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哲学・考察

2010.08.18
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カテゴリ:哲学・考察
どうも~。人間、好きな事だけやれるほど甘くないのだと自分に言い聞かせるシムカです。

DIVA2はもう触れてませんが、その中でプレイした曲を探して聞いたりしている。

その内容の更新の折、初代ビートマニアの話をしたが、私がメタルに出会うまでの間は、

ビートマニアの曲のような海外のダンスミュージックなどを好んで聞いていた。

主にオムニバス系で、何枚も少ない小遣いで中古アルバムをよく買っていたのを覚えている。

ただ、小学校高学年~中学生でそんなのを聞いている人なんていなかったのだがね。

DIVA2の中でも結構良い曲だと思うものもあった。それがChange meという曲だ。

無論、メタルに出会って以降もダンスミュージック系は未だに好きだ。アルバムは買ってないが。





そういえば、ふと思い出したのだが、「月光のカルネヴァーレ」内にてルナリアが、

「るっなるなにしてやんよっ!」と言っていた。補足しておくと本編ではなくドラマCD。

もしかしてこれは「みっくみくにしてやんよ♪」をパロっていたのだろうかと今更ながら思う。


lh-1101.JPG


知らない人用に上記の画像がルナリアなのだが、「月光のカルネヴァーレ」内では

唯一のツインテールだから確かに容姿としては初音ミクに一番近いとは言える…かもしれない。

Q.お前はドラマCDとか買っちゃう人なのか?  A.はい、まぁ10枚もいきませんけど

故に今回のコミケで発売されたものだと「エヴォリミット」辺りはどうしようか迷ったが、

東出さん分は「装甲悪鬼村正」の方で味わうからよいのだと結論付けた。

同じく東出さんが書いた「クロノベルト」の方のドラマCDも良かったから、一般販売されたら

購入するかもしれないがね。






























































昨日も変わらず「零シリーズ」を進めた。さすがに声を出す事はなくなったのだから、

少しは慣れたのだとは思うが、怨霊や彷徨う霊などを見るたびにゾクゾクと鳥肌が立つ。

床下を這って行く場面では、こんなところじゃまともに身動きできないから怨霊の類は

出てこないだろうと過信していたのが仇となり、同じく這いずり回りながら顔面蒼白で迫る

貞子のような怨霊には驚かされた。いや、もう正直に独白しよう、滅茶苦茶怖かった。



ただ、何故そんなに怖いのに続けるのか。いわゆる怖いものみたさというやつなのか?と

問われれば否と答えよう。私に怖いものみたさなんて都合の良い諦観など存在しない。

元より私はわざわざホラー映画などを観に行く人が理解出来ないというくらいなのだから、

そういった面からも怖いものみたさなどというものが存在しない事をわかってもらえるだろう。

では一体何だと問われるのも至極当然だろう。

実は物語…より具体的に言えば民俗学的な要素の入った風習なども気になっているという事だ。

端的に言ってしまえば、ゲームとはいえ民俗学に興味のある身として楽しみたいという事。





私は高校時代から音楽活動の傍ら、勉学では哲学・倫理学に興味を持って自ら学んでいた。

大学に入り、それらを続けたまま更に文化人類学の分野にも興味を持って今日に至っている。

何、私の大学での学科? 経済学科ですけど何か?

閉鎖された社会の中での独自の文化というものは実に面白い。いや、誤解しないで欲しいのだが

決してこのゲームのような猟奇的な風習・習慣を知って悦に浸っているわけではない。

こんなものが至極愉悦をもたらすと考える程私は人間をやめてはいないよw

同じ人間だというのに環境によってここまで変わるものなのか、というのが興味深い。

かのゲーテが「人間にとって一番興味のあるものは人間である」と言っているのにも頷ける。






























































哲学・倫理学も同様なのだが、文化人類学といってもその内容は様々である。

私は馬鹿なのでさすがに全部を満遍なく学ぶ事は出来ない。私の脳みその許容量は僅かだ。

言語や文化、家族や親族…様々ものが文化人類学として扱われている。

私は主に宗教の方を中心に学んでいた。言語や文化もある程度は学んでいる。

無論、文化人類学の中の宗教なので宗教学とはまた違うし、もっと種類も雑多だと言える。

もっと分かり易く言えば、呪術だとか妖術とでも言えばいいのだろうか?

私はそういった宗教面において主にシャーマニズムアニミズムに興味を持った。



だが、呪術なんてものはその実、考えてみれば我々の身近に存在する。

丑三つ刻に釘を打ち付けるなんてイメージのある、ワラ人形なんてのも呪術の類だろう。

実は呪術には白呪術と黒呪術なんて分類もある。

「俺が知ってるのは白魔法はケアルとかで、黒魔法はサンダーとかだぜ?w」なんて

思った人がいるかもしれないが、強ちそう外れてもいないというか、端的に言えば似ている。

白呪術は自他共に良い方向へ働き、黒呪術は他者を悪い方向へ招くのである。

となれば、先程のワラ人形は黒呪術の分類になるのだと言わずともわかるだろう。

「おいおい、それなら魔法使いなんてのもいるのか?」と更に疑問を持つかもしれない。

結論から言うと、いる、ともいえるし、いたとも言えるのではないかと考える。



例えば我々の想像する魔法使いというもののイメージはどんなものだろうか?

ふむ、胸がボインボインで、黒ローブ一枚を羽織って、ちょっとえっちな美人の女性?

バッカモーンッ!!出直して来い! そんな人がいるのなら私だって魔法かけられたいわっ!

ではもう一度考えてみよう。ふむ、なになに……?































































lh-1102.JPG

!?












































……ゴホン。話を元に戻そう。いわゆる魔女と呼ばれる者は確かに存在した。

恐らく歴史の授業で「魔女狩り」という出来事を学んだのではないだろうか。

そう、少なくとも当時裁判を行なった者からすれば確かに魔女は存在していたのだ。

だが、実際に我々が想像するように胸が…失礼。

だが、実際に我々が想像するように、魔法を使って空を飛んだり、釜で得体の知れぬものを

グツグツと煮込んでいたのかといえばそうではない。

単純明快に言えば、裁判をする者達などにとって気に食わない者であれば魔女の疑いをかけ、

火あぶりの刑に処したのである。その多くが女性であるが、男性も僅かにいた。



ならば、我々の想像する魔女だとか妖術師の類は存在しないのだろうか?

それでは先程言葉を濁した意味がない。人類学者クラックホーンの報告を取り上げてみる。

北米に住むナヴァホ族の間にはこの魔女のような存在がいるのだそうだ。

そういった存在になるには、自分の身近の親族を殺さなければならない。背徳的である。

姿は何かローブのようなものを、というわけではなく動物の皮を被る。

そういった存在はどこへでも猛烈な速度で移動し、害そうと思った相手の毛髪や爪、排泄物や

衣服などに働きかけて相手を病気にする事が出来るのだそうだ。



最後の呪いを除いては、殺人と動物の皮を被るので実現可能な事である事は窺い知れる。

だが、実現可能でありながら我々の理解を超える事が報告では語られているのだ。

彼らは人肉を喰らい、人肉の中でも特に子供の肉を干して粉末にした毒薬を用意して、

狙った相手の住処へ毒薬を投げ入れたり、儀式祭礼などで人の集まる場において毒薬を撒く。

なんとも恐ろしい話である。













































シャーマニズム(シャマニズム)の方も、実は考えてみれば我々もよく知っているのだ。

シャーマニズムというのは一種のトランス状態になり、人間を超越した存在、超自然的存在と

直接的に接触(降霊など)、お告げを聞くなどして、予言や祭儀などを行なう事を言う。

例えば、「魔女狩り」と同じく歴史の授業で学んだであろう「卑弥呼」と呼ばれる

邪馬台国の女王はこのシャーマンであったと学ばなかっただろうか。

真偽はともかくとして、シャーマニズムに対してのイメージが固まったかと思う。



一つ一つ補足していくと、トランス状態というのは呪文や舞いを続ける事で至る状態。

人間を超越した存在、超自然的存在というのは言ってみれば幽霊の類だ。

あるいは神霊、精霊、言い方は様々だ。

そら、テレビでは霊能力者が自分に降霊したり、相手にさせたりするなんてくだらない事が

よく放送されているだろう。つまりはそういった死霊も含めた存在の事だ。



……とまぁ、文字数制限があるのでこの辺にしておこうか。

長々と続けてしまったが、今思えば誰が好き好んでこんな知識を欲するというのか。

それでもまぁ、ないよりはマシ程度のものだ。

人間は知識を欲し、得る事で悦を得られる唯一の動物であるのだから無駄ではあるまいてw

んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ

☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ






Last updated  2010.08.18 00:21:34
2010.07.20
カテゴリ:哲学・考察
どうも~。嬉しいのと哀しいのでなんだか矛盾したような感情が渦巻いている感じのシムカです。

昨日今日ではないと言ったのに、昨日は耳打ちやメール、ブログコメントなど色々と……。

くっ……これだから毎回RS辞める踏ん切りがつかないんだッッ―――!(いい意味で



まぁ、八割方「留年おね^^」的なのには笑ったがねw 遠慮無しな君達が大好きだ><

或いは、ブログは続けてくれるんだよね?的な事も聞かれました。

都合のいいように解釈させてもらえば、なんらかの繋がりを残して欲しいという事なので、

そういう言葉は嬉しかったですね。いや、本当に。

まぁ、前回も言いましたけど、結果出るまでは今まで通りなので心配なく。

「べ、別にアンタなんか心配してないわよっ!」とか言われたら惚れちゃいますね。





話は変わりまして。

別段もう書くこともない。だが最近は変態だの留年だのと情けない事ばかり書いていたのでね、

ここで久々に真面目な事書いて、皆さんと一緒に教養でも身につけてしまおうかと。

はっはっは。遠慮する事はない。私程度でも理解出来るように噛み砕いた内容にしている。

深くまで掘り下げたりしないから、安心して欲しい。

不本意ながら経済学科の学生なので、そういう感じの事でも書こうかなー(´ω`)






























































第一回「男女の賃金格差について」



男性と女性の平均賃金を比較すると、女性の方が賃金が低い。

皆のイメージとしても、男性より女性の賃金の方が低いという意識があるのではないだろうか。

では、何故賃金格差が発生するのだろうか。或いは、何を原因に差が生まれているのだろうか。

今回は、その事に関して原因たる一面を見て見たいと思っている。



男性と女性では、女性の方が勤続年数が短く、学歴も全体で見れば低い。

実はこの二点、つまり勤続年数と学歴を調整して比べてみると、約80%程度格差は縮まる。

つまりこれは性別の問題ではなくて、勤続年数と学歴が賃金へ大きく影響を与えているので

あって、その違いが結果的に賃金の差を生み出している原因の一つとなっているのだ。





しかし、最近では女性も勤続年数が増え、学歴も高くなっている。

となると、前述した80%を引いた残りの20%は何に起因しているのか、という事をみていきたい。



男性と女性の管理職を比べると、男性の方が多い。

給与は昇進と並行して上がる傾向が強いから、残り20%は女性の管理職の少なさが

原因なのではないかと私は考えている。

とはいえ、無論の事女性の管理職も増えてきている。しかし、その女性の管理職をみると、

前述した80%埋める要素、長期勤続と高学歴という条件を満たした人が管理職に就いている。

増えてきているとはいえ、男性ほどではないのだから、男女の格差はまだ大きい。

管理職は一般職よりも給与が高い。したがって女性がもっと多く管理職に就けるように

ならなければ、男女の賃金差も埋まらないのである。





女性の長期勤続、高学歴に伴う管理職が増加傾向にあるとはいえ、男女の賃金格差が

埋まらない(管理職に就きにくい)のは一体何故なのだろうか。

結局それは、女性の勤続年数が短いという事が大きく関わってくる。

労働力とは投資すればより効率的になり、より大きな収益を生む。

つまり、教育すれば自然、賃金が上がるという事は容易に理解して頂けるかと思う。



企業はコストを負担し、企業内教育を行なう。

それは当然の事ながら大きな収益を生むという期待があるからこその投資、負担である。

しかし、短期間で退職されては収益どころかコストすら回収出来ない。



女性の勤続年数が短いとわかりきっているのならば、コストがあまりかからない補助業務を

割り当て、昇進機会を与えないという選択を企業がするのも実に合理的である。

ここで皆さんは一つ疑問を抱くと思う。

勤続年数が原因なのであれば、女性の中にも長期勤続者はいるし、増加しているのだ。

ならば女性とて管理職に就き易くなるのが自然なのではないだろうか、と。

これには、冒頭で書いたイメージ、意識という事に関わってくる。

企業は平均的にみて、女性の勤続年数が低い事から男性を選びがちである。

固定観念的に感じるかもしれないが、この事を統計的差という。

これが最終的に男性と女性の賃金格差を生み出している一要因となっているのである。































































ちょいと色々噛み砕いたら長くなっちゃいましたね。けれどすごく簡単な話なったはず。

私のこの考えを鵜呑みにするのはさすがに危険だけど、参考程度にはなるかもしれない。

いや、それは違う!と改めて調べたり、関心を持ってくれたのならば、幸いだ。

別に書いた事に関する反論とかはいりませんよw 

そういうのは自分のブログで正しい事書くなり、調べるなりしてください。



よしよし、こうやってたまに真面目な事書くのがいいな。

そら、人はギャップに弱いって言うじゃないか。普段ふざけまくっている私が言うと……!

「計画通り!」となります。というか第一回って続きがあるみたいじゃないか…。

次回は「日本の円高と為替市場に関して」書きたいと思います。

………と、いうとなんかすげぇ頭良いっぽくね?w(←馬鹿の考え方

つまり、今日のまとめとしては、「人はギャップに弱い!」という事でした。

んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ

☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ






Last updated  2010.07.20 00:24:03
2010.04.20
カテゴリ:哲学・考察
どうも~。なんだか昨日は久々に春の陽気といった感じで心地よい日を過ごしたシムカです。

お前はおじいちゃんかっ!と言うかもしれませんが、そうかもね^-^

さて、なんでも明日というか日付的には今日なんですが、アップデートついに来ますね。

色々と新要素実装な中、私が懸念する事はそんな事ではなーい!!

アップデートの日はギルド戦申し込んでも、メンテ後に消えている経験があったのでね。

とはいえ、実際に見てみればメンテ開始は八時からだそうだ。

私は日曜こそ六時申し込みしているが、火曜は大学行く前の九時くらいに申し込んでいる。

どちらにしろ間に合わないが、仮に申込が消えるとした場合、メンテが終わるのは十四時。

さて、どうするかね。車検行かなくちゃいけないんだがね。私生活阻害されたくないんだがね。

そうだね、男嫌いの霊術師が私にデレデレになるフラグが立ったら意地でも申し込もう。

はっはっは、ツンデレとはまた一味違うそいった女性を振り向かせる……甲斐性の見せ所だぜ!

………。

おっと、あやうく二次元の世界の住人になるという妄想を続けるところだった。危ない危ない。





























































さて、本当は今日は更新するつもりはなかったのだが、コメント返信が文字数オーバーしたので。

コメント返信的な意味も含めつつ、また新たに説明なりをしたいと思いますわ、ええ。

私としては物言いに対し、何か感慨を抱いてくれればそれで至上なのですが、

どんな些細な事でも自分なりの意見を言ってくれた人には敬意を持って答えたいと思ってます。



さて、我々はアメリカの核の傘に守られている、とされていますが、それは不確かな物です。

何故か、という問いに対しては以前答えているので、ここでは割愛する。

もっとも、聞きたい人がいれば再び答えるがね。

ではアメリカが日本を守る抑止力足りえるのは一体何を起因とするのだろうか?

私はまず、そもそもこの考えが違うのではないかと考える。

何に対しての抑止力か。

それは他国の介入、国際紛争、ひいては覇権戦争に対するものだろうと私は解釈した。

第一次世界大戦後、国際法として不戦条約が成立した。

簡単に言えばそのままの意味で戦争はしませんよ、という事だ。

だが、多くの国が自衛権(他国からの介入があった際に自国を守る権利)を留保している。

ともあれそれは他国からの介入がなければ自らは戦争をしないという事である。

さて、ではそれならばそもそも抑止力などというものは不要どころか余計なのではないだろうか。

ところがここが狡賢いもので、自衛権の拡大解釈により、自国の戦争を正当化する事がある。

となれば抑止力は必要なのかもしれない。


















では何故それがアメリカという事になるのだろうか。

そもそも、端的に言えば勝手に戦争をしかけてきたら国連安保が動くはずではないだろうか。

するとこう言う人もいるだろう。

「良好な日米関係の中で日本が米国に協力したり、逆に米国が守ってくれる事の何が悪いのか」

私が言いたいのは、アメリカに依存をするのは危険であるという事だ。

「それは何を根拠に」と問われるかもしれない。

1929年10月24日、暗黒の木曜日。そう、世界大恐慌である。

第一次世界大戦後、ヨーロッパの資金が大量に流れ込んだアメリカは発展を重ねていた。

その時日本は関東大震災、昭和恐慌などで疲弊していたところに、輸出を黒字としていた日本の

生糸のアメリカへの輸出が急激に落ち込む(その輸出先の大半がアメリカだったため)

そら、鈴木商店の話なんてのは当時生まれてない自分達でも知っている事だろう。

さて、そんな危機的状況の日本は、それを脱するために何をしたか。

大陸への進出、満州事変、そして太平洋戦争である。

アメリカに依存した結果、このような結末を招いたのだ。

その原因は経済的な関係ないというかもしれないが、真実日本はイラク戦争において、

第9条を拡大解釈してまで協力していたではないか。





次に、日米地位協定という言葉に勘違いなイメージを与えてしまったようだが、

他にもそういった考えを持った人の為に言っておくが、あの場では基地に関してのみ、だ。

まずはその日米地位協定について調べてからにして欲しい。

どう考えても不平等な点が見受けられる。

守られている立場だから当然? ならばそれこそ地位が同じでない事の何よりの証拠である。

そしてテロに関してだが、記憶に新しいのはやはり9.11.だろう。

まるでそれに対しアメリカの行いが正しいかのように言われるが、果たしてそうだろうか。

アフガニスタン戦争に関しては確かに自衛戦争とされている。

私だってテロに対して泣き寝入りしたりするのは必ずしも是とは言わない。

だが、イラク戦争はその実、勢力圏拡大戦争とされている。

テロに対し力による抑止? ないない。

それは後発的に報復攻撃をする事は可能だが、テロに対して核抑止だとかそういった効果はない。

理由なぞ説明するまでも無いだろう。

故に各国はテロに対し敏感に、事前に防げるように様々な方法を取っている。

テロというのはアメリカに限らず世界中で協力して解決ないし、防いでいくものだ。

真実、アフガニスタン戦争ではNATOなども協力している。

日本後ろにアメリカがいるとして、それを理由にテロをしないなどと何を根拠に言えるだろう。

真実、そのアメリカにテロ行為が及んでいるのだから、日本がそれで安全なはずもなし。


















……とまぁ、意見に対する回答も含めた前回の戦争に対する意見に関しての追記はここらで。

元々、私はガッチガチの平和・反戦主義者だから、大半の人と意見が合わないのはわかってる。

「甘い考え」だとか「夢想に過ぎない」とか言われるのもわかってる。

言ってみれば、人間を殺す為の武器、兵器なんてものはこの世に一つの例外も無く不要だし、

そもそも何故殺すのだと言うくらいの勢いだ。

だから、“戦争が無くなる案”を出してきた先人の本は漁るかのようして読んで来た。

言っておくが、私は平和というもの、ひいてはそれを阻害するものが戦争だけとは捉えていない。

今回はあくまで戦争と言う的に絞った。もっとも、一番大きな阻害は戦争なのだろうが。

つまりは、戦争を容認する人はすればいいし、私のように絶対的に否認する人はすればいい。

両者が相容れなくてもそれは道理。何せ根本的に人間は争うものだから。

人類史において戦争がなかった期間は僅か200年程だったという。

無論、私も戦争なんて悪性の塊の如く人殺しという争いでない争いなら存分に納得出来る。

そうして最後に言えることは。

各々が各々の意見を持つ事が大事であり、相容れないのならばそれで良し。

故に私は、想い、考える事から始めようと言ったのである。

別段、戦争でなくていい。自分の興味がある事でいいから考える力を養うべきだと私は思う。

んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ

☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ






Last updated  2010.04.20 01:31:40
2010.04.17
カテゴリ:哲学・考察
どうも~。なんか春だってのに最近、寒すぎて暖房やらストーブを使っているシムカです。

寒いので全然RSもやれていませんよ、ははっ。え?関係ないって?いや……あるっ!!

さて、今日はRSでもergでもなく真面目君でいきますので。

………。

ergなのだが、「素晴らしき日々~不連続存在~」という作品内にて昨夜私は瞠目した。

It's my own Invention にて卓司音無が初めて会って会話をしたところである。

「死」に関しての発言が私の考察と似通っている部分があったからだ。

似ている部分があっただけで、無論、同じではない。

タペストリー」の際にも言ったが、何故私はergなんて娯楽で死を学ぼうとしているのか、

そう疑問に思う人もいるかもしれない。

確かに私はergのみならず映画、小説、そういった人間の生み出す娯楽を通して学んでいる。

それに関して、詳しくは後述する。

だが、それならば先人の哲学者達の考えを学んだほうが良いのではないか?と思うのも当然だ。

しかし、それらは完成された一つの考えなのであって、

それをどうにも出来ずに自分の考えとしてしまうのはどうにも安易である。

要は自分なりの考え、答えを導き出す為に他の人の出した考えには頼らないというところだ。


















何故、このような娯楽を通じて学ぼうとしているのか、と問われれば簡単な話である。

私は現在、普通の文庫本サイズで200ページ程の紙束を製本し、本もどきとして完成させている。

だが、それは内容としては未完であり、暫定的な完成とでもいえばいいのだろう。

それをベースにして様々な娯楽や、哲学者達の思想を学び、時に賛同し、時に批判し、

修正を加えていっている段階であり、娯楽が一番情報を得るのに容易いためである。

その論文は何も全て生死に関して書いているわけではない。

内容は様々で、死の恐怖に関してだったり、宗教の必要の有無や、そもそも宗教とは何かという

観念論的な話が中心で、他にも善悪に関して、平等や認識、平和とは何かといった事を書いた。

その中でも今回はたまたま「死」に関する娯楽が見つかったという話である。

今挙げた中でもとりわけ「死」に関するものは何かと見つけ易いものだ。

それは何故か、というのも含め、後述する。

以下は論文の原文の冒頭を第三者に分かり易いように修正・簡略化して抜き出したものである。

ちなみに以前、原文の未完成状態を載せた事があるので、見た事あるひとはいるかもしれない。

















生と対なるもの、それが死であり、死とは人が最も恐れる事である。

恐怖というものは大抵克服出来たり、未然に防いだり出来るものであるが、その例外が死だ。

死に対する恐怖は克服出来ないのが、人の最も恐れるものが死であるという証明の一要因となる。


<中略>


何故、死は克服出来ないのかと問われれば、それを体験・経験する事が出来ないからだ。

克服とはまず、それが何であるかを知り、対策を立てるものであるのだから、体験する事は不可能。

何故なら言うまでもなく、前述したように死とは停止であり終わりであるからだ。

そういった意味で、死を恐れる一番の要因は、理解出来ないものであるからと考えられる。

私はその分からない、理解出来ないというのを前提にこのように考えている。

小説や漫画、アニメ、ゲーム、映画などそういった人間の生み出す二次的な娯楽。

それを生み出す事も、読んだり、聞いたり、観たりするのを好むのは、

その根底に生と死を理解したいという深層的な欲求があるためだからである。


余談だが、それらが二次的ならば本当の娯楽とは何かと問われれば、善性の行使なのだが、

それは今回は割愛しておく。





さて、例えば先ほど挙げたものは大抵が人間の生死を描いているものである。

何故ならば人間が最も興味を持つのは同じ人間だからだ。

それを見て今回の「死」に限定すれば、死を擬似的に体感し、理解したいと思っているのだ。

人生とは己の一度しかないものだから他の人生をというものを擬似的に体験、

或いは見聞きして自分とは別の人生を謳歌したがるのである。

これらはどれも直接的に体験できないからこそ間接的(擬似的)に体験したいという

欲求から来るものなのであるのだ。





しかし、私のこの考えを聞いて多くの人が

「そんな事は無い。私は死を理解したいがためにそれらの娯楽を求めているのではない」

と、言うだろう。

それは確かにそうだし、否定はしない。故に前述したように深層的な欲求なのである。

とはいえ、間接的に体験したからといって死への恐怖を克服したり、まして死を理解するなど、

到底不可能なのである。

私が死を停止、終わりとしたのもあくまで二次的に、間接的に敬経験した事から導き出した、

いわば仮定なのである。


















私のこの言葉足らずな論文を読んでどう思っただろうか。

実は私はこの論文の前書きの書き出しはこのようにして始まっている。

「現代人は考え、想う事を放棄しつつある」

これが例えば今日の夕食は何だとか、あのゲームの発売日はいつだとか、彼氏彼女の事、

そんな事を言っているのではないという事は言わずとも理解頂けると思う。

そして、一部とはいえ前述した論文然り、哲学者の著書然り、様々な世のニュース然り、

新聞の記事然り、そういったあらゆるもの、自分が実感を持てない様なものに対して、

きちんと自分なりの考えを持っているか否かというのは非常に重要な事である。





例えば哲学者の著書であったり、前述した私の観念的考察は実感し難い部分があると思う。

それを何も考えずに意味不明だとか、頭がおかしいだとか、どうでもいいという反応は、

それこそよくある事だし、真実、今このブログを見ている人の中にもいるだろう。

ああ、人間とはそういうものである。

自分の中にあるルール、常識、を超えるもの、逸脱するものは全て否定し、容認しない。出来ない。

実感出来なければ何の意味もないじゃないか!なんて言うかも知れないけどね、

それこそまさに自分のルール、常識の枠を超えると認めたくない、異常者扱いという典型。





そら、例えば宗教だってそうだ。

知りもせずに現代人の多くは宗教そのものを嫌悪、否定する人が多くはないだろうか。

私は信仰の自由を素晴らしいと思うし、他人に宗教を信仰しろなんて勧めるつもりは毛頭ない。

だが、宗教そのものを否定する人間に対しては反感を抱く。

宗教、信仰というものは遥か古代からある人間の誰かに縋る心、弱さを埋めるために

人間自らが生み出した究極の幻想、神であり、それは人間の営みの一つである。

それをよく知りもせずに否定するのはあまりに愚かだとは思わないだろうか?

人間を人間足らしめるのが宗教だなんて事はないが、理由無き否定は道化の他何者でもない。

無論、世にはカルト宗教なんてものもあるから、そういった邪教は糾弾に値するだろう。

最近でいえば自爆テロなんてのがそのさいたるものだ。


















つまり、頭ごなしに何事も否定するべきではないと私は言いたい。

まずは考え、想い、そして知る事から始めるべきなのだ。


言っている意味わかるかな? たまにはもっと大きく視野を広げてみようぜ?てな感じ。
例えばさっき書いた考察を読んで肯定なり否定なり考えを持てれば上等。
是非も無く自分の考えがある人は至上。けど、どれでもない人はまずは考えてみようという事。
別にさっきの考察じゃなくてもいい。実感出来て、尚且つ最近でいうと米露の核とかね。


かつてソクラテスも「無知の知」という形で自分が無知である事を知る事から始めた。

私が書いている論文というのは、謙遜でもなんでもなく、その実、誰も書ける内容なのだ。

ただ、わざわざ書かない事を書いているだけ。

つまり、他の人より少し積極的に考え、想っているというだけの話。

そして、やがてその考え、想い、知った事の集大成として、未完成の論文を、

いつか完成させたいというのが、私の人生における目標の一つ、というわけである。

そうして学んでいく中で、娯楽の中からはやはり学べることが少ないと思っていたのだが、

自分に少し近い、今回ならば「死」に対する考え方に、今後の物語の展開が気になる、

というのが今回のブログの内容だったのだが……遠回りすぎて分かりにくかったかな(ノ∀`)

もっとも、ergは18禁(エロい意味じゃなく)という事でそういった「死」に対する表現が

緩和されているのが良くて今回は挙げただけで、

別に死に関する考察はergをやった集大成なんて事は微塵も無いので一応追記しておく。

こういう考え方もあるのか、という参考程度のもので、実際はやはり哲学者の思想が中心となる。

しかし、以前に書いたトルストイの『人生論』における『愛』のように、

私が納得出来ないものが多く、どうも現時点では独自のものになってしまっているわけだ。

さて、文字数制限の関係上ここまでにしておく。

んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ

☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ






Last updated  2010.04.17 00:32:19
2010.01.01
カテゴリ:哲学・考察
どうも~。とりあえずはあけましておめでとうございますと言っておく事にしたシムカです。

さて、新たな一年の始まりという事で望みや決意を新たにすべき時でもありますね。

人が聞けば馬鹿にされるか呆れられるか或いは陳腐な言葉に聞こえるかもしれないが、

ちょっと新年らしく、願いっぽく平和に関して先日の事を挙げてつつ考えたいと思う。



さて、我々は何事も想う事から始まる。

それは日常の細々とした行動から未来への、自分が成すべき、成したい事でも例外ではない。

そうだろう?何事も考えなければ、或いは想わなければ始まらないのだ。

とある文豪はこう言った。

人が最も恐れる事は何か、それは最初の一歩である―――と。

とはいえこの言葉は4月の卒業や入学や入社などの季節の方が肌に合うかもしれないが。

ともかく、我々は考え、想う事を忘れてならない。それは夢想とは違うのだ。















良いだろうか。まず、貴方が何に対し考えるかという事は私の図るところではない。

無論、私に断言などされようものなら度し難い越権行為とでも言えばいいのだろうか。

では、私自身が考えて想う事―――それも私個人が包括するものでは意味がないだろう。

故、私は皆が知っていて、私が知っている事で考えていきたいと思う。

ノーベル平和賞を受賞したのは誰か、というのは皆の記憶にも新しいのではないか。

2009年、受賞者はアメリカ大統領、バラク・オバマ氏である。

この受賞には賛否両論あるのだが、皆はどう思っただろうか?

私個人の考えがあったところでどう変わるわけでもないなどと言う愚者は論外だ。

言っただろう?何事も考え、想う事から始まるのだと。

私個人の意見を言わせてもらうならば何故?というのが正直な感想、意見である。

恐らく賛成派の方々から言わせれば彼は演説で「核なき世界」を宣言したのだから、

無論、それだけではないが、彼の諸々の功績はまさに平和賞受賞に相応しいものだ、と。

では私のような意見を持つ者は何を根拠として彼が相応しくないとするのか。















その実、至極単純、誰でも彼の平和賞受賞の際のスピーチを聞けばわざわざ言うまでもない。

核廃絶を!平和を!と謳っているあのオバマ大統領はアメリカの大統領である。

そしてアメリカ軍を指揮するのはまさしく彼であり、彼が絶対的権限を持っている。

彼は絶対的な反戦論者でも平和論者でもない。

何故か。それは平和を勝ち取るためには戦争は必要なのだとしたところである。

きっと賛成派の方々はこう言うだろう。

戦争を止めるために仕方なく戦争をするのだ。我々は真に平和を願い、その為の戦争を容認すると。

ああ、なんと下らない。実に下らない。

30人の平和の為に70人を殺す事が正しいのか?

99人を縛る1人の独裁者を殺す為に99人の幾許かの人々を犠牲の上での勝利は正しいのか?

仕方なく戦争をする?多少の犠牲は仕方ない? なるほどでは、仕方ないとはどういう事だ?

貴方の肉親や近しい者が死んで、果たして仕方ないで納得出来るのか?

ああ、笑える。そういうのをご都合主義と言うのだよ。

仕方ないなどと言えるのは生者の特権、生者がそう思った方が自分が救われるからそう思うのだ。















そもそも、戦争だけが平和を阻害するものではないというのは十二分に理解はしているが、

ここは戦争を中心に考えるとして、戦争と止めるための戦争をしてその結果に平和を

得られるなどという発想がそもそもの間違いであり、平和の意味を理解していないといえる。

戦争を行なうという事、それ自体が既に結果として得られると勘違いしている平和を

手に入れられる事を完全に失くしているのをいつになったら理解出来るのか。

ここでよく聞く言葉として皆も聞き覚えがあるだろう言葉を引用したい。

戦争を行なえば殺した国を殺された国は憎み、殺された国が復讐でもすれば再び憎み、

こうして“憎しみの連鎖”が続くのだ、と。

では聞きたい。この憎しみの連鎖を止めるために戦争をするのだろうか?

いや、それでは矛盾してしまうだろう?そうして指導者は仕方なくと容認して戦争をする。

私より遥かに賢い皆の事だ、言うまでもなく仕方ないなどという言葉が使われるたりすること、

独裁者から救うためだと「正義の戦争」だと謳うなど道化言わずなんと言えるのだろうか。

核廃絶。ああ、聞こえは素晴らしい。だが、そんなもの日本は当の昔から叫んでいる。

そもそも核廃絶を謳う、或いは冷戦などの歴史があった真を理由はなんだかわかるだろうか。

ああ、想像に難くない。

影響力が強すぎるのだ。もっとわかりやすく言えばダメージが桁違いなのである。

戦争時に互いに国同士核を撃ち放ち、果たして何日で地球の生き物が死滅するだろうか。

つまりはそういう事で、仕方ないという犠牲では済まないからなのである。

核廃絶?わざわざ叫ぶまでも、宣言するまでもなく人として当たり前の事なのである。

んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ

☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ






Last updated  2010.01.01 01:08:12
2009.12.15
カテゴリ:哲学・考察
どうも~。今日はきちんと大学に行こう!そう決意した日に限ってついてないシムカです。

今日は何もサボらず真面目な学生をしてみよう!!一昨日の夜そう決意。

昨日の朝もきちんと起きて大学に行こうと家を出て乗換駅に出ると何故か騒がしい。

「―――車両故障の関係でダイヤが大幅に乱れております、お客様には大変―――」

( ゚д゚ )!?

真面目に行こうと思ったらこれだよ!!なんじゃそら、もうやってらんね('A`)

まぁそんな感じの日々を送っている私ですが、ようやくトルストイ『人生論』が読み終わり、

タイトル通り後編としてまた更新に至ったわけです。

そういうわけですからRSergに期待している人は回れ右です。いや…期待ってなんだ…?









































今回は以前書いたトルストイの著作である『人生論』の考察の後編として書いていきたいと思う。

前回同様年とに入れておいて頂きたいのは元々私の考察と同じ様な事に関して言及している

部分に対し、両者を比べ、私の意見を書いているものであって、彼の文豪のこの著作が

間違いだなどと糾弾する気はないのが無論の事、まして一介の凡学生が成し得る事では

ないのだという事を始めに言っておき、再び念頭に置いていただきたい。



さて、前回はトルストイはこの『人生論』の中で、人は動物的自我を理性によって抑圧、或いは

制御した上で愛の一言に尽きる幸福なる人生を送らなくてはならいと言っていると書いた。

この愛を万人が抱く事でこの世から争いがなくなるばかりか死の恐怖さえもなくなるのだと

言及しているのである。

この文章だけ読んだ人が愛など言われて納得出来るとは到底思えない。

ではそういう類も含めて以降、考察していきたい。















まず愛とは何だろうか。

愛するという事は異性―――いや、同性だろうと相手に好意を抱く事だろうか。

私たちが単純に愛を表現するならそうなるだろうが、それはつまり究極、愛とはセックスである。

しかし、それでは彼の言う愛とは違っているだろう。

何せ前述したように動物的自我を理性によってコントロールしなければならないのだから、
(それは例えば一切のセックスを禁ずるとかいう意味では全くない)

利己的な幸福、人生を否定し、自分中心ではなくて他者を愛する愛、それこそが愛なのである。

人を憎まず、ただもう全てを愛し、全てのものを自分が幸福にし、自身を、自身の生命を

捧げつくそうと思う者こそ真の愛を理解し、人生を理解しているのだそうだ。



ここまでで彼の言う愛が少しでもわかって頂けただろうか。

つまり自分の幸福よりも他人の幸福を願えという事であり、それこそが真の愛だという事だ。

他人をこのような定義においての愛で愛し、憎まないのならば確かに争いはなくなるだろう。

しかし、前回も最後に書いた「死の恐怖」に関してはどう説明するのだろうか。















まず死とは自分が生まれてから肉体には様々な変化があったというのにどうして死という

変化だけを恐れるのかと彼は問う。それに対し私はこのように考える。

確かに肉体には体が大きくなったとか、ケガをしたとかで変化は常にあるものなのだろう。

しかし、それはあくまで生という前提があってこそであり、相反する生と死の変化、

つまり前提の変化をそれらと同じくして見る事は出来ない、と。

しかしそれも生命というものを真に理解していなからだと彼は言う。

そのような幻の生命では死を恐怖と感じる。

だがそもそも生命とは時間や空間に囚われず、死なないものであるのだと言う。

私は「死に関する考察」で私を含め表面上では装っている者も、万人が死をおそれ、

その恐怖を克服することは出来ないとしたのだ。

前回も言ったように彼と私の言う事はまるで反対であり、彼に言わせれば私こそ死を、生命を、

まるで理解できていない者の典型例だと言えるのだろう。















死とは自分だけが持つ唯一の肉体、いや肉体を除いたとしてもこれも自分だけの自我という

自己意識が失われ、自分という個が認識出来なくなるので、それに対し恐怖を感じるのは

至極自然な事ではないのだろうかとやはり私は思う。

しかしそれにも彼はこのように答えている。

自我、意識が途絶える事、つまるところ死であるが、意識が途絶えるなど我々は毎日、

眠りという行動によって行なっているではないか、と。

意識が無くなるという点では眠りも死も変わらない。それでも人は眠るのである。

それは人間が根底…いわば超自我において真の自我が時間を超えて生きるのを知っていて、

意識が途絶えてもそれがなくなる事はないのだと納得しているからである。



なるほど、彼の言葉が正しいのならば、私の考えは悉く論破されている事になる。

皆さんはそれで納得しろと申されるかもしれないが、生憎と私は物分りが悪いのだ。

どんなに私の考えが間違っていると、眠りと変わらないなどと言われたとしても恐怖を感じるし、

万人がそうであると納得するまで言い続けるだろう。

そんな馬鹿のためだろうか、彼は死の恐怖に関して最後にこのように言っている。

死に恐怖を感じない理由としてそれは何だと問われれば思い出である、と。















例えば貴方の大切な人が死んでしまったとして、或いは既に死んでしまった大切な人がいて、

死んでしまった今でもその人の顔も体も覚えているだろう。

そこにいかに愛があったかでその鮮明さも様変わりするだろう。

つまり肉体の、時間的な死はあっても、その死後も生命は思い出という形で生き続け、

生者にあらゆる影響を与えるのだ。

私は少なくともこれで納得は出来なかった。皆さんは彼の言葉に納得する人もいれば、

否定する人もいるだろう。それはどちらも正しくて間違っている。何せ答えなどないのだから。

自分の肉体的な死が迫ろうとも真の自我は生き続けるし、他者の間でも思い出として

生き続けるのだから死は恐れる必要がないと叫んだところで現代人に果たして通用するだろうか。

我々現代人は実存主義ではないだろうか。いや、もっと簡潔に言うなれば自分で

体感出来なければ、実感出来なければ何事も納得いかないのではないだろうか。

つまりそれは死ぬまでわからないのだから、やはり人は死に対し恐怖を感じるのだと私は思う。




~余談~

いや…こういう話の後に余談書くのかどうか迷ったが一応書いておく( ´_ゝ`)

Propellerから新作が発表されるみたいですね!一作目以外全部やってますから期待大!!

うん、そんだけ。






Last updated  2009.12.15 00:50:09
2009.12.04
カテゴリ:哲学・考察

どうも~。やはり年末年始は忙しくなりそうで、久々にリア充になっちゃう感じのシムカです。

20日辺りから三が日過ぎくらいまで忙しくなりそうです。嬉しいような悲しいような。

22日は朝大学に行って、夕方に高校の奴らと会って……ああ、このブログでも何度も出てきた

三~四ヶ月に1度会ってる高校の同級生です。んで23日の朝まで飲んでだらだらと過ごし

23日も祝日ですが普通に大学があるので行き、そこで大学の女友達から飲みに誘われてるので

そのまま居酒屋で飲む感じになるかな、まぁ女性なんで遅くならないうちに解散するけど。

んで24、25日はTDLTDS暴君に連れて行かれるかな、順番はどっちが先かは知らないけど、

今年は泊まらないって言ってたから0時秘密固定行けないのは22日だけかな。

ん…?いや、書いているうちに気付いたんだが、B.A.W.のラストギルド戦って22日じゃ……

は、はははっ!まま、参ったなぁ(*ノД`)

…さて、この先はタイトルとカテゴリが示す通りお堅い内容なのでRS/erg云々無しです。








































幸福とはなんぞやと問われた時、貴方は何と答えるだろうか。

以前、私は人生において何の為に生きるのかという問いそのものが間違っているとした。

一応、その時書いた事はフリペ考察に入れてないのでリンクを張っておく。 

我々が一般的に思う何の為の“何”にあたる部分も過程であり、真の終着点とは生の充足であり

それを成し遂げるために如何なる方法をも考えられるのだとしていた。

この考えは今でも変わらないのだが、以前に私はトルストイの『人生論』という本を

読み進めていると書いたのを覚えているだろうか。半分以上読んだのだが、そこには

私の考えとはまるで正反対の部分が丁度良く出てきたので、それについて今日は考えたい。














況や人生は幸福を得るためにあるという考えまでは同じなのだ。

人生の幸福とは自己の肉体的欲求を満たすという類はそれを証明するには至らないのである。

では何であるか。

別の考察で人間が善性・悪性・理性の三種を生まれながらに例えれば種として備えており、

外界との接触を水・栄養分として個々の花を咲かせるとした。

水や栄養分には多種多様なものがあり、咲く花も様々であるというのは想像に難くない。

まず人生の幸福、生の充足を求めるのならばその中でも理性により

肉体的欲求・動物的自我を抑える必要がある。

では、それらを乗り越えて得る幸福とは一体何なのだろうか。

















我々は自己の幸福を願うものである。

何せ自分の人生は自分だけのものなのだから、そう考えるのは自然であるといえるだろう。

だが彼曰く、私は幸福でありたいと望んだとしても、私の幸福を他人が自分以上に

望んでくれないのならば、真の幸福など得られないとし、他人は自分自身の幸福しか

望まないのだから、結局のところやはり真の幸福など得られないとしている。

だが、それを解決し得る唯一の手段として以下のように説いている。


『理性の意識は今度こそ、はっきりと力強く人に語りかけるに違いない。
「お前のこの望みが叶えられるような状態は、ただ一つしかないのだ。
それは全ての人が他人の幸福の為に生き、自分自身よりも一層他人を愛するような状態である。
(中略)
全ての人が自分より他人を愛するようになる時、はじめてお前が幸福になれるとすれば、
 お前も人間の一人として当然、自分よりも他人を一層愛さなければならないはずではないか」』



つまり、彼曰く、我々の人生は生の充足、幸福を求めるものであるのだから、

それを得るためには我々は自分よりも他人を愛さなければならないとしているのだ。

利己的である人間が真に他人を自分よりも愛す、他人の幸福を願えばいずれ自分も

真の幸福を得られるというものに正直私は首を傾げる。

何故なら子供染みた考え方をするのなら、最初の問い、「幸福とはなんぞや」というものに

対する答えが人の数だけあるのだから、そのような人生など間違っているのではないかと。















しかし、彼はそれについてもこのように答えている。


『人生とはそうしたもので、なんとしたって、それ以外に、人生のありようはないという事だけだ。
 それから、人間にとっても、世界のいっさいのものにとっても、こうした生活が
 ほんとうの生活だし、幸福なのだ。
 今までの世界観では、自分の生活も、ほかのいっさいのものの生活も、不幸な無意味な
 ものでしかなかったのに、この世界観によれば、それが人間のうちに存在する理性の法則の
 実現ということになる。
 めいめいの人がすべての人に奉仕するという法則、つまり、いいかえれば、
 すべての人がめいめいの人に奉仕するという法則さえ実行されれば、それこそ人間という人間が
一人残らずどこまで無限に幸福になれるに違いない人間の最大幸福が実現するに違いないのだ』



なるほどそれが正しいのならば、人の数だけある答えを出す人々を納得させ得る幸福が、

そこにはあるのだろう?と問えば、それは“愛”であると答えている。

正直な話、私は驚いた。

まさか答えが愛などという安直とまではいかないが陳腐なものであるとは。

そしてその愛とやらを否定する者は人生を理解していないのだという。

ああ、これが真理ならばかつてソクラテスが知識人たちと対話し、無知の知を自覚させた

無知な知識人たちと私は変わらない事になる、なんたる道化だろうか。












加えてそれを更に決定付ける内容がこの後に続くのだ。

人生を理解している者は、或いは愛に生きる者とも言い換えられるが、これらの人々には

死に対する恐怖など抱かないというのだ。

私は「死に関する考察」で、全ての人間は例外なく死を恐れ、それを克服する事は出来ないが、

映画、小説などの中で擬似的に死を体感し、克服しようと試みるのだとした。

彼曰く、人は人生の中で様々な変化をしていく、この死というのもその変化の一つだというのに、

一体何を恐れることがあろうか。死を恐れるのは真に人生を、生命を理解していないことの

何よりの証拠であると、肉体的な死は(変化)はあろうとも自我、自己意識……

よりわかりやすく言えば魂のようなものは滅びないとしている。

私は思う。

自分より他人を愛せ、肉体的な死があろうとも自我は滅びないのだから死を恐れる必要はない。

そうして結果、幸福が得られるのだというこの考え、キリスト教の教義を説いているかのように

聞こえてならない、というより恐らくそれを根幹に考えられているのだろう。















まぁ、このような大文豪の言葉と凡人学生風情の陳腐な言葉、どちらに信が置けるかなど

問うまでもないだろう。

しかしだからといって無論のこと私は自分の考えを変えるつもりなどない。

確かに自分よりも他人の幸福を願えるというのは素晴らしい事だと思う。

真の幸福が愛であり、金持ちに、家族と…好きな人と幸せに暮らしたいなどという幸福の類は

真の幸福が叶うために邪魔だというのなら私はそんな幸福など願い下げである。

無論、家族や好きな人と暮らしたりというのは愛が大きく関係しているのだろう。

しかし、愛だけで全てを解決できるほど人間というものは完成された存在ではないのである。

例えるならば自分以外の全ての、今自分が嫌っている人までも愛せといわれて愛せるだろうか?

ああ、キリスト教信者ならばその教義を根幹としているのだから出来るのかもしれない。

しかし現代日本のような多くの人が宗教を信仰することない社会でそれをキリスト教に絞れば

そう出来る人が多いとは思えない。

大前提として全ての人が全ての他人を愛さなければ幸福を得られないのであるならば、

我々、信者含め誰一人として真の幸福を得られてはいないのではないだろうか。

さて、前述した通りこれはまだ半分少々を読んだ時点での話である。

この理解力のない愚かな自分でも理解出来る結論が記されている事を祈り、

ここまでとしておく。

んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ

☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ







Last updated  2009.12.04 01:24:45
2009.11.17
カテゴリ:哲学・考察
どうも~。タイトル怖っ!?って思わせてしまうかもしれないが気にしないシムカです。

MW2はオフ終わっちゃいました。面白かったけどやっぱ英語だとサッパリだわ( ´_ゝ`)

そうそう、オンゲのFPSやらんの?とかよく聞かれる或いは一緒にやらない?って

誘われるんですが、グラフィック的な意味で私はあまりやりません。

まぁ、グラが良くてもやらないと思いますけどね。

話を戻しますが、結構プレイキャラ殺されますね……燃やされるのとか惨すぎる。

それにしてもCoD4でいうところのオールドギリーだっけか?あの潜入任務。

それに似た感じのが今回も雪山であって、先導はプライスなんですが、

指示に従って敵を撃ち殺した時、なんて言ったと思います?

「びゅーてぃふぉー」

マクミランwwwと吹き出してしまった。絶妙な感じで似ていたからね(ノ∀`)

なんか今作ではOPSモードとかいう協力プレイが出来るらしいので、今度はそっちやってます。







































さて、以下はカテゴリに沿った内容になるのでRSerg目的の方は回れ右ですよ^-^

私はよく本日の内容のような哲学的・倫理的な話を良くしますが、これには理由があり、

私が教職を目指してるのは何度か話しましたが、その過程で必要だからです。

哲学・倫理学の分野でね。まぁそれだけだとなれないので政治経済や歴史なんて方も。

もっとも、まだ児戯に等しい雑記だけども、時たまこのブログがこのような面を見せるのを、

普段のブログを飽きもせずよくご覧になって下さってる方々には忍びないが容赦頂きたい。








































さて、本日はフリペにもある善悪に関する考察の追記的なものを断片的に記し、

その後、それがまとまったらフリペの方にも肉付けしていきたいと思う。

以前は『善とは悪なくしては認識できず、悪は善の欠如である』とした。

加えて人の定義する善悪とは曖昧であるとも何度も繰り返したのだが、それに関する追記。



例えば貴方が「殺人は善か悪か」と問われれば何と答えるだろうか。

陳腐な問いではあるが、大半の人が「悪である」と答えるというのは想像に難くない。

では自分達の食料として「牛や豚などを殺すことは善か悪か」と問われれば、

“善”と大々的に言わずとも“悪”であるとは考えないだろうし、或いは

もとよりそのような事自体を考えないかもしれない。

注意として、私がベジタリアンで動物を食う為に殺してはならないとかそういう話ではない。

この両者の違いと共通点はなんだろうか。

まず言うまでもなく対象が違う点、いわば同種か他種かという事。

また、両者においては“殺害”という行為が共通しているといえるだろう。
















前述した社会の一般常識をわざわざ定義化するならば、

『“殺害”という行為に善悪はないが、対象が同種である場合に限り悪である』

だが、これにしても曖昧であると皆さんは考えるのではないだろうか。

例えば他種であっても、身近な例でいえば犬を無闇に殺害すれば悪とされ罪を問われるが、

対象が人間に害を及ぼす者であるならば殺そうとも悪どころか罪にすらならない。

再び注意として、これは“殺害”における善悪の事なので、自衛ならば良いだとか、

そういった事ではなく、もっと根本的な話である。

では、これを踏まえて改めて定義付けするとこのようにならないだろうか。

『“殺害”という行為に善悪はないが、対象が同種或いは結果が無益であるなら悪である』

なるほど、これであえて定義付けするとなればこうなるのかもしれない。















だが、これでも尚、疑問に思う人がいるのではないだろうか。

思慮深い人が真面目に考えれば「何故、人間基準なのか」とすら思うかもしれない。

その点に関しては、私が思うに動物などは私然り、人間のように善悪を考えるのかと思えば、

恐らくそんな考えなどもたないだろう。

例えば人は獲物を殺す為の鋭い牙は無いし、高いところの草を食べるための長い首もない。

いつでも自由に飛べる翼は無いし、水中で一生を暮らせるなんて事も出来ない。

何故なら我々人類が進化の過程で特化させたものは頭脳であるからだ。

故、挙げた例に近しい物を頭脳の力により擬似的に作り出す事が出来たのだし、

単純に殺すというのであればもう人に殺せぬ動物などいないだろう。

言うなれば我々人類が牙を特化させた生き物に進化していたなら物の善悪など考えなかった。

これが正しいとするならば、人間の善悪の定義といえど、その実、善悪の定義は

人間特有のもの、人間しか持ち得ないものであるとすることが出来るのである。















それならば、前述した“人を基準”としたこの定義は正しいという事になるのだろうか。

ならば善悪の定義が合間であるというのはそも間違いであるといえるだろう。

だが、私は“殺害”という行為、それ自体が悪であると考えるし、同意する人もいるだろう。

何故か、『それは善悪の定義とは人の倫理を土台として成り立っている』からである。

私は倫理という土台を取り払えば“真の善悪”というものが見えてくるのではないか。

そう考えもしたが、それを取り払えば私個人の価値観などが大きく介在してしまう。

それは正しいとはいえないが、やはり善悪の定義が曖昧であるならば、

いくら私が考えようとも私自身は人間それ以外ではないのだから答えは得られないかもしれない。

無論、私もその程度で考える事を止めようとは思わない。

その答えは何かの本にあるのかもしれないし、何気ない日常の中にあるのかもしれない。

いや、もしかしたら宗教という超越的な存在に頼ることで得られるのかもしれない。















宗教云々に関する私の考えは別項で論じているためにここで始めるつもりは無いが、

人によっては宗教など考えたら答えが曖昧になり、信憑性も薄れると糾弾するだろう。

だが、それは真実だろうか。

どういう事かと言えば、宗教然り、信仰とは古代から現代に至るまで存在し、

希求されているのは言うまでもない。

人間とは必要なものを残し、不必要なものを排斥する事を歴史の上で行なってきた。

つまり、古代から残っている人間にとって関わりの深い信仰とは必要なものなのである。

故に善悪のみならず宗教に答えを求めるのは自然なことであるのだ。

我々は確かに宗教を信仰する自由がある。

真実、私も無神論者ではないが特定の宗教を信仰しているわけではない。

ともかく、我々は答えを得るための手段の選択として認める価値があると私は思う。

少々話が逸れたが現時点で私も答えを得ていない一人である。

この雑記も考えれば誰もが書ける、知れている事をわざわざ記しただけなのだ。

では本日はこの辺りで。






Last updated  2009.11.17 14:14:57
2009.11.06
カテゴリ:哲学・考察
どうも~。友人の何気ない一言で久々の哲学モードのスイッチが入ってしまったシムカです。

陸上部時代には圧倒的に女子の部員が多く、男の先輩は一人だけだったのですが、

昨日、その先輩が久々に暴君を伝って私に飲もうと言ってきたので、0時発後に行って来ました。

故に昨日…いや、今日の深夜更新が出来なかったわけですが、そんな事はどうでもいい。

1歳年上、つまり大学4年なのでまさに就職という壁にぶつかっているわけでして

まぁその愚痴を聞いていたと言っても過言ではありませんでした。

酔っていたのでしょう、会話の中で「俺って何の為に生きてるんだか」なんて悲観的な事を

言い出したのでまぁまぁと話を聞いていく中で疑問が一つ浮かんだ。

この知識人や有名人、哲学者や詩人などがよく挙げる「何の為に生きる」だとか

「人生は何の為にある」だとかいった問題提議に対しての正しい答えとは何か、とね。

情けない話ですが先輩に問われた時、私は上手く答えられませんでした。

私なりの考えは無論、ありますがそれは必ずしも答えでないのは明白です。







































さて、となるとここは先人に聞くのが妙案と思い、以前話した倫理学を担当するゼミの教授に

聞く為に先ほど大学に行って来ました。いやまぁ、元々講義があったというのもありますが。

聞いた話を簡単に要約してしまうとこんな感じでした。


「人生の目的が見つからないのなら色々な事に挑戦してみるといい。
 君達はまだ若いのだから様々な可能性と選択の余地がある。
 悩む事は良い事、その中で人生の目的や何の為に生きるのかを見つけていくんだ」



あぁー素晴らしいですね。いわゆる模範解答といいますか、高校の先生とかが言いそうですね。

でもこれ、どうでしょうか。真実、何一つ答えになっていないのではないでしょうか。

面白いですねー大人って。いやまぁ私も成人しているのでこの表現には語弊があるかもしれません。

しかし、概念的な大人というものは子供からの問いに無理にでも答えようとするものです。

まぁ、この答えを否定はしませんけど、以下に私の考えを書いてみたいと思います。

一介の学生の戯言と吐き捨てるも良し、一個人としての考えと見てみるも良し、

いずれにせよRSやらなんやらは一切ないので素直に戻るのが一番無難でしょうね。







































貴方も物好きですね…( ´_ゝ`)


「人は何の為に生きるのか」これはつまりあらかじめ終わりがある事を表している。

終わりとは“死”である。(この場合、宗教的な“死”に関しては除く)

この問いは“死という終わり”を迎えるまでに“何を目的として生きるべきか”である。

それは同時に“己が人生に意味を与えたい”という希求心の表れが理解出来ないだろうか。



人生に目的を据える事が必須だと仮定した場合、その達成を成して或いはその過程によって

意味がないと夢想する人生に意味を与える欲求が深層意識にあり、それを満たしたいが為に

「人は何の為に生きるのか」という問いに帰結するのであると思われる。

真実、教授は人生に目的・意味という概念がある前提で私に話をしていた。

つまるところ意味を欲し、「人生の意味」に関する問いを投げかける者は

己が人生を無意味、目的のないものと定義付けていると思われるのだが如何だろうか。



さて、では無意味とは何だろうか。

例えば終電が行ってしまった駅のホームで電車を待つのは無意味だろう。(始発を待つとは別に)

例えば使われなくなった駅の誰一人としていない駅前で客を求めるタクシーは無意味だろう。

例えば遊園地でデートの約束をしたが、急用で無理になってしまったのに待つのは無意味だろう。

このように様々な目的においてその関連性が失われた場合、人は無意味さを意識する。


「走った」→(何の為に?)「終電に間に合う為に」→(未達成)「終電に間に合わなかった」


「勉強した」→(何の為に?)「金持ちになる為に」→(未達成)「金持ちになれなかった」


では両者の“無意味”とは同義であろうか。

前者は1日にも満たない出来事、後者は一生に関する出来事であり時間的な差だけでも大きい。

また、前者は走った事もそうだが、もしその後もホームで待つなどという行動をすれば、

その無意味さを強く感じだろう。

しかし後者は果たして金持ちになれなかった事で自身の人生が無意味と強く感じるだろうか。

私はそうは思えない。

そもそも、後者に意味・無意味を当てはめる事こそが間違いではないのだろうか。















つまり、私は人生というものにあらかじめ意味や無意味然り、目的などないのだと言いたい。

噛み砕いて言うと終電だとか、デートだとか、そういった小さなプロセスが日々であり、

そのプロセスもとい日々をすべからず包括したものが人生なのである。

であるならばその日々の意味・無意味の多さで人生の意味・無意味を決めるのだろうか。

否、そもそも“人生”などという抽象的なものに意味や目的を与える事は不可能なのである。



では、将来就きたい職の為に努力する事、またそれを目的にする事だったりというのは

その実、人生それこそが無意味であり無価値なものであるという事なのだろうか。

ところがこれも否であり、それではただの虚無主義者(ニヒリズム)である。

私が考えるに我々の考える或いは求める人生の目的や意味などはあくまで“過程”である。

過程(プロセス)であるならば目的、終着点があるはずであるがそれは何であるか。

至極単純、それは“生の充足”である。

「金持ちになりたい」「人の為に何かしたい」「スポーツ選手になりたい」「有名になりたい」

あくまでこれらは過程でしかなく、全て行き着く先、目的は自己の生の充足である。

つまり最初に戻り先輩の台詞、「俺って何の為に生きてるんだか」に対する答えはそれであり、

迷っているのは目的ではなく、いかなる過程を以って辿り着くかなのであろう。

またそれに関連する問いは“生の充足”はどのようにして得られるのかとの問いである。















さて、ここで終わらせてはただ問いの真意を言っただけで教授の言と大差がない。

先に述べた短い/小さなプロセスの中での意味・目的の意識というのは無意識下で行なわれる。

故に本来当てはめるべきではない“人生”においても当てはめてしまうのが人間である。

果たして動物が「自分は何の為に生きているのか」など考えるだろうか。

彼らの思考はあくまで刹那的であり、意味・目的云々は人間特有のものなのである。

しかしならばその特有のものを人生に意味や目的はないと排斥され納得出来るだろうか。

難しいだろう。故に「人は何の為に生きるのか」との問いは

「人は何を以って生の充足を得られるのか」との問いに変わるのだ。

我々は“過程”を“目的・意味”と捉え、生への充足、言い換えれば生きる意欲を得る。

何せ生の充足を得るのはあくまで自分であり、それが達せられるなら虚構でも構わないのだ。

つまり私の結論としては、「人は何の為に生きるのか」との問いは

虚構の“目的・意味”或いは“過程”を答えとして求めているのである。

なんだ、それでは別に今、我々が抱いている意識と変わらないではないかとの懸念は尤も。

だが私の言いたいのはそういう事ではなく、気負う必要はないという事だ。

自分には或いは自分の人生には意味が、目的が、価値がないと卑下するのではなく、

元よりそんなものなどなく、全ては“生の充足”に帰結するのだという意識から始める事が

大切なのではないだろうかという考えに至ったのである。

以上を以って私の幼稚極まる戯言を終わりにさせて頂く。


んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ

☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ






Last updated  2009.11.06 18:08:44
2009.08.03
カテゴリ:哲学・考察
今回は認識や価値観などに関する考察。

時として誰しもが一度は"思い出は最強・無敵"なんて言葉、或いは経験があるのではないだろうか。

つまりは過去の事象が現在において誇大化されていると、簡単に言えばそういう類である。

どうしてこの様な事が起きてしまうのだろうか。

実のところ、その過去の事象よりも現在の事象が勝っていても過去のが勝ると感じるのは

自己の中である種の神格化をしている為である。

より簡潔に言うならば自分の中の価値観におけるランクが一段階上となっているわけだ。

新しいものを受け入れられない際にもコレは見られたりする。

宗教的であるにしろないにしろ問わず、熱狂的信者などはその良い例といえるだろう。















しかして本来、人と言うのは例え現在において『最高の愉悦』を感じたとて

もしそれが継続性を持ってしまうと順応、つまりは慣れ――言い方を変えれば"飽きる"のだ

では、過去の事象をそこまで良しとして継続する理由はなんなのだろうか。

それは前述したある種の神格化、自己の中で絶対的なものとなっているからである。

ところが時にそれは絶対的であるが故に中身が伴わない事もあり得てしまうのだ。

例えば――この世のものとは思えない美しい景色に感動したとしよう。

例えば――まるで一言で表す事の出来ぬ感動を与えた芸術に出会えたとしよう。

例えば――こんなにも心を満たすものがあったのかと他者との関係に感銘したとしよう。

それはどれも時間と共に風化し削られていく。どんなに抗おうとこれは必然である。















現在において別の素晴らしき景色を見た時、過去の感動を受けた景色と比べた際に

過去の方が良かったという認識をするとそこでその"過去の景色"の位置が絶対的なものになる。

しかし、前述通り時と共に風化するそれは段々と"あの過去見た景色以上はない"などという

概念や認識のみが残り、まるでその景色がどんな景色であったのか思い出せなくなろうとも

「美しかった」という認識が他の景色との「美しさ」と比べた際にどうしても過去が勝る。

そうして概念や認識のみとなってしまえばもう歯止めは利かなくなるというわけでであるが

それは極論と言える。"新しいものを素直受け入れる"事が出来ればこのように

無理に神格化されることはないものの、やはり過去の景色のが御託無しに美しいことも無論、ある。

まぁそれが感動や感銘といった良いものの神格化なら別段、そこまで気にする必要はないが

もし、もしもそれが悪いものを神格化しているとしたら――考えを改める必要がある。

無論、神格化されているのだからこんな事を説いても無駄なのは承知の上だが...














ところでそもそも「認識」とはどういう事なのだろうか。

例えば、人に「花の美しさ」について問うてみることにしよう。

そも花とは色取り取りで華やかだから「美しい」のだろうか。

それとも花とは咲き乱れ散る儚さ故に「美しい」のだろうか。

前者なり後者なり、いずれにせよだからこそ「花」なのだろうか。

いやいや、そもそも「花」とは「美しい」という事で良いのだろうか。

さて、キリがないのでこの程度にしておくが、思うに「認識」とは個々で違うように思えるが

これはどちらかというと「価値観」というフレーズに方が自然に当てはまる。

「認識」というのは個々で違わないのではないだろうか?それともその考えは見当違いか。

例えば大半の人は花を「美しい」と感じると思われる。だがこれは万人共通ではなく

人によっては逆に「醜い」と感じる人もいるかもしれない。これは「価値観」だ。

そも「花」とは群をまとめた呼称であって"一つの花"を指しているわけではないのだから。















では「認識」はどうだろう。

自己が"その物体"を「花」と認識したからそれは「花」になるのか。

過去に見た「花」と同じ・似ているからそれは「花」と認識されるのか。

哲学的な分野としてはこの様な話がある。

我々は元々天上の何もかも完全な世界の住人(魂)であり、地上の体へと収まる事で生まれる。

本来、赤子として地上に生を受けた我々にかつての魂としてのはっきりとした記憶はないが

地上世界の不完全な物、否、万物が不完全とされる地上においてそれを目の当たりにすると

魂の郷愁に駆られる。また人の生み出す全ても天上の"完全"を模倣した"不完全"にしかならない。

では前述した後者はもしかすれば過去云々ではなく、魂の郷愁により完全な「花」を想い

地上において模倣されたそれは「花」であると認識するという考えももてるかもしれない。

前者は言わば自分がそれを「花」と認識するならばそれは紛れもない「花」であるという事。

極端な話、我々がリンゴと認識しているそれを他者が「花」と認識するならそれは「花」である

という況や無茶苦茶な話にも聞こえてしまう。















ここで以前の考察でも名を挙げたデカルトの命題を取り上げたい。

『我思う、故に我在り』(コギト・エルゴ・スム)

つまるところ私は「認識」というものに疑いを持ったものの結論を得られぬまま

「認識」について考えている自己を認識し存在証明をしているだけに過ぎないのかもしれない。

ああ、それこそ無茶苦茶なのかもしれない。

私は本来の「認識」でないものを「認識」と位置づけて「認識」であるとしているのだろうか。

そもそも最初の過去の神格化というのを思い起こせば、思い出ならぬ過去は無敵となり

私は過去の哲学者などの考えをそのまま受け取っただけにすぎず自分で考えていなかった

疑っていなかったのではないだろうか。

そもそも「認識」とは物事を理解する過程に過ぎない。

では哲学者などの考えを知る、学ぶ事は「認識」であり、それを「知識」と変えるか否かは

私次第、という事になるのだろうか。

ともかくこれ以上は合理主義と経験論をより学ぶ必要があるので今回はこれまでとしておく。






Last updated  2009.08.03 01:24:51

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