Shige & Happy の 気まぐれ写真日記

2014/02/09(日)23:42

「80日間世界一周」に挑んだ2人の女性記者(5)…(2/7)

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イギリス支配下の植民地で エリザベス・ビズランドが乗ったテムズ号は、1889年12月23日にシンガポールに入港した。土産物を売ろうとする現地人のカヌーに混じって子供たちの乗ったカヌーもあった。 「マサ(マスターが訛ったもの)、マサ、マサ!」子供たちはたどたどしい英語で叫んだ。「マサ、上手に飛びこんでみせますよ、マサ!」エリザベスたちテムズ号の乗客数人は、数シリングを現地の硬貨に換えていたので、それを水の中へ投げた。 エリザベスは喜びをこめてこう書き記している。現地の子供たちは「硬貨を手に入れようと、カエルのように小さな水しぶきをあげて水に飛びこみ、身をくねらせながら水底にもぐっていきました。もぐるにつれてその影は奇妙に揺れ、幽霊のような緑に染まっていきます。子供たちはきらめく硬貨が砂に着く前にうまくつかむと、濡れた体を輝かせ、白い歯をみせながらカヌーにもどっていくのです。わたしたちはこのゲームを汽笛が鳴るまで続け、それから島を離れていきました」 当時のシンガポール港の様子が目に浮かぶような、よく書かれた文章である。しかし、現代の感覚からすればとても残酷な情景である。とても残酷な「ゲーム」である。イギリスの植民地支配を受けた国の民衆の哀れさが胸をつく。「現代のシンガポール港」 (第2次大戦後独立したシンガポールは、今は東南アジア第1の経済大国である~2011年7月29日撮影) 祖父がスコットランド出身ということもあってか、エリザベスは大英帝国にあこがれのようなものを抱いていた。そのためか、たどたどしい英語でコインをねだる子供たちを喜び、支配される側の貧しさには思いいたっていないようだ。 1889年11月27日、ネリー・ブライの乗ったヴィクトリア号はスエズ運河の入り口のポートサイドに入港した。石炭補給の時間を利用してネリーたち船客一行は町の見物にでかけることにした。するとたちまち、ヴィクトリア号は船客の奪い合いをする現地人の小舟で取り囲まれていた。その混乱を鎮めようと、乗客や水夫たちは杖や棒で小舟の男たちをなぐった。ネリーはあとで次のように語っている。 「アラブ人たちにも非があったのかもしれない。それでも、この色の黒い半裸の人々が、これほど容赦なく杖を振るわれるのをみると痛ましく感じた。また同時に、殴られながらもしがみつくその我慢強さには心から感嘆した」 ここでは、ネリーは少し温かい目線でしいたげられている貧しい人々を見ている。そして、ポートサイドの町に上がったネリーたちは、またまた「案内させてくれ」、「買ってくれ」という男たちに囲まれる。 「中には、単に手だけを突き出している者もいた。『バクシーシュ』彼らはくり返しそう叫ぶのだった。この言葉は一般に、『慈悲の恵みを』という意味で理解されている。『バクシーシュ、バクシーシュ』上半身裸の現地の少年たちが、一行にロバに乗ってくれとしきりに頼みこんだ。近くにはロバの群れが、辛抱づよく待っている」「現代のポートサイド港」 (ポートサイド港の埠頭には船客相手に土産物などを売る露店がたくさん並んでいた~2011年8月17日) 2011年の船旅で訪れたピラミッド周辺では、しつこい物売りやラクダに乗せようと袖を引く男たちにうんざりさせられた。ネリー・ブライが見たこととほとんど変わらないことが、今も繰り広げられている。 イギリスの支配から脱したシンガポールは大きく発展した。しかし、ポートサイド(エジプト)は、2人の旅の時代から120年以上も経っているのに、民衆の暮らしはほとんど変わっていないようだ。参考:「ヴェルヌの『80日間世界一周』に挑む」(マシュー・グッドマン:金原瑞人、井上里訳~柏書房 2013年)  青文字の部分は同書からの引用

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