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カテゴリ:最近読んだ本
地味だがすごいぞ幕末の肥前佐賀藩 その中でいち早く近代化の必要性を感じて、日本における近代産業の先進地となったのが肥前佐賀藩だった。明治維新に活躍した佐賀人はあまり知られていない。佐賀人は、個性の強かった、坂本龍馬・木戸孝允・伊東博文・大久保利通・西郷隆盛らの陰に隠れているようだ。 「明治維新と佐賀藩」(毛利俊彦著:中公新書 2008年) 佐賀藩出身者で明治政府で活躍した人物は多い。それも、多くは実務能力に優れていた。中でも傑出していたのは江藤新平である。江藤新平は佐賀の士族の反乱で首謀者と目され斬首の刑を受けた。そのイメージもあって、彼の功績は案外と見逃されている。 「佐賀の乱」は、大久保利通が中心に無理やりに反乱に仕立て上げたことが、現在立証されてきている。歴史は支配者の立場で書かれる。見落とされている資料を読み解いていけば、罠を仕掛けられた江藤の無念さがだんだんわかってくるようだ。「佐賀の乱」ではなく「佐賀の役」あるいは「佐賀戦争」というべきという意見もある。 上掲書によれば、江藤の構想には次のようなものがあった。まず、民主的なフランスの民法を取り入れること。そのほか、三権分立による立憲君主制とそれにともなう司法権の確立。洋学を中心とする教育制度の導入などである。 倒幕には成功したものの、新政府をどう方向づけるかについて具体的方策を持たず不安だらけだった当時の宰相的存在の岩倉具視などは、江藤の先進的な発想と実行力に対して大いなる期待をしていた。 江藤新平の例はほんの一例である。後に議会政治で活躍する大隈重信、文部行政の大木喬任、外交面で活躍した副島種臣、医学者で種痘を広めた伊東玄朴、札幌の都市計画の基本を描いた島義勇などがいる。 彼らは派手さはないが実務能力に優れていた。最近聞いた講演では、佐賀藩は西洋医学の先進地で、医師の免許制を最初に実施したのも佐賀藩だったという。 異国船が入港する長崎の警備を任されていた佐賀藩には、もともと蘭学や洋学に接する機会が多かった。天保元年(1830年)、鍋島直正(隠居してから閑叟)が16歳で藩主となる。この直正こそが佐賀藩を西の雄藩に導いたリーダーだった。 「鍋島閑叟」(杉谷昭著:中公新書 1992年) 直正は、最初のお国入りの時に借金の返済を求めて江戸屋敷に押し掛けた商人たちのため、お国入りの出発を一日遅らせねばならなかった。これは全て前藩主の豪奢な生活のためということを知り、徹底的な財政再建に乗り出した。 それとともに、直正は長崎御番という佐賀藩の役職を生かし、西欧文明の導入に熱心だった。来航したオランダ船に自ら乗り込み、船の構造や設備を学ぶことも再三あった。直正の事績については上掲の「鍋島閑叟」に詳しい。 現在の佐賀県と言えば、唐津藩の領域(元唐津市・玄海町)もある。唐津藩は譜代大名が交代で赴任し、天保の改革の老中水野忠邦も唐津藩主であった。幕末期は小笠原氏が支配していたが、譜代大名だったので薩長を中心とする倒幕運動では微妙な立場に立たされた。 しかし、最終的には討幕派に唐津炭田から産する石炭を提供するなど、討幕派に加勢している。東京駅を設計した辰野金吾や同じ建築家として曾根辰三などが出ているほか、後の大蔵大臣の高橋是清が唐津中学で教鞭をとり前途有為な青年の教育にあたった。そのほか幕末明治の婦人運動家の奥村五百子も出ている。 唐津市はお国自慢が苦手なようで、佐賀市のように「佐賀の七賢人」なんていう売り出し方をしていない。現在に至るまで小説家の北方謙三など有名人も出ているが、どちらかというと唐津のお国自慢は唐津城、鏡山、虹ノ松原、呼子、名古屋城址などの観光名所である。
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Last updated
2018/06/25 03:24:03 PM
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