2009/05/23(土)17:47
善悪論
今回は私の考える善悪というものに関して。
さて、善悪と一言で言っても少々難しいかもしれない。最初は軽く入りたいと思う。
善悪…噛み砕くと"善い事"と"悪い事"であるが我々はその線引きが可能であり、実行している。
なぜ可能なのかといえば、人には本来"善性" "悪性" "理性"の3つが備わっているからである。
まぁそれは後々考察するとして、ではその線引きの定義とは何なのであろうか?
私が思うに、そもそも善悪とは――
善とは悪なくしては存在出来ないものであり、悪とは善の欠如である。
以降はまず、それに至る理由から考えていきたい。
では単純な話から参ろう。
"善とは悪なくしては存在出来ない" これに関してどう思われるだろうか。
そもそも、善しか存在しない或いは善が悪なくして個として独立しているのであれば
善などという定義が存在しないのであって、それを善と認識出来なくなるのが自然である。
悪(必要悪)が存在する事によって初めて善というものを我々は認識出来るのだ。
それでは "悪とは善の欠如である" だが、なぜ "悪とは善なくしては存在出来ない" と
しなかったのか疑問に思うかもしれない。だがこれはその実、自然であると言える。
善悪は決して表裏一体というわけではなく、定義が難しいのもそれを示しているのである。
悪は善の欠如であるという事は同時に "善なくしては悪は存在出来ない" とも言えるのだが。
それでも敢えてこのような表現がなされているのには善にはない悪の特性が存在する。
それは――真実、悪は善なくしても存在、認識が可能であるからだ。
具体的に善とは何だろうか...悪とは何だろうか...と考えるとそれは人の定義によるもの。
同時にそれは至極当然なものである。人は人によって善悪を知るのだから。
当然であるが赤子は善悪など、ましてやその定義など知るはずも無い。
要は最初に述べた人に備わる3つの "善性" "悪性" "理性" を持っていないのである。
空の状態である白いキャンパス(精神)に先人が善悪とその定義という絵の具を用いて染める。
故に個々によってその定義が違い、曖昧であるのは言うまでもないという結論に至る。
成長の中で人は "善性"と"悪性" を学習し、自然と"理性"が芽生えるのである。
さて、では次は前述した「悪は善なくしても存在、認識が可能である」という事に関して。
善悪の定義は曖昧だが悪は善なくしても存在が可能というのはあくまで場合によっては
という範囲に留まるので必ずしも善から独立しているわけではないので追記しておく。
ではその"存在/認識可能な場合"とは一体何なのであろうか。
"戦争"である。古代より、人が人であるためにともいえる互いが殺しあう行為だ。
これに関して善はなく、あるのは死、絶望、悪性の開放などが当てはまる。
なんとも悪性とは恐ろしいものである。
善性や理性を軽々と潰し、絶対悪として君臨するのだから。
しかし"戦争"を絶対悪として考える私もまた人間であって、人間が定義しているのだ。
故に私も無論、"戦争"が絶対悪と叫びつつもそれが正しい定義とは言わないし言えないのだ。
それを踏まえた上で以降も進めていくが...
戦場に希望はなく、戦争は恐ろしく愚かであり侮蔑するべきものであると私は考える。
「"戦争"をして国民を守った」と声高々に誇る者達がいる――なんという道化だろうか。
"人を殺す事を目的とした兵器"など論外であり、絶対悪―否、究極悪と言えるかもしれない。
悪性を開放した者から作られた兵器が果たして僅かでも善となる事はあるだろうか?
もしこれを「国民を救う為の兵器だ」と豪語するなら悪性の恐ろしさを物語っている。
元より"人を殺す為"のものなど必要ないのだ。そもそもなぜ殺す。
何の為に"理性"があるのだ? "善性"と"理性"で"悪性"を抑圧しなければならないと考える。
そう、人には前述した様に"善性"と"悪性"の間に挟まれるが如く"理性"が存在する。
加えて理性は善悪のようにお互いが無くしてはというものではなく個である。
人類全体が悪の道へと堕ちないのはこの理性が万人平等に備わっているからなのだ。
理性は良識であり、良識を正しく働かせずに権威や速断に安住する怠惰な人は
思い込みに翻弄され、生き方に確信が持てない――デカルト
我々に必要な事は悪に屈する事なく善の道を理性をうまく働かせ歩み続ける事なのである。