2008/06/05(木)20:49
アイヌ人と和人
5月末に訪れた二つのお寺から、歴史を知るためには
どうしてもアイヌの方々のことを知らなければ流れが
掴めないため
蝦夷地においてアイヌ人と和人の戦い二つに注目してみました。
1443年 津軽の領主が奥州の戦いで
蝦夷地に逃れ、戦いが終えると領主は、奥州に戻る
この時に多くの武将がそのまま残り函館~上の国
付近にかけて「館」と呼ばれる城を築く
○蝦夷地に和人が入ることでそれまで自然と共生する
アイヌの人たちは、疑うことを知らず、和人の付き
合いの中で不満がつのってくる
1457年 コシャマインの乱
長禄元年 アイヌの青年が和人の鍛冶屋に殺されたのがきっかけ
この乱で東は鵡川、北は余市辺りまで居た和人が
松前~上の国付近まで追い詰められるが
この時に奥州の武将、武田信広が計略を用いて
コシャマインを討つ ↓
この人物 松前藩の藩祖と言われる
1593年 慶広の代に秀吉から蝦夷島主に認められ支配権を持つ
1599年 徳川家康に拝謁、この時に 蠣崎 → 松前に改名
松前藩となる
○当時各藩は○○万石といって石高を与えられていたが
この藩は米が採れない為、アイヌとの交易品を幕府に
納めていた。ほかに鷹の羽やラッコの毛皮などを
交易でお金に換えていた
○アイヌとの交易上で
通常 米一俵 → 4斗(60キロ)のところを
アイヌ 米一俵 → 2斗(30キロ)として
米2斗(30キロ) = 干鮭100本
↓
米1斗(15キロ) = 干鮭100本
↓
米7升(10.5キロ) = 干鮭100本
○松前藩の財政ひっ迫から始まり
藩主・藩士とアイヌの取引から
↓
商人 とアイヌとの取引に移り
※特に近江商人が蝦夷地に進出してからは
アイヌの生活は悲惨になる
鷹の前の小雀のようであったと・・
※アイヌの人たちの交易品の鮭を松前藩は
船を出し大網で漁をするようになる
1667年 シャクシャインの乱
このような流れでアイヌの英雄シャクシャインが
立ち上がるそして戦いは、アイヌの善戦であったが
和睦を求める和人からの求めを受け
酒宴の席でシャクシャインは毒を盛られ亡くなる
主なアイヌの酋長も同じく毒を盛られ亡くなる
◎シャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における
対アイヌ交易の絶対的な主導権を握りる。
このアイヌ人と和人の関係を知ると
和人は蝦夷地を植民地化しアイヌの人たちの生活を
脅かしてきたように感じます。
アイヌの方々の生き方は、自然との共生で築かれたため
”善悪がなく だますことも無く 恨むことも無く
ただそのままを受け入れる”その生き方を
貫いて来たのでしょうね!
そしてアイヌのみなさんは、明治時代にかけて
この北の地に開拓で各県から入植した和人に対し、
北の地で生きる術を惜しみなく与えてくれていたことに
心からの感謝と寛大さを感じました。
先月13日にポロトコタンのお土産さんで出逢った
宮本酋長の娘さんの温かい笑顔に魅かれたご縁に
アイヌのみなさんへの心からの感謝とお詫びを
伝えたいと感じました。
◎明日6日響き∞ひびきの定例会が、さくらぎ笑楽好にて
開かれますが、その酋長の娘さんをお招きし
13:00~15:00までアイヌ人の智恵や自然との共生に
ついてお話をしていただきます。
飛び入り歓迎ですので、好かったら遊びに来てくださいね♪
会場費 300円 です。
場所の確認は 0144ー72ー8363 さくらぎ笑楽好