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新英語教育研究会神奈川支部HP

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★2003.1 中村 敬さん


●講演:「ことがらの『本質』を問いなおす ―ことば・教育・人間」

中村 敬さん(成城大学教授)
◆ 2003年1月25日(土)法政二高にて行われた講演。(法政大学教職員組合二中高支部、育友会教育研究所共催)

◆電磁波についてのお話、携帯電話を持たないポリシー(?)を貫いている私としては、うれしかった。(リニアモーターカー、電磁波いっぱいだから開発やめた方がいいと思うけど。)そして英語の教材としての古典、新英研として確立していきたい。

(1)紹介(事前の案内から抜粋)
・ 中学・高校の英語教科書(「NEW CROWN」、「FIRST」)の執筆者として、英語教育の諸問題について社会思想史の枠組みで語ることのできる数少ない研究者。

・ 教科書づくりにおいて文型中心、パターンPractice 全盛の時代にあって、中村敬先生は題材中心主義を提唱。当時、こうした発想で日本の英語教育を考えていた人は数えるほどしかいなかった。

・ ウェールズとイングランドの言語戦争、「不思議な国のアリス」など、教科書を通じての中村敬氏の問題提起は、いずれも氏の見識の高さを示している。

(2)はじめに
・ 『本質』とは?:年末の紅白の裏番組(NHK教育)で、演出家ピーター・ブルックが『ハムレット』のテーマについて語っていた。彼によれば『ハムレット』はメロドラマだが普遍的な価値があり、それはオープニング部分にあるという。ハムレットは亡き父である国王からリベンジしろと言われるが「ただし、自分の魂を汚さないで」という条件を付与される。「魂を汚さずに人を殺せるのか」と悩み、そのためになかなか父を殺めた叔父を殺せない。そのようなピーター・ブルックの解説を聞き、中村先生はそういう見方があるのかと気づかされた。このようにシェークスピアには『本質』を考えさせるようなテーマがたくさん出てくる。その一つが今回の講演のテーマである「逆説」である。

・ 逆説とは?:シェークスピアの『マクベス』にあるFAIR IS FOUL. FOUL IS FAIR.「美しいは汚い。汚いは美しい」のように本質を言い当てるには逆説的になる。例えば「英語は国際語であるが、国際語ではない」のように逆説を述べると、ではどうしたらいいのかと悩む。それが人生の実態だと思う。

(3)21世紀
・ 21世紀はどうしていったらいいのか?:このテーマを考えるには「20世紀はどんな時代だったのか」を知らないと分からない。

・ 20世紀の日本はどんな時代だったのか?:寺島実郎『1900年への旅』によると、1902年の日英同盟から1919年のパリ条約での破棄までのイギリスとの関係、そして1945年以降のアメリカとの関係を踏まえると、日本は「アングロサクソンとの二国間関係」がほとんどで、「多国間関係」ではなかった。つまり日本はそういう時代を過ごしてきた。

(4)ことば
・ 逆説その1「ことばは手段であって手段でない」:「ことばは手段だ」と言い切ってしまえば、コミュニケーションをうまくとることだけを考えればよい。しかしそれだけではないので、このことをよく考えた方がいい。

・ ケースその1「森有礼と馬場辰猪」:
 森有礼は初代文部大臣、41歳で暗殺された。英語廃止論者と言われ、よく引用される森有礼だが単純に日本語廃止とは言っていない。実際は25歳の時イエール大学のホイットニー教授に手紙で日本語の代わりに英語を採用したらどうかと提案、ホイットニーから「母語を捨てて成長した国はないからやめておきなさい」と言われた。
 馬場辰猪(たつい)[1850-1888 38歳でアメリカで自殺]はあまり取り上げられないが、「日本語は対等にやっていける言語だ」と述べ、英語公用語採用を批判した人。イギリスに長く留学(英語の方が得意)、人権運動の思想家で、アメリカに亡命。中村先生は自殺の原因は「英語」だと推察している。英語と日本語という大きな二つの言語の間で引き裂かれ悩んだのではないか。そういう大先輩には夏目漱石や中野好夫などがいる。

・ ケースその2「カルヴェによる重力モデル(gravitational model)」:フランスの学者CALVEL『言語帝国主義とは何か』(藤原書店)によると、ハイパー中心言語(英語)、スーパー中心言語(独仏中露西日など国連公用語レベル)10言語、中心言語(ベトナム語や朝鮮語など国家語・民族語レベル)100-200、周辺言語(方言や地域のことば)3000。この200年アングロサクソンの時代であるが、こういう構造はなかなか動かない。

・ ハイパー中心言語である英語に対する二つのアプローチ:エスペラント語のような別言語で「対抗する」、そして我々が同じくらいのハイパー中心言語話者になって「空洞化する(disempower)」という2つのアプローチがあるが、後者の方が現実的だと中村先生は考える。しかしそれを学校教育に期待するのはお門違いだ。
 日本語は周辺言語。そういうことが現代の我々は理論で分かる。それを森有礼たちは体で感じていた! 体で感じてやろうとすると安心立命というよりagonyになってしまう。

(5)教育
・ 逆説その2「教育の本質は教育しない教育だ」

・ ケースその1「小林秀雄」:新聞のコラムで読んだところ、評論家の小林秀雄が法政大学で教えていたことがあり、授業に30分遅れてきて、まずタバコを吸い、しばらく考え込む。そして最期の20分講義して終わり。しかし学生はその20分を楽しみに全員出席だったという。これは極端な例だが、このように「教育とは制度ではなく人にある」と言える。

・ ケースその2「恩師の野崎勝太郎先生から受けた躾(しつけ)」:中村氏は南山大学出身。そこでの恩師野崎勝太郎先生は恐い先生だった。しかしあるとき野崎先生が中村先生に依頼することがあるというので「先生、ではそちらに伺います」と言ったら「僕がする頼み事だから、僕の方が君の方へいくよ」とおっしゃって、恐縮した想い出がある。それがあとになって自分にとっての「教育」だったと気づかされた。教育とはそういうものだ。自分は野崎先生に躾られた。余談だが、辞書で「躾」という字が項目で載っていないのでビックリした。躾は「仕付け」という文字では表現できないし、お題目主義的な教育ではできない。中野好夫も書いているが、倫理的な先生方が旧制高校にはいて、あの先生には頭があがらないと皆思っていた。

・ ケースその3「教育基本法」:前文から検討すべきである。昭和22年に定められたときに「朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれに公布せしめる」とある。

(6)人間
・ 「毎日、人間は選択を迫られている」:小さいことから大きなことまで、選択を迫られている。小さいことだが許せないことがあり、そこで人間として悩む。そういう悩みをしなくなってきたのが問題だと思う。

・ ケースその1「高村光太郎と中野好夫」:戦争時に反戦姿勢を貫けていない点で非難されるが、彼らは「思想」というより「骨がらみ」である。

・ カタカナ語の是非:中村先生は安易なカタカナ語の氾濫を憂えている。

(7)電磁波
・ 電磁波測定器:中村先生はドイツ製の電磁波測定器を持参され、「高圧線」「24時間風呂」「携帯電話」の出す電磁波について警告を発せられた。携帯電話はイギリスでは15歳以下には使わせてはいけないという法律がある。そのくらい海外では電磁波に注意している。教育以前の問題として、健康を害する電磁波に要注意!

(8)教材論
・ 残していきたい英語の教材は?:読ませたい教材が確定していたのは1970年代まで。いわゆるCANON(古典/必読書)と言える、リンカーン、キュリー夫人、コロンブス、シュバイツアー、シェークスピア、小泉八雲の作品など、アングロサクソンの古典を我々は学んできた。だからシェークスピアの台詞がパッと出てくる(I am cruel only to be kind. ハムレットの台詞「親切にしたいから残酷にしている」)。こういう古典が自分たちの英語力を支えているのは事実。しかしながらこれからは多文化主義に対応する英語教科書が求められる。例えばウェールズの問題などは新しい古典と言えるのではないか。新しい古典を作るのは日本人であり、著者と出版社の問題である。先生方は出版社に意見をぶつけるといい。

(9)資料1(事前の案内から抜粋)
比喩やコトバの象徴性の視点から、平和の思想をもとに、広島・長崎の原子爆弾投下を扱った以下のTwo Visitors(招かざる客)は当時の中学三年生用の課。(New Crown English Series Lesson 9、1987年初版発行)
In the summer of 1945, Japan had two visitors. They came from the United States of America. One of them was Little Boy and the other was Fat Man.
Who were they? I think it is very difficult for you to answer this question.
Little Boy came to Hiroshima on August 6. Fat Man came to Nagasaki three days later. When Little Boy fell from the sky above Hiroshima, he blew up and gave out a strong light and great heat.
The heat was so strong that it reached 7,000℃. Thousands of people were killed. Can you guess how many? More than 200,000!
Some people called the bombs ‘Little Boy’ and ‘Fat Man’. They are charming names, aren’t they? They are the names for the atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki.
A name is a name. It is not a thing. I think it is important to remember this. A thing with a charming name can sometimes do a cruel thing like Little Boy or Fat Man.
「名前は名前。そのものではありません。このことを心に留めておくことが大切。Little Boy(ちびっちょ)Fat Man(太っちょ)のように、かわいい名前がつけられていても残虐なことをしでかすことが世の中にはあるのです」

(10)参考2

『ハムレット』 
●第1幕第5場:弟に毒殺された国王が亡霊となり息子ハムレットに話すシーン
(和田試訳)
If thou hast nature in thee, bear it not;
 お前に情があるなら、そのままにしておいてはならぬ。
Let not the royal bed of Denmark be
 デンマーク王家の臥所を
A couch for luxury and damned incest.
 贅沢と近親相姦のねぐらにしてはならぬ。
But, howsoever thou pursuest this act,
 しかしながら、このことを遂行するにあたっては
Taint not thy mind, nor let thy soul contrive
 お前の理性を汚してはならぬ。
Against thy mother aught: leave her to heaven
 母に対しては魂を企ててはならぬ。あれは天に任すがよい。
And to those thorns that in her bosom lodge,
 あれの胸にあるトゲに任せよ。
To prick and sting her.
 トゲがチクチク刺すのに任せよ。
●第3幕第2場:ハムレットが言う
Let me be cruel, not unnatural:
小田島雄志訳「きびしくはあっても、子としての情愛は忘れないぞ」
和田訳「残酷にならせてくれ。子としての情をなくさせないでくれ」
(第3幕第4場の台詞につながるものと考えると以下のような小田島訳になる)
●第3幕第4場:母のガートルードに向かってハムレットが言う
I must be cruel, only to be kind:
小田島雄志訳「子としての情をつくすには心を鬼にせねばならぬときがある」
和田訳1「ぼくは残酷でしょう。でも親切を思ってこそです」
和田訳2「ぼくは残酷でしょう。でもそれが結局親切っていうことになるのです」


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