軍事政権の色彩を濃くしていくのだ。

一方で革命側も腐敗しはじめ、あの熱気は失われていた。

それでも第二革命の必要性を感じた革命派は、李烈鈞を中心として「討袁軍」を組織し、まず江西省の独立を宣言。

これには江蘇、安徽、広東、四川、福建、湖南などが加わった。

だが討伐軍は厳密な軍事組織でもなく、訓練を積んでいたわけでもないから、袁世凱のプロの軍事力にかなわない。

たちまち粉砕されて、李烈鈞は、孫文同様に日本へ亡命する。

一九一三年二月に来日したときは一カ月間、各地で歓迎され、あたかも凱旋(がいせん)将軍のごとくの国賓待遇だったが、第二革命に挫折して、意気消沈と日本に亡命した孫文に対して日本政府は公式的な歓迎ができなかった。

しかし袁世凱が要求する身柄引き渡しもできない。孫文が在日している現実を見て見ない振りをする監視体制を敷いた。

頭山満らは中村天風らを護衛に選び、次々と送り込まれた袁世凱の刺客から孫文を守った

             ■□■

日本での九百九十三日間もの長い亡命生活2年7ヶ月)中、その面倒(屋敷調達、再婚式の世話、カネの工面まで)を見たのは日本の志士たちだった。

日本亡命時代に孫文は「中華革命党」を結成し、護法運動を起こした。

その一方で少なくとも二人の日本女性との間に子供をつくるほどの艶福家でもあった。

だが南北妥協以来、内田良平をはじめとする日本人らは孫文支援に冷淡になっていく。

同時に袁世凱は反日ナショナリズムを政治的な梃子(てこ)として利用し、イギリスに近づいて日本を牽制(けんせい)させるなど、ありとあらゆる手段を用いて革命派と日本との離間工作をおこなった。

孫文は変身してゆく。

満州の日本への譲渡を、孫文はめったに口にしなくなった。袁世凱が仕掛けた反日ムードを目の前にして、かれは利用価値のなくなった日本より資金が流れ込み始めたソ連に魅力を見いだすのだ。

広東を中心に政権樹立に努める日々の孫文は、ロシア革命に学んで中華革命党を「中国国民党」に改組した。

この時点で孫文の日本への裏切りは決定的だった。

おりからソ連は“世紀の謀略”を仕掛け始めていた。

(評論家 宮崎正弘)





2004/12/04

◆【新地球日本史】(129)明治中期から第二次大戦まで

孫文に裏切られた日本人たち(6)

日本時代の足跡消す中国の記念館

1917(大正6)年、ロシア革命。
1920(大正9)年にコミンテルン第二回大会が開催され、「民族・植民地問題に対するテーゼ」を採択している。

すなわち植民地から独立しようとする各地のナショナリズムを共産主義運動に巻き込み、世界共産化を実現しようとする謀略が開始される。

1921(大正10)年、上海で中国共産党が設立される。
コミンテルンの強い指導のもとに組織されたのだ。

1921年にソ連の密使マーリンが孫文と会見した。
1923(大正12)年には孫文とソ連外交官ヨッフェとの間に共同宣言。
さらに孫文のもとへソ連から顧問としてボロディンがやってきた。

共産党は一気呵成(かせい)に国民党員としても登録を開始した

ちなみに毛沢東も周恩来も共産党員であると同時に国民党員でもあった

             ■□■

しかし孫文自身はどれほどコミンテルンの謀略を認識していたか、疑わしい。

1924(大正13)年に孫文が最後の来日をしたおり、神戸で講演、頭山満らと記念写真にもおさまっている。孫文は次の発言をした。

「我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を恢復(かいふく)しようとするには、唯(た)だ仁義道徳を基礎として各地の民族を連合すれば、アジア全体の民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るか。簡単に言えば、被圧迫民族の為に共に不平等を撤廃しよう」

いま、これらの内容は中国において少しも重視されておらず、アジア地域における覇権の確立があたかも外交目標に置き換わったかのように各地の反日記念館では説明されている。

各地の施設でもコミンテルンへの記述が薄く、第二次大戦末期にソ連が満州へ侵入した事実は「ソ連軍のボランティア参加」などと説明されている(たとえば北京の抗日人民記念館)。

             ■□■

歴史のご都合主義解釈の典型を、たとえば魯迅に見よう。

魯迅は紹興生まれ、医者をめざして日本に七年もの留学をなし、日本語に翻訳された書物を通じて進化論も民主主義も咀嚼(そしゃく)し理解し、とくにニーチェの『ツァラツストラ』に凝った。

かれも加わった『新青年』はボルシェビキ革命に触発された思想的文学運動だが、革命派、穏健派、中間派の三派に分裂し、魯迅はどちらかといえば中間派だった。

だが『狂人日記』などが共産党に都合よく一方的に解釈されて「革命文学の英雄」に奉られる

魯迅は革命に絶望し「革命、革革命、革革革命」と言い残したにもかかわらず。

中国各地の魯迅記念館では「日本留学」の事実は一行でかたづけられている。

(上海の魯迅記念館は日本の寄付で建てられたのだが)


展示写真のなかにも日本時代の和服姿のものは一葉も展示されていない。

ましてや魯迅が日本の内山完造や、増田渉などの友人と「日本語」で文通していた事実を知る中国人はまれである。

要するに日本とかかわった痕跡を消しているのである。

この点、最近の李登輝さんの紋付羽織袴姿のポスターはカッコいいw さすが剣道有段者。あれは支那人には結構なインパクトなのかもなぁ


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041117-02159322-jijp-int.view-001



孫文の展示もまた「日本時代」は故意に消されている。

「国父」が日本と関係があってはならないかのように。

多くの日本人が孫文に協力したが、孫文のリアリズムを彼らの浪漫主義は咀嚼できなかった。

支那通」と呼ばれた多くの軍人らも奥深い中華思想を考慮してはいなかった。翌1925(大正14)年、孫文は死んだ。

(評論家 宮崎正弘)




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