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カテゴリ:英語教育:入試制度・海外の英語教育など
今日は新英研メーリングリストで以下のようなやりとりがあった。
●新英研メーリングリストへのOさんの投稿 本日19時から始まった読売テレビの番組「鶴瓶の超ゆる~い会議」の中の「なぜ我々は英語ダメ」というトピックの議論を見てましたところ、その結論として、デーブ・スペクター氏の持論である「GHQ陰謀説」が正解とされていました。それは、GHQが日本人の漢字識字率を調査したところ、極めて優れているということが分かり、 「こんなに識字率が高い日本人に英語を学ばせたら、すぐに覚えてしまって、また自信をつけてしまう」と恐れ、そうならないように英語教育を読み書き中心にしたという説です。 ●それに対するルターの意見 この番組の送るメッセージが「かつての読み書き中心主義がダメ」で「オーラル中心の語学教育が良い」というふうになっていることが私は気になります。 1)デーブ・スペクター氏のふだんの立ち位置をよく考えてみれば分かります。 その番組での言説自体が意図的(陰謀的!)になされていると思います。 「かつての読み書き中心主義が英語能力の低下」 =「今後のオーラル中心の語学教育を促進するための根拠」になっています。 番組を観ている人々は「やっぱり英語ではオーラル中心の語学教育が大事だ」 と思うはずです。 2)以下の内田樹(たつる)さんのブログの抜粋をお読みいただくと分かります。 オーラル中心の語学教育がいかに愚民をつくるか…。 文法と古典を取り上げていきたいですね。 ★以下は引用 ●リンガ・フランカのすすめ http://blog.tatsuru.com/2010/05/12_1857.php 植民地ではオーラル中心の語学教育を行い、読み書きには副次的な重要性しか与えない。 これは伝統的な帝国主義の言語戦略である。 理由は明らかで、うっかり子どもたちに宗主国の言語の文法規則や古典の鑑賞や、修辞法を教えてしまうと、知的資質にめぐまれた子どもたちは、いずれ植民地支配者たちがむずかしくて理解できない書物を読むようになり、彼らが読んだこともない古典の教養を披歴するようになるからである。 植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。 けれども、宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。 「文法を教えない。古典を読ませない」というのが、その要請が導く実践的結論である。 教えるのは、「会話」だけ、トピックは「現代の世俗のできごと」だけ。 それが「植民地からの収奪を最大化するための言語教育戦略」の基本である。 「会話」に限定されている限り、母語話者は好きなときに相手の話を遮って「ちちち」と指を揺らし、発音の誤りを訂正し、相手の「知的劣位」を思い知らせることができる。 「現代の世俗のできごと」にトピックを限定している限り(政治経済のような「浮世の話」や、流行の音楽や映画やスポーツやテレビ番組について語っている限り)、植民地人がどれほどトリヴィアルな知識を披歴しようと、宗主国の人間は知的威圧感を 感じることがない。 しかし、どれほどたどたどしくても、自分たちが(名前を知っているだけで)読んだこともない自国の古典を原語で読み、それについてコメントできる外国人の出現にはつよい不快感を覚える。 日本の語学教育が明治以来読み書き中心であったのは、「欧米にキャッチアップ」するという国家的要請があったからである。 戦後、オーラル中心に変わったのは、「戦勝国アメリカに対して構造的に劣位にあること」が敗戦国民に求められたからである。 ●2004年04月27日 砂場の英語と『太陽の涙』 http://blog.tatsuru.com/archives/000089.php 外国で暮らしたり、インターナショナルスクールに入れたりして、英語話者のあいだ に置かれると、子どもは仲間や先生とすぐに「ぺらぺら」話すようになる。 それを見て「ネイティヴのような発音だ」と親は喜ぶが、これはしょせん「砂場の英 語」に過ぎない。 「砂場の英語」から「教室の英語」のあいだには乗り越えることの困難な段差がある。
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