482667 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

憂国愚痴φ(..)メモ by 昔仕事中毒今閑おやぢ in DALIAN

「日本の満洲政策に大きな問題はない」

(産経新聞 2004/12/06)

日本の満州政策に大きな問題はない(1)

なぜ満州国に中国人は殺到した?

日露戦争後の満州、満州国の歴史について語る場合、よく強調されるのが、満州は日本の「傀儡(かいらい)国家」であり、そこにおける日本軍の侵略、虐殺、略奪、搾取といった悪行である。

しかし本当に満州がそのような阿鼻叫喚の地獄であったなら、なぜ満州国建国以来、そこに年間百万人以上もの中国人が、万里の長城を越えて流れ込んだのだろうか。

人間なら誰であれ、自ら進んで虐殺の大地には入り込まないだろう。ところがこうした疑問について、中国人学者は何も答えない。

なかには「日本に強制連行されたのだ」と弁明する者もいたが、もちろんまったく根拠のない話だ。数万の関東軍が、どうして百万単位の中国人を強制連行できるのか。

この疑問を解くには、まず中国史の社会経済的背景や生態学的現象について考えなくてはならない。

中国の歴史の鉄則は「一治一乱」である
泰平の時代の後には、必ず「天下大乱」に見舞われている。

たとえば唐の盛世である貞観の治や開元・天宝の治の後には、安史の乱、黄巣の乱、藩鎮(軍閥)割拠が起こっている。巨視的に見れば、中国における平和な時代とは、混乱と混乱のはざまでの、わずかな憩いのひと時に過ぎない。

満州人の清国は、万里の長城を越えて中国を制覇し、ジュンガル帝国の西域や、ウイグル人、チベット人を征服するなどで版図を広げ、康煕、雍正、乾隆三帝の時代に盛世を迎えた。そしてこの異民族の支配下で中国人は、人頭税から免れるなど、有史以来最も幸福な時代を迎えている。

しかしこの盛世が過ぎ去ると、次にやってきたのはやはり天下の崩壊である。十八世紀末、乾隆帝が退位した翌年に始まった白蓮教徒の反乱以降、清国では内戦、内訌(ないこう)、反乱が延々と繰り返された。

※内訌:内部の乱れ。うちわもめ。内乱。

十九世紀になると、内戦は熾烈(しれつ)さを増し、世界最大の内乱である太平天国の乱では人口の五分の一が消滅し、回乱でも人口の十分の一に当たる回教徒が虐殺されている。

内戦と連動して発生したのが天災、飢饉(ききん)、伝染病である。一八一〇年の水害、干魃(かんばつ)では餓死者は九百万人を数え、翌年には二千万人に達している。一八四九年の大飢饉では、千三百七十五万人が死に、一八七六-七八年の飢饉でも千三百万人もが犠牲になった。数百万人規模の餓死者を出した天災なら数え切れない。

ではなぜそのような状況になったかというと、まずは清初三帝の盛世での人口急増だ。明末期には疫病や飢饉で三千万人にまで落ち込んでいた人口は、十七世紀初頭には一億人に増え、十八世紀末には三億人、十九世紀中葉には四億人にまで膨張した。

そうしたなか、資源の争奪によって自然崩壊が始まり、そしてそれは社会崩壊に拍車をかけ、さらに社会崩壊は自然崩壊を呼ぶという悪循環に陥ったのである。

現代も繰り返す、かw

清の朝廷にこの悪循環を断ち切る能力はなかった。そしてこうした状況は、二十世紀中葉の国共内戦の終結に至るまでつづき、その間、一年といえども内乱の発生しない年はなかった。

まがりなりにも全国を統御していた清国が崩壊して中華民国が成立すると、軍閥内戦、国民党内戦、そして国共内戦と戦火がやむことはなく、また省対省、県対県、村対村レベルの抗争も絶えなかった。

また飢饉も頻発し、一九三一年の満州事変前後の全国大飢饉(一九三〇-三二年)では、一千万人以上が餓死し、公報で民衆の共食いの惨状も報告していたほどだった。陜西省では人口の実に六分の一が流民となっている。

また満州事変前後の華北、華中では、内戦や水害、干魃の連続パンチに見舞われ、農村崩壊、一家離散、飢饉、虐殺、略奪が各地で見られた。一九二七-三四年の自然災害だけでも、被害者は全人口の四分の三を占めた。

そのような状況のなか、満州国が出現した。日本の強力な指導の下で内戦や飢饉の要素が排除されたこの国は、中国人から見ればまさしく「王道楽土」だった。中国人が怒濤(どとう)の如く、その地に駆け込んだのも当然といえるだろう。

 (拓殖大学客員教授 黄文雄)



(2004/12/07)

日本の満州政策に大きな問題はない(2)

語られない満州事変以前の惨状

満州はドイツとフランスを合わせたほどの広大さだが、清国時代、そこは封禁の地として漢人の移住は禁じられていた。

四川省がフランスと同じくらいの広さだったかな?

乾隆帝時代に熱河の行宮を訪れた英王ジョージ三世の特使マカートニーは、「満州には漢人が一人もいなかった」と、その『奉使記』に記している。

しかし実際には漢人は密かに入り込み、盗墾(とうこん)や森林伐採を行い、あるいは匪賊となっていた。

十九世紀末、封禁が解かれて漢人の大量移住が始まると、彼らを支配したのが軍閥であり、馬賊だった。

武装小集団が「馬賊」で、それが大きくなって「軍閥」かな?

馬賊上がりの満州軍閥張作霖の例もあるように、抗争で勝った馬賊は軍閥になり、負けた軍閥は馬賊になった。

要するに満州は、略奪、搾取集団が割拠する無法の土地と化したのだ。

1900(明治33)年の)北清事変(義和団事件)をきっかけに、新たな全満州の支配者となったのがロシア軍である。

そして日露戦争の結果、南満(南満洲)は日本の関東軍の勢力下に入った。

このとき日本はまだ、軍閥とは不即不離の関係にあった。

中国大陸の秩序は十八世紀末以来、崩壊へと向かっていたが、一九一一年の辛亥革命と翌年の中華民国成立以降、この国は五代十国時代を上回る争乱の時代に突入する。

それは清帝国の遺産相続をめぐる北洋軍閥政府南方革命政府など、諸政府の抗争時代である。

そのほか中部、西南部には連省自治勢力もあり、中華民国とはいっても、実際には多政府の乱立状態だった。

国民党内戦、たとえば中原大戦では百五十万人が動員され、そのうち三十万人が戦死している。

このほか、軍閥とともにこの国を支配していたのが匪賊である。

※匪賊(ひぞく):徒党を組んで出没し、殺人・撩奪を事とする盗賊。

そもそも伝統的に中国は都市、農村、そしてまさに『水滸伝』の世界である匪賊地域の三社会によって構成され、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」ともいわれてきた。

朱新繁著『中国農村経済関係及びその特質』によれば、当時の匪賊の総数は二千万人とみられ、正規軍の五倍から十倍に達していた。

一九一二年ごろから華北七省を荒らしまわった白狼匪は総勢七万人で、関が原の戦いでの東軍に匹敵する勢力で、彼らは内戦にも参加している。

このような関内(かんない)の状況に対し関外の満州はどうだったかといえば、やはり満州軍閥の張作霖も北京での政権争いで二度にわたる奉直戦争を惹き起こし、あるいは広東軍政府とも向こうを張っていた。その子張学良も、国民党内戦に参戦している。

その間、満州の資源は蕩尽され、匪賊の横行も関内以上の深刻さだった。

こうした軍閥や匪賊の数は三十万人とも三百万人とも推定され、その二重、三重の搾取、略奪を受ける満州の民衆が、いかに塗炭の苦しみに喘(あえ)いでいたか。こうした満州事変以前の軍閥支配時代の惨状については、なぜか今日、不問に付されている。

軍閥時代の一九二九年での満州の財政状況を見ると、歳入は一億二千百万元、歳出は一億四千八百万元と、二千七百万元の赤字だが、歳出のうち一億二千万元は軍事費で、歳入の八〇%に匹敵する数値だ。

また歳入の大部分はアヘン税、塩税が中心で、不足分は個人財産の強奪-恐喝、没収、資産家の誘拐など-で補った。

それでも不足なら、農産物、畜産物にまで課税し、さらには五年先の税金まで徴収する例もあった。

軍閥政府はさらに紙幣の濫発(らんぱつ)を行っている。

事変以前の満州の通貨は百三十種類以上に上ったが、それらの多くは各省の軍閥、匪賊などの実力者が、収穫期に農民から穀物を買い取るためなどに発行したものだ。

だが戦争で負ければ、または恣意(しい)に不承認にすれば、それらは紙くず同然となる。

たとえば熱河省政府の銀行は一九二六年だけで三回も新しい「熱河票」を発行し、その都度旧紙幣を無効にしている。

このような状況だから、当然経済は大混乱し、最も富裕な奉天省でさえ、民衆の四割は雑穀で飢えを凌(しの)がなければならなくなった。

そのためいざ満州事変が勃発(ぼっぱつ)し、最大実力者張学良の奉天軍が駆逐されると、民衆は日本軍を支持し、実力者たちも各地で独立宣言を行っている。

 (拓殖大学客員教授 黄文雄)




(2004/12/08)

日本の満州政策に大きな問題はない(3)

満州再建は列強日本の責任だった

中国人は現在、「満州」の地名を否定し、「東北」と呼ぶだけでなく、日本人に対しても、「支那」と同様、使用禁止を求める傾向にある。

彼ら曰(いわ)く、「満州」とは日本人が中国分割のために作った地名だと。

そして満州国については、「偽満州国」と呼んでいる。つまり日本の傀儡(かいらい)である「偽りの中国地方政権」だったというわけだ。

しかし中国人も戦前には「満州」と呼んでいたし、中国共産党も「満州委員会」を設けていた

要するに戦後になって「東北」を強調するのは、満州が中国の領土ではなかったことを知っているからだ

中国人が「満州は中国の神聖不可分の領土だ」と主張し始めたのは辛亥革命以降である。

満州人を異民族と看做(みな)して清国を打倒した中華民国だが、いざ政権を樹立すると、清帝国の版図を継承する必要から、その版図だった満、蒙、回、蔵の諸民族を漢民族と同じ「中華民族」とし、その領域を中国の領土だと極めつけ、歴史の捏造(ねつぞう)を開始して今日に至っている。

「中華民族」なんてホラもいいとこ。
そもそも「漢族」という血統が成立するのも怪しいと言われてる。
生活様式も言語も違う支那w


最近は「高句麗は中国の一地方政府」だったと主張して韓国と歴史論争を繰り返しているが、高句麗が中国と敵対する別の国だったことは誰もが知っている


六〇年代の中ソ国境紛争当時、ソ連首相フルシチョフは中国に対し、

古来中国の国境は万里の長城であり、中国の国力がそれを越えたことはなかった。
理不尽な主張を続けるならば、それは宣戦布告以外の何物でもない


と警告したが、それは正しい歴史認識である。

ほぉ、そりゃいい手本があったわw しかし、大泥棒がコソドロに啖呵切ったのは、手本にゃならんか


史実から見れば、中国人は清の時代まで、長城以北の地を自国の版図とも勢力範囲とも考えたことはなかった。

そもそも長城という巨大建築自体、そのことを物語っている。

これは軍事的境界であるだけでなく、政治的、文明的、文化的な境界として築かれたものだった。

長城以南の農耕植生圏中華世界と看做され、以北の遊牧圏は「関外(かんがい)」「塞外(さいがい)」と称する異域であり、野蛮な夷狄(いてき)の住む土地と考えられていた。

関外の満州は有史以来、漢族とは絶えず対立、拮抗(きっこう)してきた土地で、アルタイ語系諸族が離合集散、国家興亡を繰り返してきた。

満州族もその一つで、ツングース系のこの部族は漢人より朝鮮人や日本人の方に近い

漢人はその満州族を「東胡の賤種」「犬羊の遺●(いげつ)」「満奴」「韃虜」と罵(ののし)ってきた。

※●=「蘖」の「木」を「子」に


今日の中国人が書いた「中国東北史」の冒頭にはたいてい、満州族は中華民族の一員、あるいは同じ黄帝の子孫などと書かれているが、満州は中国王朝に従属したことも、領有されたこともなかった。

せいぜい清の時代に、逆に中国を植民地統治したぐらいである。

清帝国は、異民族「満洲族の植民地」

乾隆帝時代に編纂(へんさん)された百科事典『四庫全書』には、満州人の建国は、中国の黄帝時代に行われたとあり、満州は中国と並立してきたと記されている。

伝説の「黄帝」の頃から違うんだと。つまり、先祖も全く違うということネw

のちに「中華民国建国の父」と呼ばれる孫文でさえ、革命以前は「満州は中国の土地ではない」と断言していたことは知られている。

「建国の父」の称号は蒋介石の自分の箔付けのための宣伝で、もう見直し作業中w

孫文は日本政府に対し満州売却を持ちかけてもいる。

しかし日露戦争の結果、大日本帝国は既に帝政ロシアからその権益を取得していたので

もっともすでに南満州を手中にしていた政府は、満州に何の実権も持たない孫文など相手にしなかった

その後成立した中華民国は騒乱に明け暮れ、満州を回収する力などなかった。

そしてこの地に日本は満州国という満州人の国を再建させた。

アジアの一角を占める、(支那大陸という)この無秩序で不安定な空間に社会的秩序を打ち立てることは、日本の列強としての道義的責任だったといえよう。

そもそも満州はロシアの南下を防ぐための要衝であり、無能、無気力な清国に代わってこの地を開発していたのは日本だったのである。

満州国成立後、「満州=中国領」を主張する中国人学者と、それを否定する日本人学者の間で歴史論争が展開された。

日本人の満州への関心は江戸時代以来のもので、満州研究は非常に進んでいた。

一方中国人は伝統的に、この「夷狄」の地にまったく無知、無関心だったため、せいぜい「満州族は黄帝の子孫」と主張する程度で、ほとんど相手にならなかった。

(拓殖大学客員教授 黄文雄)




(2004/12/09)

日本の満州政策に大きな問題はない(4)

満州国の成立を住民も支持した

戦前に日本が唱えた「東亜新秩序」建設に関し、多くの戦後学者は、それを「アジア侵略」を正当化するためのスローガンだったと考えているが、それは皮相的な見方だ。

そもそも東亜世界の歴史とは、中華世界の「一治一乱」に連動するものだった。

唐以降の歴代王朝末期の天下大乱とは、自然崩壊と社会崩壊の連鎖的昂進(こうしん)である。

中国人による事態の収拾が不可能になると、そこへ北方の新興異民族が長城を越えて、中華世界秩序が再建されるというのが、中国史の常態だった。

中華世界の宋と金の対立を克服して、中国の統一を果たしたのはモンゴル人の元であり、明末の混乱を収拾し再統一したのは満州人の清だった。

これら異民族は救世主として、つねに中国人に歓迎されていた

自治能力ないのネw

このように中華と夷狄(いてき)の王朝交代の繰り返しが、中国史を貫く「一治一乱」の実相である。

それでは清末から中華民国時代にかけてのカオス状態を収拾し、東亜世界の秩序再建に乗り出した「外力」はといえば、それが日本だった。

              ■□■

実際列強時代の内憂外患のなかで、多くの中国人は日清、日露戦争以降、日本の支援、日中提携に期待した。

たとえば日本の指導によって内政を立て直そうとした戊戌(ぼじゅつ)維新や、その後の西太后の立憲・富国強兵政策はその一例だろう。

また孫文ら清国打倒を目指す革命派も、何よりも日本の支援、後ろ盾を求めていた。

日本の満州への勢力扶植は、当時の国際力学の結果である。

日露戦争の結果、日本はロシアから南満州の権益を譲られ、清国の承認も得た。満州事変後はロシアに代わるソ連の勢力が完全撤退し、全満州が日本の勢力下に入った。

そしてそこで近代化建設が進められたことは、一つの時代の流れである。

日本から拡散した「文明開化」「殖産興業」という近代化の波が、台湾、朝鮮につづいて満州にも及んだのだ。この波こそが、東亜世界の秩序再建の波だったのである。もちろんそこには、東亜世界を何としてでも安定させたいという、日本の意志がストレートに反映されていた。

満州の住民もそれを支持した。満州事変の勃発(ぼっぱつ)後、直ちに満州国が成立したのは、民意の基礎があったからこそだ。

張学良軍や馬賊勢力を駆逐した関東軍は、解放軍として民衆から歓迎された。そして戦乱の中国と絶縁し、満州の平和を守ろうという保境安民派などが、満州の独立に立ち上がった。

奉天省では袁金鎧、于冲漢らが遼寧省の共和国化を目指したし、吉林省でも清朝復辟派の巨頭煕洽が軍閥支配からの独立を宣言している。

              ■□■

さらに一九三二年、全満建国促進運動が進行し、行政委員会が組織され、委員長に張景恵、委員に煕洽、馬占山、●式毅、湯玉麟、斉王、凌陞が選出されている。

※●=藏のくさかんむりをとる

そして一九三二年三月、清朝最後の皇帝(宣統帝)溥儀を執政に戴(いただ)き、「三千万民衆の意嚮(いこう)を以って、即日中華民国との関係から離脱し、満州国を創設する」との宣言の下、満州国が誕生した。

日本は半年後、満州国を承認したが、国際連盟は国家としての正当性を認めなかった。

また日本と一蓮(いちれん)托(たく)生(しよう)とされ日本の内面指導を強く受けていたため、戦後は正式国家と看(み)做(な)さないのが一般的だが、他国の内面指導を受けたというならソ連の衛星諸国も同様である。

満州国はその後、エルサルバドルやローマ教皇庁、枢軸国のイタリア、スペイン、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、あるいは大東亜共栄圏のタイ、ビルマ、フィリピンなど、当時の多くの主権国家から承認を受けているのである。

ソ連も領事館開設を認めるなど、実質的には承認していた。中国にしても、汪兆銘の中華民国政権(南京)が承認を行い、「日満華共同宣言」を打ち出して、東亜新秩序建設での協力を誓っている。

満州国を承認しなかった国の多くが、日本の東亜新秩序建設の動きに反対した国であったことにも留意したい。

満州国の近代国家建設の理念と成功は、その後の大東亜共栄圏建設のモデルとなった。

(拓殖大学客員教授 黄文雄)




(2004/12/10)

日本の満州政策に大きな問題はない(5)

東アジアに出現した一大産業国家

満州国総務長官だった星野直樹氏は戦後、「ひとり主導的地位に至った日本人のみならず、ひろく東亜諸民族が力をあわせて開発、発展せしめ、その恩福を、ひろく各民族間に分かち、ここに新たなる楽天地をつくりあげようと、日本の若き人々は進んで満州国に集まってきた」(星野直樹『見果てぬ夢』)と回想しているが、一九四二年に完成した豊満ダムなどは、まさに満州国の国造りと近代化にかけた日本人の情熱のシンボルだろう。

これは洪水防止、灌漑(かんがい)、飲用水、工業用水、航運、発電などを目的とした東洋最大級の多目的ダムだ。

ここを視察に訪れたフィリピン外相は、

フィリピンはスペイン植民地として三百五十年、アメリカの支配下で四十年を経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。

満州は建国わずか十年にしてこのような建設をしたのか


と語ったと案内役の満州電業理事長だった松井仁夫は述べている(松井仁夫『語り部の満州』)。

フィリピン外相の言葉は、日本の満州政策と欧米の植民地政策との本質的異なりをよく言い表している。

日本は満州にかぎらず、台湾、朝鮮においても、行ったことといえば近代社会建設だった

日露戦争の結果、日本はロシアから南満州の権益を手に入れ、関東州と満鉄(南満州鉄道)沿線にベルト地帯を設定した。

かくして満州事変までの約二十年間で、このベルト地帯は安全の面で、軍閥支配下(あるいはロシア勢力下)地域とは天国と地獄ほどの開きができた。

当時の沿線地帯の人口は全満州の三〇%だが、GDPでは八〇%を占めるに至った。

「満州は日本の生命線」とされたが、それと同時に満鉄は満州の生命線になったわけである。

満州国建国後、満鉄は国有に帰し、全土の人流、物流の大動脈となった。

最高時速百三十キロという世界最高水準の「あじあ号」を生んだのも満鉄である。

建国翌年の一九三三年には国土計画「満州国経済建設綱要」が発表された。

それは鉄道、港湾、道路、あるいは上下水道、電力供給、治山、治水などの都市計画といったインフラ建設を打ち出したものだった。

現在も当時のままw 2003年の昨年改めて埋めた暖気管工事で掘り起こしたそれは、当時(少なくとも60何年前)の鉄パイプ

その結果、産業が大いに興され、市街や道路がほとんどなかった満州の広野には、いくつもの都市が出現し、総延長で六万キロの国道、五万キロの地方道路も網の目のように建設され、さらにはアジア初のアウトバーンも建設されている。

こうした日本人の営みと、それ以前の略奪を専らにした満州軍閥の支配との、文明史的比較は必要だろう。

満州国は十三年余という短命だったが、それでも東亜大陸の一角に、一大産業国家が忽然(こつぜん)と出現したことは人類史上の奇跡に近い。

当時の中国人にとって戦乱も飢饉(ききん)もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育、医療を受けられたこの国は桃源郷だった。

大連市内に地名ありw 「桃源」その近くの立体交差が「桃源橋」

「王道楽土」が決して政治的宣伝ではなかったことは、当時の中国の悲惨な状況と比較すれば、一目瞭然(りょうぜん)なのである。

満州国が、関東軍による強力な内面指導を受けていたため、しょせんは日本の傀儡(かいらい)だったと多くの戦後学者は指摘する。
さらには日本の実質上の植民地であり、植民地であったからには必ず搾取が行われていたとも。

もちろん「搾取」は史実に反している。

日本人は満州で「奪った」のではなく「与えた」のである

もっと与えたのが、「朝鮮」だから癪なんだわw
中川八洋教授は、「搾取した。ただし、朝鮮・台湾・満州が日本を、ネ」と書いてるなw


もっともこの国が、人的にも、物的にも、財的にも、日本人が中心になって成立し、運営されたのは事実だが、それは日本人抜きでは、この地に平和と安定を招来させることは不可能だったからだ。

このことは、中華民国が国造りで失敗し、多政府乱立の戦乱国家に転落した史実からも明らかだ。

中国からの移住者が絶対多数を占めていたからといっても、彼らのほとんどは非識字者であり、流民だった。

他方、日本人には、近代国家建設、国民意識の確立の経験があり、高い教育水準、資本の蓄積と技術開発の能力も備わっていた。

日本人が五族協和の複合民族国家において主役になったことに、何の不当性もなかったのである

経験ある「先輩」が指導先導するに、何の不都合がある?w ここいらの視点を全く欠いた「キメラ」(中公新書)の読後感は不愉快極まりなかったナ。初めからこうだろうという考えでの資料漁りってのはああいう形にしかならん見本。資料は詳しくていいんだけどサ

(拓殖大学客員教授 黄文雄)


※満洲(南満州・中央満州・北満州)=フランスとドイツを合わせた面積

■1-南満州の旅-東洋一の貿易港・大連は、満州の玄関口。近代的な大連埠頭は、“殺風景な満州”というイメージを、訪れた全ての人々から吹き飛ばします。フランス・パリを思わせる、放射状に広がった美しい街並み。広々とした道路は全て舗装され、街路樹としてアカシアが植えられています。

近代的な貿易都市「大連」/風光明媚なリゾート地「旅順」/清朝の避暑地「承徳」/満州一の炭坑の街「撫順

中共のやらずぶったくり政策のお陰で、言うほどじゃないけどサw ま、手付かずだからw当時のまんまの古い街並みはあるわな。下水も整わず実際は不潔。特に黄海への下水の垂れ流しで、「海水浴場」は見た目は一見良さげでも大腸菌うようよてな調査もあるw


■2-中央満州の旅-満州国最大の都市、奉天。ここは日本人にとって最も良く知られた街。新市街のまっすぐ伸びる通りや整然とした街並みはモダン都市の名に相応しく、旧市街を歩けば満州最大の露天市で掘り出し物が見つかります。満州国の首都新京は、新興都市。100万人を収容する都市として計画され、近代的なビルが次々に生まれています。

満州最大の都市「奉天(瀋陽)」/満州国の首都「新京(長春)」/歴史ある満州の京都「吉林



■3-北満州の旅-北満州の中心地、哈爾浜(ハルピン)。東のモスクワ、東のパリと呼ばれるこの街には、華麗な建物が並び、エキゾチックな雰囲気が漂います。北の佳木斯(チャムス)には日本人の開拓村があり、西に向かえば高原の街、海拉爾(ハイラル)、そして満鉄の終点、満州里(マンチューリ)があります。満州を巡る旅はここで終わります。

エキゾチックな国際都市「哈爾浜」/松花江の港町「佳木斯」/金の産出地「黒河(ヘイフー)」/高原の街「海拉爾」/満鉄の終点「満州里


※関東州

関東州(かんとうしゅう)は、1905年日露戦争を終結させたポーツマス条約に基づいて日本がロシアから遼東半島先端部と南満州鉄道付属地の租借権を引き継いだことにより成立した。

現在の旅順・大連地域の日本による租借地の呼び名

関東とは元来中国語で(万里の長城の最南端=海側である)山海関の東、つまり満州全体を指す言葉である。

関東州の行政を行うため関東都督府がロシア名ダルニーを改称した大連に設置され、関東州守備隊として関東軍も設置された。

関東都督府と関東軍の管轄権は南満州鉄道付属地にまで及んだ。

関東都督府は第一次世界大戦後の1919年に関東庁、満州国成立後の1934年に関東州庁と改称している。

満州国の成立により関東州の領有権は中華民国から満州国に移ったため、1932年の日満議定書で関東州は日本が満州国から租借する形となった。1937年には満鉄付属地の行政権を満州国に返還している。

大連はロシア時代から自由港であったため、関東州成立後も自由港として存続し、活発な貿易が行われた。しかし密貿易も盛んで、近年関東軍が行ったアヘンの密貿易の実態が研究により明らかにされている。1945年日本の敗戦により中華民国に回収された。




(2004/12/11 台湾立法(国会)議員選挙日:独立派勝つか)

日本の満州政策に大きな問題はない(6)

戦後中国を支えた満州国の「遺産」

一九四五年八月九日、米軍の長崎への原爆投下と同日、ソ連軍が国境を越え、四方面から満州への侵攻を一斉に開始した。

侵攻軍は八十個師団、四十個戦車・機械化旅団等からなる約百六十万とも百七十万ともされる大兵力だった。かくして日本は敗戦を迎え、満州国は日本帝国とともに崩壊した。

中国では日本との戦争で小康状態にあった内戦が再び開始され、かつての桃源郷満州もまた、この戦乱の渦に巻き込まれた。つまり中華世界への回帰である。

当時の国共内戦の熾烈(しれつ)さはかつての軍閥混戦の比ではなく、百万人規模の殺戮(さつりく)、略奪をともなうものだった。

たとえば林彪ら共産党中央軍事委員会の報告によると、満州で行われた遼瀋戦役だけでも、国民党軍の四十万人以上もが殲滅(せんめつ)されたという。

満州国崩壊の時点で、その重工業における生産量は全中国の九〇%を占めていた。すでにこの国は、戦闘機の生産も可能なハイテク国家だった

今日の東アジアで、戦闘機を開発できる国は日本と台湾、中国しかないことからみてもその発展ぶりは理解できよう。

総発電量でも一千万キロワットにまで上げることが可能とされていたが、四七年に発表された中国全国のそれは、わずか百万七千キロワットである。

そのため、国共両党にとってこの超先進地域は垂涎(すいぜん)の地であり、毛沢東は四五年四月、中共七全大会の政治報告で、「我々のすべての根拠地が失われても、東北さえ確保されれば、中国革命の基礎を築くことができる」といっている。

実際彼はソ連の満州侵攻の翌日、早くも満州占領を指令している。

国共による満州争奪戦の開始である。

               ■□■

日本人が残した満州国の「遺産」は、戦後中国の生命線になった。

それは重工業だけでなく、社会システムそのものがそうである。かつて金融貨幣制度が極度に紊乱(びんらん)していた満州では、通貨統一が見事成功し、これによって民心が安定し、商品経済も発展したが、これは中国では想像外のことだった。

中国社会は人間不信、政府不信の社会である。日本人の金融政策あってこその近代産業の勃興(ぼっこう)だったのだ。

このことは台湾、朝鮮、そして支那事変中の日本の占領地域についてもいえることだ。

驚くべきことに満州国貨幣は、亡国から二年後まで、なお同価値で流通していた。

だが「遺産」も使い手次第だ。中華世界に編入された満州は内戦、革命の混乱社会へと逆戻りした。

そしてそのなかで中国人は、「遺産」を継承するというより、満州の富の一方的収奪にのみ熱心だった。つまり権力闘争に忙しかった彼らは、満州の富を食い潰(つぶ)しながら、体制の維持をはかったのである。

満州は重化学工業基地、資源供給基地として機能するよう命じられ、付加価値の高い産業はほとんど認められなかった。

大慶油田は中央から純収益の九〇%を上納させられ、売上高の六〇%も税金として巻き上げられている。企業内保留不足のため再投資はできず、産業の発展は停滞し、かくしてこの地は没落の一途をたどったのである。

このような北京による搾取現象は「東北現象」と呼ばれている。

そして「遺産」が食い尽くされたため、新たにとられた路線が、ほかならぬ「改革開放」である。他力本願による、対満州依存から対外依存への路線転換である。

               ■□■

前出の星野直樹氏は「生命わずか十三年、満州国の建設はついに見果てぬ夢に終わった。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは、永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する」(前掲『見果てぬ夢』)と述べている。

それはそうだろう。荒蕪の地に近代国家を成立させ、人の住める土地に変え、せいぜい鍋釜を作る程度の家内工業しかなかった農業地域に、一近代産業国家を打ち立て、中国人には夢のごとき安寧社会、生存空間を与え、そしてソ連の南下からアジアを守りつづけたばかりか、戦後中国に屋台骨まで提供したのである。

日本人はこれを誇りにせず、いったい何に誇りを持とうというのだろうか。

 (拓殖大学客員教授 黄文雄)




Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.