2142599 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

新英語教育研究会神奈川支部HP

新英語教育研究会神奈川支部HP

★読書会「たいまつ」+ダンさんとの読書会

●2004.03.29  小説を読む:Adam Haslettの作品Devotion
 昨日は埼玉の所沢英語サークル「たいまつ」に参加した。今回で2回目。毎年2回(春と夏)短編小説の読書会をしている。毎回約25名の参加者がある。年齢層は幅広く、戦後直後に横田基地で通訳をしていた方もいらっしゃる。60代ぐらいのお母さんが多い。
 Adam Haslettの作品Devotionを読んだ。2003年のアメリカ短編集からとったもの。
 いろいろなテーマが入っていて、それぞれの方が実人生と重ねて読んでいたことをその場で話してくださったのが何よりもよかった。
 早くにお父さんを亡くされて、おばさんの手で育てられた男性。自分が35歳で結婚するときに、同居しようとおばさんに勧めたら、それを拒み、電車に飛び込むなんて言い始めてしまったという。(「自分で言うのもなんですが」とはずかしそうに前置きされたのだが)「妻がいい人なものですから叔母とも気が合って、叔母が亡くなるまでの3年間、仲良く過ごしました」ということだった。
 学生時代に寮生活をしていた女性。寮生活で周囲の人たちと疎遠にしていて、そのころの自分が嫌だったという。卒業してから同窓会に呼ばれても決して行こうとは思わなかった。というのは、みんなに対しても疎遠にしたことが申し訳なかったし、あのころの自分に戻ってしまうような気がして嫌だったのだ。再三の勧めで同窓会に参加してみたら、そんな当時のことを全くみんなは覚えていなかったので、いったい自分は何にこだわっていたのかなーと思ったという。
 短編のストーリーは兄妹(50代)で暮らしている2人が過去に縁のあった男が来訪するという電話を受けて、それを契機に過去に向かいあうというもの。小説を読み進めている読者自身もそれぞれの過去に向かいあっていたのだった。そして私にも心に触れる一節があって、その意味が姿をあらわして、私は真っ赤になって恥ずかしくなってしまった。(昔、歌の読みとりで「Desperado」をY先生に教えていただいたときと同じような瞬間だった。昨日もY先生がその場にいらっしゃったので、再びY先生に感謝の気持ちが深まった。)
 ちなみにその一節は、トラウマと言えるような、子どもの頃に大きなショックを受けたことを話した主人公に、その話を打ち明けられた直後に友人が言う言葉だ。
「僕にはアナロジー(類推)はいろいろできる。ひどい火傷をしてしまい、同じように熱くなるまでは感じられないとか、人が死に絶えた廃屋を一人で歩き回っているとか。僕のアナロジーではうまくいかない。君がその問題に向かいあって考えるんだよ」
 聞き手の人には聞くことしかできない。聞き手が解決策を与えてしまっては本当の救いにならない。自分で「言語化」すること、そして「客観」することだ。それが解決の糸口になる。なんでも解決できるわけではない。解決できないことはそのまま持っていってもいいと思う。「われものは 手に持って 運べばいいでしょう」(「スピカ」by Spitz)
 河合隼雄さんが『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』で書いているように、言語化することでその言葉に傷つけられてしまうことがあることは忘れてはならない。「言語化」すればいいっていうものでもない。
 記憶の彼方に押しやっていた悲しみや苦しみと向かいあうには気力と体力がいる。元気になってから問題には向かいあわないとダメだよ。まずは「歩いて食べて出して寝る」だね。
 悲しいことを心許せる人に語ることで救われるというのは事実だが、それは自らが求めることではないと私は思っている。昔、「神亡き宗教」と呼ばれる「セミナー」に誘われ、そこで参加者と悩みを話し合うと救われると言われたとき、私の心に強くあったのは「安易な言葉で救われるより、救われない方がまし」という信念だった。いくら気持ちが悪くて吐きたくなっても、みんなで一斉に吐き合うなんて美的じゃない。そして直説的に救いを求めるなんて、自分が卑しくなるような感じがした。
 この小説がそうであるように、自分の気持ちを言語化する契機を良い小説は与えてくれる。有り難いことである。
 これから20年を見据えて、読書をきちんとしていきたいと思い始めている。若気の至り(?)で、昨日は断定的な解釈を言ってしまった。参加者のみなさんは10~20年も読み込んでいらっしゃるので、私の浅い解釈には動じることがない。みなさん、心の中で解釈を温めていらっしゃる様子だった。もっと読むと適切なところでしか言わなくなるのだろう。私はまだまだその境地には達していないので、まだまだ発言して恥をかくことになりそうだ。

●2004.08.29  所沢英語サークル「たいまつ」で1日読書会
 3回目の参加になるが、年2回の読書会をしている所沢英語サークル「たいまつ」に参加した。20代の女性もいるが中心は60~70代のお母さんたちと男性の高校の先生方である。男女あわせて29人。レポーターが1人が和訳しながら解説、参加者は自主的に交替で英文を読みあげる。質問疑問が出されると、明海大学のT先生が水戸黄門の印籠のようなズバッと決定打を出される。しかしそれよりもなによりもすばらしいのは人生経験と文学経験の深いお母さん方のコメントである。会は24年の伝統があり、20年組がたくさんいる。
 今回はSherwood AndersonのDeath in the Woodsという短編。アメリカ中西部で年季奉公に出された女性が結婚しても忍従の生活を送り、夫と子どもと犬と家畜に食べ物を与え続ける(feed)する一生を送り、最期は雪の中で疲れ切って死んでいくという話。
 食べさせるということ、これが今、疎かになっていると指摘された70代の男性がいた。30代の嫁は孫たちに食べさせていないと憂えていた。これが日本の今なのだ。
 小説を読むことで、それぞれが自分たちの今や過去と重ね合わせていた。幸せな時間を過ごせた。

2005.08.29 ルターの夏休み(その6):英語短編小説の読書会に参加して
 埼玉の所沢英語サークル「たいまつ」(入曽の公民館10:00~5:00)では毎年2回(春と夏)短編小説の読書会をしている。毎回25~30名の参加者があり、ルターは参加して4回目。
 1日で1作品を読み切るので、合宿に参加している気分になる。毎回、発見がある、すばらしい会だ。今日は過去の物語についてもまとめて書いてみたい。

■ 第1回(2003.7.23)はCarol Shieldsの「Mirrors」(1997)。仕事をリタイヤした60歳の夫と58歳の妻の話。夫は40歳代後半に浮気をし、その代償のつもりでコテージにある杉のデッキを作ったことなどを回想し、成人した子どもたちが見ているものは親のすべてではないし、落ち着いているように見えてもそうではない、と言ってやりたいと感じている。そして年老いた妻に照らし出された自分の老いを見出している[ここがMirror「鏡」という題名に重なる]。真夜中のこと、35年連れ添っている妻を「この人は誰だ?」と他人のように思い、その直後、ふり向いた妻と目が合い、その瞬間「2人がお互い同士になった」ところで終わる。

●ルターの感想:印象深かったのが、最後のシーンの読みとりで参加者の意見が分かれたことだ。男性参加者は「夫婦は分かり合えて、ホッとしている」と判断したのに対して、60歳以上の女性参加者のみなさん数名が「いえ、分かり合えていません」とキッパリ言い放った。
 そこで私が感じたのは男性はロマンチスト、女性はリアリストということであり、その瞬間、まさに小説に描かれた人生の断片を垣間見たのだった。

■ 第2回(2004.2.7)はAdam Haslettの「Devotion」。この話は印象深い内容だった。主人公のオーウェンと妹のヒラリー(50歳代の上品なやせた未婚の教員)は2人暮らし。その「1日」の出来事を描く。(当日は、この物語構成がヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』に似ているという解説があった。)
 かつてはロンドンで華やかなゲイライフ(!)を楽しんでいたオーウェンだったが、エイズの蔓延で足を洗い、未婚の妹のことも気がかりだったので都会暮らしは諦めて、兄妹でひっそり暮らしている。そんな2人の平穏な暮らしを破ったのは、かつてのヒラリーの恋人で、オーウェンも思慕していた男性「ベン」が家に遊びに来るという電話だった。浮き足立つヒラリー。オーウェンは妹宛の手紙を隠してしまった過去があり、そのせいで妹とベンが結ばれなかったと思っている。すでに結婚し2人の子どもがいるというベン。彼は何をしに来るのか? オーウェンの心は揺れ動く。そしてヒラリーに謝罪し、家を出ていこうとまで考える。(結末は読んでのお楽しみに…)
 タイトルのDevotionは「献身」。2人が幼少の頃、母親が森で自殺し、その現場を目撃して以来、身を寄せ合うようにして暮らしてきた。そして妹も兄もお互いを置き去りに出来ずに婚期を逸してしまっている。ゆえにお互いのDevotion「献身」とも受け取れる。しかし、ヒラリーは雑誌に出てくるような新しい家具に囲まれるような新生活をしたとしたら自分が浮いてしまうだろうと感じる(She knew she'd be a foreigner in such a room. p. 154)ようなところがあると描かれており、単純に「兄に尽くしたがために結婚しないでいる」と鵜呑みに出来ない描写があるのがよかった。

●ルターの感想:家族がお互いをなんとなく必要としていて居心地がいいまま知らぬ間に年齢がどんどん上がってきて、もう子どもが40歳過ぎ、「おいおい、とても『子ども』とは呼べないぞ」という、まさに日本の多くの家族に見られる、「出口なし!」状況が読みとれて、70代の親と同居中のルターは身につまされました。

■ 第3回(2004.7.21)は、Sherwood Andersonの「Death in the Woods」。
 森の中で犬たちに看取られて死んだ孤独な老女のことを少年時代の作家の目を通して描いた話。

●ルターの感想:「子どもの頃に見た光景(scene)を大人になって『あっ、これは!』と、何かのきっかけでやっと言葉にできるのではないか」「愛されることなく不幸な老女、のように言葉では決めつけない作者」「老女の死には不思議な透明感がある」というSさんのコメントが輝いていた。

■ 第4回(2005.8.28)は、D.H.ローレンスと交友のあったイギリス女性作家のViola Meynell (1885-1956)の「The Pain in the Neck(首の痛み=やっかいなヤツ)」。
 イギリス郊外のアパートに仲の良い2人の女性(30代ぐらい?)、MillとJaneが同居している。互いに補い合いながら楽しく暮らしていたある日、隣人が男友達のアーサーを連れてきて、2人の3年間の暮らしの均衡が破られる。長居をしてなかなか帰らなかったアーサーが帰ったあと、ミルはアーサーを評して「The Pain in the Neck(首の痛み=やっかいなヤツ)」と言い放つ。一方のジェインは、ミルの知らないうちにアーサーにスケートに誘われてひょこひょこ出かけていく。「彼、あなたのことを若いスポーツウーマンだと思いちがいしているんじゃないんでしょうね」とミルが言うと、「あら、私スポーツできるのよ! 楽しかったわ」と答え、ミルが考えていた枠からどんどんはずれていくジェインにミルは戸惑う。
 今回のレポーターのKさんは以下のSection 4でアーサーとジェインがスケートするシーンを読んで、このレポーターを引き受けようと思ったという。
As for when they had their hands crossed in front, her right hand in his right and left in his left, they could have skated like that across whole continents.
(2人は両手を前方で交差させ、彼女の右手は彼の右手に、左手は左手にすると、全大陸でもそうやってスケートできたかのように感じた。)
 そしてその後に彼と駅や家の前でわかれたあとに、彼女は普段の日常生活の中で、不安で心許なく感じ始め、まるで一人でスケートしているときのような感じ(as if she were skating alone)がするまでになる。
 ミルはジェインの変化に気づき、アーサーのことを「The Pain in the Neck(首の痛み=やっかいなヤツ)」と言ったことを悔やみ、話題に出して取り消そうと思うのだが、2つの理由でジェインに言うのを思いとどまる。1つは「あとから言い換えても元々の意見は変えられない」(覆水盆に返らず)、2つめは「そんなことを言ったらジェインの世界にやぼったく踏み込むことになる」(土足でズカズカはいけません…)。
 ジェインとアーサーが婚約したと聞いて、ミルはアーサーと2人でいたときに「あなたのこと、フツーの若い人だと思って初めてあった日にそう言ったのだけど、それを思いだすと落ち込むの」と伝えると「僕だったらそんなことで寝るときに思い悩まないよ」と一笑に付される。
 ところが、、、記者をしていたアーサーは取材で乗っていた飛行船が墜落、アーサーは帰らぬ人になる。
 アーサー亡き今、表面上は元に戻ったかのように思えた2人の生活。しかし、コーヒーに砂糖を入れるようになったり、本や雑誌に手を延ばすようになったジェインに「今までとは違う感覚」(strange)を覚えるミル。そしてミルの元からジェイン旅立っていくことが暗示されて話が終わる。
(『コーヒーに砂糖を入れる』の箇所はT教授が指摘してくださるまで、ルターは気づきもしませんでした! 読み込み浅いな~、ルター。そして、最後の感想を述べる時間で、Sさんのコメント、「女同士の関係では相手に合わせて変わろうとはしないけれど、男女の関係では女は男に合わせてコーヒーに砂糖を入れるようになったりして変わっていくんですよね」にも感心しました。)
 
●ルターの感想:参加者のSさん(70代前半ぐらいの既婚女性)が「ジェーンとミルの女性同士の関係は補い合う関係だったが、男女の関係はそうではない。男女は…、補い合う関係ではないですよ」というコメントが心に残りました。未婚で30代のルターには思いも寄らないことばでした。男女の関係は補い合う関係ではない…、う~ん、では、どのようなものでしょう? 大きな宿題をもらったような気がしました。





●2008.03.31 ルターの春休み(その3):東大本郷でシンポジウム+埼玉の読書会「たいまつ」
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨夜からの雨も止んで午後からお日様が見えた。家の前の公園に行ったら、丁度良く、ひと枝の桜が落ちていて、拾ってきて花瓶に生けた。寒いせいか、あまり散らずにすんだようで、東京はまだまだ桜が楽しめそうですね。
29日は10時から東大本郷でシンポジウム。佐藤学さんや数学の岡本さんの講演、午後は東大大学院生の「学びの共同体」の報告、そして「学びの共同体」を実践している学校の校長と佐藤学さんによる討論会があった。ルターの勤務校からは他に3名来ていた。「学びの共同体」を導入する予定。ルターも対応すべく、勉強中。
30日は埼玉の読書会「たいまつ」。フランク・オコナーの『みにくいアヒルの子』(Frank O’Connor, The Ugly Duckling)を24名で朝10時から5時まで輪読。詳細は後日。以下は、第2セッション(食事会)で教えていただいたこと:
・大学教授のT・H先生が中島文雄の『英語発達史』がよい、と紹介してくださった。
・N・Tさんがパスカルのパンセでにある「すべての人は間違っていない」(結論が異なるのは推論する前提が異なっているだけで、その前提に欠けている部分がなければ、どの人も同じ結論になるという考え方)ということを教えてくださった。佐藤学さんの「学びの共同体」では、教師は生徒に「なぜ、そう考えたの?」と発問するのではなく、「どこから、そう考えたの?」と発問することを推奨している(と研究授業で聞いた覚えがある)。そうすれば生徒は「~さんが言っていた」「~という本に書いてあった」など、議論の前提を確認しあえるし、議論も進む、ということらしい。この発問と『パンセ』が私の中でリンクした。それぞれの出典を調べたいと思っている。
・帰りの電車で4人になったが、残りの3人は月1回『リア王』の輪読をしていて、すでに『ハムレット』『オセロ』『マクベス』を10年がかりで読破し、現在『リア王』第1幕だという、強者のみなさんだった。その1人、中高一貫校の英語教員Hさんが刑事コロンボの初期の作品『ロンドンの傘』の中で犯人が『マクベス』を演じた俳優ということで、そのセリフが効果的に引用されていることや、イギリス英語をネタにした内容もあり、興味深いということを教えてくださった。
(余談:埼玉支部のY先生のお父さんが昨年亡くなられたと聞いて、残念だった。)


●5.25.08 フランク・オコナーの『みにくいアヒルの子』(Frank O’Connor, The Ugly Duckling)
やっと書き上げました。1ヶ月前の話題です。
4月30日は埼玉の読書会「たいまつ」でフランク・オコナーの『みにくいアヒルの子』(Frank O’Connor, The Ugly Duckling)を24名で朝10時から5時まで輪読。15ページの短編。レポーターのSさんが要約してくださったので、なぞらせていただくと…:
舞台はカトリックの伝統が強いアイルランド。父親似で不器量な少女のナン(Nan)は母親からは顧みられなくなっており、幼少期に悪夢を見ると兄のディニーのベッドに潜り込んでいた。そして思春期になると兄にはもはや頼れず、カトリックの信仰に頼るようになり、敬虔なキリスト教徒になっていった。女性らしい肉付きのよさを誇る母親は少年の肉体を持つナンを女性らしい服装にしようとしたが、そういうときはナンは反抗して「尼さんになる」と言った。同年配の少年たちから「軽視」(slight)を感じるとさらにナンは醜くなった。同年配の少女たちには意識過剰になり、年上の女性や病気の女性たちと交流するナンは、話し方が年上の女性っぽくなっていた。そして大学には行かず、不似合いとも言える婦人服店に勤めることになり、父親はがっかりした。
その後、事態が一変する。ナンが病気をしたあとに色白で痩身になる。
He remembered that she had been ill with some type of fever and had come out of it white and thin. p. 447
兄の親友のミックは幼少期から友人の妹としてのナンと親しくしていたが、美しくなったナンを女性として意識する。その変化は突然だったのだが、著者の描写が上手い。
It was just that, as usual with those one has known too well, he had ceased to observe Nan, had taken her too much for granted, and the change in her had come about gradually and imperceptibly till it forced itself on his attention in the storm of a shock. p. 446
(知りすぎている人々に関しては良くあることなのだが、ミックはナンのことを観察するのを止めていた、ナンのことを当たり前の存在として受け取り過ぎていた、ナンの変化は徐々に認識できないように生じていて、嵐のような形で彼が気がつくことを強いるまでになった、というかんじだった。)
ナン自身も自分の変貌に気づく。そしてJoeやMattというボーイフレンドとつきあい始める。JoeやMattはライバル関係にあたるミックを「ミックは革命と関わらない」「ミックは賢い男(a wise man)だ」と評する(T教授の解説:「革命に関わると損をするから、wiseな男はやらない」)。しかしその一方で「知的な男と言ったわけではない(I didn’t say an intelligent man.)」とからかう。ミックはよく働くが、野心がなく(unambitious p. 449)、習慣の生き物(a creature of habit p. 451)で「なじんでいるもの」の側で生きる男(a man who lived by associations)で、「変化」を求めないのだ。
ナンはミックから言い寄られても拒否しない。2人の会話がそういう雰囲気になると、ナンは突然、笑い出す。
「あなたと結婚する、ですって? 財産でも相続したの?」
「なんで、僕が財産があるっていう話になるんだい?」
「結婚することを考えているなら助けになるじゃない」
「そりゃあJoe Lyonsと結婚したら、心配することもないだろう」と冷笑して(a hint of sneer)、売り言葉に買い言葉。ミックはナンから疎んじられて(contempt)、ショックを受けていた(なぜ、恋人たちはお互いを軽蔑したり疎んじたくなったりするのでしょう?? 不思議です)。
しかしながら、ミックはナンをあきらめられない。彼女には「キャラにはない」(out of character)官能性があって、普通の女の子ができないような感じで彼を燃えたたせるのだった(ジョージ・ハリスンの歌Somethingのようですね…)。
ダブリンで就職することが決まって、ミックがプロポーズして、やっと婚約。しかし口論した末、ナンが婚約破棄、Joeと結婚すると言って去る。ミックは傷心のままダブリンで就職、1年もしないうちにEilishという女性と結婚。その後、ナンの兄のディニーに再会し、ナンが結婚せずに修道院に入ったことを知る。[蛇足ですが、ナン(Nan)が最後に尼さん(nun)になる、というオチなのかな?]
ディニーは「ナンは結婚に向かないタイプ」(I don’t think Nan was the marrying kind.)と言うが、ミックはそうは思わない。「初め2人を結びつけそして別れさせた不幸」(the deep unhappiness that had first united and then divided them p. 455)のせいでナンは結婚しなかったのだと思い至る。最後は修道院にナンを尋ね、ナンから「あなたは変わったわ」(You have changed!)と言われるミック(ナンが「みにくいアヒルの子」で美しく変わったのではなく、『変わらない男・ミック』が「変わった」というのが真相なのだとレポーターのSさんが教えてくださいました。だからhaveが斜字体だったのですね…)。
ミックは2人の別れの原因を以下のように「分析」する。(この描写が秀逸で、参加者は感銘を受けた…)
 男性においては貧困や肉体的な弱点、女性においては貧困や醜さ(ugliness)という、なんらかの自分の不具合があるために、創造という天賦の才のある人々は自分のために内面世界を作り上げる。そしてその不具合が消えて、現実世界が富や美を開示しても、彼らは心を開けない。自分の選択に確信が持てずに、ゴールの間で迷い、群衆の中では孤独で、さざめきと笑いの中では不満足で、愛する人々と共にあってさえうれしくない。そして、内面世界は彼らを呼び戻し、ある人は内面世界に戻ったり、死ぬことになったりする場合もある。(p. 458)
ミックはこの分析を話そうとするがやめる。「誰が他者の内面世界を描写することはもちろんのこと、感じることが出来るというのだ?(出来はしない)」(Which of us can feel, let alone describe, another’s interior world p. 458) 別れ際にミックが「僕のために祈ってね」と握手して言うと「祈るのを止めたと思って?」とナンがあざけるように笑って(with a mocking laugh)答える。そして町が変化しても、自分たちが死んでも、かつての自分たちの恋愛が損なわれることなく修道院で保存されていくという不思議な喜び(a strange mood of rejoicing)とともにミックは修道院を後にする。
■みなさんの感想:
●Iさん:selfを捨てられないタイプの2人。結婚生活にジャンプして欲しかった。最後の「祈るのを止めたと思って?」が印象的。
●女性参加者:deep unhappinessやinner tormentは何かと考えながら、会場に来た。涙が止まらない。p. 457の下のところ(ミックの分析)が家族や自分と重なった。
●女性参加者:親が敷いたレールの上を行くのではなく、(恋愛を通じて)決断力がついたのではないか。自分の生活と照らし合わせて読んだ。いい作品に出会えた。こういう英語の読み方に出会えて感謝している。
●女性参加者:内面世界から外の世界に対応できなかったところに胸がいっぱいになってしまった。
●この作品の提案者、T教授:アイルランドのチェーホフと言われるオコナー。日常の中にテーマがある。
「virtueという単語を『徳』と『女性の純潔』と重ねているのは女性差別です」
「青春期は、少女にとって『美しいかどうか』で判断される残酷な時代です」
「agnostic(不可知論者の~)というのは『神が居るかどうか証明できない』という意味であるが、キリスト教の信仰の強い場所で、『無神論者』というと大問題になるので、不可知論者という言い方をする」
●ルターの感想:T教授が「この作品が採用されなかったら『Yさん、よく読んでくれ。もし採用してくれないなら仲間として一緒に読んでいけない』とさえ思った。分かってくれて良かった。採用されなかったなら、この会を辞めようと思った」…と、おっしゃる、熱い思いが伝わってくる作品でした。そして参加者が自分の人生と作品を重ね合わせて、数名が感極まって泣いてしまったくらい、人を惹き付ける作品でした。
ルターも実人生と重ね合わせ、浪人時代に私の大学合格を祈ってくれていた人のことを思い出し、おセンチになってしまいました。


以下は、第2セッション(食事会)で教えていただいたこと:
・大学教授のT・H先生が中島文雄の『英語発達史』がよい、と紹介してくださった。
・N・Tさんがパスカルのパンセにある「すべての人は間違っていない」(結論が異なるのは推論する前提が異なっているだけで、その前提に欠けている部分がなければ、どの人も同じ結論になるという考え方)ということを教えてくださった。佐藤学さんの「学びの共同体」では、教師は生徒に「なぜ、そう考えたの?」と発問するのではなく、「どこから、そう考えたの?」と発問することを推奨している(と研究授業で聞いた覚えがある)。そうすれば生徒は「~さんが言っていた」「~という本に書いてあった」など、議論の前提を確認しあえるし、議論も進む、ということらしい。この発問と『パンセ』が私の中でリンクした。それぞれの出典を調べたいと思っている。
・帰りの電車で4人になったが、残りの3人は月1回『リア王』の輪読をしていて、すでに『ハムレット』『オセロ』『マクベス』を10年がかりで読破し、現在『リア王』第1幕だという、強者のみなさんだった。その1人、中高一貫校の英語教員Hさんが刑事コロンボの初期の作品『ロンドンの傘』の中で犯人が『マクベス』を演じた俳優ということで、そのセリフが効果的に引用されていることや、イギリス英語をネタにした内容もあり、興味深いということを教えてくださった。
(余談:埼玉支部のY先生のお父さんが昨年亡くなられたと聞いて、残念だった。)

2008.09.01  小磯良平展+キミ子式絵画展+読書会「たいまつ」
●一昨日は吉祥寺の伊勢丹7階武蔵野美術館(入館料100円!)で小磯良平展。以前図書館で挿絵の画集を見て上手いなぁと感心したことがあるが、油絵ももちろん上手い。神戸出身で芸大教授でクリスチャン。裸婦像も群像が素晴らしく、どの作品にも「何か(something)」がある。somethingとは「魂」と言ってもいいのかもしれないが、私は芸術作品には何かが含まれていないと、いくら上手に描けていてもダメだと思っている。
●そして続けて井の頭線「池ノ上」にあるキミ子式絵画教室の展覧会に行った。「キミ子式」という看板が駅にあって、子どもの頃から気になっていた。今回は同僚のGさんからの案内で出かけた。
 キミ子式とは「赤青黄白の4色を用いる(=黒を使わない)」「部分から書き始め、画用紙が足りなくなったら継ぎ足す(=全体をデッサンしない、下絵を描かない)」。例えばネコを描くなら、鼻先からスタートするのだ。キミ子式の絵は明るく、絵の置かれた空間は心地よく、キミ子式は成功していると感じた。
 いただいた会報によると、30年前このような方法ですれば誰でも絵が描けると教育界に提案し、周囲に受け入れられなかったそうだが、キミ子さんはくじけずに、スペインに留学し、修行を積んでから、教室を開いたようだ。もともとキミ子さんは彫塑(粘土)が専門だそうで、カボチャやサツマイモやウサギなど、等身大でリアルに作った生徒作品が置いてあった。スペインに行ったのは自宅をガウディ風に建てたぐらいガウディが好きで、作品を観たかったからのようだ。
キミ子式を知って、従来の手法を破壊し、専門家に占有されていた「手立て」を学習者の方に取り戻すという点で、酒井邦秀さんの多読の授業とつながると思った。絵画の世界で、デッサンを描こうとしてうまくいかないのなら、部分から着実に描けばいいのだし、英語の世界で、読めないのなら、読めるレベルからスタートすればいいのである。そういう考え方である。(ネットで検索したらTOSSとも関係のあるらしい酒井式という絵の描き方があるそうで批判されていました…。ここで話題にしている酒井邦秀さんは別人です。)
●昨日は読書会「たいまつ」で26名の参加。Charles Baxter の“Fenstad's Mother” (14ページ)。1989年版Best American Short Stories所収。40歳代ぐらいの主人公Harry Fenstadはアイススケートが趣味でカトリック教会通いをしていて保守的なところがある。離婚して娘が1人いるが、スケート仲間の女性をいい仲である。80歳近いお母さんは「結婚なんて誰としても同じよ」と息子には復縁を勧めているが、かつては反政府的な人物たちとつきあいがあった革新的な女性だったという設定。ある日、一人暮らしのお母さんを自分が論理学の講師をしている「市民講座」に連れて行きます。お母さんは後ろの方の席に座っている知的な黒人青年と自然なかんじで仲良くなります。論理学の授業中、「不思議の国のアリス」の言葉あそびのように、労働者や主婦とのやりとりで空回りしてしまう息子をお母さんと黒人青年は助け船を出しながら教室の後ろから見守ります。平行して、意識して他者に対して良い人になろうとする息子と自然に人々となじんでしまう母が対比的に描かれます。最後はスケートをする息子とその恋人遠くから見つめる母を発見して驚く息子に「こうやって遠くから見ていたよ」と言うセリフがお母さんからあり、息子はそういうお母さんの気持ちを知る。
 読後の感想で、6人が「物足りなかった」「光るものがなかった」と述べた。somethingがないということだ。私も同意見。「いかにも…」という場面が多く、作者の意図が見えてしまっていた。でも今回のレポーターのYさんと昨年亡くなられたお父さんとの関係と似ている設定だったので、この会で読むことに意義があったと思う。1年前、Yさんのお父さんからフランス語で数字クイズを出されて答えたりして私語をしていて叱られたことが最後の良い思い出になってしまった。うん、だから読んで良かったと思うよ。


●2009.03.29  Eleanor’s Music
今回は参加者が少なめでしたので、私は頑張って2回音読しました(勢いよく手を挙げたら、4 letter wordが頻発する箇所が当たってしまいました…)。予習が不十分で発音を間違えたところ(例えば、「無調の」atonal)もありました…(汗)。
 今回の作品は、The Best American Short Storiesの2007年版に収録されている、1949年生まれのMary Gordonの「Eleanor’s Music」(エレナーの音楽)。51歳のエレナーは、夫のビリーと18年前の33歳のときに別居。しかし所属するコーラスグループで機会あるごとに会っているし、6週間毎の日曜日に夕食をとっているし、そんな生活に満足している。ビリーは結婚生活の中でエレナーとの性的な関係が成立せず、ポール(ちょっと太め…)という男性に出会って、押し込めていた気持ちがあふれ出て、自分の在り方というものを悟る。ビリーに「愛」が訪れたのだった(Because love had come his way)。「愛ですって? じゃあ、今までの私たちの関係を何と呼ぶの?」と詰め寄ったエレナーは「いつか正気に返ってくれる」と信じている。しかし、ビリーは彼女が思ったような「正気」になることはなく、実際は音楽で生計が立てられないポールがビリーのマンションに居候し、エレナーは両親のいる実家に戻る。それまではエレナーとビリーは9年間同居し、性的な関係はなかった。しかし彼女はそういう状況をあくまでもmariage blanc(フランス語で「白い結婚」)と呼び、unconsummated(床入れしていない)とは呼ばない。このように、エレナーには「言葉の選び方」「音楽」に対する強いこだわりがある。それは母親(86歳)や父親の堅実で洗練された生き方に影響されたものだった。「いつもニコニコ現金払い(カードは持たない)」「野菜を切るのが好き(=野菜裁断機は持たない)」など、実感を重んじる母親の生き方を尊敬している。エレナーにとってはcrude([言動が]粗野な、むき出しの)は耐えられないことだった。
 物語の後半、所属するコーラスグループの監督になっているポールが選んだオペラの曲「アンディ・ウォホールの夢」の歌詞があまりに露骨で下品なので、エレナーはびっくりしてしまう。エレナーは抗議するが、ポールは彼女を侮辱し、「エレナー、今がやめる時だよ」と言う。エレナーは夫のビリーが味方になってくれるかと思うが、ビリーは楽譜を見つめるばかりだった…。彼女は家に走って帰って、母親の部屋に駆け込む。すると86歳の母親は補聴器を外し、入れ歯をはずし、午睡している。その歯のない母の寝顔を見て、まるでドクロのようで、こんな醜態をさらすとは、今まで母親が信条としていたもの(美しい生活)に反しているのではないか、とエレナーは怒りを噴出させる(と、言っても、お母さんはお昼寝していただけなんですけれど…)。その後、エレナーは何も見なかったかのように、家の中での自分の役割を演じるだろう、また、コーラスをやめたことも、何でもなかったかのように周囲の人にも夫ビリーに対しても接するだろうと想像する。そのときのことばは母親が言いそうな「その時が来ていると、セイウチは言った」(鏡の国のアリスの物語のセリフ)のような、軽い、おもしろく、カバーして(covering up)、あて布をするように(patching over)してしまうだろうと…。
● Sさんの感想:はじめは明るくて穏やかな秋の日のエレナーが自分の人生に満足している様子が描かれている。ポールに侮蔑されるリハーサルの場面から、文章の調子が一転して、切迫感があった。そこが印象的。両親と自分が作り上げてきた生活の形を維持しようとして、自分から今日の屈辱的な事件を言わないで、そのままやっていこうとする…。この小説は3人称で書かれているが、エレなの独白になっている。夫とも孤独、コーラスでも孤独、親にも心境を打ち明けられない、三方ふさがり…。これからどうなっていくのだろうか? 読後感はやりきれない印象でした。
●Kさんの感想:欲望という名の列車のブランチを思い出した。ブランチは虚栄を暴かれて狂気になるが、エレナーは生きる生活の知恵として covering upしている。自分の真の姿を見ないでまぎらわせている。テネシー・ウィリアムズは「虚栄は自分を守るため」と言っている。
●私の感想:ゲイの方々はマッキー(槇原敬之さん)が歌っているように「髪を切るように 生き方は変えられない」(『ずる休み』)のであって、その在り方は変えることは出来ない。ビリーは決してエレナーを性的に愛することはない(と、断言)。そういう事実にエレナーは目を向けない。いつでもカバーして(covering up)、あて布をするように(patching over)してしまう。そういうところが自分に重なって、身につまされましたな…。
 エレナーは女子校で音楽を教えていて、女生徒たちが選ぶ曲も自分の基準に合わないものはクリスマスコンサートで演奏させないぐらい、音楽の選定基準(美意識)を大切にしている。自分の容色に自負心があり、夫のビリーに口紅を変えただけでも「君は変わらないで居てくれ」と言われ、「そうするわ」と約束している。こういう関係が彼女の性的には満たされない心を別の形で満たしている。彼女には性的な満足はないのだが「知らないことをそれがなくてさみしいとは思わない」(she didn’t miss what she’d never known)というひと言がバシッと書かれていて、「そうなんでしょうね、でもねえ…」と70代のお母さんメンバーの方々は彼女のような生き方は哀れだと感じたご様子。深い…。

●2010.03.25 読書会「たいまつ」
 さっき埼玉のY先生からお電話。「今度の日曜日、読書会にでられますね?」 あっ、しまった。申込を忘れていた! その場で申し込ませていただいた。すみません、Y先生。そう、今度の読書会で読む、The Red Convertible(by Lyman Lamartine)は、もう一つの読書会で2009.7.18に読んでいたので、かなり気が楽だ。

●2010.04.18 ルターの休日:読書会+研修
所沢の読書会(月1回)でLou Manfredoの短編「Case Closed」を読んだ。あらすじはのNさんのブログ(http://blog.livedoor.jp/midori_nozawa/)で確認していただいて、Danさんのコメントを記したい。
・このような小説はpolice procedural[ポリィース プロスィーデュァル](警察の捜査活動をリアルに扱った「犯罪推理小説」)という。(detective storyという言い方しか知りませんでした)
・マクイーンはgroundedでsmart。リーゾゥはstreet-smart(犯罪の多い地区の地元の問題に精通して…)。
・マクイーンはdogmatic(教条的。ルールにこだわる:stick to rules)。リーゾゥはpragmatic(実際的)。
・how many cases they closed(どれだけ多くの事件を解決するか)が大切なので、2人が到着した後に犯人のフレインがdie-bed confessionしたあとで死んだことにすれば、事件が片付く。しかし法廷で偽証することになるので、宗教的にはmoral、哲学的にはethicalな問題が残る。The decision they make is ethical.
・two ethical questionsがこの話にはある。1つはプロの刑事が被害者と関係を持つこと、もう1つは法廷で偽証すること。
★最後の決めのセリフで使われるThere just is.はリーゾゥ警部が9歳の時にお父さんが空軍で墜落死したときに、「何かの間違いだ! 正しくない!」と叫んだところ、おじいちゃんが言った教訓「Kid, nothing is wrong. And nothing is right. It just is.」(何も間違ってもいないし、何も正しいない。ただそうなんだよ)と言ったのをリーゾゥ警部は今でも合っている(correct)と思っていることを踏まえている。
 リーゾゥ警部は、マクイーン警部が惚れている、地下鉄でのレイプ未遂で傷ついた女性を救うには、犯人がいまわの際で反省して、I’m sorry about that girl, that pretty girl, in the subway. I shouldn’ta done that.(=shouldn’t have done)と言ったことにするのがいいんだ、それは正しいとか間違っているとかではなく、「そうなんだ」ということなのだ。
 人を救うには、本当のことは言わないで墓場まで持っていくことってあるんだな、と思う。最初、読んでいて嫌な感じがしたのだが、最後の展開が良かったので、読んで良かったと思えた。

そのあと、国分寺で研修。ルターは3つめの仕事として、ひきこもりの人を訪問して英語などを教える仕事をする予定なのである。合気道で鍛えて、良い「気」を伝えていきたい。






■2007.09.16 昨日の所沢の読書会と神奈川支部例会で
昨日は所沢の月一回の読書会。イスラエルの作家Amos Ozの短編The Way of the Wind。イスラエル建国をなした世代の父親とその息子。仕事に生きてきた父親Shimshonはa son and heir(息子で相続者)がほしくて56歳の時33歳年下の女性と結婚(すぐに離婚)。そして生まれたGideonは成長し、パラシュート隊に入って、独立記念日にパラシュートの模範演技で自分が育ったキブツ(共同体)に向かって降下しますが、パラシュートが電線にひっかかってしまいます。そのGideonを助けようとする勇敢な少年Zakiは女性にモテモテな父親Shimshonの隠し子の一人らしいことが暗示されます。正式な相続者の息子Gideonの弱虫さ加減と、隠し子の少年Zakiの勇敢さが対比されつつ、物語は終わります。イスラエルの第一世代と異なり、Gideonの第二世代は生活の豊かさや美しさを求め、デカダンの詩人に影響され、熱することもなく、愛することも憎むこともできない中途半端な世代だと考えている父親は第三世代の孫に過度の期待を寄せていて、Gideonの子どもがたくさん生まれたら自分も世話をしようと夢見ています。その夢が途絶えて、最後のシーンで花壇に崩れ落ちる父親Shimshonの姿が描かれています。庭仕事を引退して息子に譲ったあとも雑草を思わず抜いてしまうぐらいに世話をしてきた花壇だったという描写がありました。イスラエルの人々の複雑な思いを象徴しているのかな~と思いつつ、神奈川支部の例会へ向かうために大倉山に急ぎました。

例会では東京の岩崎先生が中学生の人間関係を作るのが難しくなっているという話しをしてくださった。小学校が学区域がなくなって、今までは2~3校から集まっていた生徒が、10数校から来ていて地域とのつながりがなくなったことが問題を起こしているという。問題だなと感じた。

余談その1:雑誌の奥西先生の記事「ミネルヴァの梟はいつ飛び立つか」がきっかけで、ドイツの哲学者ヘーゲルの「ミネルヴァの梟(ふくろう)は黄昏とともにようやく飛び始める」が昨夜の例会で話題になったとき、誰のことばか即答できなかったルター。人に頼らず、自立できる人にならねば…、と思った。
(http://cooma.exblog.jp/3904183/から引用:「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」とは知の巨人ヘーゲルの言葉です。知の女神ミネルヴァの使者であるフクロウ。すべてを認識するようなフクロウは黄昏、つまりひとつのものが完成し、没落しはじめるときに飛び立つんだ、というような意味です。)

余談その2:この会はアメリカ人のダンさん、そしてダンさんと組んで英語を教えるIさんの会なのでが、ダンさんとIさんがちょっとケンカしていて、池袋までダンさんとお話ししながら電車に揺られた。ダンさんは上下関係のヒエラルキーは良くない、平行な関係がよいと言ったが、私は悪いというわけではないと思うと話した。夜、例会の帰りの東横線で3人で話しているとき、教えている生徒の中に優れていて自分より「上」だと思う生徒がいる、という話題が出た。人間には格があり差がある、ということで3人で納得した。


■2008.07.04 ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』+チャールズ・バクスター「Fenstad’s Mother」
毎月第3週目の午前10時から12時まで埼玉・所沢の読書会に参加している。先月はジュンパ・ラヒリの短編『停電の夜に』を読んだ。インド系アメリカ人の若い夫婦がすれちがい、会話のない日々の中、停電が起きることでちょっと距離が縮まり、ろうそくの炎に照らされながら、お互いのことを語り、そして自分を見つめる機会を得るのだが、「知らぬが仏」という教訓が生かせなかった2人は別れを選ぶにいたる。ひとしきり質問が終わった後、参加者で主催者でもあるIさんは英語を教えることを生業にして3人の男の子を育て上げたお母さんであるが、私に「私もルターさんもworking womanだから、この話は、身につまされるわよねぇ…」と水を向けられ、あれっ、私もワーキングウーマンだったっけ、と自覚したのだった。確かに主人公の妻は出版物の校正を仕事にしていて家に仕事を持ち込んでいて、私の日常とあまりかわらない。きっと結婚していたら、こうなることもあるかも…、結婚って相性が大事だなぁ…と思わせるところがあった。
しかし! 8月末の埼玉の読書サークル「たいまつ」の短編・チャールズ・バクスター「Fenstad’s Mother」が手元に届き、読んでみたら、離婚して新しい彼女ができた息子のハリーに向かって、年老いた母親が
Harry, why does your generation always have to find the right person? Why can’t you learn to live with the wrong person? Sooner or later everyone’s wrong. Love isn’t the most important thing, Harry, far from it. Why can’t you see that?(ハリー、どうしてお前の世代は自分に合っている人を見つけないと気が済まないのかね? どうして合わない人と暮らそうとしないかねぇ? 遅かれ早かれ、誰だって合わないんだからさ。愛なんて問題じゃないよ、ハリー。とんでもない。どうしてそれがわからないかねぇ?)と言う台詞が2ページ目に登場。相性なんて問題ではない、と大きなパンチを食らった。
というわけで、「Fenstad’s Mother」を読み進めるのが楽しみです。

追記:ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』は翻訳が良くないと思うので、よかったら原書で読んでみてください。「今や知ってしまったことに二人して泣いた」というラストは英文でどうぞ。
■2007.09.16 XML
昨日の所沢の読書会と神奈川支部例会で
カテゴリ:カテゴリ未分類
●昨日は所沢の月一回の読書会。イスラエルの作家Amos Ozの短編The Way of the Wind。イスラエル建国をなした世代の父親とその息子。仕事に生きてきた父親Shimshonはa son and heir(息子で相続者)がほしくて56歳の時33歳年下の女性と結婚(すぐに離婚)。そして生まれたGideonは成長し、パラシュート隊に入って、独立記念日にパラシュートの模範演技で自分が育ったキブツ(共同体)に向かって降下しますが、パラシュートが電線にひっかかってしまいます。そのGideonを助けようとする勇敢な少年Zakiは女性にモテモテな父親Shimshonの隠し子の一人らしいことが暗示されます。正式な相続者の息子Gideonの弱虫さ加減と、隠し子の少年Zakiの勇敢さが対比されつつ、物語は終わります。イスラエルの第一世代と異なり、Gideonの第二世代は生活の豊かさや美しさを求め、デカダンの詩人に影響され、熱することもなく、愛することも憎むこともできない中途半端な世代だと考えている父親は第三世代の孫に過度の期待を寄せていて、Gideonの子どもがたくさん生まれたら自分も世話をしようと夢見ています。その夢が途絶えて、最後のシーンで花壇に崩れ落ちる父親Shimshonの姿が描かれています。庭仕事を引退して息子に譲ったあとも雑草を思わず抜いてしまうぐらいに世話をしてきた花壇だったという描写がありました。イスラエルの人々の複雑な思いを象徴しているのかな~と思いつつ、神奈川支部の例会へ向かうために大倉山に急ぎました。

●例会では東京の岩崎先生が中学生の人間関係を作るのが難しくなっているという話しをしてくださった。小学校が学区域がなくなって、今までは2~3校から集まっていた生徒が、10数校から来ていて地域とのつながりがなくなったことが問題を起こしているという。問題だなと感じた。

●余談その1:雑誌の奥西先生の記事「ミネルヴァの梟はいつ飛び立つか」がきっかけで、ドイツの哲学者ヘーゲルの「ミネルヴァの梟(ふくろう)は黄昏とともにようやく飛び始める」が昨夜の例会で話題になったとき、誰のことばか即答できなかったルター。人に頼らず、自立できる人にならねば…、と思った。
(http://cooma.exblog.jp/3904183/から引用:「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」とは知の巨人ヘーゲルの言葉です。知の女神ミネルヴァの使者であるフクロウ。すべてを認識するようなフクロウは黄昏、つまりひとつのものが完成し、没落しはじめるときに飛び立つんだ、というような意味です。)

●余談その2:この会はアメリカ人のダンさん、そしてダンさんと組んで英語を教えるIさんの会なのでが、ダンさんとIさんがちょっとケンカしていて、池袋までダンさんとお話ししながら電車に揺られた。ダンさんは上下関係のヒエラルキーは良くない、平行な関係がよいと言ったが、私は悪いというわけではないと思うと話した。夜、例会の帰りの東横線で3人で話しているとき、教えている生徒の中に優れていて自分より「上」だと思う生徒がいる、という話題が出た。人間には格があり差がある、ということで3人で納得した。

■2008.11.17 所沢読書会+スピッツのライブ
●土曜日の午前は所沢の読書会。The Smile on Happy Chang’s Face (Tom Perrotta)という作品。
Happy Changはアメリカのリトルリーグのピッチャーをしている少女Loriの父親の名前。主人公はリトルリーグのアンパイアをする男性Jack。Jackは学生時代からの友人Carlと張り合って生きてきた。ある日、Jackは長男がゲイであることが認めがたく、鼻を殴ってしまい、驚いた妻に通報され、警察に逮捕される。釈放後、妻は3人の子ども(息子と娘2人)を連れで実家に戻ってしまい、離縁。
 My whole life fell apart after I broke my son’s nose. By the time I got out on bail the next morning, Jeanie had already taken the kids. (中略) I accepted the loss of my life as a fair punishment for what I’d done, but it was harder to accept the loss of my kids.
 妻と子どもたちに見捨てられたJackは失意の中、Carlの勧めがあってアンパイアを始めた。対照的に、リトルリーグの監督をするCarlは今で言う「勝ち組」で、円満な家庭を築いている。そんなJackとCarlの2人がかかわるリトルリーグでピッチャーとして活躍する中国人の少女Lori。ビーンボールを投げて、リトルリーグの少年たちをintimidate(おびやかす)のもいとわないtoughな少女だ。ある日、Loriは、Carlが監督をしている敵のチームのバッターにビーンボールを投げた後の打席で、自らがビーンボールを当てられて意識不明になってしまう。それを見ていた父親のHappy Changは敵方の監督のCarlに殴りかかり、警官に手荒に現行犯逮捕される。中国系移民がアメリカ社会からは受け入れられていない存在だということが示される。その姿を見て、Jackはかつて逮捕された自分と重ねる。逮捕されたのは同じでも、Happy Changのような誇らしい微笑みはJackにはなかった…。
 I should have been watching the ball, but instead I was thinking about Happy Chang and everything he must have been going through at the police station, the fingerprinting, the mug shot, the tiny holding cell. But mainly it was the look of his face that haunted me, the proud and defiant smile of a man at peace with what he’d done and willing to accept the consequences.

物語の終わりでJackは最後の1球を審判せずに退場する。そして手紙や電話をしてもなしのつぶて状態の妻と子供たちに自分の姿を見て欲しいと思うが、それもうまくいかないだろうと考えて、ストーリーは終わる。

 自分の理想の息子にならなかった長男をありのまま受け入れることなく、今もなお、自分の気持ちを説明することにしか関心がないJack。家族は受け入れることは決してないでしょう…。

 そのあと、神奈川支部の例会をお休みして(事務局のみなさん、すみません…)、スピッツのライブ。同行してくれたのは大学時代のサークルの後輩で出版社に勤務するKさん。私が8月にKさんのブログを偶然見つけて、いい内容だなと思って読んでいて、10月に私が引っ越しにあたり、押し入れにあったサークルの会誌を見たら、その名前があり、問い合わせたら後輩だと判明したという、不思議なご縁です。合宿で『共同幻想論』を取り上げたときに会っていた確認できたので「はじめまして」ではなかったけれど、顔を覚えていなかったので、どんな方かなと思いつつ、お会いしました。たまにはこういうドキドキもいいものです。私の祖父が編集者をしていた第一書房の創業者が長谷川巳之吉さんだったというのを知っていたのには驚きました。博学な方です。
 さて、スピッツ結成21年。いまでも予備校生のような初々しさと素人っぽさ、そして21年で培った技術とプロ意識とが混在している、不思議なバンドです。『さざなみCD』というアルバムに「砂漠の花」という曲がありますが、すばらしい曲です。ライブでの熱唱に感動しました。マサムネさんが楽器を持たずに歌っている姿が印象的でした。この歌はフランクシナトラのMy WayやエルビスプレスリーのCan’t Fall in Loveのような歌だと思います。この歌を歌い続けてほしいと思います。すばらしい演奏、歌詞、曲、歌唱に感謝しています。これからも末永く歌い続けてください。これからもファンとして見守っていきます。

■2009.10.18 読書会で
 昨日は所沢での月1回の読書会。先月は欠席してしまい、昨日は昨日で30分遅刻したルター。少々、気後れしております。しかし出席すれば実り多いお話が皆さんから出るので、続けていきたい。

さて、昨日読んだ短編小説は、Roxana RobinsonのThe Face-Lift。主人公は今、流行の「アラフォー」(around forty)の42歳のJuliaと女子校(寄宿学校)時代の友人Christinaが対比される(polar opposites 両極端、対極的)。Danさんの解説によれば、以下のようになる。

Julia:現在はニューヨーク在住。ペンシルヴァニアで育った。父は医師、母は図書館司書。プロテスタント的な家庭で育ったと思われる。ルールを守り、嘘をつかず、善人であるように努めている。大学卒業後に結婚したが、離婚。一人暮らしになれており、財団に勤めている。ちょっと中年太り。I’ve put on a middle.(腰まわりの贅肉が付いている)という文があり、DanさんはI’ve put on a spare tire.という表現も教えてくれた。


Christina:大家族でラテン系。カトリック的。女学校時代は悪さばかり。進学するつもりはなく、高卒ですぐ結婚。エルサルバドルに夫と3人の子どもと住んでいる。すぐそばには実母も住んでいる。革命時にとなりのグアテマラに避難していたが故郷エルサルバドルにすぐに戻った。
flamboyant = behaving in a confident or exciting way that makes people notice youという形容が為された。

2人はクリスマスカードを交換する程度のおつきあい。ニューヨークにいるJuliaを訪ねてきたChristinaは全面禁煙でピリピリしているレストランでおかまいなしにタバコをプカプカ。でもウェイターは注意することもなく、無視して側らを過ぎていく。She leaned back in her chair and took another luxurious drag on her cigarette.(彼女は椅子にふんぞり返って、ゆったりと一服吸った。drag = inhale 吸うこと)
そこで、Christinaは整形でFace-liftをするのだという。Juliaは整形というのは一線を越えてしまっている、自尊心が在れば整形なんてしないものだと信じているので、ルール破りが常習化しているChristinaを全否定する気持ちになる。しかしそのあとに、Christinaは自分がエルサルバドルで金持ちを狙った暴漢に車でさらわれそうになった顛末を話す。70代と思われる実母が暴漢の車に飛びついて、3人の子どもがいるChristinaではなく自分を連れていけとわめき、そこで隙ができた暴漢の股間にChristinaは肘鉄を食らわせて、車から逃げ出し、事なきを得た。「Christinaも実母もラテン系だからこうなったけれど、これがJuliaだったら恐怖で動けなくなっていたろう(freeze in fear)」というDanさんのコメント。「Christinaは生き生きして、人生を生きているが、Juliaは生きている感じがしない(life less)」というコメントに至って、以前、読書サークル「たいまつ」で読んだ話(かさかさに乾いている女性の話)が重なってきた。
 物語の最後はAnd I forgave Christina the vodka, the House-parties, Weekends, the smoking, the face-lift, the children. I forgave her everything. 女学生時代からウォッカを飲み、週末には嘘をついてパーティに出かけ、今もタバコをプカプカ、整形もするChristinaだけれども、暴漢にさらわれて陵辱され、殺され、道端に捨てられかねない状況になって、肘鉄を食らわすぐらいたくましいChristinaの生き方を知って、「許そう」という気持ちになる。

 しかし…、Iさんも同意見だったが、キリスト教では人を裁くのは禁じているので、Juliaが「許す」というのが気になってしまう。結局、受け入れていないのではないか。「受容」するのが得意な日本の私としては、そこがひっっかかるので、「小説の終わり方が嫌い」というのが感想だった。Danさんは、確かにJuliaはjudgeしていると認め、日本人らしい私たちの感想に納得した上で、小説家がそのように描いたこと、そういう登場人物に描いたことを味わうことが必要であるということが言いたかったようだ。私たちの思うように物語が終わるわけではないですものね…。
 このような話ができて、なぜ自分が漠然と結末が気に入らなかったのか理解できて、読み方が深まった。読書会は有り難いですね。

■2009.11.22 読書会+例会
 昨日は吉祥寺で着付けてもらって着物姿で所沢の読書会で会食。Iさんはご実家が着物の帯屋さんだったそうで、着物姿の私を見て喜んでくださる。Oz SpiesのThe Love of a Strong Manを読んだ。歯科医の夫で不眠症のヘンリー(Henry)が夜な夜な7人の女性を陵辱して逮捕されるが、妻のダーリーン(Darlene)は夜はぐっすり眠っていて(a deep sleeper)で気づかなかった。ヘンリーは父親に虐待された(abused)過去があり、心を病んでいる。過干渉気味の母親と自分好みの「強い男」に仕立てようとする妻に対して出来ないことをヘンリーは他の女性にしたのだともいえる。妻のダーリーンは回想するうちに、自分が強い男に陵辱されたいという願望を持っていることを自覚、夫が愛していたとしたら、自分を陵辱したはずだという結論に達し、別れることにするという結末。心を病んでいる夫妻の話であるのだが、虐待された人、心を病んでいる人(病んだことのある人)にとっては分かりやすいお話。切ないです…。
 例会は11人と少なめ。せっかく渡辺先生が本をプレゼントしてくださったのに…、
昼に上寿司を食べて、夜はちゃんこ鍋。昨日は栄養過多でしたね。

■2010.03.20 ルターの休日:読書会+ランチ
少し遅刻気味だったけれど、1時間半かけて所沢の読書会へ。月に1回、土曜日の朝10時、短編小説をDanさんに解説してもらうのだが、1,2月と読了できず、不参加だったので、今日はどうしても行かねばと思い、30分ぐらいだったが、参加した。映画化された『ボーン・コレクター』(The Bone Collector 1997/1999邦訳)の作者・ジェフリー・ディーヴァー(Jeffery Deaver)の短編「Born Bad」は出だしはLizという縫い物をして生計を立ててきた女性の回想で始まる。3年以上話していなかった28歳の娘・Beth Annがこれから訪ねてくる前に、亡くなった夫・Jimのことや子ども時代のBeth Annが問題児だったことを思い起こす。中盤で母娘には確執があることが明らかにされ、大げさな感じがするが、Lizは護身用の銃を用意しようかと逡巡する。実際、訪れたBeth Annは母であるLizに拳銃をつきつけてくるのだが、このあとには大どんでん返しがある。娘のBeth Annが刑事で両親のLizとJimが犯罪者だったのだ。まるでO・ヘンリーの「20年後」みたいでしょう?
 私の読後感は、物語がつじつまが合っていないような気がして気になったのだが、他の皆さんは意外な結末を楽しんでいらしたようだ。文体は端正でLiz、the mother、the womanのような言い換えがバランス良く使われていて、上手いと感じさせる。文法的にも破綻が無く、英語の勉強向きで満足感があった。
 私がした質問はMy friends really helped me out.(中略)I probably picked them because they were one-eighty from my parents’ criminal crowd.という文のone-eighty。これは「180度違う」という意味だったのだ。「私(Beth Ann)が(友だちとして)彼らを選んだのは、両親と同じ穴のムジナとは180度異なっていたからだ」ということだった。appointmentsが「調度品」でknickknacks(小間物)と同じだと教えていただいて、11時前に辞して、姉家族と12時から中華料理店で甥っ子の高校進学のお祝いの食事会。母や兄も参加。兄は2月末の東京マラソンで完走。7時間が完走のぎりぎりなのだが、1分前にゴール、メダルをもらった話や兄の好きな数学者のマーチンガードナーの本の話などが話題に出た。私は甥っ子に吉祥寺で買ったびいどろグラスをプレゼント、また、高校生活を良いものにしてほしいと思って、内田樹さんの『邪悪なものの鎮め方』 (私の付箋がたくさんついたもの)を貸した。なぜか知らないが長寿(longevity)を願っている甥っ子なので、生きる上で心がけたいことをこの本でわかってもらえるといいなと思っている。


© Rakuten Group, Inc.