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何故今頃、司馬遼太郎の「街道をゆく」が・・・
司馬遼太郎は今から29年前の1996年に72歳で没した。彼は、「龍馬がゆく」や「坂の上の雲」などの多くの歴史小説や「街道をゆく」シリーズ(全43巻)などで国民的作家となった。我が書棚にもまだ処分しきれない司馬作品が残っている。 地元紙には週に1回、書評や新刊書を紹介するページがある。その中で、地元の書店と東京の書店での週間ベストセラーが掲載さる。時々、チェックしているが、今日の地元書店のランキングに、司馬遼太郎の「街道をゆく 11」が入っていた。 「全体としてはハウツーものが多いのだが」 ![]() 書棚から「街道をゆく 11」を出してみると、内容は「肥前の諸街道をゆく」だった。国道202号線沿いに福岡から唐津・呼子・平戸に向かうルートだ。 「街道をゆく 11」 ![]() (1979(昭和54)年9月30日初版) 誰かが最近、県内での文化講演会か何かで「街道をゆく11」に触れたのだろう。そこで、買う人が多かったのか。これは、単なる推測に過ぎないが。ともかく、拾い読みをしていたら「虹ノ松原」について面白いことが書かれていた。 「九州の北部沿岸をゆく」 ![]() 「街道をゆく 11」 より 以下引用 この唐津湾の東端にさしかかると、湾の奥の渚をあざやかな緑でふちどって いる虹の松原が見える。 この湾の東端を走る道路は、海面からよほど高いらしく、ここから遠望する と、虹ノ松原という松の密林がいかに長大なものであるかが、パノラマのよう によくわかる。 長さ八キロあるという。二里である。 もとは「二里ノ松原」と呼ばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられ た尾張人寺沢広高が、この唐津の城主となって、城を築き防風林として松原を つくった。 引用続く 唐津城主は、寺沢氏のあと、徳川期には異姓の氏が頻繁に交替した。江戸中 期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、 唐津人の誰が言い変えるともなく「虹の松原」を言いならわすようになったら しい。唐津藩は藩主の交替が頻繁なために武家文化が成熟しにくく、更には地 元が豊かなために、町人や富農層が唐津文化を熟させてゆくという面が強かっ た。こういうしゃれた言い方は、漢語でこりかたまった藩士層からは、出にく いように思える。 「虹ノ松原~鏡山山頂から」 ![]() 引用続く ここは肥前のうちでも佐賀県内なのである。しかし『葉隠』と藩校と明治維 新とで有名な佐賀藩とは無関係で、同じ県ながらこの旧唐津藩領は文化も気質 も、旧佐賀藩領とおよそちがっている。唐津では無駄や無用のことこそ文化だ という機微が共有のようになっているようだが、その点、佐賀藩領は徹底して 学校文化の伝統が居すわっている。 もし旧佐賀藩領に「二里ノ松原」があれば、 --------距離を正確に言いあらわして、じつに妥当な名称ではないか。 ということになって、虹ノ松原などという発想は、たれもが持たなかったに ちがいない。 読み返して、本当に唐津藩領と佐賀藩領に差異を的確に述べていると思った。旧唐津藩領の唐津市と多久市(旧佐賀藩領)の境に小高い笹原峠がある。この峠を越えると天気がちがうだけでなく、気風や言葉が違うことを今でも少し感じる。 佐賀藩には弘道館という藩校があった。武士はそこで学び、その成績が家禄に影響したりした。対して唐津藩では民間の塾が盛んだった。 また唐津藩は260年間に7人の譜代大名が入れ替わったので、在地の町人や百姓の気概が旺盛だった。旧唐津藩領では水野氏時代の明和8年(1771年)に増税反対の虹ノ松原一揆がおこり、当時天領だった虹の松原に集結した農漁民は、統制された行動をとり一滴の血も流さずに要求を通すことに成功した。 ベストセラーの話から、佐賀県の旧唐津藩領と佐賀藩領の話になった。「街道をゆく 11」を読み返して、改めて司馬遼太郎の歴史や文化、風土に関する感覚の鋭さを感じさせられた。 ところで、なぜ「街道をゆく 11」が佐賀県の書店でランキングインしたのかは、情報不足で分からない。 ↓ランキングに参加中、良かったら下のバナーをクリックして下さい。 ![]() 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025/03/24 02:24:13 PM
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